伏見ぶらぶら36

秀吉と龍馬の伏見を歩く

     
 この文章は2015年8月3日に行われる日本作文の会京都大会で、私がガイドしながら移動講座をするために書いたものです。。ここに書かれている場所を約3時間歩きながら見学しながら巡る予定です。

■秀吉以前の伏見

 伏見は京都市の一番南にあります。外国人が一番多く訪れる伏見稲荷大社は古代渡来人秦氏との関係。中世には院政の中心地であった鳥羽離宮跡があり、鴨長明は隠棲地日野で方丈記を書きました。その日野は親鸞の、久我は道元の生誕地です。世界遺産としては醍醐寺があります。

■伏見は秀吉の城下町

 私の住所は京都市伏見区桃山町正宗。この地名の桃山町は安土桃山時代のあの桃山。そして正宗は伊達政宗の屋敷が私の現住所辺りにあったため。つい最近も自宅北側が発掘調査され家屋の柱跡が出て、私の家の下まで続いているようです。福島大夫町、羽柴長吉町、治部池、毛利橋、大手筋通り等々…地名に戦国大名の名が見え隠れします。一方下町には納屋町、鎗屋町、両替町、銀座などの職人や商人の活躍を想像させる地名が続きます。
 秀吉から家康治世の間伏見は政治の中心地でした。
 江戸幕府が伏見城を跡形なく破壊して後、その後に桃の木が植えられ桃山と呼ばれるようになったらしく、桃山の地名は秀吉の時代にはなかったのです。伏見城は徳川の城であった方が長いのですが、どうも家康も徳川も関西では人気がありません。関西人は概ね秀吉びいき(文楽を観るとよけいに感じます)で、今も伏見城は秀吉の城というイメージが強いのです。歩きながら地名に注目です。では今、その伏見城の跡はどうなっているかというと、明治天皇陵になっています。

■伏見は港町で交通の要所

 「東海道五十三次」広重の浮世絵を持ち出すまでもなく学校でもそのように教わりました。しかし「東海道五十七次」という言い方もあったのです。江戸時代、江戸から京は五十三次です。しかし、江戸から大阪へは五十七次でした。伏見は大津の次の五十四番目の宿場町でした。江戸幕府は西国の雄藩が京の町に入り、天皇や公家と関係を深めることを嫌い、参勤交代の時も京の町に入ることを禁じました。幕末になり、尊皇思想の高まりと同時に雄藩が洛中や伏見に「藩邸」を構えるようになりました。
 伏見から北東に向かえば大津街道から東海道へ。琵琶湖を使えば日本海とも繋がっています。南東へ向かえば宇治から大和奈良。南西は淀川水路と陸路の大阪街道。北は伏見街道で京の都。水路として高瀬川が角倉了以によって開削されていました。西は乙訓から西国街道。この街道は摂津や丹後と繋がる道でした。伏見は内陸の港として発展します。伏見には「南浜」「西浜」「弁天浜」「寺田屋の浜」など「浜」の名が今も多く地名として残っています。 

■伏水と日本酒

 伏見と言えば灘と並ぶ日本酒の産地。「玉の光」「黄桜」「松竹梅」「キンシ正宗」「英勲」私の住所を見て「何かおいしい日本酒の香りがしてきそう」とおっしゃった方がおられました。伏見は名水が湧く地です。伏見名水巡りというツアーもあります。御香水は日本百名水の一つ。伏見を「伏水」とも書きます。今回の移動講座では七名水の中のいくつかを巡ります。そして酒蔵の風景を楽しんだり「月桂冠大蔵記念館」を見学します。(入館料300円「きき酒」できます。おみやげに純米酒1合つき)ところでお気づきでしょうか。伏見の酒の名前には伏見が軍都であった名残が残っています。

■寺田屋事件と坂本龍馬

 このツアーにご参加の方の中には私より新撰組についても坂本龍馬についても関心をお持ちでよくよくご存知の方がおられると思われます。今回の移動講座では寺田屋見学をします。「寺田屋事件」の舞台になった寺田屋は京都から大阪へ「三十石船」で下る旅人、またその逆に上ってくる客を接待する休憩所であり、宿泊もできる旅籠でした。この寺田屋は今も営業しておられますし、見学ができます。俗に言う「寺田屋事件」とは下記のことです。
1,.文久2年(1862年)に発生した薩摩藩の尊皇派志士の鎮撫事件。
2,.慶応2年(1866年)に発生した伏見奉行による坂本龍馬襲撃事件。
 寺田屋には龍馬が使っていた部屋、襲撃時の刀傷、お龍の入っていたと言われる風呂他様々な資料が残されています。「龍馬通り」という名の通りやグッズを売っている店、龍馬とお龍の銅像など、今伏見観光は坂本龍馬中心になっていると言えます。
 移動講座では寺田屋伊助・登勢の墓参りの他、三吉慎蔵が龍馬を潜ませた材木小屋跡、最終的に逃れた薩摩藩邸跡へ向かいます。お龍がどのくらいの距離を裸足で走ったのかを実感できるかと思います。かなり歩くことを覚悟して下さい。
 大黒寺という寺があります。ここは薩摩寺とも言われており、この寺の墓地に「寺田屋騒動」で亡くなった有馬新八を含む九名の墓があります。(墓石銘は西郷隆盛)

■鳥羽・伏見の戦

 小枝橋で端を発した「鳥羽伏見の戦」は伏見の街中で幕府軍と倒幕軍が対峙し、戦闘に至ったのです。その時の銃弾跡のある料亭、幕府軍の陣地伏見奉行所跡、討幕派の陣地であった御香宮神社。伏見の街は火の海になったと言われています。会津藩が陣を置いた場所、長州藩邸、土佐藩邸、尾張藩邸なども簡単に紹介します。

■伏見ゆかりの人など

 伏見の繁華街「大手筋通り」にからくり時計があります。このからくり時計に伏見ゆかりの人物などが出てきます。「牛若丸」「千利休」「新撰組」「坂本龍馬」「豊臣秀吉」「千姫」「森の石松」「伏見人形饅頭喰い」「杜氏」「伏見桃山城」「御香宮花笠祭り」です。
 伏見とのゆかりがはっきり分かる人物と「?」があります。牛若丸は母親の常磐御前が伏見で捕まったからだと思います。新撰組では近藤勇が伏見墨染で発砲され奉行所へ逃げこんだというエピソードが残されています。「森の石松」は金比羅代参時、伏見発の三十石船の中で「江戸っ子だってね。食いねえ、食いねえ、すしを食いねえ」というあの浪花節なのでしょう。
 この他、上方落語「三十石夢の通い路」のこと、日本初の路面電車の駅跡、油掛地蔵、松尾芭蕉ゆかりの地、西口克己著「廓」の舞台になった場所、時代劇映画によく出てくる風景、ちょっとおもしろいお守りを用意しておられる伏見の弁天さんの寺紹介など、かなりディープな移動講座になる予定です。
     
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