伏見ぶらぶら39

桃陵団地・歴史
①桃陵団地の歴史
②常盤御前義経捕縛地
③伏見奉行所跡
④陸軍用地跡・伏見工兵第十六大隊跡
⑤市営桃陵団地給水塔 
 
 たまたま、近鉄桃山御陵駅から御香宮神社方向へ歩いていたら、大きな給水塔が見えました。どのくらい高さがあるのか知らないのですが、伏見で1,2を争うような高さの建造物ではないかと思い、真下から見てみたいと近づいて行ったら、桃陵団地の中に入っていました。

桃陵団地の歴史

②常盤就捕処石碑
 この辺りで常磐御前が捕縛されたということを示している石碑です。常盤町という場所があります。昔からの伝承がある場所のようです。
 常盤御前は源義朝の側室。義経の母。義朝が平治の乱(1160)で破れたため「都落ち」をします。ここは大和街道の京都の出口。宇治から大和へ向かおうとしたのでしょうか。
 大河ドラマなどでは、常盤が義経ら息子たちの命乞いをします。清盛は常盤が自分の側室になるという条件を呑ませて頼朝を伊豆蛭ケ小島へ流し、義経を鞍馬山へ預けたというストーリーで描かれることが多いようです。史実かどうかは疑問のようです。
 この碑の背面に以下のような七言律詩が書かれています。よく分からない文字もあるのですが私が読み取ったものです。

従四位勲二等岩崎奇一題
頭角蔵懐未嶄然
龍門母子此(屯にしんにょう)(壇の旁でしんにょう)
老椎独在興亡外
雪虐風餮八百年
工兵第十六大隊長佐藤正武建

 佐藤正武という方が建立されたようです。岩崎奇一氏がこの律詩をお書きになったのか、揮毫されたのか私にはよく分かりません。よく大河ドラマなどでは大雪の中で捕まるという場面になっていますのでそれを歌っておられるようです。又椎の古木がこの辺りにあったのかもしれません。現在この碑は桃陵団地西入口南側にひっそり建っています。
*工兵というのは土木建築を担う陸軍兵科の一つ。陸軍には他に歩兵、砲兵、騎兵がありました。伏見にはもう一ヶ所「常盤」の名がつく場所があります。常盤橋という名の橋が、疏水に架かっています。上板橋通りの南側です。
③伏見奉行所跡
 鳥羽伏見の戦い(1868)の時、ここにあった伏見奉行所に旧幕府軍が陣取り、薩摩軍は、この北側にある御香宮神社に陣取り、開戦の幕を落としました。火器兵器で優位に立つ薩摩軍のために奉行所は焼失し、会津兵、新撰組は敗走します。
 伏見墨染に清和荘という料理旅館があります。その前に最近「近藤勇遭難の地」という石碑が建ちました。そこには近藤が肩を鉄砲で射抜かれ、ここへ逃げたとありました。その後大阪で療養したそうです。

④陸軍用地跡・伏見工兵第十六大隊跡

 桃陵団地で見つけた陸軍の痕跡である。こういうものもきっと後の時代になったら、跡形無く消えるのではないかと思う。伏見が「軍都」として栄えていた時代の遺物である。陸軍用地の石碑や愛馬之碑は、給水塔近辺に集中的にあった。他にもあるのかどうか知らない。以前簡易裁判所の敷地と舗道の境界にも「陸軍」の文字の入った小さい石碑があったが、最近なくなった。
 

⑤給水塔

 とにかく大きい給水塔だ。これは桃陵団地の北側にあたる。
 気になったことだが、桃陵団地全体に活気がない。子どもの姿がなかった。
 東京の多摩ニュータウンが住民の高齢化に伴って人がいなくなっていることが報じられたが、桃陵団地もそうなのだろうか。昭和40年頃建設の京都市営団地だと聞いたが、これからどうなるのかなと思った。
伏見ぶらぶら   
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