木喰さんを訪ねる旅(2)
竹田神社の狛犬

 お知り合いの方が、「木喰さんに興味がおありなら、滋賀県蒲生町にある木喰さんの狛犬を見る機会を作りましょうか」というありがたいお話。さっそく蒲生町竹田神社にある狛犬と対面してきました。

(1)阿と吽

 狛犬は「阿吽の呼吸」で有名です。「阿」は口を開けているもの。「吽」は口を閉じているものです。
 私が見せていただいた狛犬のある神社は寛仁元年(1017)の創建され、蒲生家代々の崇敬も厚かった神社だそうです。この狛犬には木喰の墨書銘はありません
吽像は高さ68.2cm。

(2)蒲生町には20日間滞在

 木喰行道がここ蒲生町を訪ねたのは、天明6年(1786)のことです。この時木喰69才。能登からここ近江へ入り、中仙道から御代参街道を伊勢、熊野へ廻国遊行をしたとき蒲生町を訪ねています。木喰はここの庄屋さんの家で世話になり、神社の狛犬を彫ったのだそうです。この庄屋さん宅に如来像(背面に天明6年10月3日の銘・初期木喰の作)が残されています。
 「円空と木喰」(五来重著:淡交社・平成9年再編集刊)にこの狛犬のことが書かれている箇所は2カ所です。引用してみます。
 「世には会津塔寺の立木観音や近江大津の南郷町立木観音のように、立木をそのまま丸彫りした立木像もあるが、いずれも巨石や立木に神霊をみとめる原始宗教からでた修験の信仰である、このように聖に石仏・磨崖仏をつくる習性があるということと、木喰行道が聖であったということと、木喰仏に石仏・磨崖仏の手法がみいだされるということと、佐渡金北山で石像大黒天を彫ったことと、彼は近江蒲生町T神社でも狛犬を彫ったということがそろえば、磐城稲荷五社大明神の石造唐獅子を木喰行道が彫刻したという可能性は、彫刻したに違いないという要請的判断までゆくのではないだろうか」(P.245)
 つまり、この蒲生町の狛犬は五来先生によると、木喰が元々石仏彫刻をしていたのではいかという判断の根拠のひとつになっているものなのです。
 
 もう1カ所は、「西国遍歴」の中でこのように書かれています。木喰行道の回国の様子が分かります。
 「(前略)やがて、伊那谷に入って三州街道をくだり飯田から難所飯田峠を越えて妻籠。それより中仙道を馬籠へおり、中津川、大井をへて美濃尾張の霊場をめぐり、尾張山口村では、弟子二人に逃げられた。やがて、飛騨から越中に入り、(中略)能登に入って石動山、加賀では白山に禅定する。山代温泉には五日入湯。越前から近江へ出て、I村に20日間とどまったとき、T神社の木の狛犬を彫った」(P.261)
 これを読みますと、この頃弟子がいたことや温泉も楽しんでたことが分かります。
 木喰行道はこの後93才まで生きます。この69才の時の狛犬は、彼の初期の作品だというのですから驚きです。木喰と言えば『微笑仏』と思いこんでいる私の概念からするとこの狛犬はその範疇から離れます。
 

(3)背中で語る

 パンフ『木喰行道の彫刻』ー竹田神社の狛犬とY家の如来像」によりますと、この狛犬は150年余り本殿の廊下に出されていたそうで、虫が入り、一部欠けています。確かに表面にたくさんの穴が開いています。「昔はこの穴から虫が飛んでた」という話を聞かせてもらいました。つい最近まで現役で本殿を守る役目をしていたことになります。現在は防虫加工され、大切に室内で保管されています。

2005・11・20(日)撮影
2005・12・10(土)作成

清源寺木喰十六羅漢木像(京都府八木町)

「京都・近江・大和・豊後石仏巡り」へ    HPに戻る