方丈記ワールドへ

日野に鴨長明を探す

 方丈記ワールド求めて、日野へ向かいました。外環石田から東へ、奈良街道を越えてさらに東へ行くと、上のような石碑と案内板のあるところに出ます。ここに方丈石まで1000mという案内があります。この交差点を右に向かうと日野法界寺です。国宝阿弥陀堂、国宝定朝様式の阿弥陀仏、重文薬師堂秘仏薬師如来像などで有名です。また「裸踊り」でも有名で日野薬師とか乳薬師という名でも呼ばれています。すぐ近くに親鸞上人日野誕生院もあります。
 鴨長明は日野山の中腹、渓谷の大岩の上に草庵を結び『方丈記』を執筆したそうです。
 「方丈記ワールド」へいざ出発!

2003・6・8及び29(日)訪問・写真撮影
2003・6・29(日)作成

 案内石碑のあるところから1000m、途中にいくつかポイントポイントで500m、300mという案内板が導いてくれます。京都市の野外教育施設まで来たら、あとは山道まっすぐ行きますと着きます。

■方丈石とは

 私は初め「方丈石」というのは上の写真の石碑のことかと思っていました。しかしその横にある石碑の説明で下の写真のものだということが分かりました。つまり「方丈石」というのは鴨長明の草庵(方丈)が建っていた下の大岩のことのようです。下に写っている岩が方丈石です。かなり大きな岩で高さ3〜4m幅5〜6mかな、いやもう少し大きいかもしれません。ここに着いたとたん蛇がすごいスピードで岩を降りていきました。カエルが突然飛び出してびっくりさせてくれました。普段あんまり人は近づかないところのようです。
「方丈石」下から見たもの 「方丈石」上から見下ろす

■山城ライオンズクラブ「方丈の庵跡」説明より

鴨長明絵像(河合神社資料展)
 方丈石はこの下の巨石と云われる。
 ここは鴨長明が方一丈(3メートル強)の草庵を営み「方丈記」を著した場所と伝えられている。
 長明の祖父は賀茂社の氏人で、父はその摂社河合(ただす)社の祢宜であった。父長継の次男として仁平3年(1153年)ー一説に1155年ーに生まれた長明は19才で父に死別した。彼は社司を志すかたわら琵琶を中原有安に学び、和歌を俊恵法師に学んだ。33才の時「千載和歌集」に一首入選歌壇に認められ47才のとき和歌所寄人となり宮廷歌人として活躍「新古今和歌集」に十首入選した。
 しかし社司の継承に失意した彼は元久元年(1204年)出家し洛北大原に隠棲して4年を過ごし建暦元年(1211年)日野に移り(一時鎌倉に行くが)草庵を結び「方丈記」を著した。
 鎌倉時代の変革期に末流貴族の子弟として自己と自己の生活を照破する文学を結実させた「方丈記」は鎌倉文化発展の序章(日本古典文学大系)と云われ、文学史上不可欠の意義を有している。建保4年(1216年)閏6月8日没した。

■「方丈記」

大福光寺本方丈記(河合神社資料展)
 「方丈記」は高校時代に古文の教科書に出てきました。でも今回初めて「方丈記 徒然草」(日本古典文学大系・岩波書店)で全文読みました。このもとになっているのが上の大福光寺本の方丈記だそうです。あまり長くありませんから案外短い時間で読めました。解説も丁寧に書いてあるので面白かったです。知っている一節が出てきたりすると懐かしい感じがします。

1)解説から

日本古典文学大系の解説の中で上記の「方丈の庵跡」解説にはないことで私が興味をもった鴨長明に関することを箇条書きしておきます。

1,彼は後鳥羽上皇に見いだされた。
2,和歌所の寄人といっても宮中歌会では別席に座らされた。
3,琵琶の秘曲「啄木」を師有安に伝授されていないのに、自分が願主となった席でくりかえし数回ひいた。それで上皇の御下問を受けた。
4,彼が河合社を嗣ぐ機会はあったが、賀茂社の総官祐兼の横やりでだめになった。後鳥羽院は鴨のひとつの氏社を官社に昇格させ、長明を祢宜にすえようとしたが、固辞し大原に逃れた。
5,方丈記は長明60才建暦2年(1212年)に蓮胤の名で書いたものである。
6,彼の生きた時代は保元、平治の乱を経て清盛ら平家が栄華を極め、その後源平の合戦を経て鎌倉に幕府が開かれた時代である。かって権勢を誇った藤原氏を中心とした公卿の繁栄は崩れ去った時代であった。
7,慶滋保胤の「池亭記」を模して「方丈記」が書かれたという意見があるようだが、解説者(西尾実)は一蹴している。
8,方丈記を著す前年には鎌倉へ赴き、青年将軍源実朝と何度も会見している。

2)方丈記の構成

1,人間とその住み家とのはかなさの追求
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとゞまりたる例(ためし)なし。世中(よのなか)にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。」
2,自分が経験した天変地異と社会変動(福原遷都)について
「予、ものの心しれしより、40あまりの春秋をおくれるあひだに、世の不思議を見ること、ややたびたびになりぬ」
3,自分の来し方と今の自分の日常生活の描写
「廣さわづかに方丈、高さ七尺がうちなり。」
4,現在の閑居生活を肯定
「惣て世の人のすみかをつくるならひ、必ずしも、身のためにせず」
5,しかしにもかかわらず自分が生命のぎりぎりに立っている姿は貧賤か妄心かという疑問に答えを出せないまま終わる。

3)方丈記に書かれた庵とその生活

下鴨神社摂社河合神社に復元されている長明の方丈
1,その庵の大きさは
「その家のありさま、よのつねにも似ず。廣さはわづかに方丈、高さは七尺がうちなり。」
廣さ3メートル強四方で高さが2メートル強という小さな家です。

2,その作り
「土居を組み、うちおほいを葺きて、継目ごとにかけがねを掛けたり。」
簡単な作りにしたのはすぐに家移りできるようにであり、「積むところ」は車に2台ですむだけの量であるとその効用を書いています。

3,庵の中には

「東に3尺あまりの庇をさして、柴折りくばるよすがとす(柴を折って炊きやすくした)。南、竹の簀子(すのこ)を敷き、その西に閼伽棚(あかだな・花をのせたり仏具をすすぐ棚)をつくり、北によせて障子をへだてて阿弥陀の絵像を安置し、そばに普賢をかき、まへに法花経(法華経)をおけり。東のきはに蕨(わらび)のほどろ(穂ののびてほほけたもの)を敷きて、夜の床とす。西南に竹の吊棚を構えて、黒き皮籠(かわご)三合をおけり。すなはち、和歌・管弦・往生要集ごときの抄物(写した物や抜き書き)を入れたり。かたはらに、琴・琵琶おのおの一張をたつ。」
和歌を詠み、琴や琵琶を演奏し、仏の道を考える生活であったことが分かります。

4,子どもと遊ぶ長明
「ふもとに、一の柴の庵あり。・・・山守が居る所なり。かしこに小童あり。ときどき来たりてあいとぶらふ。もし、つれづれなる時は、これを友とし遊行す。かれは十才。これは六十才。」
子どもといっしょに時を過ごすことが、心和ませてくれたであろうことが想像できます。

5,食べ物のこと
「或は、茅花(ちがやの花・花を含む若芽を食す)を抜き、岩梨(いわなし・こけもも)をとり、零余子(ぬかご・むかご・山の芋の蔓に結ぶ小芋)をもり、芹をつむ。或は、すそわの田居(山のふもとあたりの田)にいたりて、落穂拾うて、穂組(稲穂を乾かすために組むもの)をつくる。」
自然の物を食べてたのですね。菜食主義です。落穂拾いは怒られへんかったんかなと思いました。
現在方丈石に一番近いところにあった田

4)峰にのぼると・・・伏見の里が

方丈記の中に伏見の描写がないかと探してましたら、ありました。
「若(もし)、うららかなれば、峰によじのぼりて、はるかにふるさと(京都)の空をのぞみ、木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師(いずれも京都近郊で、古歌に詠まれている名所)を見る。勝地は主なければ(景勝地に持ち主はないという白楽天の詩の引用)心をなぐさむるにさはりなし。」
でも最初これを読んだとき、本当かな・・・とちょっと疑いました。半信半疑でした。木幡山(今の明治天皇桃山御陵のある山・古城山とか桃山とか言われる山)は見えるでしょうがその向こうの伏見の里や鳥羽、羽束師は木幡山が邪魔して見えないだろうと思ったのです。で、本当に山に登れば見えるのか見に行くことにしました。残念ながら天候に恵まれない日で霞がかかったような日でしたが、登って行きますと木々の隙間から景色が見え始め、山科川木幡山そして横大路のガスタンクなどが確認できました。私は洪水峠という炭山へ抜ける峠で引き返しましたが、そこから日野山の頂上へ登れるようです。そこまで行けばたぶん京都も見えるでしょうし長明のいう伏見の里も見えるだろうと思いました。日野山は木幡山(100mあまり)より高いので見えるのでした。疑って申し訳ないことです、長明さん。
山頂へ続く道 手前の緑木幡山・伏見の里・羽束師

5)心遠くにいたるときは

「これより、峰つづき、炭山をこえ、笠取を過ぎて、或は石間(岩間寺)にまうで、或は石山(石山寺)をおがむ。若(もし)はまた、粟津(大津市膳所付近)の原を分けつつ、蝉歌が翁(逢坂山の蝉丸神社付近のことか・蝉丸は琵琶の名手でもある)があとをとぶらひ、田上河(宇治川上流)をわたりて、猿丸太夫が墓(現曽束大橋付近に墓があると長明が「無名抄」に書いている。しかしこの人物の墓が伏見深草にあると書いてあるものもある。伝説化された平安時代初期の歌人)が墓をたづぬ。
 遠くへ出かけたくなったら山を越えて、お寺を訪ねたり自分の好きな和歌や琵琶にゆかりの人や場所を偲んで宇治川沿いに近江に出かけ、帰りに桜や紅葉折って帰り、わらびを採ったり、木の実を拾ったりして仏様にあげる生活をしているというのです。そして「今、さびしきすまひ、一間の庵、みずからこれを愛す。」と言い何かの用事で都へ出かけるときは乞食同然のこの身を恥ずかしく思うが、ここへ帰ってきたら、「他の俗塵に馳する事をあはれむ(世の人が名利にとらわれ、あくせく心身を労していることを気の毒に思う)」と書いています。
炭山へ抜ける道 洪水峠道しるべ 日野へ戻る道
方丈石のあるところから、歩いて40分あまりで洪水峠に出ます。それほどきつい坂道ではありません。途中幽霊峠などという名前のところもあるようです。昭和30年代に建てられたお堂とたくさんの石仏がある場所がありました。その他にはすれ違う人もない山道です。

■日野その他(法界寺・日野誕生院・日野家墓・萱島神社)

日野薬師山門 国宝阿弥陀堂
定朝様式阿弥陀仏
長押の飛天など見所多い
重文薬師堂
秘仏薬師如来
裸踊りはここで行われる
阿弥陀堂が教科書などにも紹介されているお寺。平安時代末日野氏の寺として作られ発展した。日野富子などで有名な日野家は藤原北家からの別れ。日野の地名も日野氏から来ている。親鸞上人も日野氏の出身であり、法界寺のすぐ東南に「日野誕生院」がある。
日野誕生院 日野氏墓所(資業らの墓) 萱島神社・祭神大国主命
「伏見ぶらぶら」
私の伏見案内
「ぼちぼちいこか」
(INDEX)