伏見ぶらぶら18

三栖神社炬火祭

三栖神社(みすじんじゃ)炬火祭(たいまつまつり)と読みます。
三栖神社本社は伏見区横大路通下三栖にあります。

(1)三栖神社本社

 そして本社から東500m三栖向町にお旅所があります。宮司さんは現在このお旅所の方にお住まいだと伺いました。このお旅所は別名金井戸神社とも呼ばれているそうです。祭神は天武天皇・応神天皇・伊弉諾尊です。祭礼の日は10月12日と16日に近い日曜日と書いてある本があったのですが、今年は10月13日(月)に行われました。近くの御香宮神社の祭礼と同じ日になるのを避けられたのでしょうか。しばらく炬火祭は行われていなかったのを最近復活されました。私は今年初めて見せていただきました。

(2)三栖神社お旅所(金井戸神社)

(3)大倉記念館にある三栖神社炬火

 これは実物より小さく作ってあります。実際の炬火は直径1、5m、長さ6m、重さ800kgです。
 三栖村はヨシを使って簾(みす)やすだれなどの製造をする店が多かったそうです。
 この祭りの由来について、天武天皇の大津行幸にあたって、この土地を通過されたとき、村人が炬火(松明)をともして暗夜を照らし迎えたという伝説からこの祭りは始まったといいます。しかし天武天皇の三栖村通過の記録はないそうです。また「伏見鑑」その他にも天武天皇が祀られていることに関しては「鎮座の記未詳」とあるそうで、山本真嗣先生は「伏見歴史紀行」で以下のような推論を立てておられます。
 壬申の乱(672)の時に大海人皇子(後の天武天皇)軍がこの地を通り瀬田に出て、近江朝廷(大友皇子)軍との決戦に臨みました。この時大伴吹負(ふけい)や紀阿閇麻呂(きのあべまろ)らが活躍するのですが、淀は大伴氏の支族の居住地だったようですし、伏見は紀伊郡という名にあわられているように紀氏の支族の居住地でしたから伏見は大海人皇子軍の味方だったようです。だから「大伴吹負と紀阿閇麻呂軍をむかえたこの地の人々は喜びは何ものにも替えがたいものであったに違いない。おそらくこの三栖において、それを祝うような事実があったはずである。炬火行列の神事もそれにちなむものであろうし、五節の舞の話がこの地で語られるのも、すべてこれに関係しているであろう」と書いておられます。
 

(4)ヨシの乾燥用倉庫

このレンガ倉庫については「伏見のレンガ建築」に詳しく書きましたので参照して下さい。

(5)三栖神社炬火祭風景

炬火祭(おいで祭り)は炬火に火を付けかけ声と共に中書島から京橋まで練り歩きます。

ア)巡行直前

右の写真奥に炬火が見えます。右手に御輿がありました。燃えすぎないためにか炬火に水をかけておられました。

イ)先頭は高張り提灯

ウ)炬火に点火

エ)燃える炬火

 大きな炬火の炎が夜空に浮かび上がりました。電線や看板(土木事務所)は大丈夫かなと心配しました。もうもうと煙が巻き起こりました。なかなか火が消えないようで、京橋で何回も炬火は回転しました。そして水がかけられました。この燃え残りを持って帰ると火事に会わないというので私も拾って帰りました。
 午前8時前からあいさつなどがあり、巡行そのものは30分で終わりました。
 そのあと竹田街道の清掃が行われました。道路にたくさんの燃えかすやスス、水や燃え残りのヨシが散乱していました。役員さん達が走り回っておられました。町の中でこの祭りはなかなか大変だなとつくづく思いました。役員さん達のご苦労が偲ばれます。ご苦労さまでした。

オ)清掃

2003・10・16(木)

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