伏見ぶらぶら1

伏見のレンガ

(1)酒蔵とレンガ

(1)松本酒造(桃の滴)

(2)大倉酒造(月桂冠)


(3)黄桜酒造

(4)万長

(5)寶酒造(松竹梅)

(2)森本養菌園・・キノコの研究所

京都市伏見区水野左近西町

大正10年頃
撮影年月日2002年8月24日・2003年4月13日

赤れんがの研究所 国道24号に面する黒レンガ
 左の建物は赤レンガ、右の建物はコークスが入っているレンガで黒い。この黒レンガは火力発電所「京都電燈会社」のコークスを混ぜて焼かれたのだそうだ。右の建物が建てられて1年後左の建物が建てられたという。
森本養菌園の先代がアメリカへ行ってマッシュルームなどのキノコ栽培を習って来られそれを日本で栽培するためにこの建物が建てられたらしい。しかし現在はその仕事をやめられている。右の建物は国道24号線に面しており、インテリアの店として使用されている。

(3)モリタ製作所伏見工場(旧京都電燈伏見発電所)

京都市伏見区東浜南町

設計 不詳
施工 不詳
竣工 明治35年(1902)頃
構造 レンガ切妻造
撮影年月日   2002年9月15日
 京都電燈会社は、田中源太郎を初代社長に明治21年に設立された日本でも最初期の電燈会社である。市中心部への灯火用電力の供給を主目的に設立された。しかし、大正の終わり頃には寂れたようで、昭和18年(1943)に軍需工場への衣替えは森田禮三の設計によって行われた。すでに20年近く廃墟のようになって荒れ果てていた旧火力発電所のレンガ建築を森田製作所が買い入れた。

(4)農業用倉庫(旧京都電燈会社送電所)

京都市伏見区三栖町

 モリタ製作所へ行った時にたまたま見つた。肥後橋を渡ったところにこの建物はある。
 すぐおとなりの方に伺ったところ『送電所』の建物と聞いているとのこと。そして関西電力が近くの農家の方に売ったとのことである。建物についているマークは京都電燈会社の社章かなと想像した。
 現在この建物には「よし」が入れられているそうだ。すぐ近くの三栖神社の祭礼で使う大松明に使う「よし」である。1年前から干して乾かすのだそうだ。
 また、この建物はもうすぐ取り壊されるかもしれないということをおっしゃる方もおられた。現在ヒビが入っている。窓も壊れるに任せてある。
 昔はこの建物のあるところは低い土地だったようで、よく水がついたそうだ。この建物は道路からみると低い建物に見えるがかなり高い建物である。
 昔送電していたことを物語る碍子の跡が壁にいくつも残っている。
 東側は窓があるが、西側にはない。
 たぶん、モリタ製作所のレンガと同じころつまり明治35年ごろに建てられたのではないだろうか。
                                        撮影年月日2002年9月15日
建物を東側から
碍子が見える。西側に多い
建物の東側・窓がある 京都電燈会社の社章

(5)JR稲荷駅旧ランプ小屋

(京都市伏見区深草稲荷)

設計   不詳
施工   不詳
竣工   明治13年(1880)
構造   レンガ造平屋建
      切妻造 桟瓦葺
      
重要文化財
撮影年月日 2002年8月18日
出隅に柱形を出し、平アーチの窓。極めてシンプル

明治9年(1876)京阪間に鉄道開通。明治13年(1880)京都・大津間に鉄道が敷かれる。明治22年(1889)東海道線全面開通する。この時のルートは現在のものと違い、いったん稲荷まで南下してそこから山科から大谷経由で大津の膳所まで行くというものであったようだ。現在の名神高速道路に沿ったルートである。平坦なところを選んだ工事であるが当時は難事業であったようだ。この工事測量をのぞいて日本人の手で行われたという。

(6)聖母学院本館・・・旧16師団本部司令部庁舎

京都市伏見区深草田谷町1

竣工年  明治41年(1908)
設計者  陸軍省
構造    レンガ造り
 伏見は軍都であった。16師団は京都師団とも言った。今もその名残として師団街道、第一軍道などの名が残る。16師団の跡地は現在龍谷大学、京都教育大学そしてここ女子校などの教育施設の敷地に変わった。この建物は戦時中は赤煉瓦が空襲の目標にならないように黒く色が塗られたという。正面の菊のマークもはずされた。

(7)琵琶湖疎水伏見インクライン出口

伏見区津知橋から

(8)平戸樋門

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