粉河寺・根来寺を行く

2006・7・23(日)撮影
2006・8・5(土)作成

(1)粉河寺
和歌山県那賀郡粉河町・西国第三番札所)

 2006年4月京都国立博物館で「大絵巻展」が開催されました。見応えのある展覧会でした。この展覧会の展示の一番目が国宝「粉河寺縁起」絵巻(平安時代後期12世紀)でした。
 「粉河寺縁起」は二話からなる話で、前半は本尊千手観音の造像安置の由来です。猟師が山中で光り輝く地を見つけここに柴庵を建て、仏像を安置したいと願っていたところ童行者が現れ、七日間庵に籠もります。七日目庵の扉を開けると千手観音が立っていたという話です。
 後半は、病に苦しむ河内の長者の娘のもとに童行者が現れ治してやり、娘の紅袴と堤鞘をもらい受け、住まいは粉河だと行って立ち去ります。翌年春、長者一家は粉河を目指して旅立ち、山中に柴庵を見つけ、童長者が持ち帰った娘の紅袴と堤鞘を持っているのを見つけます。童行者が観音の化身であった事を知り、一族皆出家して粉河の別当になったという話です。
 重文粉河寺大門です。江戸時代のものです。金剛力士像は仏師春日の作とかでなかなか男前です。祭りが近いようで、JRの駅からの参道で山車を組み立てておられました。右のうちわは大きなもので祭りで使われるのだろうなと想像しておりました。
 本堂へ歩いていきますと、西国三十三カ所巡りの一行と出会いました。みなさん白装束でした。御詠歌は「ちちははの 恵みも深き 粉河寺 仏のちかひ たのもしの身や」です。
 中門へ行くまでに童男堂という建物があり、その横に童行者の石像がありました。大門の横に地蔵堂があり、そこに新しいお地蔵さんがおられました。 粉河寺は江戸時代の建物がほとんどです。秀吉が焼き尽くしたそうです。
童行者像 地蔵石仏
 この粉河寺、風猛山粉河寺と言うそうで、紀州徳川十代藩主が書いたという中門の扁額に「風猛山」の文字はなかなかの迫力です。そして中門に四天王がおられました。これは初めて見ました。そして、本堂はちょっと変わった建物で、一重屋根の礼堂と二重屋根の正堂が結合した複合仏堂です。何れも重文です。
中門 本堂
 粉河寺の庭園は、桃山時代のものだそうで、本堂前の高低差を利用して、国指定名勝です。蘇鉄が見事です。よく手入れされていてその緑が美しいのです。石組みも大変立派です。サツキの頃の写真がパンフにあるのですが確かによさそうです。

(2)根来寺
(和歌山県那珂郡岩出町根来2286 рO736−62−1144)

 新義真言宗総本山です。鎌倉時代初め、覚ばん上人(興教上人)は高野山に絶望し弘法大師の真言密教の教えを正しく伝える必要を感じて、根来寺の基礎を築かれ、1143年この地で亡くなられました。
 その後堂塔2700寺領72万石という強大な勢力を誇る勢力を持つ寺になります。僧侶だけでなく僧兵も相当数いたと思われます。
 天正13年(1585)3月「根来攻め」と言われる秀吉の攻撃で、大伝法院の一角二三の寺院のみを残して焼失しました。
 その後徳川の庇護のもとで復興しました。
国宝大塔 (1496年建立 わが国最大の木造多宝塔 高さ40m幅15m)

 美しい塔です。真言密教の教義を表している塔です。秀吉の根来攻め当時の弾痕がありました。

 鐘楼門は光明真言殿の入り口にある門で、ツバメが巣作りをしていました。光明真言殿附近は国指定の名勝庭園らしいのですが拝観しませんでした。大師堂は大塔と同時期の建築物らしく、重文です。大伝法堂の本尊は大日如来、脇仏は金剛薩た、尊勝仏頂尊という他のお寺ではなかなかお目にかかれない仏様でした。
鐘楼門 光明真言殿 大師堂 大伝法堂

蓮池でグループの方たちが写生しておられました。

 無縁仏が集められたところに墓石やお地蔵さんがありました。永禄の年号が刻まれたお地蔵さんもおられました。秀吉の根来攻め以前の石仏です。

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