深草の少将と小野小町

深草の少将百夜通い

 
小町の美しさに魂を奪われた深草の少将は、小町の愛を強要するが、小町は百夜通って満願の日、晴れての契りをむすぶことを約した。少将は99日まで通い、最後の晩、大雪のため途中で凍死してしまうのであった。(京都伏見歴史紀行・山川出版社・山本眞嗣著より)

(1)深草の少将の住まい
墨染欣浄寺(ごんじょうじ)

▼欣浄寺は道元さんのお寺でもありました

欣浄寺へは京阪墨染駅下車西へ疏水を越えて一筋目左すぐ、5分とかからない。

 清涼山と号する曹洞宗の寺院である。
 寺伝に寄れば寛喜2年(1230)から天福元年(1232)道元禅師がこの地で教化に努め、当寺を創建したといわれる。当初真言宗であったが、応仁の乱(1467)後曹洞宗となり、天正・文禄(1573〜92)の頃、僧告厭(こくえん)が中興し浄土宗に改められ、さらに文化年間にもとの曹洞宗に改宗した。
 本堂は俗に「伏見の大仏」と呼ばれる丈六の毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)をはじめ、阿弥陀如来像、道元禅師石像などを安置している。
 また、当地は昔深草の少将の屋敷があったところと伝えられ、池の東の藪陰の道は「少将の通い道」と呼ばれ、訴訟のある者はこの道を通ると願いが叶うといわれている。なお、池の畔には少将と小野小町の塚と「墨染井」(すみぞめのい)と呼ばれる井戸がある。(京都市設置の説明版より)
不許葷酒入山門 本堂昭和48年方広寺の教訓から住職が私財でコンクーリート化

▼伏見大仏(本尊毘盧舎那仏)

 「伏見の大仏」一度拝観されることをお勧めします。話の種に拝観されてはいかがでしょうか。と、えらそうに言っている私も初めて2003年6月7日(土)に拝観させて頂きました。私の父親はよく「墨染のお寺に『伏見の大仏』さんがおられる」と言ってましたから拝観したことがあったのでしょう。
 大きさ一丈六尺(5.3m)です。美しい仏さんです。唇の朱も鮮やかです。なかなか男前です。私思わす「オー」と声が出ました。江戸時代半ばすぎの作だそうです。大仏様のおられるところが床よりやや低いです。頭は安永3〜5年(1774〜76)に1代目住職が、胴体は寛政3〜8年(1791〜96)に2代目住職が、作られたということです。
 大仏造立の契機として考えられることとして、天明義民一揆で悲憤のうちに亡くなった9人の供養のために発願されたとも言われているそうです。ここ深草墨染が一揆の拠点でもあったということです。
 私は土曜日に訪れたのですが、拝観料というものを集めておられませんので、インターホンで拝観したい旨告げると本堂を開けて下さいました。いつもそうなのかどうか聞きそびれました。 欣浄寺略記をいただきました。
 
その他に本堂には道元禅師の石像や小野小町の恋文の灰を固めて作られたといわれる深草の少将の張文像、清涼寺式釈迦如来像(阿弥陀如来像・仁明天皇念持仏)天明年間の「欣浄寺絵図」などがあります。 
 
(2)深草の少将と欣浄寺
以下の記載は「欣浄寺略記」からのものです。
 「欣浄寺の境内は、平安時代の初め桓武天皇から深草少将義宣卿に邸地として賜ったもので、往時は八町四面の広さであったと伝えられている。深草少将は弘仁2年(813)3月16日薨去し、この地に埋葬された。
 欣浄寺の山号「清涼山」は少将の院号(法名・清涼院殿蓮広浄輝大居士)に由来する。
 その後、仁明天皇の寵臣五位少将蔵人頭良峰宗貞(僧正遍昭)が、帝の崩御に遇い、この菩提に念仏堂を建てて帝御念仏の阿弥陀如来像と御尊牌を奉安して念仏浄業にふけられたといわれ、これが現在の欣浄寺の起源と伝えられている。
深草少将ロマンの地
 深草少将は小野小町との物語でよく知られている。少将はここに邸宅をかまえ、ここから山科の小野小町のもとへ百夜通ったといわれている。
 今もなお本堂に遺る池は、そのむかし小野小町が来遊のおりその美しい姿を水に映して
              
おもかげの変らで年のつもれかし
                     よしや命にかぎりありとも

と、詠んだといわれ、「姿見の池」といわれている。
 境内の一隅には少将と小町の塚があり、またその前に少将遺愛の「墨染の井戸」があって、一に「涙の水」とも「少将姿見の井戸」ともいわれている。弘法大師利剣の名号が納められているこの井戸の水は、今もなお涸れることがない。
                      通う深草百夜の情け
                     小町恋しい涙の水は
                     今も湧きます欣浄寺

                                    (西条八十)
いにしえのこのあたり一帯は一大竹林で、「竹の隠れ家」とも称され
               その色を分かぬあわれも深草や
                     竹の葉山の秋の夕ぐれ

                                         (新続古今集)
と無品親王に詠まれており、竹林の号の由来ともなっている。
 このあたりの裏道は「竹の下道」といわれ少将百夜通いの道と伝えられている。 
 
小町姿見の池 小野小町・深草少将の塚 「涙の水」「少将姿見の井戸」 

(3)小野小町は山科
小野の随心院

欣浄寺から随心院へ・・・大岩街道

 随心院は京都市山科区小野御霊町にあります。市バス、京阪バス「小野」下車2分にあります。伏見欣浄寺から行くには、墨染から深草谷口町へ出て、大岩街道を東へ東へまっすぐ行くと奈良街道へでてすぐにあります。距離にして5〜6キロ。歩けば1時間半。この大岩街道は名神高速道路の西の地道(じみち)です。毎夜通うとなれば、なかなかです。それほどの傾斜ではありませんが登り道です。谷口町には多くの墳墓があります。伝仁明天皇深草陵もあります。また江戸時代まではここにある浄蓮華院の東にあるところが、桓武天皇陵でした。仁明天皇をこの「百夜通い」に関係づける意見もありますので要チェックです。
 大亀谷には古く天皇や貴族の墳墓が営まれ、聖たちが多く集まっていた。この深草から小野への往還の伝説は、その唱道聖たちと小野の南に当たる醍醐に住んだ雑芸人たちとの交流の中で育まれたものだといわれる。

随心院

 小野随心院に小町伝説が定着した背景として考えられるのは、随心院のあるところが、古代小野氏ゆかりの小野郷に当たるからということが言えるようです。それに加えてこのお寺の前身である曼荼羅寺の開祖仁海、及び2代目の成尋が、祈雨で有名であったということも関係するのではないかというのです。神泉苑でたびたび効験のあった仁海は「雨の僧正」と呼ばれたそうで、雨乞い説話と縁が深い小町が結びつくのは容易だということだそうです。

随心院と小野小町の遺跡

随心院にある説明版 小町庭苑

随心院にある小野小町ゆかりのもの

文塚
(小町へのラブレターの束を納めた)
小野小町化粧の井
ここは小町の屋敷跡だったという
小野小町化粧の井
湧いているのか溜まっているのか
榧(かや)の古木 榧の古木の説明 小町塚
榧とその古木
 草の少将が百夜通いの折、小町が日数を、榧の実で数え、後に里に播いたと伝えられる。今も山籠もりの修験者に食される榧の実は、古く虫下しや塗り薬として珍重されたという。小町榧と呼ばれ、榧の実売りが売って歩いたという。

その他随心院の小町ゆかりのもの

卒塔婆小町像・・・老年の小町の立て膝姿の像。謡曲「卒塔婆小町」など容色を失ってからの小町を扱ったものしか謡曲にはない。なぜなのか?この像も老境に入った小町の像である。
小野小町文張地蔵尊像・・・多くの人々からよせられた文を下張りして作り、罪障消滅を願うとともに、有縁の人々の菩堤を祈ったものといわれている。

随心院「はねずおどり」に伝えられる百夜通い

 深草の少将は小町から百夜通いを求められ通い続けるが、99日目の大雪に「代人」をたてたため小町に愛想をつかされて、小町に会うことは出来なくなる。その後小町は毎年「はねず」の咲く頃を老いの身も忘れたように里の子供たちと楽しい日々を過ごしたという。

(4)小野小町について

北野天満宮絵馬堂の小野小町

@平凡社『世界大百科事典』の解説

 9世紀中ごろ(平安前期)の歌人。生没年は不明。文屋康秀、僧正遍昭、在原業平、安倍清行、小野貞樹らと歌を贈答している。出羽の国の郡司小野良真の子で姉がひとりある。采女であったというが、たしかではない。『古今集』に18首の歌が見え、家集『小野小町集』もある。古今集の序文では六歌仙のひとりに数えられ、〈古(いにしえ)の衣通姫(そとおりひめ)の流れなり。あはれなるようにて、強からず。いはば、よき女の、なやめる所あるに似たり。強からぬは、女(をうな)の歌なればなるべし〉といわれ、海棠(かいどう)の雨を含んだ風情(ふぜい)のように批評されているが、作品を実際鑑賞してみると、しっとりとした趣はなくて、むしろ、奔放であり、情熱的であり、弱いというところはない。美人であったと言われ、全国各地に数々の小町伝説が伝えられている。(西下経一)
古くから美女の代名詞となっているこの女性は、日本の伝説の上で和泉式部と並んで興味深い存在である。現在なお、小野という姓が諸国の神官に多いことからも想像できるように、日本の固有信仰と深い関係を持ち、かつ全国を移住し歩いた家柄であって、篁、道風、妹子らの学者のほか、《浄瑠璃物語(十二段草紙)》の作者と伝えられる小野お通も小野氏より出た女性であった。小野小町の生地、死没の地、あるいは墓所は数多くあって、そのために小野小町は一人ではなかったろうと、古くからいわれていた。群馬県甘楽郡小野村(現富岡市)は地名が小野であり、ここの薬師につたわる難病とその平癒に関する小町の話は、和泉式部のこととして遠く九州の地に伝えられる話と同一である。すなわち、中世以来、信仰を伝えて諸国を遊業した女性の一群があって、その人々がこういう伝説を運搬し歩いたものと考えられる。たまたま小野とよばれる土地があり、由来ありげな古塚があり、清い水のかれることのない井があったりすると、伝説はそこに土着し根をおろして、小町の墓、化粧の井というふうに後代に伝えられたのであろう。なお小町の〈まち〉の語源は〈まうちぎみ〉で、神につかえるという意味がある。(丸山久子)
*これは小町の歌をよまなければと思いました。ここに書かれている「固有の信仰」というのが何なのか、おそらく、中世に流行ったものなのでしょう。「信仰を伝えて諸国を遊業した女性の一群」というのは初めて知りました。
そういう女性達が小町の話をして歩いたのでしょうか。

ANHK「歴史発見」小野小町伝説より

小町は仁明天皇の更衣で美人だった!

 この番組は平成4年に放送され5年に角川書店から単行本になっています。
 井沢元彦さんと里中満智子さんが司会進行役をして山村美紗氏が解説されています。 
 この中で山村美紗氏は小野小町は仁明天皇の更衣で小野氏の出身の小野吉子であろうと考えておられます。仁明天皇の妻と言える女性は13人。小野吉子は『続日本後記』に承和9年(842年)正月8日、正六位上に任じられたと記されている女性で、正六以上は更衣に相当する位だそうです。
 小町の町という名がつく他の女性は古今集の中であと二人あり、いずれも更衣なのだそうです。天皇の妻で女御より低い身分で常寧殿という建物の中を仕切って部屋を与えられたもので、その方形に仕切られた区画を町と言ったそうです。
 そして小町は仁明天皇の寵愛をそれほど受けたわけではないが、天皇の死後も慕い続け貞節を守って他の男の誘いを断り続けたのではないかというのです。それは平安時代当時の恋愛観からすると変わっていると思われたのではないかと言い、そういう純粋性が、高慢というような伝説につながったと考えておられます。美人であったという伝説についてはおそらく、衣通姫(そとよりひめ)の流れという紀貫之の仮名序の意味は、歌が似ていると言うより美人の流れととるのが妥当という見解です。
 小町が落ちぶれた、落魄したという伝説が生まれる背景には、その歌に「空しい、侘びしい、悲しい」という歌が多いところからくるのではないかというのです。小町の言う空しさは、愛する人が来ないことからくるものなのですが、それを経済的に苦しく老衰したときの落魄と取り違えたのではないかというのです。そして、更衣という身分の女性は、次の天皇が即して宮廷を追い出されても「更衣田」という田地を与えられるので経済的には安定していたはずだというのです。

B紀貫之「あはれなるようにて、強からず」・・・「古今集」仮名序

『古今集』の撰者である紀貫之は、その「仮名序」の中で次のように記しています。
「小野小町は、古(いにしえ)の衣通姫(そとおりひめ)の流れなり。あはれなるようにて、強からず。いはば、よき女の、なやめる所あるに似たり。強からぬは、女(をうな)の歌なればなるべし」
*小野小町が確かに活躍していたという確かな証拠はこの「古今集」の「仮名序」と「古今集」にある18の歌であるようです。紀貫之の『あはれなるようにて、強からず』という評に対してしっとりとした趣はなくて、むしろ、奔放であり、情熱的であり、弱いというところはない」と西下経一氏は書いておられます。果たしてどうでしょうか。
衣通姫(そとおりひめ)は19代天皇允恭天皇の寵妃で、「その艶(にほ)へる色衣を徹して晃(ひか)れり」と『日本書紀』に記された美女。同母姉の皇后から妬まれ都(藤原京)を離れて河内へ逃れ、天皇を恋い慕いつつ寂しい生涯を終えたといいます。「古今集」の宣下があった(905)のは小町が活躍した仁明天皇時代(833〜50)から50〜70年後です。衣通姫の「流れ」というのはもちろんその歌のことでしょうが、その境遇も似ていたのではないかというのが、『36歌仙の舞台』(京都新聞社・平成4年)を書かれた樋口茂子さんの説。つまり小町の恋歌の相手は仁明天皇ではないかいうのです。
現仁明天皇深草陵 案内石碑

C小町の歌「古今集」より

NO 和歌
花のいろは うつりにけりな いたづらに
わが身世にふる ながめせしまに 
うたたねに こひしき人を みてしより
ゆめてふものは たのみそめてき
うつつには さもこそあらめ ゆめにさえ
人目をもると みるが わびしき
*1は小倉百人一首にもあるもので、色香衰えていく自分を嘆く歌。2はうたたねで恋しい人を見てからというもの夢に期待しているという歌。3は現実でも夢でも逢うことをはばからねばならないという嘆きの歌。どうも歌の解説は難しいですね。未完。

(5)『百夜通い』伝説を追う

@百夜通いの説話の最初は歌論「袖中抄」

 平安時代後期の歌論「袖中抄」というのがあるようです。これには女の名前は記されず、男は四位少将となっているそうで、これが小町と結びつけられるのは、やや後のことになるようです。

A兼好法師は「定かならず」

 「徒然草」を見ていたら小野小町のことを兼好法師が書いているのを見つけました。そのまま書いてみます。
第173段
 小野小町が事、きはめて定かならず。衰えたるさまは、*1玉造と云う(ふ)文にみえたり。この文、*2清行が書けりという説あれど、*3高野大師の御作の目録に入れり。大師は*4承和のはじめにかくれ給えり。*5小町がさかりなる事、その後の事にや、なお覚束なし。
*1玉造・・・玉造小町壮衰書、一巻。群書類従136所収。
*2清行・・・三善清行。参議。917年没、72才。安部清行(古今集の作者。900年讃岐にて没)ともいう。
*3高野大師・・・弘法大師。真言宗の開祖。835年寂。今は、大師の目録にないという。
*4承和・・・834〜848年。仁明天皇の御代。中家実録に「承和上下呉音」とあり、ロドリゲスの日本大文典には、(ショウワ)とある。今読みくせに従っておく。
*5小町がさかりであったのはその後のことではなかろうか。やはり、(小町のことは)はっきりしない。
                          
岩波書店・古典文学大系「方丈記・徒然草」より
 兼好法師が「徒然草」を書いた時代は鎌倉時代末〜南北朝動乱の時代です。その頃には分からなかったのです。そうでしょうね。500年ぐらいの隔たりがありますから。

B『玉造小町子壮衰書』を読む

 岩波文庫の中に「玉造小町子壮衰書ー小野小町物語ー」というのを見つけました。
読んでみましたが、あんまりおもしろいモノではありませんでした。これは「長文の序をもつ古詩」であると書いてありましたがその通りで、多分漢文に堪能な方はこの文章が韻をふんでいたりのおもしろさが分かるのかもしれません。また浄土教真言宗との関係もあるので平安時代の宗教や死生観について研究されている方にはおもしろいかもしれません。私のように物語として読もうと思った者には退屈な比喩(中国の故事に精通してないと分からない)の連続です。平安時代の貴族や僧侶はこういう教養があってはじめて文章を書いたのだなということは分かります。
あらすじを書いておきます。
■序
 話者(この話しを伝える者)が、大路小道そぞろ歩きをしていたら、気の毒なくらい老いさらばえ着るものもなく、素足で履くものもない、そして食べるものにも窮している女人に会った。その老婆に身の上話を聞いたら、こんな話しを聞かせてくれた。
「私は置き屋の子で、良家の子さ。女盛りの頃は贅沢の限りを尽くした。衣服は蝉の羽のような薄絹でなければ着やしなかった。食事はノロジカの牙のような白米でなければ食わなかったさ。錦繍の縫いとりの服は、いつも蘭香くゆる部屋に満ちあふれ・・・」(と、こういう説明が長々続いて飽きてくる)
 「こんなに幸せだったが、17歳で母を亡くし、19歳で父を亡くし、21歳で兄を亡くし、23歳で弟を亡くす。それが不幸の始まりで、このように路上をさまよう生活になりました。」
 「今は仏にすがりたいと思うけれども、仏にお供えするものもなく、御仏の十力におすがりすることもできません。どうかもろもろの御仏様、きっと孤独の我が身をお導きたまえ」
 私(話者)はこの話しを聞いて、蒼天を仰いで老女の悲惨を悲泣し、白日の下、身をふせて愁吟した。富貴は天の与える所のものである。東西南北に移動する雲の色は変転極まりない。愛楽は人の賞で感ずるものである。生老病死の四苦の風声は時を待たずして訪れてくるものである。
■詩
路のほとりに年老いた女がいた。気力みな衰えなえて、痩せ疲れた容顔。身には風葉のような衣すら身につけることを欠き、口には露花のようにはかない物すら食うことは希である。・・・父母と死別してから、猟師の下に嫁ぐことになった。その猟師には妻が二人いた。やがて男の子が生まれたが、それから自分の形体(すがた)は衰えてしまった。殺生を生業にする夫の罪は限りなく死後の地獄の苦しみは比類がない。父母は先立ち、我は生き残った。子は病み倒れ,また夫も亡せた。父母は身罷って身を寄せる所を失った。眼前の幸福はものの数ではなく来世の安寧をもっぱら求めよう。(ということでこのあと釈迦と阿弥陀仏に頼りたいと言い、極楽浄土の様を描写して)すべての仏の功徳を讃えるために、筆をとってこの詩を作ったのである、で終わる。
■解説から・・・小野小町との関係
杤尾武さんという方の解説である。
・この本は平安時代中期か末期に成立したと思われる。
・空海が書いたという説が昔からあるがそれは空海の書いた「九想詩」等に同じ思想が見られるからである。
・空海作者説は時代が合わない。空海の弟子真済が書いた可能性がある。
・原壮衰書があったのではないか。
・現在最古の奥書を持つ写本は鎌倉期承久元年(1219年)のもの。「玉造小町子壮衰書」。
・岩波書店の本の底本になった九条家旧蔵東京大学国文研究室本は「玉造小町子計衰記」。
・小野小町の名が出てくるのは曼殊院本で、室町末期から江戸初期の成立の写本である。
・解説者(杤尾武さん)はこの壮衰書はもともと小野小町を題材にしたものではなく、原壮衰書は「女人壮衰書」とでも称したものと考えられると言う見解である。
・作者は空海で、空海は小町のことを書いたのではなく、女の壮衰を書いたが、後世小野小町伝説の普及により、浄土思想も付加されて現壮衰記が成立した。その時期は真言宗に浄土思想が組み込まれる平安中期以後と考えられる。
・作者については、空海、安倍清行、三善清行、仁海など。

C謡曲「七小町」

謡曲百番には「通小町」「卒塔婆小町」「関寺小町」「鸚鵡小町」が入っていますが、その他に「草紙洗小町」「雨乞小町」「清水小町」があり、この7つを「七小町」といいます。葛飾北斎も「七小町」を題材に浮世絵を制作しています。

D謡曲百番から「通小町」「卒塔婆小町」「関寺小町」「鸚鵡小町」

 この4つに共通するのは小町の晩年が哀れであったということです。晩年哀れは平安時代にすでにできあがっていた小町像のようです。「玉造小町子壮衰書」と小野小町が結びついた結果こういう話しが作られたようです。

(1)謡曲「通小町(かよいこまち)」

四番目物 古称 四位少将 執心男物 観阿弥作

あらすじ
 京都八瀬の里で修行している僧のところへ毎日薪や木の実を届ける女がいた。今日もやって来たので名を尋ねると「小野とは言はじ、薄(すすき)生(おい)たる、市原野辺(いちはらのべ)に住む姥ぞ」と言って消える(中入り)僧は小野小町の歌説話を思い出して、市原野へ出かけ弔う。小町の霊が現れて弔いを喜ぶが、その後を追って、やつれ果てた面差しの四位少将の霊が現れ、小町を引き留めその成仏を妨げようとする。かつて少将は「百夜通へ」という小町の言葉に従い、通い続けたが、あと一夜を残して死に、思いを果たせず、死後も地獄で苦しんでいるのだった。僧が「懺悔に罪を滅ぼし給へ」と勧めると、少将の霊は百夜通いの有様をまねて見せ、共に成仏することができた。
懺悔に罪を滅ぼし給え」からの掛合
シテ(四位少将の霊) さらばおことは車のシヂに、百夜待し所を申させ給へ、我は又百夜通えし所をまなふで見せ申候べし。
<掛合>女(小町の霊) 本より我は白雲の、かかる迷いのありけるとは
シテ 思いもよらぬ車のシヂに、百夜通へと偽(いつわり)りしを、誠と思い、「暁ごとに忍び車のシヂに行けば
女 車の物見もつつましや、姿を変えよといひしかば 
シテ 輿車はいふに及ばず
女 いつか思いは
地 山城の 木幡の里に馬はあれども
シテ 君を思えば徒歩跣足(かちはだし)
ツレ さて その姿は
シテ 笠に蓑
女 身の憂き世とや竹の杖
シテ 月には行(ゆく)も闇(くら)からず
女 さて 雪には
シテ そでも打払い
女 さて 雨の夜は
シテ 目に見えぬ「鬼一口も恐ろしや
女 たまたま曇らぬ時だにも
シテ 身独(ひとり)に降る涙の雨か。[立ち回り]
シテ あら暗の夜や
女 夕暮れは ひとかたならぬ思いかな
シテ 夕暮れはなにと 
地  ひとーかたならぬ、思いかな
シテ 月は待らん、月をば待つらん 我をば待たじ、虚言(そらごと)や
地 暁は、暁は、数々多き、思いかな
シテ 我ためなれば
地  鳥もよし鳴け、鐘もただ鳴れ、夜も明よ、ただ独り寝ならば、辛からじ
シテ かように心を、尽くし尽くして
同 かように心を、尽くし尽くして シヂの数々、算(よ)みて見たれば、九十九夜(くじふくよ)なり、今は一夜よ、う   れしやとて、待(まつ)日になりぬ、急ぎてゆかむ、姿はいかに
シテ 笠も見苦し、
地 風折烏帽子(かざおりえぼし)
シテ 蓑をも脱ぎ捨て
地 花摺衣(はなすりごろも)
シテ 色襲(がさ)ね
地 うら紫も
シテ 藤袴
地 待らん物を。
歌 あら忙しや、すは早今日も 紅の狩衣の 衣紋ー気高く引き繕い、
  飲酒はいかに、月ー盃なりとても、戒(いましめ)ならば保たんと、
  ただ一念の悟りにて、多くの罪を滅して、小野小町も少将も、共に仏道なりにけり、共に仏道なりにけり。
 ここで小町は「本より我は白雲の、かかる迷いのありけるとは」と言っています。つまり四位少将が自分を成仏させずに地獄まで追ってくるほどの執念をもっているとは知らなかったと言っているのです。『百夜通い』は小町の体の良い「断り」だったのでしょう。しかし一途に思い詰める四位少将は、「車で来られては人目に立つからやめて」(むちゃくちゃいやがられていることを悟るべきです、この時点で)と言われたら「輿車」に変え、山城の木幡の里には馬もいたけれど、裸足で蓑笠つけて、竹の杖をついて通ったと言います。雪の夜の寒さも耐え、雨の夜に鬼が出そうな恐ろしさも耐えて通ったのに、小町は、「月は待らん、月をば待つらん 我をば待たじ、虚言(そらごと)や」と私を待たずに月を待っていた、嘘つきだと責め立てます。そして、いよいよ百夜目に、身なりを整えカッコよく出かけた・・・とここで「百夜通い」で百日目に自分がどうなったかは語られていません。そして、『飲酒戒を守ったから二人は仏道なりにけり』となってます。正直言ってこの百日目の様子が知りたかった私としてはガッカリ。それにしてもここで語られる四位少将は死んでから、小町が自分を思ってなかったことが分かるわけで、小町にしてみたら今で言うところの「ストーカー」とかわらないと思っていたのでしょう。それを恨んで地獄でまで小町を成仏させずにいるのは情けないというか、男らしくないというか。情けないヤツです。私は小町が思わせぶりな『百夜通い』を男にさせて男を手玉に取る、美人を鼻にかけたイヤなやつだなとこの『百夜通い』の話を捉えてましたが、違いますね、少なくともこの謡曲「通小町」から分かることは。これはストーカーの話です。小町は被害者です。
『36歌仙の舞台』樋口茂子さんの見解
 謡曲「通小町」[卒塔婆小町」は、小町の悟道への願いを象徴的に表現したと考えられなくもない。世に伝えられる小町晩年の零落の姿は、小町の一人の人(仁明天皇)への純一な愛ゆえに、おのが思いを遂げられなかった男たちの、恨みつらみの所産といえよう。
樋口さんの「おのが思いを遂げられなかった男たちの、恨みつらみの所産といえよう」という見解に賛成です。小町は美人だが恋多き女性で思わせぶりだったというのはどこかで私の中で作られていた人物像だったのです。深草少将に肩入れしたくなるのは私が男だからでしょうか。
(2)謡曲「卒塔婆小町(そとばこまち)」
                 四番目物 特殊物 観阿弥原作 世阿弥改作
情景 京の南西、鳥羽の辺り。桂川の見える道、朽ち果てた卒塔婆が路傍に。ある日の夕暮れから夜にかけて
人物 シテ 小野小町(老女)
    ワキ 高野山の僧
    ワキヅレ 随伴の僧
あらすじ
高野山の僧が仏教に出会った喜びを述懐しつつ都へ上る途中、鳥羽の辺りで老醜を恥じ、都を逃れた乞食の老女に出会う。朽木と思い倒れた卒塔婆に腰掛けている老女を教化しようと卒塔婆の功徳を説く僧。ところが老女は僧の言葉に反論し、迷悟は心の問題であり、本来無一物と気づけば仏も衆生も隔たりはないと論破する。教化するつもりが逆に言い負かされた僧は三拝する。僧に名を問われた老女は小野小町と答える。突然、小町は狂乱し「小町の許へ通おう」と叫び「人恋しい」と訴える。四位少将の霊が憑いたのだ。そして少将の怨霊は百夜通いのさまを繰り返す。やがて憑いた霊も去り、小町は後生安穏を願う。
(3)謡曲「関寺小町(せきでらこまち)」

                       三番目物 老女物 世阿弥作か
情景 近江国逢坂山。前半ー関寺近くの老女の庵室のあたり。ある年の七夕の夕暮れ。後半ー関寺の庭。同じく夜半から明け方。
人物 シテ老女(小野小町)
子方 関寺 稚児
ワキ 関寺の住職
ワキヅレ 随伴の僧
あらすじ
7月7日のこと、近江国関寺の住職が稚児を伴い、近くに住む老女の庵を訪ねる。老女が歌道を極めていると聞き稚児の和歌の稽古のためである。老女は僧の頼みを一旦断るが、問いに答えて話す。衣通姫(そとおりひめ)の事や小町の歌の対応から僧は小町だと悟る。素性を知られた小町は栄華を誇った往時を回想するが今は歌道のみが慰みのようである。僧は関寺の七夕祭に誘う。小町は祭りの稚児の踊りを見ているうちに、誘われるように立ち上がり昔忘れぬ舞を舞う。そしてやがて夜明けと共に自分の庵に寂しく帰っていく。
(4)謡曲「鸚鵡小町(おうむこまち)」

                三番目物 古称、鸚鵡返し 老女物 作者不明
情景 近江国関寺のほとり ある日の午後から夕暮れ
人物 シテ 小野小町
    ワキ 新大納言行家
あらすじ
百歳過ぎた小野小町が近江国(今は京都市山科区)にある関寺あたりにさすらい住んでいると聞かれた陽成院が新大納言行家を遣わして小町を憐れむ歌を送った。今は物乞いにの境涯の小町に、行家は歌を詠んでやる。「雲の上は有りし昔に替わらねど見し玉簾(たまだれ)のうちや床(ゆか)しき」つくづくと承っていた小町は、ただ一字で返歌せんと言い「内ぞゆかしき」と変えただけの「鸚鵡返し」で返歌する。そして和歌の風体や鸚鵡返しの由来を語って聞かせ老残の身を嘆く。やがて求めに応じて業平の舞をまねて舞い、日暮れとなり行家は都へ、小町は杖にすがって柴の庵へ帰っていく。
E「小町草紙」(御伽草子)
「御伽草子」上(岩波文庫)
歌人伝説物。小町は美人の代表とされ、謡曲にも『卒塔婆小町』以下数曲の小町物がある。「古今集」序をはじめ歌書から多く引き、謡曲を援用し、美男の典型とされた業平を絡ませたもの。小町は如意輪観音、業平は十一面観音の化身という本地物に近く、仏教色も強い。

(6)深草少将について

 この深草の少将という人物は、正史にその名をとどめていないと言います。それで、後の僧正遍昭(右近衛少将、従五位上 良岑朝臣宗貞)が深草の少将に一番近い人物といえると山本先生は結論づけておられます京都伏見歴史紀行・山川出版社・山本眞嗣著より       

@僧正遍昭(816〜890)のこと

                  天つかぜ 雲の通い路 ふきとじよ
                       をとめの姿 しばしとどめむ
 『小倉百人一首』に有名なこの歌の作者が僧正遍昭です。この歌の意味は「天女を迎えに来る雲の道を閉ざせ。天女のように美しいこの未通女(をとめ)をいましばし私の元に留めさせよ」という意味で「古今集」には「五節のまひひめをみてよめる、よしみねのむねさだ」とあります。俗名良岑宗貞(よしみねのむねさだ)。桓武天皇の孫。大納言安世の子。「五節の舞」は11月大嘗祭新嘗祭の辰の日に奏せられる少女の舞で、舞姫は5人でした。小町はこの五節舞姫であったと伝えられており、この歌の「をとめ」は小町ではないかと言うのです。この宗貞がなぜ僧になったかというと、自分が使えていた「仁明天皇」が崩御した時に少将宗貞は姿を消し比叡山に隠れ、出家したそうです。そのくらい君に忠心を抱いていたということになるようです。そしてこれが墨染桜の話につながります。その話を細川幽斎から聞き感動した豊臣秀吉は墨染桜寺(「伏見の桜」参照)を保護するわけです。欣浄寺と墨染桜寺はすぐ近くです。

小町と遍昭

正月に遍昭が清水寺に籠もり、陀羅尼経をよんでいたら、ふいに文を渡されます。小野小町からでした。歌が書いてあります。
               いはの上に 旅寝をすれが いと寒し
                苔の衣を 我にかさなむ(『大和物語』)

それに対して遍昭は小町の使いに返歌を託します
               よをそむく 苔の衣は ただ一重
               かさねば うとしい いざ二人寝む(『大和物語』)

その後遍昭はひそかに堂を出、暗黒の山林の中に姿を消しました。
 『36歌仙の舞台』の樋口茂子さんは、仁明天皇をただひとりの人と思っていた小野小町であり、その仁明天皇をこよなく愛した遍昭であるから二人を結びつけるのは無理だという見解です。遍昭は仁明天皇の」文使いとして小町の元を訪れ恋心ぐらい抱いたかもしれないが、深草の少将のような激しい思慕を寄せたとは思えないとのことです。

(7)小町ものがたり

 京都府北部に大宮町というところがあります。もう7,8年前にテニスの合宿で出かけたことがあります。泊まったところのお風呂が温泉で「小町湯」という名前でした。小野小町をえらい宣伝してるなあ。なんでこんなところに小野小町が関係するのかと思ったのですがそれほど関心もありませんでしたので深く調べることもありませんでした。この「百夜通い」調べてたら絵本を見つけました。その話を紹介します。小町も深草少将も出てきます。では。
絵本の名前「小町ものがたり」
発行年月日 2001・10・13
発行 大宮町・大宮町教育委員会
作者 絵本サークル・柱時計もともとは五十河の妙法寺に伝わる話だそうです。
 五十日(いかが)村の甚兵衛さんが村へ帰ろうと道を歩いていると、前を美しい女性が歩いています。いっしょに道を歩いているうちに夜更けになり甚兵衛さんは、自分の村へよるように誘います。その女性は丹後宮津の天橋立のお寺へ向かう途中だと言います。女性は甚兵衛さんの好意に甘え天津というところで泊めてもらいます。雪が深いためその女性は春まで長居することになりました。
 ある日この村に火事が起こります。この村はよく火事が起こり火事はこの村の悩みの種でした。その女性は「五十日村」の「日」が良くないので「日」を「河」に変えるように進言します。その女性の言うとおりするとそれから火事はなくなったと言います。
 その女性は「都の人」と呼ばれるようになったといいます。「都の人」は春になるとやはり、天橋立へ出発します。甚兵衛さんは途中まで送ります。長尾坂まで行ったとき「都の人」はうずくまり歩けなくなります。甚兵衛さんはそのまま「都の人」を家へ連れて帰り介抱しますが、なくなってしまいます。
 村の人は恩人である「都の人」を偲んで墓を建てお堂を造り手厚く葬ります。
 ある寒い日、都から深草少将が尋ねてきます。そして、小町が死んだことを知ると、彼もまたその場に倒れ死んでしまいます。深草少将のためにも祠を建て手厚く葬ったと言います。
                   九重の 夢の都に 住みはせで
                   はかなき我は 三重にかかるる
信仰を伝えて諸国を遊業した女性の一群があって、その人々がこういう伝説を運搬し歩いたもの」と言われるものの一つがこのお話なのだろうと思います。この話でも水が関係してます。やはり小町と水は切れない関係のようです。

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