大津絵を描いておられる方は現在お二人。
その一人高橋和堂さんを「大津絵作房」(大津市三井寺石段下角)に訪ねました。
2002・8・25
和堂さんの店の袋 |
1,高橋和堂さんと大津絵作房
和堂さんのお店です。お兄さんのお店は東へ10軒で「大津絵の店」といいます。中は作品販売のコーナーがありその奥で絵を描いておられます。快く写真をとらせて下さいました。 HPで紹介することも快諾してくださいました。ありがとうございます。
大津絵作房 | 高橋和堂さん | 和堂さんの名刺 |
2,「大津絵」について
江戸時代初期(寛永頃)、大津より今日へ通じる東海道、大谷、追分あたりの名もなき画工が軒を並べ街道を往来する旅人等に信仰の対象として仏画を描き売ったのがその始まり。
以後、時代の変遷と共に画材も世俗が推移、風刺、人物、風俗、また和歌を添えた道訓的な図などその数百余種にものぼる。
長い年月幾代幾人もの画工により描かれる間に構図も定型し、また、描き手順も合理的に繰り返し大量に描かれた。
キリシタン禁止の影響が仏画の必要性を促し大津絵の発生に影響を与えたのではないか。
参勤交代の制度化は東海道筋には一層の活況を呈した。
とりわけ、追分は京、伏見の分岐道であり、街道の民画として育ち定着するには格好の場所であった。他にも針、そろばん、餅などを商う店とともに大津絵の店も立ち並んだ。
始祖「吃の又平」(浮世又平・落語「こぶ弁慶にも出てくる)は近松門左衛門の浄瑠璃の主人公であるところから広まったもので実在の人物ではない。大津絵は名もなき画工たちによる無名の絵。
仏画、人物(娘、若衆、奴など)、鬼の類、動物、福神、鳥類など百三十以上ある。画意は風刺として描いたもの、また教訓、風俗など様々に描かれている。
当時の約束的な形式として半紙版の和紙をつなぎあわせ、具引きの上、主な色を入れ墨線は後がきで仕上げる。どの図も朱線を効果的に用いる。泥絵具は主に5,6色。
○街道の名物として育ち350年の歴史性。
○多くの画工により多様な図柄を生む。
○多く図は単に物への描写でなく風刺、教訓を含味しユーモラス
○多く描く性格上、筆致、筆線に健康美をもつ。
長年月、描き売られた発祥地も明治年間には鉄道が開通(京、大津間)し次第に街道も廃れ、同年間三井寺下に店が出たのが本家「大津絵の店」である。
3,大津絵十種・・・作品と解説
大津絵作房で買った「大津絵全十枚」(大津絵十種)の入れ物。
以下の作品は版画版であり、肉筆ではない。十種は、「代表となった図」ですが、「大津絵の全てを語っているわけではない」とのことです。
大津絵 |
名前とその護符
|
解説 |
添え句
|
鬼の念仏小児夜泣き止め・魔除け(諷刺) |
殊勝げな偽善者(または為政者)の邪心を鬼に見立てて面白く揶揄(からかい)した図。因みに片方の角が折れるのは、邪心で念仏をとなえ極楽往生を願う欲念に自責を示したもの。 | 大津絵の 筆のはじめは 何仏 |
|
藤娘縁結び(風俗・所作事) |
藤をかざす素朴な美人画。鬼の念仏とともに特に代表となり広く知られる図。 | ふじかざす ひとや大津の 絵のすがた |
|
座頭倒れぬ符(風俗) |
平家物語を節付けして語り歩いた琵琶法師も犬に吠えつかれ、江戸時代もまま見られた情景、時は変わっても風物詩の感があります。また盲政治を批判したとも云われる図。 | 座頭かげ かたぶく月や ほととぎす |
|
鷹匠利益収める(風俗・所作事) |
美少年、若衆は浮世絵や歌舞伎と共にもてはやされた人気者。若く伊達なものへ求めた娯楽的要素が感じられる図 | 前髪に 雨ふりかかる たか野かな |
|
ひょうたん鯰諸事解決(諷刺) |
丸いひょうたんでぬらりくらりした鯰を押さえるのは猿知恵(愚かな考え)に等しい、人の心をつかみ難きを図示したもの。 | 憎らしい ひとの心も なまづかな |
|
弁慶身体剛健(世俗受) |
七つ道具を背に立ち往生の態、かつて僧兵合戦(三井寺と比叡山)では寺の鐘をぶん取ってかえる等(伝説)当地には縁深く大津絵には逸材の人物。 | 三井寺の 門たたかばや 今日の月 |
|
槍持奴道中安全(諷刺・風俗) |
徳川初期、大名の参勤交代、その威圧的な行列の先兵の奴さん、庶民の目には羨望か、虎の威をかりた狐か・・・。 今日時の流れを感じさせる風俗人物。 |
やりもちの なおふり立てる しぐれかな |
|
雷公雷除け(冗談・おどけ) |
肝心の太鼓をうっかり落とし錨で吊りあげようとする雷公の粗忽さを描いた図。 | 雲の橋 たいこの落る ひょうしかな |
|
寿老人無病長寿(縁起) |
長寿神の長頭(げほう頭)に大黒天はしご掛けし頭を剃るところ、何かほのぼのして福が舞い込んできそうな光景図 | 寿老人 こじかのとしも くれにけり |
|
矢の根五郎目的貫徹(所作事) |
この図は武勇に長けた為朝を描いたもの、別図に砥石で矢じりをとぐ図などあり両方とも矢の根で呼ばれる雄姿。 |
曽我どのの 矢の根にうつす ほととぎす |
*上記「大津絵十種」の解説は、高橋和堂さん了解を得て「大津絵のしおり」をそのまま写させていただきました。
2004・3・9ある方から次のようなメールをいただきました。
「 これは曽我兄弟の仇討、弟曽我五郎ではないでしょうか。
歌舞伎十八番の内 「矢の根」を題材にしたものでは。
「曽我どのの
矢の根にうつす
ほととぎす」
の句にもあるように、
仇討は陰暦五月のことでもありましたし。
ちなみに為朝は鎮西「八郎」為朝と呼ばれておりました。」
広辞苑を引いてみました。
「矢の根」…歌舞伎十八番の一。1729年(享保14)中村座の「扇(すえひろ)恵方曽我」に、二世市川団十郎が初演。幕府の御研物(とぎもの)師左柄木弥太郎の家例研物始に、厚綿の布子を着て炬燵櫓に跨り、大矢の根を研ぐ吉例の所作を、曽我五郎の荒事に取り入れたもの。矢の根五郎。
とありました。
おそらくメールをいただいた方のご指摘通りと思います。ありがとうございました。
2003・11