木喰さんを訪ねる旅(1)
丹波清源寺木喰十六羅漢

(京都府船井郡八木町諸畑 рO7714−2ー3743) 

清源寺十六羅漢の内の一・ウインクする羅漢さん

(1)『十六羅漢由来記』より

 「十六羅漢由来記」は清源寺13世仏海禅師の古記録で、原文は漢文です。この古記録に興味を覚えました。お寺でいただいたパンフ(読み下し文)から私なりに読みとった清源寺木喰十六羅漢誕生の顛末記をまとめてみます。
 木喰さんは、12世当観和尚の時(文化3年(1806)10月上旬〜文化4年2月25日まで約五ヶ月間)このお寺に滞在し、28体の仏像を彫刻されました。現在清源寺に22体あります。あとは他の寺や個人像だとか。

1,木喰さんが現れた!

 容貌は、顔色がなくやつれており、髭や髪の毛は雪のように真っ白でした。乱れた髪の毛は螺のように(かわにな…巻き貝でタケノコのような形)垂れています。身長は六尺(180cm)。壊色の衣を着て(これは広辞苑にもない色ですがたぶん形容しようがないほど酷い色の意と思われます)錫を持っていて、姿形の異様さはどうも言いようがないほどです。僧のようであって僧ではないし、俗人のようであって俗人でもない。変わり者か狂人が迷い込んで来たのではないかと疑いました。
 「あなたはどなたですか?」と訪ねますと「はい。私は、木食五行菩薩です。近頃思い立って京都へ参りました。そこであなたのお噂をお聞きしはるばる参りました」と述べられました。

2,木食戒

 かねがね甲斐の国の木喰行者の徳名を聞いていた住職(12世当観和尚)は、礼を尽くして饗応しようと思いましたところ、
「私は、誓願して五穀と塩味を食さなくなって50年になります。また、寝具は必要ありません。暑くても寒くても単の着物一枚で過ごします。どうぞお気遣いなされませんように」とのこと。

3,一千体彫刻で衆生を救う願

 「私の年齢は九十有一歳(実際は89歳の間違い)で、他になんの望みもありませんが、仏像を一千体彫刻し加持をして、衆生(この世に生きるすべての命あるもの)の病苦を救いたいと思っております」と述べられた。これに感動した住職は、
「私はかねがね十六羅漢をこのお寺にと願ってきました。彫刻してもらえないでしょうか」
とお願いしたところ
「私は彫刻したいと思うが、私が一旦制作に入れば、加持を願って人が集まってきます。役所などの許可はとれますか」とのこと。さっそく許可申請を出して一日でとることができました。

4,十六羅漢を彫る!

 造像は10月18日から着手。木喰は一室に閉じこもり、人が窺い見ることを許さず彫り進めました。昼夜刻工の響きが聞こえました。初めの頃は訪れるものも五、七人でしたが、秋も深まってくると遠くからの来訪者も増え、日に三百人五百人という数になりました。この人たちは加持を求める人たちです。木喰は外へ出て、加持や十念を授けました。こんなに人が集まるのは未だかつてこの村では経験したことのないことでした。

5,「木喰五行菩薩」から「木喰明満仙人」へ

 12月8日本尊の釈迦如来を彫られました。その夜明け方、木喰は夢を見たと告げられました。そして、祝斎を設けて、夢を披露されました。それによると「東方から紫雲が降り阿弥陀三尊が来迎され、『お前の願望は莫大なものだ。だから、600歳まで寿命を伸ばしてやろう。これからは、『神通光明明満仙人』という名に改めよ』とのお告げだった」とおっしゃいました。
釈迦如来(一千一体目・裏に12月24日の背銘) 阿氏多尊者(木喰自身像・一千体目・12月20日の背銘)

*十六羅漢や釈迦如来など28体の仏像は収蔵庫に納められ保管されていました。このページの水彩画は私が描いたものです。

6,その後の木喰

 「十六羅漢由来記」では、文化4年(1807)2月25日清源寺を出た木喰を「高屋村龍泉寺まで丁重にお見送りした」で終わっています。
 木喰は龍泉寺で釈迦三尊像を造った後、兵庫県から池田方面へ出、京都、岐阜、中山道を経て故郷へ戻りました。そして文化7年(1810)6月5日93歳でなくなったそうです。文化4年7、8月頃から後の作品は見あたらないそうなので、この京都府八木町にある清源寺の仏達は木喰最晩年の作品と言えます。

(2)丹波八木町清源寺

左の写真のかわいい木食仏が道路からお寺へ案内してくれます。右の説明板は最近設置されたものです。

お寺の入り口と、収蔵庫ができるまで羅漢さんがおられた羅漢堂です。

2005・9・4(日)撮影
2005・10・1(土)作成

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