山背古道石仏巡り

 城陽市青谷あたりから井手町、山城町泉橋寺まで、山背古道に沿って社寺があり、古墳がありました。国道24号(木津川沿いを走る)より東でJR奈良線(山沿いを走る)より西を通り、時には交差するこの道は、大和から近江への道の一部でもあります。この道路沿いに青谷小学校・井手小学校・棚倉小学校・上狛小学校などが並びます。いくつかの石仏を見たくて古道を訪ねたのですが、この古道沿いのあれこれにも興味が湧きました。北から順に見ていきます。
(1)城陽市の石仏 (2)井手町の石仏 (3)山城町の石仏

(1)城陽市の石仏

城陽市富野の雨乞い地蔵さん

 国道24号「富野」の歩道橋があるところは、花ショウブと蓮の時期は美しいところです。農道に花の道が作られています。蓮池に今年もたくさんの蓮が咲いています。その中に下のような掲示板がありました。なかなかよくお願いを聞いてくださるお地蔵さんのようです。

 それで、そのお地蔵さんを捜してみましたら、どうもこの中に沈んでおられるようです。

井戸のようなものの中を見ましたが、お地蔵様らしい方は見えず、水中深くおられるようです。アメリカザリガニと同居されていました。

(2)井手町の石仏

 JR奈良線の「玉水」駅近くに立派な道標がありました。おそらく山背古道に関係があっただろうに不覚にも写真を撮らずに来ました。玉水駅から南へ行きますと「玉川」が流れています。この川に沿って東へ行きますと、ハイキングコースが出来ているようで井手町の興味ある場所の大きな案内板があります。井手町は、橘諸兄(井手の左大臣というそうです)に関係のある寺や神社そして屋敷跡などが多くあるところです。
(1)弥勒石仏(三体地蔵磨崖仏) (2)小野小町塚 (3)玉川の駒岩(左り馬)
 
(1)弥勒石仏(三体地蔵磨崖仏)
(綴喜郡井手町山吹山)
 ハイキングコースの1番目の訪問地がこの弥勒石仏です。玉川沿いに東へ行き、最後の「行き止まり」案内のある橋を渡り、しばらく細い道を南へ行きますと、井手のデイケアサービスセンターの建物に出ます。この前を東へ山に入っていきますと竹藪になり、その中に下の案内板があって、さらに竹藪の山道を登っていきますとおられました。
 線彫りしてあるのですが、風化していて、よく分かりません。右側の像は錫杖を持って連弁の上のお地蔵様です。中央に彫られているのは如来像のようでもありますが、「京都の石仏」(清水俊明著:創元社)によりますと像高1.2mの地蔵立像だというのです。バランスから見て左側にも何か彫られたようでありますが、全く私には見えませんでした。おそらく南北朝末期の地蔵三体像であろうとのことです。

(2)小野小町塚

 小野小町に興味を持って調べたことがあるので、興味津々で見てきました。興味ある方は『深草の少将と小野小町〜深草の少将百夜通い〜』をぜひ。
 小町塚は、玉津岡神社参道脇にありました。

(3)玉川の駒岩(左り馬)
(綴喜郡井手町上井手玉川辺り)

説明板より
「数百トンの花崗岩に刻まれた半肉彫りの左り馬は、「女芸上達の神」つまり女性の習い事の一つである裁縫や茶法、生け花、ひいては舞踊などを志す人の守り神として、古くから信仰の対象になっていた。
 作者や製作年代は不明であるが、躍動的な象徴を持つことから鎌倉時代のものだろうと思われている。
 元は、玉川左岸の山腹に鎮座していたものであり、遠く京都や大阪から参拝する人も多かったと聞く。」
 この駒岩は、昭和28年の大水害で、道路側上流から転がり落ちてきたものだそうです。JR奈良線「玉水」駅の南側の道を玉川に沿って上流へ行き、玉津岡神社からさらに進んでいくと、公園に着きます。その公園の一番奥にこの大岩があります。左側に潜り込みようにして上を仰ぐとありました!私はしばらくどこにあるのか分からず、この大岩の周りをウロウロしました。
 すごい!見事な彫りです。
 足が短いなあ、と思いますが、疾駆する姿を見事に現しています。雨乞い、止水も願うようです。神社で奉納する「絵馬」との関係など神社と馬との関係を調べたらおもしろそうです。これは石仏ではありませんが、石造物ということで紹介しておきます。 

(3)山城町の石仏

(1)阿弥陀寺の石仏 (2)蟹満寺 (3)谷山不動磨崖仏 (4)涌出宮 (5)神童子墓地の石仏
(6)神童寺と石仏 (7)椿井大塚山古墳 (8)高麗寺廃寺跡 (9)泉橋寺大地蔵

(1)阿弥陀寺の石仏
(相楽郡山城町綺田)

 井手町と境を接する場所にある浄土宗のお寺です。その境内に鎌倉時代の阿弥陀石仏がおられます。花崗岩で高さ1.2mの舟形光背蓮華座の上に結跏趺坐する定印の阿弥陀座像です。
 このお寺は平安末に、後白河天皇の皇子高倉宮以仁王の菩提供養のため建てられたそうです。すぐ近くに以仁王の墓と高倉神社がありました。平家追討のため源頼政と挙兵した以仁王は、宇治川の合戦で敗れ奈良へ逃れる途中この地で流れ矢を受け亡くなったそうです。
高倉神社・右に見えるのが以仁王の陵墓

(2)蟹満寺
(相楽郡山城町綺田浜36)

 蟹満寺は白鳳時代を代表する国宝釈迦如来像がおられます。そして今昔物語の仏教説話『蟹満寺縁起』でも有名です。この国宝金銅釈迦如来座像は、薬師寺薬師三尊像や聖観音像などと並ぶ素晴らしいものです。お寺でいただいたパンフレットによりますと「奈良朝以前、秦氏の一族秦和賀によって建立され、後に行基菩薩の関与により民衆から厚い信仰を集めた」とありました。 
『蟹満寺縁起』あらすじ
 昔、この辺りに善良で慈悲深い夫婦と1人の娘がくらしておりました。
 ある日、村人がたくさんの蟹をつかまえて食べようとしているのを見た娘は蟹と干物の魚を交換し、蟹を逃がしてやります。また、父親は田んぼで蛇がカエルを飲み込もうとしているのに出会い、「カエルを助けたら、娘の婿にしよう」と蛇に約束してカエルを逃がします。
 その夜、約束通り蛇が衣冠を身につけた人間の姿であらわれ約束の実行を迫ります。父親は嫁入りの支度をを理由に3日間の猶予を願い出ます。
 3日後雨戸を固く閉じて約束を守ろうとしない父娘に腹を立てた蛇は本性を現し蛇の姿を現し荒れ狂います。娘は観音経の普門品を唱え、父母はただ身を縮めるだけ。そこへ観音様があらわれ観音力で救われると告げます。
 間もなく雨戸を打つ音が消えます。夜が明けて、外へ出ますとハサミで切られた大蛇と無数の蟹の死骸が累々と。親子は観音様のご加護に感謝し、身代わりとなった蟹と、蛇の霊を弔うためにお堂を建て観音様を祀りました。
蟹満寺観音堂絵馬

(3)谷山不動磨崖仏
(相楽郡山城町平尾谷山)

 蟹満寺からさらに南へ。不動隧道の前の道を『不動川公園』の案内に沿って行きます。国道24号なら、不動川という川沿いに道がまっすぐ「不動川公園」を経て、谷山不動磨崖仏までつながっています。
 谷山不動磨崖仏のある場所は、道から少し山を登ります。その場所に石段とのぼり石標などがあり、すぐ分かります。
 入り口におもしろい下のようなものがありました。これは羅漢さんでしょうか?布袋さんでしょうか?
 谷山不動磨崖仏は覆堂が設けられています。舟形光背に1.02mの不動像が半肉彫りされています。鎌倉後期の作だろうと言うことです。薄暗い場所でしかも夕方だったせいでしょうか、私は蚊の標的になって写真を撮るどころではなくなりました。肌の出ているところに群がりました。「虫除けスプレー」がいるなとつくづく思いました。あわてて写真を撮ったのですが、どれもろくなものではなく残念です。本当はもう少し彫りも見えますし、なかなか見事な不動尊です。同じ石の左側に小さい石仏(地蔵か童子像か?)も彫られています。
 この不動磨崖仏の近くには、他に蓮華座に立つ像高1.2mの地蔵磨崖仏(永正十年・1513造立銘)や像高78cmの十一面観音磨崖仏もあります。
覆堂内に不動磨崖仏・左に地蔵磨崖仏・石段左に十一面観音磨崖仏
地蔵磨崖仏 十一面観音磨崖仏

地蔵磨崖仏

不動磨崖仏へ行く石段の途中に地蔵堂へ行く道があり、この地蔵堂に最近作られたのでしょうか横向きのお地蔵さんがおられました。

(4)涌出宮
(相楽郡山城町平尾里屋敷)

 姫神3神を迎えたところ森が湧き出でたというのでこの名があるとか。伊勢神宮とのつながりがあるようです。「いごもり祭」は室町時代農耕儀礼を伝える国指定重要無形民俗文化財で2月中旬に行われる宮座行事。
出宮本殿(京都府登録有形文化財)元禄期

(5)神童子墓地の石仏
(相楽郡山城町神童寺)

 神童子という集落があります。ここへ行くにも不動川より南の国道24号に神童子へ行く案内があります。この神童子に神童寺というお寺があります。このお寺は聖徳太子の創建という言い伝えがあります。この神童子集落の入り口に神童子墓地があり、いくつかの地蔵石仏がありました。

(1)笠石の地蔵石龕仏

 花崗岩製。長方形の石材正面を彫り窪め、蓮華座の上に88cmの地蔵立像を半肉彫りしてあります。鎌倉末の作。このような石龕仏は後の時代にはいくつか作られるようですが、この石仏はもっとも古い例になります。

(2)宝珠の地蔵立像

 道から見えます。このお地蔵様はいずれの時代のものか私は判断できないのですが、魅力的なお姿です。体が途中で折れています。

(6)神童寺と石仏
(相楽郡山城町神童寺)

 神童寺は丁寧に住職が案内してくださいました。現在は真言宗智山派のお寺です。
 神童寺縁起によりますと、聖徳太子が開き、自ら彫った千手観音を本尊とし、後役の行者が蔵王権現を彫刻し本尊にし、北吉野山神童寺と呼ぶようになったとのことです。本堂にこの2体が祀られていました。本堂は室町時代のもので重要文化財。平資盛のためにじ治承4年(1180)1山26坊が兵火に会い、頼朝によって建久元年(1190)再建。元弘元年(1331)足利尊氏のため再び焼失。応永13年(1406)蔵王堂を再建。これが現在の本堂。
 平安時代藤原期の重要文化財木像7体が宝物館に保存されています。私は白不動明王像の童顔が心に残りました。
 神童寺の由来は役の行者を助けた神童からのようです。
 
このお寺に石仏があります。住職の説明では、大きい中央の地蔵立像は鎌倉時代。右の小さい方が室町時代の地蔵立像とのことでした。

神童寺はミツバツツジの美しいお寺だそうで、この季節になると問い合わせがたくさんあるそうです。チェックしておこうと思いました。
このお寺の鎮守社天神社に十三重石塔は、鎌倉時代中期建治3年(1277)の銘があり重要文化財。塔身に四方仏が彫られています。

(7)椿井大塚山古墳
(相楽郡山城町椿井)

 この古墳平成12年国史跡の指定を受けたそうです。JR奈良線が前方後円墳のちょうど真ん中を通っています。そして方墳部には民家が建っており、知らないものには、どこが椿井大塚山古墳なのかさっぱり分かりませんでした。あきらめずに山城町の石碑や説明板のあるところから東へ進んだら、JRのガードを越えたところに円墳部へ登る道がついていました。頂上に上の説明板があり、「椿井大塚山古墳を守る会」の方たちのノートとパンフレットが入っていました。
 この後、山城歴史資料館へ行ったら椿井大塚山古墳の三角縁神獣鏡などが見られるかと思ったのですが、レプリカしかありませんでした。発掘されたものが2,3点ありました。発掘物は一括重要文化財に指定されたそうですが、どこに保存されているのでしょうか?
 日本の歴史上最大の謎の一つ「邪馬台国」論争で邪馬台国畿内説の根拠になっている古墳です。
椿井大塚山古墳から西木津川の方を見る手前の家の屋根のある辺りは方墳部
方墳と円墳部の間を取るJR奈良線の電車

(8)高麗寺廃寺跡

 上狛小学校の横の水路沿いに細い道を進んでいきますと、保育園からJR上狛駅へ行きます。上狛駅から舗装された道を南へ、さらに墓地を東へ向かうと高麗寺廃寺跡です。
 私は、高麗寺廃寺跡には思い出があります。学生の時卒論作成のためここへ来たことがありました。高麗・狛という地名からして高句麗との関係がうかがえます。古代日本と朝鮮との関係を地名に冠している場所をぜひこの目で見たいと思ったのです。JR奈良線上狛駅から歩いて高麗寺廃寺跡に行きました。塔の礎石跡に舎利を入れるための穴が穿ってあって、それも記憶に残っていました。久しぶり三十数年ぶりに訪ねました。

高麗寺の塔礎石は今も少し地面を掘り下げたところにありました。

 この高麗寺廃寺跡の周りは田んぼで、民家は近くにありません。だからたぶん私が行った30数年前と多分大きな変更はされていないと思います。私は学生時代ここで、布目瓦の破片を見つけうれしかったことを覚えています。まだ今もあるのだろうかと捜してみましたら、ありましたありました。礎石の上に並べてみました。こういう史跡はうれしいです。確かに廃寺跡だなという実感が湧きます。史跡や遺跡を見に行っても説明板と石碑しかない場合が多いのですがここは違います。山城歴史資料館にこのお寺の説明がありました。法起寺式伽藍配置だったようです。私はこの塔の上階から木津川を見たらきっと良い景色だっただろうなと想像します。

(9)泉橋寺大地蔵
(相楽郡山城町西下)

 山背古道が、国道24号と交差するところから泉橋寺までの間に、山城町の大きなお茶業者の方たちの屋敷兼会社が続きます。山城茶業を讃える京都府知事の名前の入った記念碑が建っていました。そういえば最近宮沢りえとモックンのCMで評判の福寿園もこのすぐ近くにありました。なかなか美しい町並みで味があります。

泉橋寺は、蟹満寺に続き行基菩薩ゆかりのお寺です。木津川は泉川とも言うそうで、そこに架けられた橋を守る寺という意味のようです。

このお寺の門前に大地蔵石仏があります。

 元禄時代に作られた頭部と両腕は最初のものとかなりイメージが違ったのではないでしょうか。ひとまわり周囲を回ってみて思ったのですが、こんな大きな石の地蔵(丈六)は見たことがありません。

2005・7・24(日)撮影
2005・8・6(土)撮影
2005・7・25(月)作成
2005・8・7(日)作成

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