暗峠石仏巡り
(奈良県生駒市近鉄南生駒駅〜大阪府東大阪市近鉄枚岡駅)

 暗峠(くらがりとうげ)…何と魅力的な名前でしょうか。絶対山賊がいそうです。芝居に出てきそうな名前の峠が本当にあるとは。楽しくてさっそく行ってきました。
 昼なお暗い峠道。若い女とその乳母の二人連れ。あらわれいでたる山賊ども。例によって例の如くのセリフのやりとり。「あ〜れ!」という悲鳴を聞きつけ、またもやあらわれる正義の味方の男前の主人公。こういう想像をするのは、東映の時代劇を見て育った世代のものだけでしょうか。
 で、ワクワクしながら歩いてみたのですが、山賊は…いませんでした。
 かなりきつい坂道が続くのですが、何とも平和なのんびりした風景で山賊どころか明るい道でした。昔は暗い道だったのでしょうけど。
 この道は、奈良と大阪を結ぶ最短の道だったそうで、古代からある道だそうです。江戸時代にはお伊勢さんへの道だったようです。一車線のところがほとんどなのですが、何と現在も国道308号です。詳しくは下の説明を見ていただけばよいのですが、私が歩いた印象から言いますと物資を運ぶのは大変だっただろうなと思いました。
 この道は「古い石仏の宝庫でもある」という説明を読みました。それは願ったり叶ったり。
 近鉄「南生駒」駅に到着。駅の少し南の小瀬橋を渡ると暗峠の名前が見えました。この小瀬橋は竜田川に架かっている橋です。竜田川と言えば百人一首の在原業平の和歌「
ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」のあの竜田川のはずなのですが、何ともイメージと違う汚い川でした。ついでながら、この和歌の意味は、「ちはやさん」にふられ、「神代さん」にも言うことを聞いてもらえない竜田川という相撲取り、腹が減っても「おから」ももらえず、入水自殺をはかってしましった、何てことをしてしまったのだろう(落語『ちやはふる』より)…では決してありません。業平は実際の竜田川の紅葉を見たのではなく、屏風に描かれた竜田川の錦秋を見て詠んだ和歌なのだそうです。

(1)萩原応願寺の子安地蔵

 応願寺へは、何の案内もありませんからきっと見過ごしてしまいそうです。私はあるはずだと思って歩いていましたから、お寺の本堂らしきものが見えたので右折しました。そしたら大当たりでした。融通念仏宗だそうです。
 石造地蔵菩薩立像は、総高206cm(像高150cm)で永仁2年(1294)銘をもち、生駒を中心に活躍した石大工伊行氏(いのゆきうじ)の作と考えられるそうです。下半身は隠れていました。そしてお鼻に何とも無粋なセメントが…何と言うことでしょうか。

(2)石仏寺

 興味津々のええ名前ですね。どんな石仏があるのかと期待して調べました。お寺は融通念仏宗。本尊は石造阿弥陀如来座像。総高208cm(像高100cm)、永仁2年(1294)銘、生駒を中心に活躍した伊派の石大工伊行氏の作で、ほかに2体(地蔵立像・阿弥陀立像)の作品が残っています。しかし残念ながら信仰上の理由で拝見できません。もし見たい方は生駒市デジタルミュージアム「石仏寺」へ。
 鎌倉後期高さ208cmの五輪塔とお寺本堂、それから境内にあった永禄元年(1558年)造立の名号板碑を紹介することにします。
 石仏寺の前にこだわりのおそばのお店がありました。暗峠自体それほど多くの方が歩いておられるわけではないのですが、このお店は流行ってました。ここでざるそばで昼食にしました。

(3)藤尾峠の阿弥陀立像石仏

 石仏寺から急坂を登り切り道が直角に曲がる峠附近に小さいお堂があって、その中に来迎印を結んだ阿弥陀立像が薄く彫られています。高さ136cmで上部が欠損しています。表面はしっかりみがいていないようででこぼこが見られます。石の右側面に文永7年(1270)广午六月月日為西仏過去也」の刻銘があり、左側面には「南无阿弥陀仏」とあるそうですが私は確認できませんでした。地元の方がしっかりお守りされているようで花台等がしつらえてありました。残念ながらお顔がはっきりしません。蓮華座の上に立っておられます。

(4)宝珠の石地蔵さん

 藤尾峠からしばらく歩いていると、大きな岩の前に蓮華座の上に宝珠を捧げた姿のお地蔵さんがおられました。このお地蔵さんのことを説明したものは何もないのでよく分からないのですが、最近のものではないと思います。

(5)阿弥陀磨崖仏

 西畑の集落のすぐ手前右手崖大岩に阿弥陀磨崖仏が彫られています。残念ですが、お顔がよく分からなくなっています。像高59cmで左右に梵字で「サ」「サク」と観音・勢至の脇侍を配した阿弥陀三尊形式の磨崖仏です。鎌倉後期の造仏だとか。

(6)西畑の石仏と棚田

 西畑という集落に出ました。秋のお米の収穫期に訪ねたらきっと棚田の写真を撮りたくなるだろうなと思うところです。棚田を守ろうという看板が数カ所ありましたから、地元の方たちも誇りに思われているのでしょう。向こうに見えているのは矢田丘陵だそうです。
 その西畑に万葉句碑(故犬養孝揮毫)や芭蕉の名の刻まれた案内石がある場所があります。その奥に室町時代の地蔵石仏・六字名号碑がありました。さらに右手に文化五年(1808)の役行者・前鬼・後鬼像がありました。

(7)いよいよ暗峠

 西畑の集落の西に2つ3つ喫茶店がありました。何故急に喫茶店かなと思いながらトンネルをくぐったら、そこが暗峠でした。そのトンネルは信貴生駒スカイラインをくぐるためのものでした。その昔ここに石畳が敷かれ20軒からの旅籠や茶店で賑わった場所だったようなのですが、今お店としては奈良側のその店だけになっています。そしてこの峠は大阪と奈良の県境でもあって生駒市と東大阪市の境でもあります。
 右下の写真の道標のある場所は、生駒縦走コースの分岐に建てられているもので、ここから北へ向かうと生駒山宝山寺へ、南へ向かうと鳴川峠、十三峠を経て高安山へ。さらに信貴山の方へ行けるようです。

(8)暗峠の地蔵

 石畳の道は100mも続くでしょうか。わずかな距離で終わります。この石畳の道や道標「おかげ灯籠」そして石仏などが残っているので「日本の道百選」に選ばれているようです。
 暗峠のお地蔵さんは最近建てられたお堂の中におられました。錫杖を持った座像です。左手にはおそらく宝珠を持っておられると思うのですが、よだれかけが大きすぎて見られませんでした。蓮華座の上にお座りです。座像の地蔵尊というのは古いと読んだことがあるのですが、光背面に文永五年(1268)とあるそうです。

(9)弘法の水にある笠塔婆

 暗峠を越え大阪側を下っていきます。この道は大阪側の方が勾配がきついようです。かなりな急坂で靴が窮屈な時はきっと爪先が痛くなりそうに思いました。弘法の水はその途中にある水が湧いている場所です。この峠を越える伊勢参りの人たちはこの弘法の水で一息ついてから奈良方面へ向かったことでしょう。その弘法の水のあるところに弘法さんが祀られているのですが、並んで笠塔婆があります。
 この笠塔婆は高さ181cmで、鎌倉中期弘安7年(1284)に建てられたもので阿弥陀如来座像の下に「南無阿弥陀仏」の六字名号が刻まれています。当時旅人の安全を祈って建立されたものか、南東方の山中の存在した新感寺との関係なのか不明だと東大阪市の説明板にありました。笠塔婆は市の文化財に指定されているようです。しばらく前まで笠がなかったようなのですが、写真のように載せられていました。
 ちなみに、今もこの水を汲みに来られる方がおられるようなのですが、すぐ横に「水質検査の結果生水での飲料には適していない」旨書かれていました。私飲みそうになっていたのですが止めました。

(10)烏天狗みたいな不動さん

 さらに大阪の方へ下っていきますと、行場のような場所におられた不動さんです。何ともかわいいというかおかしいというかそういう表情の不動さんです。私は最初烏天狗かと思いました。

(11)松尾芭蕉句碑

 元禄7年(1694)芭蕉は病をおして伊賀上野を発ち、大阪へ向かいます。9月9日重陽の節句(菊の節句)にこの暗峠を越えたのだそうで、その時「菊の香に くらがり登る 節句かな」を残したのだそうです。そして10月12日大阪で亡くなったのだそうです。
 寛政11年(1794)暗峠に句碑が建ててられそうですが、土砂崩れで不明になっていたそうで、下の写真の句碑は明治22年に建てられたもの。不明になっていたものが大正12年に出てきたそうで、それは勧成院にあるそうです。

(12)枚岡神社

 大阪側には「府民の森」が二つありました。「ぬかた園地」と「なるかわ園地」です。さらに枚岡公園があり、枚岡神社には枚岡梅林がありました。私が訪れた2006年2月19日(日)はまだまだつぼみが堅い状態でした。枚岡神社は河内国一宮だそうで立派な社殿の神社でした。
 下右の縄かざりは初めて見るものでした。鳥居だと思うのですが、こういう鳥居も珍しいなと見入りました。
 枚岡神社からすぐのところに近鉄枚岡駅がありました。そこから近鉄東大阪線に乗ったら、次の駅が「額田」でその次が「石切」でした。額田といえば額田王だろうなとか「石切」はでんぼのあの石切さんかとか考えながらのっていました。また次の機会に訪れたいものです。 
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2006・2・19(日)撮影
2006・2・28(火)作成