箱根の石仏巡り(1)
(1)元箱根石仏・石塔群巡り
(神奈川県足柄下郡箱根町)

磨崖地蔵仏と阿弥陀如来(二十五菩薩)
 「かって箱根は地獄だった」…これは、元箱根石仏群ガイダンス棟に置いてあったパンフレットの題です。
 箱根といえば、温泉リゾート地、関所のあった場所ぐらいの知識しかない私は箱根にいくつか地獄と言われる場所があったことを下の地図で知りました。箱根の地獄と言われた場所の石仏を訪ねてみました。
 元箱根から芦の湯まで国道1号が走っています。その途中に精進池があり、この池から国道1号沿いに芦之湯史跡探勝歩道が設けられています。
 この道は鎌倉時代の古道(湯坂道)で、精進池辺りはもっとも険しい峠であり、当時の箱根越え最大の難所であったようです。厳しい気候と火山性の荒涼とした景観は、地獄にふさわしかったのかも知れません。精進池を三途の川に見立て、背後に見える駒ヶ岳は死出の山に見立てられたようです。
 ここは貴重な鎌倉時代後期の仏教遺跡で、各遺物遺構は重要文化財・史跡に指定されています。
ガイダンス棟・精進池と駒ヶ岳
 ガイダンス棟(元箱根石仏・石塔保存整備記念館)では立体映像や音響を使った展示があるらしいのですが、入場禁止でした。???残念。前に車が数台置ける駐車場があります。
 このガイダンス棟で2〜3人の人と出会いました。しかしながらわたしがこの仏教遺跡巡りをしている間、どなたとも会うことはありませんでした。箱根観光に来られる方で、ここへ来る人は極めて少数なのでしょう。しかしガイダンス棟に受付らしきものも要員の方もおられないのはいかがなものかと思いました。冷房の効いたお寺の僧坊風のガイダンス棟はかっこいいのですが、せっかくの施設が生かされてないと思いました。 

(1)元箱根石仏・石塔群の成立と整備保存まで

 この仏教遺跡の成立から現代までのおおよそを、ガイダンス棟にあったパネル展示で知ることができました。
 ここの石造物は年号の入っているものが多くその成立ははっきりしています。
1)成立年代について
No 名称 成立年 国指定年月日 所有者
磨崖仏 (俗称 二十五菩薩 東・西) 1293(永仁元年) 昭和49.6.8 箱根町
五輪塔 (俗称 曾我兄弟・虎御前の墓) 1295(永仁3年) 昭和28.8.29 箱根町
宝篋印塔 (俗称 多田満仲の墓) 1296(永仁4年) 昭和36.3.23 箱根町
磨崖仏(俗称 六道地蔵) 1300(正安2年) 昭和49.6.8 文部科学省
磨崖仏(俗称 応長地蔵) 1311年(応長元年) 昭和49.6.8 箱根町
宝篋印塔残欠(俗称 八百比丘尼の墓) 1350年(観応元年) 箱根町

*史跡指定は昭和16年10月3日

(2)その後

地震や火砕流によって石塔の倒壊や磨崖仏周辺の磨崖仏の埋没が繰り返され、地形や環境は変貌したようです。

時代 様子
成立から室町期 盛んに信仰された
戦国期 かえりみられなくなった
江戸時代 信仰の地として・物見遊山の地として
明治時代 六道地蔵前に「地蔵茶屋」ができ観光地に
近年 国道が遺跡を縦断、各石造物に階段がつく。

(3)整備保存

 昭和63年度から平成4年度に学術調査が行われ、平成2年度から保存調査・計画に着手し、平成4年度から9年度に亘って整備工事を実施。それぞれの石造美術によって保存整備の仕方は異なったようであるが、「この土地の環境と参拝形式の再現」を目指して行われたようです。埋もれていたものはほり、欠損していたものは補修し、方位のことなるものは修正し、現在の姿になりました。ガイダンス棟や歩道もその時に作られたようです。

(4)元箱根石仏・石塔地図

 精進池から国道1号を北に向かって歩いて見学する順に従って見ていくことにしましょう。

(5)磨崖仏(俗称六道地蔵)

 ガイダンス棟を出て、精進池沿いの歩道を歩き国道1号の下をくぐり抜けると、地蔵堂へ出ます。このお堂の主、俗称「六道地蔵」は、巨大な転石に彫られた像高3.5mの地蔵菩薩座像で、蓮華座の上に座し、元箱根石仏群中最大を誇るものです。どういうわけかこの石仏は、所有者が文部科学省です。左手に宝珠、右手に錫杖(右手首と錫杖・白ごうは復元)を持つ姿です丸彫りに近い写実的な地蔵像で胸にかかる飾りも丁寧に彫られています。

(6)磨崖仏(俗称応長地蔵)と宝篋印塔残欠(俗称八百比丘尼の墓)

 精進池沿いの歩道に戻りしばらく歩きますと磨崖仏(応長地蔵)と宝篋印塔残欠(八百比丘尼の墓)のある場所に出ます。
 応長地蔵は蓮台の上に右手に錫杖左手に宝珠を持った地蔵立像です。三角形の自然石に彫られています。舟形光背に彫り窪められた中に像高50cmの地蔵立像、そして向かって右に小さい2体の同じく地蔵立像が追刻されており、左には梵寺とともに「応長元年」銘が読みとれます。

その前にある宝篋印塔残欠(俗称八百比丘尼の墓)は不思議な印象を与えます。何かもの足りない柱跡という感じでしょうか。

(7)宝篋印塔(俗称多田満仲の墓)

 多田満仲は(ただまんじゅ)と読むようです。この宝篋印塔の北面に見事な如来座像が彫られています。他の3面には梵字が彫られています。台座にはたくさんの文字が彫られています。北面は無銘。向かって左の面は結縁の衆、背面は石塔造立の由緒、右面は供養のことが書いてあるとか。  
 文字は読みにくいのですが、久野健氏「石仏」に紹介してある大岡実さんと言う方の説に興味を覚えました。「文永五年」、「発鎮護国家之大願」と読むと、この石造物は元寇の記念遺物になるというのです。「(前略)文永の国難(元の襲来)は本邦始まっての重大危機であり、全国的に困難打破のための祈願が行われた事は想像に難くない。箱根山中に於いても霊地である二子山と駒ヶ嶽の間の地を選んで、地蔵信仰を起こさんと企てたのではあるまいか」と述べられているそうです。
 宝篋印塔には、関西と関東で違いがあるようです。しかしながらこれは関西風で背面の銘文に「大工大和国所生左衛門大夫大蔵安氏」とあるそうで、関東の玄関口箱根にこの宝篋印塔があることの意味は大きいとか。

(8)磨崖仏(俗称二十五菩薩東・西)

 さて、いよいよ元箱根石仏巡りのメイン「二十五菩薩石仏群」です。精進池から歩いてくると最初に見える大岩の様子です。これは南面しており、精進池に面しています。

 下の写真は北側を向いているものと東側を向いているものです。庇が設けられているものが北向きです。

これは東側にある大岩に彫られたもので、国道をくぐって道をわたると、西側にもあと3体地蔵菩薩が彫られています。

なぜ二十五菩薩なのか?

 3mぐらいの巨石(石質安山岩)の三面に厚肉彫りの像が彫られています。ほとんどが地蔵菩薩なのです。深く舟形光背が彫られています。
 私は、なぜ「二十五菩薩」なのかなと思いました。「二十五地蔵菩薩」なら分かるのです。
 「二十五菩薩」と言えば阿弥陀如来といっしょに死者を西方極楽浄土からお迎えに来られる方々だと思うのですが、ここに彫られているのはほとんどがお地蔵さんです。
 中に阿弥陀如来がおられました。まず、それを紹介することにします。
 この美しいお姿の阿弥陀さんは来迎印を結んでおられます。死者の臨終に際して、西方極楽浄土から迎えに来る時の印相をしておられることになります。三途の川に比した精進池に向かって阿弥陀さんを彫った仏師は、本当は二十五菩薩を彫りたかったのではないかなと私は想像しました。勢至菩薩や観音菩薩などバラエティに富んだ来迎図をこの石に彫りたかったのではないでしょうか。
 この磨崖石仏群は、二十人ほどの地蔵講の結縁衆が「永仁元年(1293)八月十八日」に先祖の霊を供養し現世の利益を願って造像したことがその銘文から明らかになっています。スポンサーからお地蔵さんをと頼まれて、地蔵さんばかり彫ったのでしょうか。この「二十五菩薩」という言い方はいつの時代からあるのか知りませんが、東西合わせて26体、そのうち24体の地蔵と蓮台を持つ菩薩像で二十五菩薩だというのですが…。私は数を勘定しなかったのですが、「二十五菩薩」という言い方が気になって仕方ありませんでした。
 阿弥陀さん以外でこの方だけお地蔵さんではない方です。赤星直忠氏の「箱根磨崖仏調査」に「童子形」とあるのがこれなのか、よく分からないのですが、私はこれは蓮台を持っている観音菩薩ではないかと思いました。福島で見た陽泉寺「来迎三尊仏」の観音菩薩の姿と似ているように思ったのです。

それでは、心に残った地蔵菩薩たちです。

(9)五輪塔(俗称曾我兄弟・虎前御前墓)

 元箱根石仏石塔巡りもここが終点です。
 五輪塔三基です。写真左側二つが曾我兄弟の墓と言われているもの。右の少し背が低いのが虎御前の墓と言われているもの。虎御前は兄十郎の妻。
 三基とも重要文化財に指定されている。

五輪塔の水輪にお地蔵さんが彫られていました。

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2006・8・10(木)撮影
2006・8・12(土)作成