伏見ぶらぶら37

辨天祭復活
(伏見中書島長建寺と宇治川派流)

 伏見中書島はかつて京都・大坂間の南の玄関口として大いに栄えた。淀川・宇治川を経由して物資と人が行き来した。
 2回の「寺田屋事件」で有名な寺田屋は落語「三十石夢の通い路」にも登場する旅籠で、坂本龍馬を始め明治維新の主人公たちが立ち寄った場所である。
 この繁栄の基を築いたのが伏見奉行13代目にあたる建部内匠頭であった。内匠頭は元禄12年より正徳4年(1714)の17年間その職にあった。開発当時、伏見城が廃城していたため衰退し、中書島は廬萩の生い茂るところであった。伏見の大塚小右衛門などの要請を受けた建部内匠頭は二つの重点改革に取り組む。
@伏見船(伏見新船・十五石船もあり、木津川・宇治川にも就航した)の増加による水運の拡大
A観光事業(蓬莱橋と今富橋が架けられ、、翌元禄13年には阿波橋西にあった泥町(三栖柳町)の遊郭をここに移転させた。
 長建寺はこの時に建てられた。名の由来は建部内匠頭の長命息災祈る意味が込められているという。
 ちなみに、中書島という名の由来は秀吉の治世頃、脇坂中務少輔が現在の東西柳町に住まいしており、土地の人から「中書さん」と中国風に呼ばれていたためらしい。

(1)長建寺の弁天さん宇賀神像

 「伏見五福巡り」「伏見名水巡り」に欠かせない長建寺。禅宗様の唐門(竜宮造り)と深紅色の土塀が特徴的だが、今春の「京都非公開文化財特別公開」で二体の像が公開され話題を呼んだ。
 まず、本尊八臂弁財像だが、巳年に開帳される秘仏の公開が話題になった。様式的には古く鎌倉時代を下るものではなく、相貌、衣文の載金細工などから平安時代後期の特徴を示しているという。大亀谷にあった橘俊綱の山荘を由来に持つ即成院(現在は泉涌寺塔頭)。その塔頭である多門院を建部内匠頭が分離して建てたのが、この長建寺であるから、寺伝の通り平安時代に遡るのかも知れない。
 二体目は宇賀神像(宇賀神将像)であった。この像は顔は老人、体がヘビという像である。円空はよく宇賀神を彫るが、京都では珍しいのではないか。宇治の三室戸寺に最近彫られた石像があるが、私は他で見たことがない。
 二体とも水神であり、この地にふさわしいと言える。また、かつて中書島は音曲、技芸の遊郭の町であり、弁財天はふさわしかったと言えよう。

(2)辨天祭

 「毎年7月22日から23日に行われる祭礼は“洛南の三大奇祭”といわれるほど有名で、この日ばかりは中書島あたりは京阪神からの見物客でいっぱいになった。そのメインイヴェントの宇治川上の舟渡御は色町独特のなまめかしいお囃子と大柴を燃やす裸形の男たちの勇壮な乱舞とがからみ合って、その豪快なありさまは、大阪の天神祭の船渡御とはくらべものにならなかったという。この行事も昭和30年ころをもって廃絶してしまったが、現在でもこの日は長建寺の前を流れる豪川の両岸にかがり火が次々にともされ、土地の女子たちによって奏でられる辨天囃子がひときわ高揚してくると、境内中央にしつらえられた柴燈大護摩道場で、厄除海運の大護摩が夜空をこがすのである。この時授かる古銭のお守りは「弁天さん柴おくれ、柴がいやなら銭おくれ」の囃子唄の文句とともに、今でもその霊験にあやかろうと各地から参詣客を集めている」(「京都伏見歴史紀行」山本眞嗣著・1983)

*洛南三大奇祭…藤森神社の駈馬、弁天さんの船渡御、県神社の梵天渡御

(3)長建寺さんのお守り

 ちょっと、いや相当そのものずばりのお守りで、私は若い頃から持ち歩いています。財布の中に入れたり、キーホルダーに付けたりしています。

(4)辨天祭復活

「このたび、この「辨天祭」を次世代に継承し、当時の賑わいを復活させようと地元住民実行委員会を結成、多くの方々に伏見の歴史を感じていただきたいと思い、「辨天祭」実施を致します。ぜひご参加下さい」 
 これは、「辨天祭実行委員会」がお作りになったビラポスターの一節です。地元の方々が辨天祭をもう一度再生させるべくご努力されていると知り、ではぜひ見せていただこうと、7月24日(日)6時半過ぎに長建寺へ出向きました。長建寺の大護摩を見たり、十石船が篝火の中を運航するのを見たり、蚊に刺されながらあちこちしました。

(5)長建寺境内の様子

 
 まだ、明るかったのですが、長建寺では行燈に灯り入り、住職のご挨拶が始まっていました。そして本尊をお参りし、不動明王、役行者などのお祀りしてある柴燈大護摩道場では、大護摩の準備ができていました。7時15分から行うという話が伝わってきましたので、私は宇治川派流にある十石舟乗り場や篝火の様子を見に行きました。

(6)十石舟夜間特別乗船

 
 定員30名料金2000円のチケットは既に完売と書かれていました。昔のような色っぽいお囃子ではなく太鼓を演奏して舟を送り出しておられました。舟が三栖の閘門から戻ってきたときに、日も暮れて篝火で迎えるとのことでした。今は、派流から宇治川へは出られませんから仕方ないことです。私は酒蔵の風景と篝火と十石舟が写真に収まらないかと場所を選ぶことにしました。
 故西口克己著「廓」にこの祭りの描写があります。昔は舟にも松明が掲げられていたようです。
 

(7)修験行者の到着

 長建寺は真言宗醍醐派の寺ですから、修験との関係は深いものがあります。どこからお見えになった行者さんたちなのか私には分かりませんでしたが、50名近い方たちが7時過ぎに到着されました。そして周囲を取り囲まれました。法螺貝、錫杖など持っておられました。僧侶は長建寺のご住職だけのようでした。

(8)篝火と酒蔵、そして十石舟

 行者さんが護摩の儀式をされるまで時間がありそうだったので、派流の方へ行って、戻ってくる舟を待ちました。暗くなってきて、7時20分ぐらいに篝火が点灯されました。乗り場に戻ると乗客の方々から拍手が起こりました。満足されてのご帰還だったようです。

(9)辨天祭護摩焚き

 護摩焚きは、前に祇園祭後祭で役行者山のものを見たことがあるのですが、あそこは聖護院の行者さんでした。やはりやり方は違うようで、護摩の後方にご住職がおられて、刀を抜いたり、気の棒のようなものを投げておられたりしておられました。私のいた場所からは詳しいことは分かりませんでした。ずっと「般若心経」をあげ続けられました。般若心経も出だしが宗派によって少し違うようで、「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」と言い出すのはどうも真言宗のようで、私もそのように覚えているのですが、北法相宗清水寺の故大西良慶師のカセットは違いました。
 火というのは不思議な魅力があって、次々形を変えます。護摩木を投げ入れられる頃に弱りかけたとき、もう一度杉の木などを投げ込まれたら、下右の写真のように火の粉が舞い上がりました。まるで花火を見ているようで、美しいなと思いました。
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