伏見ぶらぶら20

圓光寺(足利学校伏見分校)

JR桃山駅から西へ行くと南側に大光明寺陵があります。ここは光明・崇光天皇らの陵墓です。この二人の天皇は南北朝時代の北朝の天皇です。大光明寺というのは、北朝の御願寺でこのあたりに七堂伽藍を擁した臨済宗の寺だったようです。お寺そのものは火事などがあり伏見城築城に際して相国寺へ移されました。
 この参道の東に徳川家康が足利学校の伏見分校圓光寺を建立します.
 まず、伏見にある大光明寺陵です。そして参道の東側の様子です。東側は現在観月橋団地になっています。
このお寺は現在左京区一乗寺小谷町(詩仙堂のすぐ近く)に移っています。現在の圓光寺を紹介します。 

(1)瑞巌山圓光寺(案内パンフから)

 慶長6年(1601)徳川家康は国内教学の発展を図るため、下野足利学校第九代学頭・三要元佶(さんようげんきつ)禅師を招き、伏見に圓光寺を建立し学校とした。(元佶禅師は郷里・肥前三岳寺、駿府圓光寺の開山である)
 圓光寺学校が開かれると、僧俗を問わず入学を許した。また孔子家語(こうしけご)貞観政要(じょうかんせいよう)などの漢籍を刊行し、これらの書物は伏見版または圓光寺版と称された。
 当寺には、出版された木活字が現存しており、我国出版文化史上特筆すべき寺院であるといえよう。
 その後圓光寺は相国寺山内に移り、更に寛文7年(1667)現在の一乗寺小谷町に移転された。
 寺内には本尊千手観音像(伝運慶作)・開山元佶禅師像(重文)・竹林図屏風六曲(重文)・近世初期製作の木製活字五万個(重文)がある。
 庭園には水琴窟・棲龍池(洛北で一番古い池)があり、春の新緑、秋の紅葉時には美観を呈している。
 また、境内山上には徳川家康を祀った東照宮や、墓地内には村山たか女(花の生涯のヒロイン)、マレーシア留学生オマール氏(広島原爆にて死亡)の墓がある。

(2)圓光寺の紅葉

(3)圓光寺伝来の木活字

朝鮮からもたらされた銅版活字をまねて木版活字を作ったようです。1cm四方ぐらいの大きさの木製の活字なのですがこれ彫るのはなかなか出来ることではありません。17世紀の職人さんの腕がすごかったということ分かります。画数の多い漢字を見ているだけでため息です。

(4)木版の般若心経

(5)オマールさんの墓

 サイド・オマールさんは南方特別留学生として戦前日本に来ておられました。マレーシアの王子だったそうです。現在の広島大学で学んでおられたのですが、1945・8・6広島で原爆に会われます。外傷ややけどのなかったオマールさんは献身的に原爆被害者の世話に走り回っておられたそうです。穏やかな優しい人柄で誰からも慕われる方だったとか。帰国するため汽車で京都まで来て倒れ、京大病院に入院され亡くなられます。京大で初めての原爆症患者だったといいます。南禅寺の無縁仏墓地に埋葬されていた墓を圓光寺に移されたのは山端「平八茶屋」のご主人たちでした。武者小路実篤の追悼文もあるこのイスラム式のこの墓は平和の大切さを語りかけてくれます。
 この墓については早川幸生さんの『オマールさんを訪ねる旅』(かもがわ出版)が詳しいです。修学院小学校の6年生が地域学習の中で圓光寺の中にこの墓を見つけ平和学習をするこの記録は素晴らしい仕事です。オマールさんの遺族の方や南方留学生仲間との交流。京都大学でオマールさんを担当された医師、そして平八茶屋の関係者の方、圓光寺住職などの話を聞き、南方留学生寮のある広島へ修学旅行に取り組む一連の仕事は大変感動的です。

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