即成院二十五菩薩お練り
東山区泉涌寺山内町28

即成院

 即成院は伏見区深草にあったお寺でした。その即成院では毎年10月の第3日曜日、二十五菩薩のお練りがあるというので見てきました。2003年10月19日(日)の記録です。
 平安時代中期、関白藤原頼道の子俊綱が桃山丘陵の南端の景勝地に山荘を営みました。俊綱は寛治8年(1094)67歳で死にます。その山荘内の持仏堂をのち即成就院と言うようになりました。中世にはこの辺り一帯を即成院村と言いました。
 応仁の乱の兵火で完全に荒廃しました。文禄3年(1594)、豊臣秀吉がここに伏見城を建設することになり、即成就院は現伏見区深草大亀谷東寺町に移りました。即成院は明治5年(1872)までこの場所にありました。現在その場所は天理教山城京都文教会となっています。桜の季節美しいところです。

 東山泉涌寺の現在地に移った即成院には、本堂に本尊の阿弥陀如来(5.5m)と二十五菩薩(150cm・いずれも重文で伏見にあったとき以来の仏たち)があり、恵心僧都の作と伝わっているが定朝とその弟子達の作であろうとのことです。恵心僧都が創始した観想念仏が流行したときの代表的美術品とか。
 即成院は、平家物語の屋島合戦のヒーロー那須与一ゆかりの寺院としても有名です。与一が病の時に伏見の阿弥陀様を熱心に信仰し病が癒えのち屋島で武勲を立てたといういわれがあります。伏見の即成院跡には方墳があり与一の誕生井と称する古井戸もあると言います。現在の東山区の即成院には那須与一の墓と言われる3mの供養塔があります。しかし那須与一の話は院政の時代に下野国の那須荘が即成院の寺領に寄進されたことから作られた話だと山本真嗣先生は「京都伏見紀行」で断じておられます。

二十五菩薩お練り供養法要

 本堂を極楽浄土、地蔵堂を現世に見立てて渡された高さ2m、長さ50mの橋、その上を地蔵菩薩を先頭に、金色の菩薩の面に金襴の装束の二十五菩薩が、おごそかな来迎和讃に合わせて本堂から地蔵堂、そして地蔵堂から本堂へと練り歩きます。これは阿弥陀如来来迎によって極楽浄土へと導かれる様子をあらわしたもので、境内を埋め尽くした善男善女は、現世の極楽を目の当たりにする法悦にひたります。(即成院パンフより)

(1)僧を先頭に山伏が続きます

(2)稚児山伏そして稚児行列

(3)二十五菩薩お練りその1

地蔵菩薩が先頭
続いてポーズとりながら観世音菩薩・大勢至菩薩

(4)二十五菩薩お練りその2

2003・10・19(日)

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