2003・6・21(土)
京大会館1時30分〜5時
緊急国語教育シンポジウム

問題提起
国語教育の危機をどうする!?

小宮山 繁

1,はじめに
 
これは大変なことになるな・・・だれもがそう思った1年間だったのではないでしょうか。2002年新教育課程実施に伴い1年間教室で仕事をしてみて子どもの学力は確実に低下する・・・という持ちたくもない確信を持ちました。全ての教科が総合的な学習の時間に集約されていくのです。いえ、総合的な学習の時間のために教科があると言わんばかりのそこどけそこどけ状態なのです。私は総合的な学習を全て否定的にとらえているわけではありませんが、国語も社会も理科も総合的な時間のような扱いをしなければならないものですから、ひどいときにはいくつも総合的な学習の課題を持っているような教室になります。教科学習が独自にもたらす子どもの発達や成長に果たす役割はもう役目を終えたのでしょうか。いえそんなはずはないと思うのです。
 国語科の様変わりようは目を覆うばかりです。私たちと立場は違っても、様々に国語学習の進め方を研究してきた官製の「京都市国語教育研究会(国研)」は、「新指導要領」「新教科書」に合わせて研究をすすめた結果、自分たちの研究成果、遺産を否定しなければならないような結果になっているのは皮肉なことだと言わざるをえません。また、京都市で戦後すぐ生活綴方運動の中で生まれ、官製研究会として子どもの作文や詩の教育をすすめてきた「京都市作文教育研究会」がなくなりました。これも国語教育がどういう方向に舵取りされようとしているのかを象徴的に表していると言えます。
 「国語教育は戦後最大の危機に直面している」これは西條昭男さんが今年3月のサークル連協主催のシンポジウムでの発言でした。私は前年京都市つづり方の会で「教科書作文教材批判パンフ」を作ったとき、6年生の教科書教材を分析し実践をこう組み替えてはどうかという問題提起をしました。そのとき「このままでは国語科は総合的な学習のための教科になる」「国語科は総合的な学習の時間の僕になった」と書きました。
 私たちは国語教育が危機であるということで今日の緊急集会を持ちました。何が、どのように危機なのかを明らかにしながら、国語教育どうあるべきかということを語り合い考える集会にしたいと考えています。よろしくお願いします。
2,国語教育の危機

1)「何を」「どのように」両方とも危機的
 教育活動は「何を」「どのように」教えるかという活動です。そして、それはどのような子ども観や社会観を持って教授するのかによって変化します。私たちの教育活動の目的は教育基本法第1条(教育の目的)にこのように書かれています。「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた、心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」
 この目的を達成するために国語教育の果たす役割は大きいと言えます。今危機的だと思うのは「何を」も「どのように」も両方危機的だということです。
 まず、教科書を作るときの基準になっている「学習指導要領」が子どもの国語の力を十分に伸ばすようなものでないと言うことです。大元がおかしければ全部おかしくなるのですが、このことについてはまた後ほどの論議でも明らかになると思います。
 とりあえず、現場にいて危機的だと思うことを羅列的に述べてみます。
@教科書そのものが危機的(「何を」にかかわる危機)
A教科書の扱い方が危機的(「どのように」にかかわる危機)
B官製の国語教育研究会の研究そのものが危機的(研究の自由にかかわる危機)
C教育委員会の「指導の手引き」の現場への押しつけが危機的(教師の管理統制と結びついた危機)
 
2)「何を」に対する危機
 「国語教科書をもっと系統性のある、楽しいものに」「もっとよい教材を入れて欲しい」という声は前からありました。今年の光村の教科書で一番話題になったものに「選択教材」というものがあります。説明文と文学教材のどちらかを選ばすなど子どもの興味によって選択させ、今までの読み取りの方法を使って読むことが求められています。これについては後ほどの討論などの中でまた話題になるだろう思います。また、一体これは何を目指して教科書に入っているのかいぶかるものもあります。「言語」「文学」「説明文」「作文」「話す・聞く」批判点はあっても、以前はそれなりに何の目的で教科書に入っているのかが分かりました。しかし今は「雑多教材」としか言いようのないわけが分からない教材があります。それが総合的な学習のためということで、配置されているのです。「何を」についての危機は今に始まったことではありませんが、今日ほど痛感することはありません。
 私は教科書を使いながら国語3分野について次のような感想を持ちました。
@教材はあるが読ませることを軽視する文学教育
A自己表現をさせない作文教育
B相変わらず迷走し系統性のない言語教育
 もちろん以前からその傾向があったものばかりだと言えます。「読ませない」「書かせない」国語教育がどこへ向かうのか、それを憂います。
 「伝えあう力」という言葉が今大流行です。そして「話す・聞く」ことを研究テーマにして授業研究する研究会や学校が急増しています。
 「基礎基本」という言葉も大流行です。そして国語では「話す・聞く」という言語活動領域が基礎基本だということのようです。しかしそこで展開されている研究実践は「話し方」「聞き方」の教育であり、いわく「体を相手に向けて聞く」「相手の話をうなずきながら聞く」などの聞く態度を問題にした聞き方であったり、ディスカッションの仕方や話す声の大きさや抑揚や、接続詞の使い方、話の構成の仕方であったりのようです。また、何について話し合うのかということより、話し合いそのものに意味があるということですから、いきおい相手をやりこめるための議論の方法や説得方法の研究にならざるを得ません。ディベート上手な人間の育成がこの世のためになるのでしょうか。私たちは朴訥でもいいから、自分の心情が吐露できる人にこそなって欲しいと思います。「雄弁は銀、沈黙は金」という格言もあります。そのことの持つ意味を考えられる人にもなってほしいと思っています。
 「言語教育」「文学教育」「作文教育」それぞれの「何を」に対する危機についてはこのあとの報告やシンポで明らかになると思います。

3)「どのように」に対する危機  
 教科書の制約はあるものの、自主教材で補ったりしながら、子どもの言語能力を高める活動を私たちは目指してきました。そして、様々な工夫を加えながら教授法を探求してきました。「・・法」と呼ばれるものも呼ばれないものも含めて学級で「どのように」学び合うかというところが、研究会や学校内の研究の中でも主になってきました。ここにはまだ研究の自由があり、教師ひとり一人の研究の余地や実践の自由が保障されてきました。ところが、この数年の動きはそういう教師や学校の自由を奪うものです。文部科学省も地教委も官製研究会も一斉に「新しい学力観」とか「指導ではなく支援」とか言い出してからその傾向に拍車がかかり、2002年からの新教育課程実施後は、決定的に教え方を管理し画一化を迫るものになりました。そしてここへ来て「支援なんてなまやさしいことではだめで、指導」などと言う市教委の無節操さや無責任さには憤りさえ感じます。
 「学級崩壊」子どもの「荒れ」などの責任を教師の力量にのみ転嫁して所謂「指導力不足教員」として烙印を押して退職へ追い込むというやり方と「どのように教えるのか」に対する危機は同一の根を持つ問題です。
 最近、「何を・どのように教えるのか」にかかわって私たちに強要・導入されてきたことを列記してみます。
@年間指導計画の作成・提出強要(「何を」からの逸脱を許さない)
A週案提出強要(「何を」「目標」の明示など強要・「指導計画」の権威化)
B管理職による入り込み授業(週案通り行われているかの点検・指導力評価)
C毎日の授業の観点別目標作成提出強要(指導要録の枠内での内容であり教え方でないと評価できないようになっている)
D校長会による支部教科主任会の公開授業強要(研究会の意向に添うように)
E校内研究の方法に対する陰陽両面での制約強要
F少人数授業・習熟度別授業の導入(教え方の共通理解の必要からの画一化)
 様々の提出物そして校内研究の発表の強要などの動きのなかで、教師達は追いつめられています。そして一番文句が出そうにない官製研究会のメンバーが作成した「指導計画」通りの記述や実践を参考に報告せざるを得なくなります。また、官製研究会の研究動向に合わせて、文言なども揃えることが、求められるます。昨年度の京都市の官製国語研究大会はここ数年の低調ぶりとは違い大盛況であったそうです。「総合的な学習の時間」研究が一段落して「基礎基本」「伝えあう力」とは何かを求めて、そして何か新しい国語の学習が始まっているという危機感を持って参加者が急増しています。しかしそこで展開されている実践は「読ませない文学教育」であったり「無理矢理テーマ主義」であったり「おしゃべり国語」「態度主義聞き方教育」であるのですから悲劇的です。これが「新しい国語」教育であり、「生きる力」をつける国語教育だと思い、学校教室で同じようなことが実践されることは結果的に、「子どもを育てない、言語能力を高めない、生きる力に結びつかない国語教育になる」と確信するものです。
 私たちにはもっと研究の自由や教材選択の自由がなければなりません。まして陰に陽に教師の教え方に対して圧力がかかり、教師が萎縮していくことは、学校を死に追いやることになるでしょう。
3,国語教育のめざすもの
 私は「子どもたちを確かで豊かな日本語(母国語)の担い手に」することが国語教育の目標になると思っています。
1)「自分のことばで自分を表現する(話す・書く)子」
2)「多様な他人の表現物(ことば・文・文章)を理解し感想が持てる(聞く・読む)子」
3)「系統的で論理的なことばを正しく使える子」
を育てることが、その「確かさ」や「豊かさ」の内実ではないかと考えています。
 「伝え合う力」という言葉が現場で氾濫して分かったような気になってますが、これだけが言葉の学習でないことは明らかです。言語の一役割である「伝えあう力」のみの強調は、国語教育を著しくゆがんだ方向にねじ曲げていると言わざるを得ません。国語教育では、学習指導要領でも「思考力や想像力及び言語感覚を養い」と言っているように「考え、想像する時の言語の役割」がもっと大切にされなければならないと考えます。「伝えあう力」の強調は国語教育を「日本語の操作方法の教育」というところへ落とし込む危険性があるからです。言語活動を活発に展開することによって「内言」を鍛え確かで豊かな母国語の担い手にすることこそが大切にされなければなりません。言語がその人格に与える影響を考えるとき「心の教育」を強調される割に国語教育の大切さが強調されないのはどういうことなのかと疑問を持ちます。
 私は国語の授業では、「内言」「外言」両面を鍛えることを目指すものでなければならないと考えています。また、そのことは「ことばの力」を高める国語教育を目指さなければならないということであると考えています。「ことばの力」と言うときに「論理としてのことばの力」(言語教育)「形象としてのことばの力」(文学教育)「生活としてのことばの力」(作文教育)という分析は実践的だと考えています。そして、それぞれの分野の「ことばの力」を鍛える言語活動(読む・聞く・話す・書く)をより楽しく、より活発に展開して、子どもたちを「確かで豊かな日本語の担い手」に育て上げなければならないと考えているのです。
4,国語の学力って何だろう@
 最近陰山英男氏などの「学力論」がマスコミに取り上げられています。私自身、陰山英男氏に代表される人たちが提起している実践に学ぶとところはあると考えています。ここでは陰山氏らが展開しておられる国語教育に関することに限って若干の疑問点を提起しておきたいと思います。私が知りうる限りでの情報で判断しての疑問点ですので、もし誤解があればお許し願いたいと思います。
 例えば「書く」というときに「ノートの取り方やまとめ方」について話されると私はそれが「書くこと」の主要な実践なのだろうかと思います。また「書く」の実践として漢字学習の実践を紹介されることについては、それは言語教育であり。文字指導だろうと思うのです。私は国語科で「書く」という時は、自分が獲得している言葉で精一杯自分を表現することを目指す教育であろうと思うのです。だから、総合的な学習のまとめの文章をその成果として発表されると、果たして「書く」という営みはそれだけでいいのだろうかと思います。日本の教育の中で今まで大切な仕事として実践され続けてきた作文教育=綴方教育の成果を私は大切にしたいと考えています。生活の中で自分が見たり聞いたり感じたりしたことを自分の言葉で表現することは、子どもの成長発達にとってかけがいのないものであり、生き方を確かにすることにつながると確信します。そのことに言及しない「書く」実践に疑問をもつのです。
 今、「作文」という言葉が指導要領からなくなりました。指導要領では「楽しんで表現しようとする」とか「効果的に表現しようとする」などという言葉が見られますが、その内容と照らし合わせると意図するところが、必ずしも望ましいことには思えません。「手紙を書く」「調べたことを」「説明」「報告」「発表」などを「楽しんで書く」ことをめざしているのです。そして「感謝のお手紙」や「依頼文の書き方」「FAX文の書き方」などという「総合的な学習の時間」に役立つことを書かせるのです。こういう自己表現とは言えないことを書かせる「表現」=書かせる活動が強調されている今だこそ、書くという言語活動が子どもの成長発達に果たす役割を強調したいと思います。文を綴る楽しさ面白さを子どもたちに伝え、すすんで自己表現したい思う子どもたちになってほしいと考えます。書くことが子どもにとって深い意味があること自己形成・人格形成に果たす役割についてぜひ論究し実践を展開して頂きたいと願います。
 次に「漢字学習」について話されることが多いのですが、それ自体は大変面白く思います。一方で漢字学習が国語教育の中でどのような位置にあるのかを明確にすることが大切だなと思います。言語教育としての漢字学習についてです。しかしこれだけ漢字学習が取り上げられるのはなぜなのかを考える必要がありそうに思います。それは国語学習の中で漢字学習に対する時間が膨大なものであるからではないでしょうか。それをスムーズに意味あるものとして実践しておられるからマスコミにも取り上げられるわけで、その点では私たちもどういう学習が効果的かを明らかにする必要があると考えます。国語教育の一部を一面強調して、それで国語の学力がついたかのように言うのは如何なものかと思います。
 どうも論議がかみ合わないのは、国語の教科構造をどのようなものとしてとらえるのかということと、国語科が果たす人間形成に置ける役割についての共通認識が共有できていないところにあるように思います。陰山氏らの実践は「子どもに力をつける」具体的でだれでもできることを目指して研究されているわけで、そのことの成果にも学びながら教科教育としての国語教育がめざす学力について、深めたいと考えます。
5,国語の学力って何だろうA・・・国語の評価から見えること
 私は前年度担任した子どもたちの国語の学力の要素と思われるものと実際の成績の関係について調べてみました。12名という少人数で調べたものであり、これですべてのことがはっきりするというものではありませんが、参考にはなると思います。私が明らかにしたいことは、何を鍛えることが、子どもの国語の力=ことばの力を伸ばすことになるのかを明らかにしたいと言うことです。
 好き嫌いの項目 ◎は大好き ○は好き △はきらい ×は大嫌い
 他の項目 Aはすぐれている Bはふつう Cはおとる  音読AAは朗読できる
移動の項目 ↑は前年度から好きになったもの →は変化なし ↓は嫌いになったもの

<残念ながら表は略>

 私がこの表から思うこと感じることを書いてみたいと思います。
@学業成績と教科の好き嫌いについて
 「好きこそものの上手なれ」の通りです。もう4年生ですから今までの学習の積み重ねの中での好き嫌いですから、ちょっとやそっとで好き嫌いが変化したりはしにくいのですが、大好き◎の子が成績がよいのは当然のことに思われます。そしてこれは「卵が先かニワトリが先か」の論議になりかねませんので、国語が好きになるにはどういう学習が有効かという実践を出し合うことが大切かと思います。
A漢字学習の得意不得意
 漢字学習の得意不得意が国語の力の決定的なものとは言えないと思います。ただ、漢字学習が好きで成績のよい子は、国語学習の意欲が高まることはあると思います。つまり漢字学習が国語学習の意欲喚起の牽引的な働きをする場合が多いと言えると思います。だから、陰山氏らが漢字学習にまず取り組まれるのがそういう理由なら納得できると言えます。しかし逆に漢字学習が苦手な子の中に、必ずしも全体として国語ことばの力が弱いとは言えない子がいるのも事実です。たとえば「か」の子は他の力は素晴らしいのですが、漢字が苦手で、教科の好き嫌いの評価も低くなっています。この子は書写も苦手です。私は漢字習得の力はその意味が分かり使い方が分かるなどで覚えられるという側面と、図形認識能力が関係するのではないかと思っています。もちろん努力の量と質が漢字習得には関係するわけで、自分にあった学習方法を身につけるということを学ばせるためにも、目標がはっきりしている漢字学習が効果があるといえると思います。ただくり返し反復練習がもたらす学習意欲に対する影響は、苦手な子ほど考慮されないと、国語嫌いにつながりかねないと思います。
B読解力は「読書量」「音読の力」「暗唱の力」と大いに関係がある
 ここでいうところの読解力というのは、文学や説明文を読み解く力のことです。書かれていることを正確に読み取る力ととりあえず言っておきたいと思います。読み取った内容に対するその子の批評についての評価を加えると主観的になりますから省きたいと思います。この表からも分かるように「読書量」の多い子で「音読」が得意で「暗唱」得意な子は読解力があるのです。
 読書量は自己評価とクラスの子らに「・・・ちゃんはたくさん本を読んでると思うかどうか」を聞いてつけました。何ページ読んだかとか何冊読んだかよりこの方が正確だと思います。読書量の多い子は、文章を読む楽しさを味わっている子であり、知らず知らずのうちに自分の中に作品世界や論理を取り込んでいる子であり、何も読んでない子に比べて「ことばの力」がつくのは想像に難くないのですが、やはり予想通りの結果になっています。形象を読み取ったり、その論理展開を楽しんだり、新しい知識を得たりの楽しみの中でことばや文章に対するセンスをたえず磨いているのですから「読書」に関心を向ける指導は大切だと言わなければなりません。絵本の「読み聞かせ」は子どもたちを読書好きに向かわせる大変有効な方法です。
 音読の力は、当然読解力に連動します。書かれている内容が理解できていないのに、「表現読み」や「朗読」は出来ないのです。さらに進んで言うなら、その文章に対する「評価」が加わったとき音声による表現は深みを増すわけで、音読の上手な子そして発展性のある子はかなりの読解力を持っていると判断できると思います。もっともっと音読の機会を増やさなければならないと思います。
 暗唱についてです。小学生の場合、音読を突き詰めていけば暗唱できます。「記憶力の旬」(陰山氏の本にあったことば)の時期にある小学生は意識的に音読をくり返していけば、教材文を暗唱できるということです。一方で心配でもあり子どものすごいところでもあるのですが、意味が分からないことばや文章でもリズムが良ければ、覚えられるということです。リズミカルで美しい文章の暗記は心地よい気分にしてくれます。昨年「声に出して読みたい日本語」(斉藤孝)という本がベストセラーになりました。また陰山氏らは授業で暗唱を取り入れておられるようです。特に古文の暗唱を提唱しておられるのも共通しています。私は一概にこの実践を否定できないと考えています。当然のことながら、闇雲に意味も分からず覚えさせることには反対です。特に偏狭なイデオロギーや道徳心を植え付けるために暗唱させることには反対です。教育基本法の教育の目的に見合った文章を、言葉の美しさや、リズムの美しさを読み味わうことと平行させながら、暗記させることはもっと取り組まれてもよい仕事だと思います。詩の暗唱、文学教材の暗唱など活発に展開されればいいと考えています。論議の分かれるところでありますが、例えば百人一首などの和歌や俳句、川柳を覚えるという実践が昔からあります。これについては、私は肯定的です。意味も分からず覚えるのですが、その先行経験はあとから生きてくるものです。「ああそうだったのか・・・」という経験は貴重なものであると思いますし、リズミカルなことば文章に出会うということは大切なことだと考えています。こういう小学生向きの教材集を作成することは意味あることだと思います。丁寧な読みの指導とともに暗唱が実践されること、また、美しい日本語の文章を多少意味が分からなくても暗記すること、両面から暗唱の実践をすすめることは子どもの「ことばの力」を高めると私は信じます。文章全体と自分の中に取り込むことをもっと実践したいと思っています。しかし、これは論議があるところだと思いますので議論を続けたいと思います。
 結論として読解力をつけるために「読書」「音読」「暗唱」が有効であると言うことは言えるのではないでしょうか。
C「話す・聞く」の力と国語の力
 まず「聞く」力をどのように測るかはかなり難しいことになります。正確に聞き取ることができるかということがまず聞く力では大切になります。しかし一方で学習中集中しつつ持続して聞く意欲や能力があるかどうかは聞く力を云々する上でもう一つの大切な要素です。心ここにあらず状態では聞けないし、話される内容に興味関心があるかどうかも聞きたいという意欲に影響します。そして、この聞く力は理解力の基本になります。「聞く」力のない子で国語の力があるということはまず考えられません。そのことをこの結果も表しています。
 「話す」についてはこれはその能力の大きな部分を「性格」が占めているように思います。お話上手で意欲的に話をする子は、他の様々な活動に対しても積極的な場合が多いように思います。恥ずかしがったり、消極的な性格の子は、話すことは苦手です。また失敗を畏れる子も話すことは苦手です。しかし「話す」ことが苦手だからと言って「ことばの力」がないかというとそれは言えません。「内言」活動が活発で豊かな子は「話す」ことが苦手でも「ことばの力」はあると認めるべきです。だから話す力を国語の総合評定に入れることはもっと論議するべきではないかと思います。
D作文の力(表現力)は相対的独自性を持っている
 作文は国語の力の総体であるとも言えます。しかし一方で作文を書くというのは、いくら表現の技術を習得していても書けるわけではありません。もちろん書き方を知っている方が表現力があるとは言えます。しかし、それ以前に書きたいということをその子が持っているのか、そういう積極的な生活をしているのか、書いたことを知らせたいと思う相手(良い読み手)がいるのかなど、子どもが作文を書くときの要素は一筋縄ではいかないということです。この表でも「く」の子は作文は「嫌い」という評価ですが、ほぼ毎日日記を書いてきて大変おもしろいものを書きます。あんまり気負わずに気楽に思ったまま書く力を持っています。自己評価は低いのですが私の評価はAです。「え」の子は読書量も多く「ことばの力」は鋭いものがあります。だから短詩など知性を感じるキラリとしたものを書くのですが、自分の生活の中から問題意識を持った作文や詩を書くことは苦手です。子どもの表現を読むとき、それぞれの良さを認めその子らしいところを読もうと努力します。だから相対的な評価をすることはあまり意味がないことです。自分を表現する、そしてみんなでその表現を認め合い、学び合う実践をもっと大切にしたいと考えています。 
6,今、国語教育で大切にしたいこと

1,形象を豊かに読み合う文学の授業、確かな論理性を培う説明文の授業の時間十分確保しよう。
2,自分の生活の中で見たこと聞いたこと感じたこと考えたことを書き読みあう作文教育を実践しよう。
3,サークルの研究成果を参考にして、言語についての知識や法則体系について確かな力をつける言語教育を進めよう。

 私たちは楽しくて、そして確かな力のつく国語の授業や実践を旺盛に展開したいと思います。そのために研究の自由、実践の自由が保障されなければなりません。
 時々の流行に影響されず、大切なことを見失わずに、子どもたちの声を聞きながら仕事を進めたいものです。
 子どもたちが目を輝かせて授業に取り組み、私たちも楽しく手応えのある国語教室を作っていくことを目指したいと思います。

7,おわりに

 本提案の第一敲に対する主催団体メンバーの評価は様々でした。
 「現場の教師らしい説得力がある」という意見がある一方で、「大体『正しい日本語』なんてものがあると思っているのか」「今まで京都の国語教育が明らかにしてきた成果を小宮山は学んできたのか」「『言語による教育』」と『言語の教育』というものを混同している。」(小宮山、お前分かってないな。もっと勉強しろ!という叱責)「小宮山はもっと『自己表現』にかかわって論を展開すると思っていた」(期待はずれという意見)などがありました。また何が危機的なのかについても、危機の分析の柱建てについても意見をいただきました。
 でも、そこをみなさん我慢していただいて、「まあ、あんまり批判して書き直しさせたら小宮山らしさがなくなるから、任そう」ということになってこの文章になりました。
 国語教育を巡る論争は私が教師になる以前から様々にあり、私自身は自分の考えを明らかにすることなく過ぎてきました。それはそういう必要をあまり感じてこなかったからです。極論すれば教材さえあれば、どんな方法でやろうと楽しい授業ならいいじゃないかと思っていたからです。こうでなければならないという程の惚れ込みようをどの理論や実践に対しても持たなかったということではないかと思います。まあ、それを勉強不足と言うことも出来るかもしれません。しかしそんな私でさえも2002年新教育課程後の国語教育には危機感を募らせています。初めは作文教育が大変な事になったと思ったのですが、それは作文教育に限らず国語教育全体が危機的だということに気づきました。そして今回こういう文章をまとめる必要が出たため、初めて国語教育に対して自分はこんなことを考えていたんだなとまとめることができました。
 私の実践については、もう少しまとめて報告する機会がありますので、その時に詳しく報告したいと思います。
 私の今日の問題提起に対しても様々な感想を持たれたと思います。あくまでも小宮山の文責で書かれた文章です。たたき台にしていただいてこのあとの進行の中で修正補強をお願いしたいと思います。問題提起を終わります。
 

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