東海道石仏巡り

三條大橋から東海道五十三次が始まります。三条通から蹴上を通って大津までの道旧東海道にいくつかの石仏があります。
旧東海道を歩いてみました。
この石仏は前に東山の石仏で紹介していたのですが、こちらの旧東海道の石仏に入れる方がおさまりがいいようなのでこちらに移動していただくことにします。

(1)安養寺前阿弥陀石仏
左京区粟田口町字山下

 地下鉄東西線「蹴上」から三条通沿いに東へ行くと安養寺と日向神社の案内があります。その道を北へ登って行くと琵琶湖疏水九条山浄水場やインクラインへ出ます。疎水工事で亡くなった方々の慰霊碑の横に大きな石仏があります。それがこの安養寺前阿弥陀石仏です。
高さ1.6mの舟形光背を背負い蓮華座に結跏趺座する像高91cmの定印阿弥陀如来。鎌倉末期のもの。義経にゆかりのある話が伝わり「義経大日」と呼ばれているそうです。

(2)蹴上大日堂の如来と地蔵菩薩像

 三条通蹴上から山科へ行く途中、よく気をつけていないと見過ごすのですが、大日堂があります。おそらく江戸時代には多くの旅人が手を合わせた仏様たちだと思われます。
 写真右手の如来像は花崗岩製。高さ1.33mの舟形光背を背負い蓮華座に結跏趺坐する像高91cmの厚肉彫りの如来像です。大日如来とは印が違います。右手は胸まで挙げた施無畏印(畏れることはない安心しなさいと言う印)左手は膝前に垂らし、薬指と中指を稔じています。これは薬壺を持たない薬師如来の印だそうです。鎌倉後期の作。
 左手の地蔵菩薩立像は延宝6年(1678)の銘があり江戸時代の作。まわりの小石仏は室町期のもの。

(3)日ノ岡丸彫り地蔵
山科区日ノ岡一切経谷町

花崗岩製で2m近く丸彫り地蔵。江戸時代末の作風。宝珠と錫杖(鉄製)を持つポピュラーなお姿。国道1号線沿いの地蔵堂に大切に安置されています。このお地蔵さんの足下にたくさんの小石仏が置かれています。街道筋の石仏を集められたのでしょうか。

旧東海道への別れ道

今はこの東海道の下を地下鉄が通っています。しばらく前はここを路面電車京阪電車京津線が走っていました。そして「九条山駅」があったところに現在車石のモニュメントのある公園が出来ていました。現在の三条通は大きな道になっていますが旧東海道はこの道から分かれて山に入っていく細い道です。江戸時代の五街道と言っても細い道だったんだなあとつくづく感じます。
(4)亀の水不動尊
山科区日ノ岡脇坂町
 上の写真の道を右に向かうと旧東海道です。その道に亀の水不動尊があります。
 この水不動のある場所は江戸時代に木食正禅養阿上人が建てた「梅香庵」の跡だそうです。木食正禅養阿上人という方は江戸時代中期日ノ岡峠の改修工事に着手された方だそうで、元文3年(1738)3年がかりの工事を完成されました。この梅香庵は峠の途中にあり、休息所と道路管理をかねた役割のある場所でした。井戸水を掘り当てて、牛馬が喉を潤し、人には湯茶が接待されたそうです。
 私も拝ませていただきお水をいただきました。江戸時代の旅人がここで水を飲んだんだろうなと思うと感慨ひとしおです。

(5)粟田口大名号碑
山科区日ノ岡朝田町

これは三条通に面してあります。先ほどの木食養阿上人の遺跡でもあります。これを読むと木食正禅という方はえらい方だったんだなと云うことと、廃仏毀釈というのはものすごい破壊行為だったことが分かります。
 陵ケ岡自治町内会連合会の説明版(木食遺跡@粟田口の大名号碑) 解説は京都石佛会
 「木食正禅養阿上人(1687〜1763)は、江戸時代中期の木食上人のひとりである(出身は丹波保津村)。木食とは。草根木皮の生食のみで生きる、難行中の難行を云う。
 当時の京都には、11カ所の無常所(六墓五三昧)があり、いずれも刑場に近いので、僧侶一般に敬遠され勝ちであった。しかし上人は敢えて寒夜を選んで念仏回向にまわり、享保2年(1717)7月、永代供養のため、各所に名号碑を建立した。なかでも、粟田口は京都最大の刑場なので、一丈六尺(約4m)の特大にしたと旧記にある。現在、下半分が補修されているが、さらに復元すれば「南無阿弥陀仏木食正禅 粟田口寒念仏墓廻り回向 享保2丁酉七月十五日」となるべきであろう。
 もと九条山周辺にあったが、明治の廃仏思想の折、人為的に切断されて道路の溝蓋などに流用されたのである。その時の痛ましい傷痕でが、今も石肌に判然と遺っている。」 

(6)日ノ岡宝塔
山科区日ノ岡朝田町

これは、先ほどの木食遺跡のすぐ近くにあるものです。日蓮宗京都宗務所が作られたもののようです。これには次のような説明がありました。

日ノ岡宝塔様縁起
「桓武天皇奈良より京都へ遷都以来明治に亘る千有余年の間極刑場(粟田口処刑)が現在の九条山附近にありました。
 この刑場で処刑されてはかなく消えた罪人の数は約一万五千人余にのぼったといわれ千人に一基ずつの供養塔が十五基各仏教諸宗の手で建てられたと伝えられています。
 明治の初めこの刑場が廃止されたのち廃仏毀釈の難にあい、供養塔は取り壊され石垣や道路などいろいろな工事に転用されてその断片が処々に残っていました。
 昭和十四年法華倶楽部小島愛之助翁(法華倶楽部創設者)が処刑者の霊の冥福を祈るために石の玄題塔断片を基石としてここに供養塔を建立し毎年春秋の二季に亡霊供養の法要を行い立正平和と交通安全も併せて祈っています。

(7)阿弥陀寺

旧東海道をずっと進んでいきますと銭湯「御陵湯」へ出ました。さらに進みますと三条通へ出ますがすぐに左折する道があり旧街道に戻ります。その道に阿弥陀寺があります。ここは幼稚園を経営しておられるようです。そこに子育て地蔵さんがおられました。昭和に作られたようです。さらに墓地に時代は分かりませんが、如来座像がありました。かなり古い時代の如来像だと思います。

(8)五条別れ道しるべ

浄土寺からさらに京阪JR山科駅の方へ旧街道を東へ進みますとこの道しるべがあります。

北面 東面 南面 西面 北面
右ハ三条通

東面
左ハ五条橋
ひがしにし六条大仏
今ぐ満きよ水道

南面
宝永四丁亥年11月吉日

西面
願主 沢村道範


この宝永4年は1708年のこと。
五条橋の道というのは渋谷街道をさすもので、ここで三条の方へ行くか五条の南へ行くか旅人が別れたと云うことです。この道を南へ行きますと京都薬科大学の校舎を抜けて区役所や山科団地(山科本願寺のあと)などをぬけて五条通に出ます。
東面にあるひがしにし六条というのは東西本願寺をそのように言ったことがあるようです。大仏は方広寺のこと。今ぐ満は西国三十三番札所第十五番今熊野観音寺のこと。きよ水は清水寺ということになります。
願主沢村道範は四ノ宮あたりに住まいした素封家のようです。

(9)三条商店街にあった新しい道標

JR京阪山科駅の周辺が現在の山科では一番賑やかな場所ということになると思うのですが、そのすぐ南外環状線を挟んで三条通(旧東海道)は続いています。

(10)四ノ宮四体仏
山科四ノ宮泉水町

「京の六地蔵巡り」で紹介した山科徳林庵四ノ宮地蔵の東側に「お茶所」があります。その仏壇にこの石仏がまつられています。南北朝時代の珍しい石仏です。花崗岩製。高さ1.1m幅80cm。上部が蓮華座の阿弥陀石仏、その下方左右に観音勢至菩薩像です。これだけなら阿弥陀三尊ですがそれに下方真ん中に地蔵菩薩が彫られています。阿弥陀浄土に六道衆生を救済する地蔵を加えて阿弥陀の慈悲にすがりたい民衆の願いが表された石仏です。

(11)徳林庵前の六地蔵
山科四ノ宮泉水町

昨年「京の六地蔵巡り」した時に5体だった六地蔵さんでしたが、今年行ったら「毎年一体ずつ増やしてます」とおっしゃっていたとおり完成しておりました。現代の可愛いお地蔵さんです。

(12)山科地蔵前沢村道範道しるべ

沢村道範の道標がありました。元禄16年(1703)銘です。道範の道標は彫りが深くよく字が残っています。南無地蔵尊・伏見六ぢざうの文字が見えます。このページにある二つの道範の道しるべの文字味があっていいなと思います。
南面と東面 西面と南面 北面

(13)蝉丸・人康親王供養塔と石仏

 山科地蔵の東北角に蝉丸(人康親王)の供養塔(宝筺印塔)があります。この宝筺印塔は有名なものです。その横にいくつかの石仏があります。
 この山科地蔵(徳林庵・臨済宗)は人康親王(さねやすしんのう)の菩提を弔うために天文年間(1532〜55)に創建されたものです。親王は盲人・座頭の祖神とされ、江戸時代には毎年2月16日に検校位を持つものが四宮河原(四ノ宮川)に集まり、親王を弔い琵琶を演奏したそうです。四宮の地名は親王が四宮であったからとも、諸羽神社が当地4番目の社であったからともいわれているそうです。山科地蔵は四宮地蔵ともいいます。蝉丸と人康親王は別人です。蝉丸は醍醐天皇の第四子という説があり、逢坂山に隠棲したという人で、盲目で琵琶の名手であるという点で人康親王と共通点があります。逢坂山には蝉丸神社があります。

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