鵜川阿弥陀四十八体石仏

滋賀県高島郡大字鵜川

2004・7・4(日)撮影
2004・7・18(日)作成

 国道169号(湖西道路)を走っていて、白髭神社を越えもう少しで北小松の海岸だなと思うあたり北側に「四十八体仏」の案内が見えます。
 「鵜川阿弥陀48体仏」へ行く道は細い道で農道にしか見えませんが、旧道北国街道の山裾にあたるそうです。道の両側、現在米は作られておらず荒れるにまかせてあります。おそらく昔から少しでも米を作ろうと棚田を開墾してこられたのでしょう。もう二度と美田になることはないだろうと思いながら、田んぼに立てかけられた紙切れを見ておりました。
 久しぶりにヘビが石垣の穴へ入っていくのを見ました。「まだかな?」と思うくらいの時間で鵜川の共同墓地に着きました。この「鵜川阿弥陀48体石仏」は共同墓地の前にあるのです。
 この説明板にもありますように滋賀県指定史跡の石仏群で、滋賀県下でも第一級の石仏群なのです。阿弥陀仏の大きさとその数の多さにまず、感動します。全景です。
膝を接するように並ぶ48体仏。いずれも花崗岩製。上品上生印を結ぶ丸彫阿弥陀如来座像で、像高1.6mの大きさです。この付近の石仏は前屈みの前後の厚みが薄さが特徴だそうでこの石仏群も湖西の石仏の特徴を有しています。
疑問1,誰が造ったのか?
 小学生の頃、「桃山城は誰が造ったでしょう」「豊臣秀吉!」「残念でした、大工さんと左官さん」というだましのクイズを楽しんだことがありましたが、ここでいう「造った人」というのは、発願した人です。48体もの大型阿弥陀仏を造れる人物は庶民ではありません。
 戦国時代天文22年(1553)、近江守護職だった佐々木義賢が亡くなった母の菩提を弔うため、居城であった安土観音寺城から琵琶湖を挟んだ西方のこの土地を極楽浄土に見立てて造立したと伝えられています。義賢32歳の時のことだそうで、その後永禄11年(1568)織田信長に観音寺城を攻め滅ぼされ六角佐々木氏は滅びます。六角佐々木氏は滅びましたが、ここにその造立した石仏群が残されたということになります。
疑問2,なぜ33体しかないのか?
現在33体しかありません。
では、残りの15体はどこへ行ったのでしょうか。
まず、うち13体は、江戸時代初期に比叡山山麓坂本の慈眼堂境内へ移されました。理由は伝わっていないようです。あの徳川家康から家光まで仕えた政僧天海の廟堂が建てらる際に、移されたようです。天海というお坊さんは偉い方だったのでしょうが、どうも私は好きになれない方です。徳川三代(家康・秀忠・家光)の権威を背景に信長に焼き討ちされた比叡山を再興した功績で上野寛永寺を造り、延暦寺から分離独立させ東叡山を名乗り、最後には天台宗そのものを意のままに操った…というようなイメージができあがっているものですから、この15体を運んだのも天海が勝手なことをしたのかなと思ってしまいました。
では、後の2体はというと、なんと盗まれたそうです。昭和62年10月だそうです。つい最近です。盗んでどうするのでしょうね?家の庭に置いて鑑賞する?広い庭なのでしょうけど、落ち着かないでしょうね。売る?誰が買うのかな?相当な重量の石仏を運んだ人、あかんと思うなあ。
疑問3,なぜ48体阿弥陀仏なのか?
 阿弥陀如来には48の誓願があります。『無量寿経』というお経に書かれています。この48の誓願を実現してもらおうという願いで48体の阿弥陀仏が彫られたものと思われます。阿弥陀さんが菩薩から如来という最高の位につかれるときに「もし私が…できないのなら如来にならない」式の誓願を立てられました。その中で18番目と19番目に「私の浄土(西方浄土)に生まれたいと思って、念仏を唱えた人を救えないのなら私は如来にならない」「そういう信心を持つものが臨終の時に、私が枕辺へ行けないのなら私は如来にならない」というのがあります。
 いくらこの世で悪行を重ねていても極楽浄土へ行きたい庶民はこんなことを約束してくれる阿弥陀さんを頼りにし、「南無阿弥陀仏」を唱え信仰したということのようです。
疑問4,みんな同じ顔なのか?
 いいえ、少しずつ違うようです。48体を一人の人が造れないと思います。おそらく戦国時代にこの辺りに「石仏造り工房集団」がおられたのでしょうね。私は、下の阿弥陀さんが一番男前やと思いました。凛々しいお顔しておられます。
後ろの方が前の阿弥陀さんにお話しておられるような、こんな二体もありました。

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