京都落語地図 (京都退職教職員互助組合報連載) 2012・5・15〜2013・7・15 計6回分 |
京都落語地図 |
第1回「殿集めと清水寺」 (2012・5・15) |
第2回「愛宕山」 (2012・7・15) |
第3回「こぶ弁慶」 (2013・2・15) |
HPへ戻る | 第4回「幽霊飴」 (2013・3・15) |
第5回「鞍馬天狗と落語」 (天狗裁き・天狗さし) (2013・5・15) |
第6回「大阪から見た京都」 三十石・京の茶漬・口入れ屋 (2013・7・15) |
第6回「大阪から見た京都」 〜三十石・京の茶漬・口入れ屋・延陽伯〜 (2013・7・15) |
■「三十石夢の通い路」という落語 伊勢参りをすませた喜六清八の両人、大津の宿から京都へと入って参ります。三条大橋から新京極(江戸時代は寺町通り)を通って四条通りを東へ。四条大橋から祇園さん、さらに知恩院さん、高台寺から清水寺、三十三間堂を経て伏見街道へとかかって参ります。(ここまでが「京見物」という独立した噺になる)伏見街道お稲荷さんでおみやげの伏見人形を買い求め、伏見寺田屋の浜へ。そこから三十石の夜舟に乗って大阪八軒屋へ向かいます。途中枚方での泥棒騒ぎを無事に解決するという結末で終わります。 ■上方落語屈指の大ネタ 米朝さん曰く、この噺は「スケッチ落語」だと。あらすじだけ読むと面白味に欠ける噺ですが、実際は喜六清八のやりとりや、伏見稲荷の人形屋、中書島の宿の女主人や番頭、三十石に乗り合わせた人たちと船頭、さらに中書島の女郎さんなど多彩な登場人物が出てきてやりとりする面白い噺です。演出方法によっては一時間を超えようかという上方落語の中でも屈指の大ネタです。初代桂文枝が得意とし、このネタを百両で質入れしたという話が残っています。 ■安楽庵策伝と露の五郎兵衛 私の「京都落語地図」も最終回。まとめを兼ねて上方落語と京都についての一考察。 現在新京極にある誓願寺の住職だった安楽庵策伝は、秀吉家康の時代の人ですが「醒睡笑」という書を残しておられます。この中に落語「平林」の原型になっている話などが収録されております。誓願寺墓地に策伝の墓があり。毎年十月第一週に「策伝忌」が行われ落語が奉納されています。誓願寺の墓地には他に「胴乱の幸助」に出てくる「お半長右衛門の墓」があり、日本で初めて腑分けをした「山脇東洋」の墓もあります。さらに「三代目笑福亭圓笑」の墓も最近発見し拝ませていただきました。 露の五郎兵衛の記念碑が北野天満宮にあります。初代露の五郎兵衛は北野天満宮で行った「辻噺」で大評判をとった最初の職業落語家。同時期(延宝・元禄頃)大阪生魂神社で小屋がけした米沢彦八、江戸の鹿野武左衛門とともに「落語の祖」と言われています。 ■落語で描かれる京都 そもそも上方落語は大阪の人間が主人公です。京都の人間が主人公の噺には、「いらちの愛宕参り」「景清」「こぶ弁慶(後半)」「幽霊飴」「大丸屋騒動」「紺田屋」「殿集め」「島原八景」があります。脇役で京都の人間が登場する噺もいくつかあります。「はてなの茶碗」「口入れ屋」「愛宕山」「京の茶漬け」「延陽伯」「胴乱の幸助」などです。地名が出てくる、あるいは舞台になる場所となると「本能寺」「鞍馬山」「神泉苑」「二条城」「祇園」「宇治」などがあります。 ■大阪から見た京都@「三十石」 「三十石」の舟に乗り込む喜六清八と物売りの女性とのこんなやりとりがあります。 喜「京の人間は大層にぬかしやがる。すしかてまきずもじとかこんなことぬかしやがるさかい、おらむかつくねん」女「まきすもじのおいしいのどうどす」喜「ずいきは入っておすか」清「そんなこといいないな」喜「そうかてそやないか。安物のすしは、かんぴょうのかわりにずいき入れてけつかる。京はしみたれてけつかるさかい、ずいきにちがいないねん」女「あんさん、そんな京の悪口おいやしたらいけまへんえ」喜「なんで」女「京は王城の地どすえ」喜「そうやそうや。魚食わんと青物ばっかり食うて往生の地じゃ」女「京は一条から九条まで、法華経普門品がうずめておすねん」喜「そんなもん埋めんと石ころうずめ、石ころを。京は石道でごろごろごろごろ歩きにくうてしゃあないわい」女「罰あたるわそんなこと言うてたら。京の御所の砂おつかみてみ」喜「おつかみてみやて。何かあるか?」女「どんなおこりでもなおりまっせ」喜「大阪の奉行所の砂利つかんでみ」女「おこりがおちますか?」喜「首が落ちるわい」清「そんなこといいないな」喜「オレは京のやつの、なまじゃれてけつかるさかい気に入らんのじゃい」 ■大阪から見た京都A「京の茶漬」 京都の町では用事を済ませて帰ろうとすると「あのォ、なんにもおまへんのどすけど、ちょっとお茶漬でも」と言うたらしい。だれもそれで「ほならよばれます」とも言わないし、言う方もまたあくまでお愛想で言うのだから、食べさそうとは思っていません。ある大阪の男、この茶漬をいっぺん食べてやろうと電車賃払って出かけてきます。 とまあ、こんな出だしで「京の茶漬」は始まります。米朝さんは「この噺は京都ではやりにくいのですけど」とおっしゃる。「京の茶漬」は京都は始末なところで見栄や体裁を優先する、実のない連中が暮らしてる土地ということをにおわしている噺です。 ■大阪から見た京都B「口入れ屋」 「口入れ屋」に出てくる京都生まれのおなごし(女中さん)はおはりから三味線から兵法までこなす別嬪のスーパーウーマン。お公家言葉もどきを話す言葉のよく分からない「延陽伯」の嫁さんも別嬪。京都の女性はいずれも別嬪で評判がよいようです。京都に対して悪口を並べる裏に、どうも京都に対するやっかみというか劣等感というかあこがれもあったのかなと思う今日この頃でございます。 |
第5回「鞍馬天狗と落語」 〜天狗裁き・天狗さし〜 (2013・5・15) |
■「天狗裁き」という落語 うたたねをしている亭主の顔。難しい顔をしたりニターッと笑ったり、怖い顔したりしている。女房が起こして、「どんな夢見てたん?」と尋ねると、「夢は見てない」といいます。「女房にも言えへんような夢見てたのか」といつものケンカ。そこへ、隣の男が仲裁に入り、女房を外へ出した後、「ほんまはどんな夢を?」と尋ねます。亭主は「見てない」と言うが信じてもらえず、新たなケンカ。そこへ、家主があらわれ、同じように「言え」「見てない」の言い合いに。「家をあけろ」「あけない」の話に発展して、西の町奉行所に訴え出ます。そこでも奉行に責められ、とうとう縛られて松の木に吊り下げられる羽目に。そこへ一陣の風が吹き、気がつくと鞍馬山の奥、僧正ガ谷。大天狗が目の前にいます。その大天狗から「わしは聞きとうはないが・・・」と言いながらも責められます。しまいに八つ裂きの目にあいかけたところで、「ちょっとあんた、起きなはれ」と女房に起こされ、「ところでどんな夢見てたん?」 ■鞍馬山と言えば 鞍馬山は、左京区にある標高五百八十四mの霊山。「枕草子」「更級日記」などにも登場し、古くから信仰を集めて来た鞍馬山が今回の落語の舞台。 鞍馬寺の「竹伐り会式」とか由岐神社の祭礼「鞍馬の火祭」が有名ですが、鞍馬と言ってすぐ思い浮かぶのは牛若丸と天狗ではないでしょうか。私が子どもの頃に「鞍馬天狗」と言えば嵐寛寿郎の演じる馬に乗って登場するピストル片手の勤皇の志士でした。しかし「アラカン」演ずる「鞍馬天狗」は映画上の創作で、それまで「鞍馬天狗」と言えば、謡曲の「鞍馬天狗」でした。 ■鞍馬山と天狗 京都の天狗で有名なのは、愛宕山の「太郎坊」鞍馬山の「僧正坊」(鞍馬天狗)比叡山の「法性坊」。どうも山岳修行修験道と天狗さんは関係があるようです。「天狗裁き」の登場人物は大阪の住人です。その大阪の住人が「天狗」と言えばすぐに鞍馬山を連想するぐらい鞍馬山の天狗はメジャーだったようです。それもこれも謡曲「鞍馬天狗」や文楽「鬼一法眼三略巻」に登場する鞍馬の大天狗が牛若丸に兵法を授けたというお芝居が、正義の味方である鞍馬天狗を人気者にしたのでしょう。わたし確認してないのですが鞍馬小学校横に「鬼一法眼之古跡」という大正四年の石碑があるそうです。この石碑は当時の鞍馬校職員と生徒によるものとか。 ■「天狗裁き」のおもしろさ 「天狗裁き」は長らく途絶えていたのを、米朝さんが復活しました。同じことの繰り返しですから客が先を読んでしまう可能性があります。それを気取らせないためには登場人物の立場とか威厳などをその台詞に入れながら演じなければなりません。そんな偉い牛若丸に兵法を伝えた大天狗でも下世話なことに興味を持って夢の話を聞きたがるという人間の心理を笑いにしたなかなかの落語です。「回り落ち」という最初に戻る「落ち」も効果的で「なあんだ、そうだったのか。すっかりだまされました。ハハハ」という落語の醍醐味を感じさせてくれる佳作です。 ■他にもある鞍馬の天狗の落語 もう一つ鞍馬山が舞台の「天狗さし」という落語を紹介します。 新しい商売を始めたいという男が甚兵衛さんのところへ相談にやってきます。前から金儲けの話と言ってはあやしげなことを言ってくるこの男。肝心なことを「どうすんねん」と聞くと、「さあ、それをあんたに相談に来た」と言います。でも今回はもう店を出す場所も確保したとのこと。『天すき』をやると言います。「『天すき』って何や」と聞くと、『天狗のすき焼き』とのこと。珍しいから流行ると自信満々。「で、天狗はどうやって仕入れるつもりや」と言うと「さあ、それをあんたに相談に来た」と例のセリフ。 天狗は鞍馬山だと決め込んで、この男大阪から鞍馬山へのりこんできて奥の院の前で待ちます。かわいそうなんは、中で修行していたお坊さん。明け方出てきたところを捕まえられ、縄でグルグル巻きにされて竹に下げられて京の町へ。 すると向こうから同じく竹をかたげた男がやってくる。この男まねをされたと勘違いして聞く。「お前も天狗さしか」「いや、わしは五条の念仏ざしじゃ」 ■「五条の念仏ざし」とは? 「落ち」に出てくる「五条の念仏ざし」というのは江戸時代に使用された物差しの中の一種で、五条あたりで作っていたものだそうです。ある本に「竹尺は京の六条にて作る念仏尺と云うもの最も精好なり」とあるとのこと。実物が京都夷川の道具屋さんから出てきて米朝さんがもらわれたとか。(米朝落語全集第3巻) すき焼き屋をやろうというのですからこの噺は明治時代の創作でしょうか。 |
第4回「幽霊飴」 (2013・3・15) |
■「幽霊飴」という落語 六道珍皇寺(東大路松原西入ル)の門前に一軒の飴屋がありました。 ある夜表の戸を叩く音で出てみると青白い女が一人。「えらい夜分にすみませんが、アメを一つ売っていただけませんか」と一文銭を出して言います。次の日もまたその次の日も、同じように一文銭を出して買っていきます。それが六日間続きました。 「あれは、ただもんではない。明日銭持ってきたら人間やけど、持ってこなんだら人間やないで」「なんでですねん」「人間、死ぬときには、六道銭というて三途の川の渡し銭として、銭を六文、棺桶に入れるんや。それを持ってきたんやないかと思う」 七日目、女はやはりやってきますが、「実は今日はおアシがございませんが、アメをひとつ…」と言います。「よろしい」とゼニなしでアメを与えてそっと後をつけますと、二年坂、三年坂を越えて高台寺の墓地へ入っていきます。そして、一つの塔婆の前でかき消すように消えました。 掘ってみるとお腹に子を宿したまま死んだ女の墓。墓の中で子が生まれ、母親の一念でアメで子を育てていたのでありました。この子、飴屋が引き取り育て後に高台寺の有名な坊さんになったと言います。 母親の一念で一文銭を持ってアメを買うてきて、子どもを育てていた。それもそのはず、場所が「コオダイジ(子を大事=高台寺)でございました。(米朝ばなし『上方落語地図』講談社文庫より) ■赤子塚伝説と落語「幽霊飴」 「幽霊飴」を落語に仕立てたのは余生を風流ざんまいに送った桂文の助という人で、京都の「文の助茶屋」はこの人が高台寺の境内に茶店を営んだのが始まりです。今年この桂文の助の名跡が復活します。枝雀さんの弟子雀松さんが継ぎます。果たして先代の「幽霊飴」を演じられるのか興味あるところです。 「赤子塚伝説」は全国各地にあるようで、京都市内にも他に三カ所確認されているそうです。(上京の立本寺・伏見の大黒寺・北区千本北大路上品蓮台寺)こういう話が多く残されているのは、出産が文字通り命がけの時代を想起させます。そしてせめて子どもだけでもと言う切ない願いが表現されているのだと思います。 ■幽霊子育飴を売る店 私がこの「幽霊子育飴」を初めて口にしてから十数年経ちますが、紆余曲折を経て今も売っておられる店があります。その飴に付いている「子育飴由来書」によりますと、慶長四年(一五九九年)江村氏妻の話になっています。又その子は八才で僧となり修行怠らず後高名な僧になり、寛文六年(一六六六年)三月十五日、六十八才で亡くなったそうです。 ■六道の辻あたりのこと 古くから葬送の地であった鳥辺山の麓にあって、あの世とこの世の境域と考えられたところから六道珍皇寺門前あたりを六道の辻と言うようです。石碑が西福寺前にあります。珍皇寺の六道詣りは盂蘭盆に先立つ八月七日〜十日まで行われる精霊迎えで、境内は迎え鐘を撞く人で溢れます。同時期に五条坂で陶器市も行われます。秀吉の京都大改造以前は松原通は五条通でした。ですから牛若丸は、この松原通を通って清水寺へ行く途中、弁慶と遭遇したことになります。轆轤(ろくろ)町という町名が残っていますが、むかし髑髏(どくろ)町と言われたものを江戸時代に改名したものだそうで、相当量の人骨が出土したことからの命名だと言います。市中の無縁仏を供養して廻られた空也上人ゆかりの六波羅蜜寺もすぐ近くです。平清盛が「六波羅」に館を設けましたが、この六波羅(六原)という地名もむかしこのあたりを髑髏原(どくろはら)といっていたことからの転訛だという説もあるようです。ちなみに六道とは人間の生前の善悪の行いによって導かれる冥界で、天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六つの世界ことです。 ■高台寺と「幽霊飴」 これ、全く関係なさそうでした。お寺の案内をされている方二名とお庭を掃除されていた方、そして売店におられる方に「そういうお墓はありませんか」と尋ねたのですが、「知らない」とのことでした。「私が知らないだけかもしれませんが…」とおっしゃった方は「幽霊子育飴」のことはよくご存知でした。文の助さんがサゲのために高台寺を使われたようです。少なくとも高台寺にゆかりの墓はありませんでした。「六道の辻赤子塚伝説」では「後をつけて行ったら鳥辺山の墓地にさしかかったところで女は姿を消す」ようです。 |
第3回「こぶ弁慶」 (2013・2・15) |
■「こぶ弁慶」という落語 大津の宿の宴で好きな食べ物を言い合っていたら、ある男が「壁土が好きだ」言い出します。みんなで食べるところを見てみようということになり、この男も調子に乗って勧められるまま宿の壁土を食べます。翌朝からえらい熱が出てかごで家に戻ることになりました。この男の住んでいるところが京都の綾小路麩屋町、えらいあやふや(綾麩屋)なところに住んでいます。 二、三日で熱は下がったのですが肩にこぶができてしまいます。やがてそれが人間の顔のようになり、ものをしゃべり、自分は武蔵坊弁慶であると言い出します。壁土の中の浮世又平が描いた大津絵の中から蘇ったのだというのです。一日飯は二升酒は三升時々散財にも連れて行けと無理難題を言い出します。 困ったこの男友だちのすすめで蛸薬師さんへ、イボと偽って取ってもらう願掛けをします。百日目、寺町で大名行列に出会います。弁慶は、行列の前に立ちはだかり大暴れ。そして寝てしまいます。男を手討ちにするという大名に、自分ではなく肩の弁慶のせいであると訴えますが、大名は「昼間ならばまた勘弁のいたしようもある。夜のこぶは見逃しがならんわい」と言っておちになります。 ■この落語のおちについて 紹介したおちは、米朝さんのものです。(米朝落語全集第五巻より)でも、これは今では意味が分からなくなっています。「昆布…こんぶ、関西では「ん」を略して「こぶ」と言います。夜間、昆布を見たらちょっとつまんで食べる、「夜の昆布が見逃せん」等と言って、これはよるのこぶ、よるこぶ…喜ぶという言葉の洒落にしかすぎませんが、花柳界や水商売では今日でもある風習です。」(米朝落語全集第五巻より) 枝雀さんはこんな工夫でおちを変えています。「何、瘤の弁慶とな。ん、相手が弁慶のことであればこの手討ち“よしつね”にせねばなるまい」(枝雀落語大全第六集) ■綾小路麩屋町って? どんなところだろう?この男の住んでた「あやふやな場所」と思いませんか?興味のある方はぜひ一度訪ねてみてください。一筋北が四条通、東へ二筋目が寺町通り。高島屋、藤井大丸のすぐ近くです。 この落語の作者初代笑福亭吾竹は、江戸時代末、文政から天保にかけて活躍した京都の噺家。同じ作者の「景清」にも綾小路麩屋町は出てきますからよほどお気に入りのギャグだったのでしょう。「こぶ弁慶」は「東の旅」の中の一つであり、前半の大津の宿だけで演じれば「宿屋町」という噺になります。 ■蛸薬師さん 新京極にある永福寺が通称「蛸薬師さん」。今は新京極通りに面していますが、新京極通りは明治時代に造られたのですから、この落語が出来た頃は寺町通りに面していたのでしょう。永福寺はもともと二条室町にあったようです。池の中の島に安置したので水上薬師、また沢薬師(たくやくし)と称しましたがのち「蛸薬師」と言うようになったというのが一つの説。今「蛸薬師さん」では次の話をその由来としておられるようです。永福寺の親孝行な僧が、病母の願いで蛸を買ったのを見とがめられ、箱を開けさせられましたが、日ごろ信仰する薬師如来に祈念したところ薬師経と変じて急場をのがれ母の病も癒えました。この霊験から、俗に蛸薬師とよばれ、庶民の信仰を集めるようになったという話。 この落語では「あそこへ蛸断ってお願いしたら、どんなイボでもとってくれはるちゅうやろ」と言っています。「蛸薬師さん」でこのことをお尋ねしたら、蛸を断つのはその通りのようです。そして「『イボ』をとるだけでなく、色々な皮膚病はもちろん万病に御利益がある薬師如来さんです」とおっしゃっていました。 ■大津絵の弁慶 大津絵の弁慶には二種類あるようです。一つは三井寺の鐘を持ち上げている図。そしてもう一つ七つ道具をもって立っている図です。浮世又平は人形浄瑠璃近松門左衛門作「傾城反魂香」に出てくる人物です。特に上の段の「土佐将監閑居の場」は「吃又」とも呼ばれるのですが、「吃又」こそが浮世又平で、大津絵を描いて生計を立てているという設定になっています。 |
第2回「愛宕山」 (2012年7月15日) |
■落語「愛宕山」あらすじ 大阪ミナミをしくじったたいこもちの一八と繁八は京都の祇園で働いています。室町辺の旦那のお供で野駆け(今で言えばピクニックかハイキング)をしようということになり、愛宕山を登ることになります。鴨川、二条城をしり目にころしていざ愛宕山へ。 えらそうに言ったもののさすがに愛宕山は険しい。ねをあげそうになりながらも二十五丁上った「試みの坂」で一服します。そこで旦那が『かわらけなげ』を試みる。「かわらけなげ」がうまくいかない一八は、大阪では「かわらけなげ」みたいなしみったれたことはしない、金を投げて遊ぶと旦那を挑発します。 そこまで言われた旦那は二十枚の小判を谷に向かってまきます。拾うたものにやると言われた一八、傘をさして谷に向かってダイビング。小判を拾って目的を達するかに思われました。「どうやってのぼる?」と言われた一八、一世一代の知恵を出します。嵯峨竹の反動を利用して、谷底から帰還します。 「えらいヤツや。上がってきよった。ところで、金は?」 「ああ、忘れてきた!」 ■嘘ばっかりやさかい 桂米朝さんはこの噺を文の家かしく師に教えてもらったそうです。その時「愛宕山へいっぺん行って来なあきまへんな」と言ったら「行ったらやれんようになるで、この話嘘ばっかりやさかい。十分、口慣れてから行きなさい」と言われたそうです。米朝さん曰く、「傘をさして飛ぶというのも、竹の反動で上がって来るのも嘘ですし、それまでの登って来る愛宕山の描写なども」と書いておられます。そして、「じつは私は、愛宕山へはまだ行ったことがありません」と続けておられます。(「米朝ばなし」より) 私は、まず祇園から清滝まで歩くというのが信じられません。その上さらに愛宕山登るとなったら、もうこれは尋常な足ではありません。よほどの健脚でもこんなことはしないことでしょう。まして、祇園の舞子はんや芸姑はんが、祇園から歩いて行かんやろと思いました。「嘘ばっかり」というのは、この点でまあ、正しいと思います。 ■「かわらけなげ」のこと 私は「かわらけなげ」をしたというのが嘘だろうと思いました。 しかしこれを書くためにこの三月に登りなおしてみて、認識を新たにしました。 最近愛宕山に「京都愛宕研究会」という団体が説明版を設置されていました。それによると、二十五丁目に「なかや」という茶屋兼宿屋があり、落語にも出てくる「二十五丁目の茶屋の嬶」という古い歌を歌って商いをしていたというのです。そしてさらに登って、あと愛宕神社まで一.六kmという場所で、確かに昭和初期には「かわらけなげ」をしていたという案内がありました。「かわらけなげ」は落語だけでなく大念仏狂言「愛宕詣り」でも取り上げられているそうです。さらに驚いたことは、愛宕山は大変眺望のきく山として有名だったそうで、和歌山や淡路島まで見えたというのです。眺望のきく場所にあった茶屋では「かわらけなげ」が行われ、愛宕山の「かわらけなげ」は有名だったそうです。 ちなみに今「かわらけなげ」ができるのは高雄の神護寺です。そして高雄山神護寺は愛宕五山の一つです。 ■愛宕山へ行く道 愛宕山が出てくる落語にはもうひとつ「いらちの愛宕詣り」があります。古歌に「伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕さんへは月参り」とあります。昭和初期にはケーブルもありました。愛宕さんは今よりもっと身近な山だったようです。 愛宕神社まで五十丁、約五.五km。では一丁目はどこ?正解は『嵯峨鳥居本伝統的建造物群保存地区』に指定されているあの一の鳥居のある鳥居本です。嵯峨からこの鳥居本を通って愛宕山まで行く道が「愛宕街道」。ここには石仏で有名な化野念仏寺があります。もう一ヶ寺おすすめ。清滝トンネルの入口に故西村公朝さんの寺、愛宕念仏寺があります。 ここの石仏はお薦めです。癒されます。 |
第1回「殿集めと清水寺」 (2012年5月15日) |
■「殿集め」という落語 さる大家のお嬢さん。歳は十八、評判の美人。その方が清水の舞台から飛び降りるという噂。口コミで評判が評判を呼び、当日清水さんはいっぱいの人だかり。 舞台下では今か今かと待ちながら「ところで、何でそのお嬢さんは飛び降りのか」の詮議。「父親の白内障を治すために」という親孝行談にする者。「いや、横根(梅毒の一症状)切るために飛び込む」という者。そこへ浪人が現れ、「娘は恋患いでその相手は自分だ」と言い出す。いやはや大変な盛り上がりよう。 と言うてますうちに、女中さんを三,四人連れたお嬢さん、現今の女優さんで言いますと松坂慶子と岩下志麻二人をチャンポンにしたような顔。(と、六代目松鶴さんは言ってました)清水さんへご参詣あそばして、参拝すました後、清水の舞台へ出ておいでになりました。さあ、下ではますます大騒ぎ。「イヨーッ、待ってました、頼んまっせ、白内障でっか、それとも横根でっか、恋患いでっか」 娘はん、ずーっと見わたして何思いはったか、そのままお帰りになりました。「モシ、モシ、モシ。飛ばしまへんがな、どないなったんだ」世話好きなヤツが後ろから付いていきますと、お嬢さん、女中を呼びまして、「すみや、すみや」「ハイ」「のう、たくさん殿御は集まったが、よい殿御はないものじゃなあ」 ■舞台から下をのぞいてみましょう このお嬢さん、なかなかでしょう。色々考えさせられます。 舞台下では、貧乏な長屋の住人が勝手に気をもんで、それぞれに夢物語を見ています。一方舞台の上では、そんな下々の思いを知ってか知らずか、金持ちの無邪気な品定め。 いやこれは動物学的な噺かもしれません。気を引くために奔走するオスとそれを冷徹な目で判断しているメス。愚かで滑稽な男と賢くて冷静な女。 清水さんの舞台から下をのぞいたら、あなたにはどんな人たちが見えるでしょうか。いや下から見上げたら何が見えるでしょうか。そういう想像力が落語の噺を創るのだと私は思います。 ■「清水の舞台から」飛び降りた人たち 「清水の舞台から飛び降りるつもりで」と何か覚悟を決めて実行するときの比喩に使います。しかしこれはあくまで「つもりで…」なのであって、本当に飛び降りることはないと思っていましたが、江戸時代、記録にあるだけでも234件あったらしいです。生存率は約85パーセント。明治になってから政府が飛び降り禁止令を出して下火になったとか。 ■清水の舞台とは 江戸初期1633(寛永10)年再建。頭上で両手を合わせた清水型観音=十一面千手観音を祀り「大悲閣」とも言う。正面11間(36b)側面9間(30b)高さ18b。寄棟造り、檜皮葺の屋根。平安時代の宮殿や貴族の邸宅の面影を伝える。本堂南正面に懸造り・総檜張りの「舞台」を錦雲渓に張り出している。 ■清水寺が舞台の落語は他にも 「はてなの茶碗」は音羽の滝の前の茶店から話が始まります。「景清」は噺の後半からさげにかけてのところで清水寺本堂や参道、そして本尊である観音さんまで登場されます。米朝さんや枝雀さんのCDなどでぜひ聞いてみてください。 「殿集め」を私はTVで六代目がやっておられたのを覚えていますが、最近聞いたことがありません。どなたもあまり自分のネタにされていないようです。 ■私のおすすめ清水寺から清閑寺へコース 清水寺の子安塔近くからお寺を南へ出てみませんか。この地道は五条通に繋がっています。京のわらべ歌「四方の景色」に歌われる「歌の中山」はこの辺りです。五条通へ出るところに小督供養塔のある清閑寺と高倉天皇陵があります。高倉天皇は後白河法皇の子で、安徳天皇の父。小督は高倉天皇の寵愛を受けましたが、建礼門院を思う清盛の怒りに触れ、この寺で出家させられます。また勤皇僧として有名な清水寺成就院の月照と西郷隆盛が倒幕を密談した「郭公亭」はこの清閑寺にあった茶室。近いのです、清水寺と清閑寺。 |
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