かばのしっぽの
子どもが見える日記・学級づくり
(作文教育実践講座)
By Shigeru Komiyama
「子どもが見える日記・学級づくり」は、2008年4月号〜2009年3月号まで1年間『作文と教育」に連載したものです。
日記・学級づくりと言いながら自分が考えている作文(綴方)教育について様々な主張をしています。
No  題   名 発行号
楽しくやろう! 2008・4月号
 2 どうせオレなんか…気にかかる彼と学級づくり  2008・5月号 
 3 先を走る子、後ろを向く子…追い立てながらも  2008・6月号 
 4 さち?ばあばやで  2008・7月号 
 5 子どものため?大人のため?  2008・8月号 
 6 つい渡ってしまう橋  2008・9月号 
 7 ことば遊びの楽しさと可能性  2008・10月号 
 8 子どもの作文を読み合う  2008・11月号 
 9 私の言いたいことー詩を書く授業ー  2008・12月号 
 10 地域に根ざす生活綴方教育ということ  2009・1月号 
 11 日記指導、子どもを知る  2009・2月号 
 12 生活綴方このよきもの  2009・3月号 
楽しくやろう! 
(2008・4月)
 小宮山 繁 
1、教師にも子どもにも楽しい日記を 
 「おもしろいこと」は、、人から見たらばかげているようなことでもしたあとに充足感があるものです。
 「やりたいこと」は、どんなに忙しくて時間がなくてもしたくなるものです。そして時間を何とか生み出してしまうものです。
 「やってよかった!という実感があったこと(意味のあること)」は、継続してまたがんばろうという意欲を起こさせてくれるものです。
 「しなければいけない」ことは、責任感の強い人には実行する大きな動機になるかも知れません。でも私のように世間並みの責任感しか持ち合わせていないまじめな人間は、それだけでは無理があります。追いつめられていない時は「しなければいけない」という動機でできます。が、余裕のない時には緊急度を考慮して優先順位を考えますから、必ずできるとは限らないことになります。
 「日記指導」は、あなたにとってどれにあたりますか?
 @「おもしろい」ことですか?
 A「やりたいこと」ですか?
 B「意味のあること」ですか?
 C「しなければいけないこと」ですか?
 おそらく、「おもしろい」「やりたい」「意味のある」ことだと思って指導している人は、この連載を読む必要のない人ですから、今まで通り小宮山の書くことなどに関係なくお続けになることでしょう。
 しかし、これを読んでおられると言うことは、「何を書いているのか、あいつは…」という観点でお読みになることでしょうから、こういう読者を私も多少意識して書かなければなりません。
 生活綴方教育の伝統に立脚した「日記指導」はいかにあるべきか、その発展性や展望が見えるか、今まで日本作文の会が大切にしてきた理論や実践を踏まえて、小宮山が論述するかどうかという評論家としてお読みになる方もおられると言うことを意識せざるを得ません。ちょっと気の重い話です。
 私は「しなければいけない」とだけ思ってされる方は、ほとんどおられないのではないかと思っています。今や教科書から自分の生活から取材するような「作文教材」はほとんど消えました。「書くこと」は指導要領にあっても「作文」はないのですから、「日記指導」を子どもたちにすることを奨励する環境が、学校現場から急速になくなりました。日記を含めた子どもの表現を職員室で楽しんでおられる姿はしばらく前にはありました。しかし今日記を見る時間があれば、他の仕事をしなければ間に合わないのです。
 「急に書けと言っても、書けるものではない。普段からの耕しこそが、大切だ。」
と、指導主事も「日常的に書く日記指導」を奨励しておりましたし、「子どものことがよく分かるよ。」と若い教師たちに「日記指導」を勧める管理職や先輩教師も大勢いました。
 私のような団塊の世代のものは、戦後一回目の生活綴方教育復興ブーム期の洗礼を受けた教師たちに指導を受けました。「文集」のある地域、学校、学級は当たり前のようにありました。ですから七十年代から八十年代戦後第二回生活綴方教育ブーム期(私が勝手に決めている名称です)に教師になった私は、何の抵抗もなくその実践に入っていけたように思います。さて、その七十年代から八十年代に生まれ育った人たちが、「生活綴方教育」の洗礼を受けて教師になっているのかどうか、文集や作文、詩や日記を「楽しかった」「おもしろかった」こととして意識されているのかどうか私は気になるのです。  
 少し脱線しました。
 要するに、私は「今学校に、そして教師の心に『日記指導をしなければいけない』と言う動機で始める環境はないだろう。」と思っているということが言いたいのです。
 では、この連載を私はどういうつもりで書けばよいのでしょうか。
 編集部からの依頼は次のようなものでした。
「日記を大切にしている先生がたくさんおり、その豊かな実践を学び、拡げていきたいものです。日記の楽しさや良さを若い人たちに伝えていきたいのです。雑誌なので『この人が書いているから読んでみたい』人・実践を考えて、ぜひ小宮山さんにお願いしようとなりました。今の子どもたちとどんな出会いをしているのか、日常の子どもとの関わりが見える内容でお願いします。」
 上手に、私の自尊心をくすぐりながら『書く意欲』を引き出してくださっています。こういう風に言われるとちょっとおだてられてるなと思っても悪い気がしないのです。表現指導の基本です。連載依頼を私は快諾いたしました。十二回あれば、相当なことが書けそうだなと思ったのです。
 私は、次のように考えました。
 まず、教師である自分を励ます『楽しい日記指導と学級作り』について書こうと思います。今日の私たちを取り巻く状況から考えると、教師が日記指導をし続けることそのことが闘いにならざるを得ないと考えたからです。
 二つ目には子どもたちにとっての『楽しい自己表現としての日記』について書こうと思います。『楽しい』ことは子どもの実感でありたいということです。「おもしろい」「やりたい」「意味のある」こととして子どもたちが『日記』を書いてくれたらと願っています。
 が、決して誤解しないでください。私の担任したクラスの子どもたちみんながみんな「書くこと」を楽しんで書いて、私が大満足しているわけではありません。「書くことあらへん」という子、「先生、『日記に書くことあらへんから、何書いたらいい?』って毎晩言われて困ってます。」と親から言われることもあります。
 私に期待されていることは、きっと背伸びしないで正直に困っていることは困っていることとして書くことだと思います。こういう文章を書いていますと、私にも多少の(いえ大いに)見栄がありますから、「小宮山先生っていい先生やな。」と思われたい願望があります。「ちょっと私とは違うエライ先生。」だと思われたい気持ちがあります。
 もしそういう鼻につく箇所がありましたら、お許し下さい。最近教師の実践記録のそういうところがすごく気になって素直に読めないものですから、まず自戒しておきたいと思います。リアルに書くことは子どもにも大人にも大切なことです。
 結論として、私は「日記指導をやってみたいけど、何か参考になることはないか」と思っている方を対象に書くことにしたいと思います。私が書いたことが「そんなことならやってみようかな」と思っていただけることを願っています。そして、「おもしろいから明日教室で読んでみようかな」と思われる作品を紹介したいと思います。
 私は自分のクラスの子どもの作品が、一番好きです。困ったことですが、他の方が指導された作品より好きです。自分の実践にかかわることを中心に書く教師の文章は、自分のクラスから生まれた作品しか使わないという原則に田宮輝夫先生はこだわっておられました。私もまたと思います。
 自分が経験もしていないことを人の褌をかりて書くべきでないという当たり前のことを貫きたいと考えています。
2、子どもと出会う1
 これから書くことは『クラス替え』があって、新担任として子どもの前に立つた時のことを前提として書くことにします。
 先生によっては、学級が決まったと同時に、子どもを理解するための準備に入られる方もおられます。指導要録を見ること、家族構成を知ること、写真で名前をおぼえたり、手書きの名簿作成をされることなどのお話を聞かせていただくとそれぞれに意味があって、頭が下がって上がらなくなります。
 私は名簿を見て、その読み方を前担任に教えてもらうぐらいのことしかしません。初日だから名前を先生が読み間違うのは仕方がないことですが、そのことでクラスの子どもに笑われるのは気分が悪いものです。中学生の時「小宮山(こみやま)」という名前を「こみややま」という先生が何人かいて、その度に「また間違った。」という笑いがクラスに起きて「コミヤマです!」と語気鋭く訂正した経験が私にはあります。教師はきっと「何怒ってるの?」と思ったことでしょう。自分がいやだったことは覚えていてそういうことは避けるようです。
 「名前の読み方」を教えてもらいに行くことは意識的にするようにします。前担任が転任しておられなかっても、どなたかその学校で子どものことを一番知っておられそうな方に尋ねることは、簡単にできる大切なことです。教師はたいてい名前以外の大切な情報を教えてくれるものです。親のこと、兄弟姉妹のこと、問題行動のことなど特筆すべき事は聞かせてもらえるものです。また前担任はどのようにその子を見て指導していたのかが垣間見えることも貴重な情報になります。
 私は、それ以上のことはしないようにしています。問題行動で特別な指導を要する子、不登校傾向の子ども、発達に課題を持つ子のことは、おおよそは別に情報が入っていると思います。
 あまり初めから色々の先入観を持たない方がいいと私は思っています。自分の目で確かめることの方が大切であると思います。転ばぬ先の杖をいっぱい用意しても転ぶ時は転びますし、かえってお荷物になります。子どもだって新しい自分や関係を求めているでしょうから、ぼちぼちわかっていくほうが私はよいと考えています。
3、子どもと出会う2「学級開き」
 子どものことは、先入観より子どもを実際に見てからしか始まらないということを私は言いたいのです。子どもを見るといっても、何を見るのかというと、やはり活動している姿を通して集団や一人ひとりを見ることになります。
 そのためにも、まず、『学級開き』をどのようするかの作戦を立てます。
 最近は、始業式のあと入学式があるので、子どもたちとの一日目の出会いはほんの数分です。ですから、インパクトのある話をするようにしています。
 まず、簡単に自己紹介をします。声の大きさを変化させて、ビックリさせたり工夫して、笑いを起こさせます。例えば、「みなさん、こんにちは。私の名前は小宮山繁です。今日から担任です。どうかよろしくお願いします。」というのですが、太字になっている箇所を強調したり言い方に変化を持たせたりするのです。そして、学級文集・通信「ぼちぼちいこか」一号を渡して今週の予定表の説明をします。
「明日からいっしょに勉強することが楽しみです。」と言います。「さっそくですが、今日の宿題を二つ言います。大変難しいのでしっかり聞いて下さい。その宿題の一つ目は…ナント…家へ帰って「担任は男前の「小宮山繁」という若い先生になったと家の人に報告することです。」と言います。緊張していた子どもは、「なんや、そんなんかんたんや!」と言ったり、「男前」や「若い」に疑問を持つ子もいます。なお、こういうのは本当に男前を自認している方は遠慮ください。シャレになりませんから。家でも笑いが起こることを期待したいと思います。そして、もう一つ、宿題を発表します。「もう一つの宿題は、明日、お家の人に「担任が小宮山先生になった。」と言った時どんな様子だったか、しっかり見てきて下さい。何とおっしゃったかもしっかり聞いてきて下さい。」と言います。二つの宿題を確認して解散します。
 本当の『学級開き』は翌日になります。私は何年生を担任するかによって多少違いますが、自分が得意なことを中心に作戦を立てます。自分が得意なことで、子どもが楽しんでくれそうなことを選びます。果たして子どもは喜んでくれるかどうか楽しみながら作戦を立て、準備をします。
 名前を呼んだり、座席を決めたりがあったあと、次のような私の『学級開き』計画の中から自己紹介と共に選んだ活動を楽しみます。
一、室内ゲーム(船長さんの命令やシェーハーの神様)
二、絵本を読む(「ねえ、どれがいい」など)
三、私のギターで歌を歌う(「春風にさそわれて」など)四、先生のとっておきの話をする(「かばのしっぽの話」「動物園のライオンの食事の話」など
五、自己紹介ことば遊び(名前を使って「かくしことば遊び」などをする)
六、学級通信を読みあう(教師の願いや自己紹介が書いてある)
などがその候補です。
 その中で、私がよくする「お話クイズ・かばのしっぽ」のことを紹介します。こんな話を、子どもたちの反応を楽しみながら、手ぶり身ぶりを入れて話します。
 「小宮山先生はかばが好きです。そこで今日はかばのクイズを出すことにします。
 みなさんは、かばのしっぽがどんな形をしているか知っていますか?
 次の4つの中から選んでください。
1,ライオンのしっぽみたいに長くて先がふさふさしている
2,ねこのしっぽのように細くて長い
3,ぶたのしっぽみたいに短くてカールしてる
4,その他
 さて、正解は……実は正解は4なのです。 
 先生が初めてかばのしっぽを見たのは京都市動物園の先代のかばのものでした。
 ちょうど食事をしていて陸にあがってました。
 そのしっぽは、まるですもうの軍配のようでした。そしてサボテンのような突起に毛がはえていました。本当に不思議なしっぽでした。(個体差があるようですが)
 それはグルグル回転します。そして自分のウンコをまき散らすのに使われるのです。ウンコをまき散らすのは敵をおどすためだそうです。水の中でウンコをしますからかき混ぜる役目もしているようです。
 何事も理由があってそうなっているようです。これから小宮山先生と『なぜそうなのか』をいっしょに考える勉強をしていきましょう。」
と、締めくくることにしています。
 さて、『学級開き』に計画していることはその後もぼちぼち出していきます。ギターで歌うことは最初の音楽の時間でもできますし、絵本を楽しむことは読書の時間でもできます。
 何より、この先生といっしょに過ごす一年間は楽しいかも知れないと思って期待してくれることが大切です。そしてその期待を違えないよう努力していく責任が私にかかるわけです。 
 どうせオレなんか…気にかかる彼と学級づくり 
(2008・5月号)
 1、どちらがいい?と言われても…
 新しい子どもとの出会いはどうだったでしょうか。楽しい一年になりそうですか、それとも波瀾万丈の予感でしょうか。
 私は二年前転勤しました。まだ前任校にいて、出勤していない時期に転勤先の学校長から電話がありました。
「担任のことだが三年生と五年生が空いている。三年生には不登校の子と問題行動で児童相談所にかかっている子がいる。五年生は前年度学級崩壊して担任が年度途中で長休になった。で、あなたはどちらを担任希望するか?」
というワクワクするような、そして究極の選択を迫るような希望に満ちた電話でした。これは、なかなか即答できるものではありません。
「どちらが私に適しているのか分かりませんが、学校事情もおありでしょうからお任せします。」
と申しました。結局私は三年生の子どもたちを担任することになりました。昔も今もどのクラスでも、問題のないクラスなどはありません。まあ困難が予想されるクラスを担任するように言われたということは、それだけ指導力に信頼や期待が寄せられているということだとあきらめて(いえ、誇りを持って)前向きに楽しまなしゃあないなあと思うことにしました。
 学校のシステムとしてこういう困難を抱えるであろうクラスをサポートする体制が出来ていれば少しは気が楽になるということがあるかもしれません。しかしながら現状としては『担任任せ』『担任自己責任論』体制が大半ではないでしょうか。そして担任は問題が大きくなれば精神疾患に悩み『指導力不足教員』のレッテルはられて辞めざるをえない状況に追い込まれるのですからたまったものではありません。
2、どうせオレなんか…
 そしてあれから二年が終わろうとしています。
 不登校傾向だった子は、三年生の半年間は完全に不登校状態になりました。本人と家族は苦しかったことでしょう。しかし不登校の子がクラスにいるということは担任も辛いものがあるのです。まして自分が担任してその傾向が顕在化した場合は責任を感じます。結果的には、三年生の一月からぼちぼち登校し始め、四年生になってからは一日も休まず来るようになりました。本当によかったと思っています。
 問題行動のあった子は、友人関係がなかなか作れない子でした。場の空気が読めなくて自慢話にしか聞こえないことを言ったり、時間のけじめがつかなかったり、人が目を背けるような言動をしたりしました。自尊感情が高いのに、言動伴わなず、周りの評価が低いためにイライラしていました。整理整頓身辺整理が苦手でした。人の注意や助言を攻撃されたと思い暴力で応じました。「友だちなんかいらん!」泣きながらすねてカーテンの隅に隠れたり、教室に入ってこなかったりの毎日でした。問題行動もそういう彼の寂しさから発するもののようでした。しばらく担任している間にそういうことが私に徐々に分かるようになってきました。
 まず私がしなければならないことは、この子との人間関係を構築することでした。が、実際は毎日こんなやりとりをしていて、人間関係構築とはほど遠いものでした。
「そんなことしてたら、友だち遊んでくれへんで。」
「かまへん。友だちなんかいらん。」
「ほんまか。」
「ああ、ええで。オレはあいつら大きらいやもん。オレは中学校から○○中学校(京都市立の中高一貫進学校の名)へ行く。はよ、中学生になりたい。どうせオレなんか…。」
と、彼は言いました。
人が心配して、お前のために言ってやってるのに(勝手にせえ!)と私は何回も思い、口にもしました。
 それでも彼が発する「どうせオレなんか…。」という呻きが私の心に鈍く突き刺さりました。
「どうせオレのことなんか、だれも分かってくれへん。」「どうせオレなんか、どうしようもないんや」という焦燥感や絶望感の表明なのかも知れません。よく手や足が出ましたから、
「なんで暴力ふるうんや。」と話していた時、
「オレかてわからへん。どうしようもないんや。」
と泣き泣き言ったことがありました。
 そうなのです。彼は「こうありたい自分」と「現実の自分」との間にジレンマを感じて身悶えしているのです。彼が「どうせオレなんか…」という時、焦燥感や絶望感を読みとることは簡単ですが、それより大切なことは、「本当はもっとオレはみんなから認められたいと思っている」というメッセージを確かに受け止める事ではないでしょうか。
3、「あいつら」の問題
 しかし彼が「友だちなんかいらん」とひねくれて言うのは、一方的に彼が悪いのでしょうか。私は、同じようなことをしている他の子なら見過ごすくせに必要以上に彼には注意をして苗字を連呼することが多いクラスの子どもたちが気になりました。
「○○、机の上片づけろや。」
「○○、自分ばっかりボールとるなや。」(ドッジなどで)
「○○、自慢するなや。」
子どもたちが、注意していることは確かにその通りであり理不尽な要求ではありませんでした。
 彼を注意することは正義であり、正しいことである…という信念があるようでした。間違ったことをしている友だちがいたら、お互いに注意しあいましょうという道徳律を彼らは実践していると言えば実践しているのです。
 しかしながら、そういう注意を毎日繰り返されている彼が、どういう気持ちになっているかを想像する力が足りないようでした。
 そして、彼らは気づいていないようですが、自分のイライラやむかつきのはけ口として、彼を利用している時もあるように私には見えました。基本的にどの子も様々なイライラやむかつきを抱えてくらしています。それを他人を攻撃することで解消しているというのは、よくあることですが、子どもたちの彼に対する注意は、まさしくそのようなものなのではないかと私は思うことが多かったのです。私は、
「本当に○○君のために言っているか?」
「○○君の心に君の言っていることは届くように言っているか?」
と言うことを機会ある毎に言うようにしました。 
 彼は、すぐムキになりました。『バラあて』というドッジボールを使ったゲームがあります。近くにいる子を当てて遊ぶゲームです。おもしろい遊びですが、このゲームを利用していじめることも可能なのです。集中的にだれかを当てれば『遊び』と『イジメ』すれすれのものになります。
 今、テレビでは、集団で一人を「いじる」バラエティ番組が横行しています。いじられることをキャラにしているタレントも、それを突っ込むことをウリにしているタレントもいます。大人になったら、こういうコントロールができるようになって、そういうシチュエーションを意識的に楽しむことも可能になると思います。
 すぐにムキになって必死になる彼をそれより上手にボールを扱える子がターゲットにして遊ぶのは、子どもたちにとってはおもしろいことなのです。しかしそれは、イジメ以外の何物でもありません。しかし本人たちはいじめている気は薄いようです。遊んでいるのです。ここでも人の気持ちを想像したり思いはかる力が必要なようです。
 最後にボールあてられたものがボールの後かたづけをするというのが彼らのルールでした。それを彼がしないというのが「あいつら」の言い分であり、「オレばっかり」が彼の言い分でした。こういうルールを見直すことを話し合いました。このルールでイジメをしていないかを考えさせることもしました。
4、すねた時はどうしたらいいか
 毎日、ひどい時には毎休み時間ごとに、すねる、かくれる、教室へ入ってこないがあるものですから、初めは、「なにしてるねん!」とおこってたのですが、それでは何の効果もないので、作戦を立てて色々試してみました。色々試した結果次のようなことが分かってきました。
@「どうしたんやな」と静かに話しかけると落ち着く。
Aすねて隠れているのを知らん顔して、何か楽しそうなことを始めたり話したりしているうちに、落ち着いたら笑いながら加わってくる。
B当該の子に呼びに行かせる。
C苦手なことをして「できない」「見通しがもてない」ときに困って、うろうろしたり、寝ころんだりするので「小宮山先生が手伝えることはありますか?」と言って相談にのる。
D全体で(時には授業をとめて)話し合う。小宮山が個人的に話す。みんなで話し合って事実関係を確認し、そこからみんなで確認したいことを見いだす。どんな場合でも彼の寂しさによりそってやることを忘れない。
 この中でも「小宮山先生が何か手伝えることはありますか?」作戦は成功を収めることが多かったようです。
 彼が、「オレなんか…」と言う時、そして一番自分が嫌いな時は、おそらくすねて泣き叫んで、暴れたり、隠れたり、寝ころんだりしている時であろうと思います。そう言う状態から早く立ち直らせてやることは教師の仕事です。
5、読書好き…落ち着いた生活へ
 彼が、三年生の一年間に熱中したことを列記してみることにします。
 まず、読書。家でも学校でも読書を静かに出来るようになりました。時には「読んだ」と言って冊数を稼ごうとしたこともありましたが、年間二百冊近くを読みました。教室で作業が終わったり給食が終わった時間静かに本を読むようになり、「本を読みましょう。」と言うと「やった!」の声が出ました。
 一輪車が乗れるようになりました。集中して練習し何度も転倒しながらも友だちと競い合って上達していきました。
 なわとびの技も次々挑戦しました。リコーダーもなかなかタンキングが出来ませんでしたが、知っている曲に挑戦し続けました。
 雨の日の遊びで将棋を紹介したら、私とよくしました。というより、他の子となかなかできないのです。すぐケンカになるのです。呆れてしまって誰も相手してくれないこともあり、私とよくしました。
「小宮山先生、将棋したい?」
「いいえ、したくありません。」
と言うと、困った顔をするので、
「『小宮山先生、将棋して下さい。』やろ。」
と言ってからは、
「小宮山先生、将棋して下さい。」
になりました。
 将棋をしたい相手に
「将棋教えてほしい?」
と言うものですから、初めからケンカ売ってるようなものです。相手が自分より強い場合は、必ず負けた言い訳をするのですが、それがトンチンカンで、大人の私は笑えるのですが、子どもは腹を立てるのです。私はそんなに強くはないのですが、彼よりは強いのでちょっと株が上がったようです。
 そんなこんなで一年間が過ぎて、毎休み時間ぐらいトラブルがあったのが一日一回ぐらいに減るようになり、学校内でも家庭でも徐々に落ち着いて生活できるようになってきました。一時期習い事に行く行かないさぼるさぼらないが家庭でのトラブルの一つだったようですが、徐々にまじめに通えるようになりました。
「ずいぶん落ち着いてきましたね。」
「いえ、以前がひどすぎたのです。」
とお母さんはおっしゃいました。課題はまだまだありますが、彼の穏やかな顔を見ることが多くなりました。
 三年生の終わり頃、彼は、校長先生のところへ直談判に行ったそうです。校長先生が、私のところへ来て、
「今日、彼が校長室へ来て、『校長先生、四年生の担任は小宮山先生にして下さい。』と言いに来ました。校長になって始めての経験です。」
とおっしゃいました。どうやら私と彼との人間関係は何とかなったようです。
6、日記指導について
 肝心の日記指導のことです。困ったことに、この彼が、邪魔くさいこと大きらいで、書くこと、描くこと大きらいなのです。もし彼がある日ある時のある場面を描写する力があれば、自分のすねている場面をふりかえって気づくこともあろうかと思うのですが、そういうことは決してしません。
 私は、この子らに『ノート』をプレゼントすることにしました。「みなさんへのプレゼントです。」と言って、ノートを渡しました。そして、日記に名前を付けるように言いました。「どんな名前でもいい?」と聞くので、「ああ、いいよ。」と言いました。言った以上何がついても文句言えません。そしたら、「がきんちょ日記」「つりばか日記」はまだしも「デスノート」という子もいました。色々名前がつきました。
 彼は、日記帳を配ると「へえ!何にもない。」と必ず言います。始めて配った時も、今もそうです。
 それでも彼が書いて得意そうに持ってきた日記です。

二年生のころ
 二年のころ、ぼくはだっそうしました。
 なぜかというと、ゲームにむ中でした。だから、兄のゲームをしたくなってだっそうしました。いっかいまんびきをしたこともありました。
 それで、きゅう食前には、かならず見つけられつれもどされました。いまはそれほどむ中ではないです。またなったら、どうしよう?と思っています。
 そういえばI先生に見つかりかけたので、かくれたこともありました。
 もうしないといって、いまはしていません。じゅくもちゃんといっているし、何のだっそうもしてません。それで、たまに夜ゲームをしています。
 畑にレンガがあって、そこをぬけだしていきます。そして白はとほいく園の方向に向かっていって、角をまがって家にいった。

 この日記にどれほどの意味があるのか私には分かりません。しかしながら、これを私に読ませたかった何かわけがあるのでしょう。それは以前の自分ではないと言う表明なのかもしれません。
 先を走る子、後ろを向く子…追い立てながらも 
(2008・6月号)
1、どのように書かせているのか
 私はこの二年間学校で日記を書かせました。先月書いたようにかなり押しつけがましい日記帳(百円ショップで買ってきた大学ノート)のプレゼントをしました。それに書くように言いました。別に最初から学校で書かせようと思っていたわけではありませんでした。やっているうちにそういう流れになってしまったのです。
 学校で書くことのメリットは確かに子どもが書いたということがはっきりすることです。親の影響力はほぼありません。したがって、親から「家で書くことがないと子どもから言われ困ってます。」という苦情は寄せられません。 私は、この日記を書く時間を、初めは朝学習の時間に設定していました。朝学習十五分間に書ければいいと思っていました。それも簡単に数行書けばよい位の思いだったのです。そして時間が足りなければ次の日の朝学習に続きを書けばよいのではないかと思って始めました。
 しかしながら、始めてみますと、十五分で書ける子はほとんどなくて、たいてい十分から二十分延長になりました。一生懸命書いている子がたくさんいるのに「はい、終わりましょう。」と言うのがもったいなくて、そのまま書けるまでずるずると一時間かけてしまうこともありました。
 思いますに、三年生の子どもたちが、書きたいことをダイジェスト版で五〜六行で書いておくというような気の利いたことをするはずがなく、書きたかったらしっかり思い出して書きたいだけ書いてしまうのです。私は、この日記を作文につなげて作文の種探しにしたらいいと思ったりもしていたのですが、「ええい、子どもたちよ。その勢いで書いていけ!」と時間を保証することにしました。
 初めのころは、日記だと思っていたのですが、これは作文なのか日記なのかどちらかな?と分からなくなりました。私のクラスの子どもの書く散文は、いつもこのようなもので、作文と言えば作文、日記と言えば日記です。詩とは違うよく思い出してていねいに記述していく文章が作文だぐらいに私は考えています。
 蛇足ですが、私のクラスの時間割は、一時間目国語の時が三時間、算数の時が二時間です。朝学習日記にする時は、一時間目が国語の時で、日に二時間国語がある日でした。 読書の時間も朝学習の続きの時間にしました。朝学習で読書をします。そして、図書室で本をかえます。
 四年生になって私の教室は幸せなことに図書室の隣でした。毎週水曜日の朝学習は読書です。そして、職員朝会が終わった私は、すぐに「本をかえるよ。」と子どもに声をかけます。子どもたちが、コロコロと教室から出てきて図書室のカウンターの前に集まります。最近はPCを使って貸し出し事務をしますので、簡単に本をかえられます。子どもが慣れてきますと、五分か十分で二冊ずつ毎週本をかえて読むことができます。
 たまたま見た次のような光景に感動しました。最後の子の貸し出しが終わって、私が教室へ帰りましたら、全員静かに集中して読んでいるではありませんか。こういう時間を切るのはもったいないと思いました。私は黙って一時間読書を続けることにしました。これを数回繰り返しているうちに、子どもの読書に対する集中力が高まったように思います。
 いつもこういう時間をとるわけにはいきません。読書中に「はい、読書の時間はおしまい。」と言いますと、いかにも残念そうな「ハー。」というため息が洩れます。子どもたちは読みかけの本があれば読みたがるのです。当たり前ですが、こういう時間を学校で作り出さないこともなかなか本好きな子が増えない理由の一つなのではないかと私は思っています。読みかけの本がありますと、テストが早く終わった子は「先生本を読んでも良いですか。」と聞きます。「どうぞ。」と言いますと、早く終わって時間があると読書を自主的にするようになります。きっとその時間を楽しむようになるのだと思います。そうなると私は楽です。「読書」と黒板に書くだけで子どもたちは静かに読書してくれるのです。
 日記もこのようになればいいなと思っています。私が「日記」と朝学習の課題を黒板に書いておきます。私が教室へ入っていくと、えんぴつの音だけが心地よく教室の中で響いています、と、言うときもあります。しかしながら、五月号でも書いたように、書くこと大嫌いな邪魔臭がりの子が、「先生書くことあらへん。」と迎えてくれます。三年生の初め頃は、学級の中の男の子のリーダー格のS君は、「書くことあらへん、ねえ、みんな。」
と同調を求めていました。ここで負けてはなりません。
「S君、君が書くことが見つからないのは分かったけど、人を誘う必要はありません。書きたくてこれを書こうと思って楽しみにしている人もいます。(ほんまかいな?)静かに、何を書こうかな、何が書けるかなといろいろ思いだしてみましょう。」
と言います。日記を書くことは、前の日には予告しておくほうが良いと思います。
2、おもしろい日記を書く子
 まゆさんの日記はいつ読んでも楽しいです。私の感性と合うのかもしれません。まゆさんが書くものがおもしろいと私が初めて思ったのは、次の日記からでした。
雨のふった月曜日
                        まゆ
 わたしは、月曜日にえいごをならっています。
 さいきんは、一人でバスにのって行っています。
 四十六番のバスを三時三十六分にのって行こうと思って、三時二十五分に家を出ました。そしてバスていについたのは、三時三十一分でした。そしてず〜とまっててもきません。ちょっとわたしは、ムカーとしました。もう三時三十六分になりました。
 でもきません。
 しょうがなくつぎの三時五十一分のバスにのろうと思ってまっていました。
三時四十二分になったら、おばさんがきました。そのおばさんは、バスの表を見ていました。そして、そのおばさんがわたしに
「ちょっと、六番のバス、何分にくるか見て。」
と言ってきました。
 でも、わたしは、ママに
「しらん人に声をかけられてもはなしたらあかんで。」
と言われてたから、どうしようかまよいました。けど、こまっていたのでおしえてあげることにしました。それからいろんなことをはなしてました。
 でも四十六番のバスも、六番のバスもこなかったから、おばさんが、
「タクシーよんであげるから、いっしょにえいごにいこう。」
と言ってきました。
 わたしは、もっとまよいました。
 わたしは、
(タクシーくるな、くるな。くるなら六番のバスこい〜)
とねがっていたけど、タクシーがとうとうきてしまいました。
 おばさんが、
「きたなあ、じゃあいっしょに行こか。」
と言ってきたから、わたしは、
「いいです。いいです。」
をれんぱつしました。
 そして、やっとおばさんが、一人でタクシーにのってくれました。
 ちょっとだけ(ごめんなさい)と思いました。

 場面を切り取る…私は詩であろうが作文であろうが、問題意識を持って「ある日ある時のある場面を切り取ること」が大切だと考えています。
 まゆさんは、雨の月曜日の午後の、あのおばさんに「タクシーに乗れ乗れ」と言われて困った場面を書こうと決めて書いています。そして、あったことをあったように思ったことを思ったように書いています。これが基本です。
 私がそのことを指導しているのだと思います。わざわざそういう授業をした覚えはないのですが、子どもたちが書いた文章を文集にし、読み合っているうちにきっと私は、先ほど書いたことを、様々な言い方で強調しているのだとと思います。
 自分の心が動いたことの中から、書きたいと思ったことを、丁寧に思い出して書くように強調するのです。それは、「ある日、ある時のある場面」を切り取ることになるのです。 
 私はこの日記を文集に載せて最高に褒めました。書いているまゆさんの気持ちがとてもよく分かること、題のつけ方が上手であることなど褒めることがいっぱいあります。
 このあと、まゆさんの書く日記はどれもおもしろいものが続きます。いくつか紹介しましょう。
イノシシがでました!
                    まゆ
 わたしは、日曜日おばあちゃんの家にいきました。
 おばあちゃんの家は、立めいかん大学のかんりようむいんみたいなしごとをしています。
 立めいかん大学のちかくに山があります。だから、虫やどうぶつもいっぱいいます。
 いまは、冬みんまえなのでイノシシがよくでるそうです。そしておばあちゃんの家で、ごはんをたべてはしゃいでいると、大学生の人が、
「イノシシがでました。」
と言ってきたのです。
 おじいちゃんは、
「またか。」
と言ってかいちゅうでんとうをもって、いそいでたちあがるとすぐにでていきました。それにパパまで行ってしまいました。
「まゆも〜。」
と言うと、パパに、
「まっとけ〜。」
と言われたけど、見つからないように、おばあちゃんと見に行きました。
 すると、一人の大学生は、あみをもっていました。おばあちゃんが、
「きみ、なんであみもってるねん。」
と言うと、その大学生の人はむしでした。
 おじいちゃんが、ライトをあてるとイノシシが大学生の人のほうにむかったので、大学生の人はあわててにげていました。それから一分ぐらいしたら、イノシシはにげたそうです。
 イノシシはみみずをたべるそうで、おばあちゃんの家のちかくにかだんみたいなのがあって、そこのみみずは三十センチぐらいなので、イノシシがくるそうです。
 わたしは、まだ見たことがないので、またみたいです。

犬においかけられた
                   まゆ
 このまえおばあちゃんちにとまりました。
 さかをのぼっていくと、馬をそだててるところがあって、そこによくあそびにいきます。だから、このまえもおじいちゃんとパパとたまきで、うまにえさをやりにいきました。だいこんのかわと、にんじんともっていきました。
 そして、さかをのぼっていくと犬がいました。その犬はさいきんかわはった犬で、とてもやんちゃです。その犬がわたしの前にきたので、びっくりしてにげました。
 わたしは、ブーツをはいていたので、はしりにくかったです。わたしは、(犬にかまれる)と思ったので、おおいそぎでにげました。のぼってきたさかを下がってにげました。すると犬もおいかけてきました。わたしがにげてると、犬がわたしをおいこしていきました。わたしは、
「ひ〜〜〜。」
と言ってにげました。そのすきにまたわたしは、のぼってにげました。すると、犬もすべりながらのぼってきました。それを五回ぐらいやってると、し育係の人が、やっときづいてくれて、とめてくれました。
 そして、わたしははんべそをかいてました。
 そして、わたしは
「どうして、きづいてくれへんかったん?」
とパパにきくと、
「いや〜むこうでなんか言ってるな〜とはきづいてたけど、犬においかけられてたとはきづかへんかった。」
とわらわれました。
 それからというもの犬をみると、にげるようになりました。
(*まゆさんの作品は何れも三年生の時の作品です。)
3、先を走る子、後ろを向く子、追い立てながら楽しむ私
 教室の中には、まず先行してくれる子がいます。まゆさんは作文に関してはそういう子です。まゆさんのよいところを褒めながら、みんなでそれを楽しめばよいと思います。友だちの作文日記からヒントを得て書けるようになる例は私も見てきました。
 しかしながら、いつまでたっても、「書くことあらへん」と言い続ける子がいることもあります。そういう子がいない時もあります。理由は色々で一律ではありません。しかし「何を」書けばいいのかが分からないというのがほとんどではないかと思います。
 問題意識を持って生活から取材して主題意識を明確にしながら文章を書くことは、子どもを真に賢くしていく上で、今一番求められる力だと私は思います。
 しかしながら、こういう作文教育は、簡単にできることではなかったのかもしれません。私はこういう仕事がおもしろかったので、何をそんなに悩むのかぐらいにしか思ってこなかったのですが、生活作文(こういう言い方も好きではありませんが)が教科書から消えてしまったのは、指導が難しくて手に負えないと思われたのかもしれません。
 短作文、手紙文、気ままな物語作り、報告文、記録文など指導要領でいう「書くこと」は自己表現をあえて避けることにその特徴があるようです。
 私は、先を走る子の方向を見守りながら、後ろを向く子を追い立てる仕事を楽しんでいます。後ろを向く子も時々は前を向くことがあります。なんでいつも前向かせることができひんねん!と叱られそうですが、追い立てることしかできていないというのが正直なところでしょう。
 今年度私は「自学自習ノート」に取り組みました。書きたい子はこれに毎日の日記を書いて私に出しました。よほど書きたいことがある時に書いていました。このノートのことは書きたくなったら書いてみようかと思っています。 次回は私が忘れられない日記のことを書きます。 
 さち?ばあばやで
(2008・7月号)
1、ピンポーン、正かい!ほんまたのしみー
 香川さちさんの「電話☆電話☆電話」を読んでください。
電話☆電話☆電話
                  さち
 わたしは、毎年奄美大島に行きます。
 ひこうきにのって、一時間半くらいでつきます。
 今年もいくので、すごくたのしみにしています。
 そして、一回おばあちゃんから電話がありました。
「プルルルル、プルルルル。」
と電話がなったら、お母さんが、
「さち!今手がはなせんへんから、電話出て!」
といわはったので出ました。おばあちゃんからでした。
「はい、もしもし香川です。」
と言ったら、
「さち?ばあばやで!」
といわはったので、
「うん、さちやで。ばあば、ひさしぶりやなあ〜。」
と言いました。そうするとばあばが、
「さち!もうすぐやな〜、たのしみ。」
と言わはって、
「なにが?」
と言ったら、
「なにがって!もうすぐ奄美くるやろ!」
と言わはりました。
「そうやけど、そんなにたのしみ?うちもたのしみやけど。」
と言ったら、
「むっちゃたのしみやでェ〜。」
と言わはりました。
「フーン。」
と言いました。そしたら、
「奄美きたら、いっぱいおようふくかってあげるしな!」
って言わはったら、うれしくなって
「うん!ありがとう。」
と言いました。そして、ねました。
 次の日、あさおきてごはん中に
「プルルルル、プルルルル。」
と電話がなったので、私が出ました。
「もしもし香川です。」
と言ったら、
「さち?ばあばやで。」
といったので、
「なんかよう?」
といったら、
「はは(母)にかわって。」
って言わはってかわって、そしたら母が、
「ばあばが、さちにかわってやって。」
と言ったので出ました。
「もしもし。」
と言ったら、
「さちー、ほんまにたのしみやわー。」
といわはって、
「うん、そうやけど、うち学校やしー。」
と言いました。そしたら、
「じゃあ、よるまたかけるわー。」
と言わはって、
「もうかけんでもいい!」
と言おうとしたら、プツときれました。
 学校からかえって、じゅくにいってかえったらちょうど
「プルルルル、プルルルル。」
と電話がなって出ました。そしたら、おばあちゃんで
(うちってタイミングわるいなー)
と思いました。そして、
「さちー、あのなー、奄美の夏まつりのことなんやけどー、ちがうとこでやるらしいでえー。」
と言わはりました。
「フーン。でも夏まつりって五回ぐらいあるやん。どれ?」
ときいたら、
「わからん。」
と言わはりました。
(なんやそりゃ。)
と思いました。それでいろいろしゃべって、プツときりました。そしておふろに入ってねました。
 次の日学校に行ってかえってきたら、だれもいなくて、友だちとあそびました。
 それで帰ってじゅくのよういをしたら
「プルルルル、プルルルル。」
と電話がなりました。
「もしもし香川です。」
と言ったら、
「もしもしばあばやで。」
と言わはって、
(もう、なによ。)
と思いました。
「なに?ばあば、まさかまたたのしみーとかいうんちゃうやろなー。」
と言えば、
「ピンポーン、正かい!ほんまたのしみー。」
と言わはりました。
「もーわかったから。まあ、うちもたのしみやけど。」
と言ったら、
「ほら、さちもたのしみなんやろ。」
と言わはりました。
(もー。)
と思いました。
 でも、ほんとにたのしみです。
 こんなうるさいばあばでも、すごくやさしいんだなー、こんなばあばでよかったなーと思いました。すごくたのしみです。
 ばあばの気もち、わかるなー。
2、巧まざる巧みと現代
 まあ、何と愉快なおばあちゃんと孫の関係でしょうか。
 私はまだ孫がいないのですが孫とこんな会話が楽しめたら、何と幸せなことかと思います。
 香川さんは、これを一気に書き上げました。
 「電話☆電話☆電話」という題は何と見事な題でしょうか。この電話と電話をつないでいる☆は香川さんがおばあさんからの電話を「かけてこんでもいい」と思いながらも待ち望んでいる気持ちを表現しているようでもありますし、「また、孫の声を聞こう!」と思っているおばあさんのワクワク感を表現しているようでもあります。いや、ひょっとしたら、この作文を読んでいる私や読者が感じるほのぼのとした幸福感を象徴しているようにも受け取れます。四回の電話がかかってくるわけですが、その間の☆が何ともいい味を出していると私は思って唸ってしまいます。
 「巧まざる巧み」ということを教えていただいたことがあります。子どもの一生懸命な表現の中には、本人が感心させてやろうと思って書いてはいないけれど、思わず「うまいなあ」とか、「参ったなあ」と大人である私たちが感心してしまう表現があることを指した文脈の中で使われていました。香川さんのこの作文の題「電話☆電話☆電話」にそれを感じます。
 しかしながら、この☆は加賀山さんのオリジナルかと言えばそうでもありません。子どもたちが置かれている生活環境の中に☆を効果的に使う例はいくらでも存在しています。私の子どもの頃と比べたら(そういう古い時代と比べてもどうかと思いつつですが…)雲泥の差です。ということは、現代の子どもは、私たちより自分を表現する文字や記号を大量に目にしているわけですし、取り込もうと思えばいくらでも取り込める環境の中にいます。時代の空気に敏感な子どもたちが次々繰り出して来る文字そして記号(それは感情表現をも内包している)を否定できないことだなと思います。
3、それでもやっぱり「ありのまま」を 
 「見たまま、聞いたままを表現」すること「感じたまま、思ったままを表現」することを強調してきた私たちの生活綴方は、一方で生活実感から遊離している美文調の模範文などの権力側の統制との決別でありました。
 また一方で「ああ書け、こう書け」という制約や雑音のために本来のその子らしい表現でなくなっていることに対する批判であったと言えます。「あなたは、あなたが書きたいと思う書き方で書けばいいのですよ」という安心感の中でしか、自己表現はできないという主張につながることです。そして、何かにとらわれることなく自由に書くことこそが魂の自由を手に入れることにつながるという人間解放への確信が、こういう指導語を大切にさせたのではないかと考えます。
 子どもを真に賢くするために「リアルにものごとをとらえる」必要があるというリアリズムの立場から「ありのまま」を強調してきたと思います。
 文章表現として客観的にしかも万人が納得するような「ありのまま」の文章など書けるはずがないということは、分かり切っていることです。
 その場の情景や心情、雰囲気や気分感情を伝えようとすれば、強調やデフォルメ、省略や修辞があるほうがリアリティがある場合の方が多いということは自明のことであろうと思います。
 しかし、それでも子どもたちの書く詩や作文、日記には「ありのまま」に書くことを要求していくことが大切ではないかと私は考えています。ありもしない、思ってもいないことを書いて誉められる経験は罪悪感を伴います。ことばや文章に対する謙虚さを失わせると考えています。
4、子どもの書く文章
 香川さんの作文を読んでいても思うことの続きです。 これは、きっと「おばあちゃんの電話のことを書こう」と思って書いているのだと思います。それが、三日間にわたる内容になることは意識していたと思います。時間の順序にそって書いていこうとも思っていると思います。
 こういう生き生きした文章を私は書いてほしいと思っています。(自分のクラスのものを誉めあげていて申し訳ないのですが)私の関心は、次のことにあります。
 では、こういう文章は
@「ある日ある時の家族(この場合祖母)との事実で心に強く感じたことを時間の順序にしたがって書こう」とか
A「やや長い間にわたる家庭生活を通してとらえたことを事実に即して説明をおりまぜながら書こう」
という指導題目を立てて子どもに書かせれば、書くのだろうかということなのです。
 きっと書くとも書かないとも言えないことでしょう。@の迫り方の方が加賀山さんの書いていることに近いようです。しかしながら、「ある日ある時」と私が言う時は一回限りの出来事を想定しています。もし参考作品を用意するとしたら、それに見合うようなものを用意すると思います。となると、加賀山さんはせっかく書きたいおばあちゃんの電話のことがあるのに、「私の書きたいことは先生が望んでいるものではないな」と思わないでしょうか。
 子どもが書く文章には確かに一回限りの出来事で意味のあることも、何回も繰り返して生起することで意味のあることもあります。自分にとって意味のある、値打ちのあることを文章表現する子どもになってほしいと思って、あまりにレールを敷きすぎるとかえって子どもの書きたいことの芽を摘むこともあるのではないでしょうか。
 書きぶりについてです。加賀山さんの文章には勢いがあります。これは、書いている時のノッテル高揚した気分の反映であろうと思われます。書いている場面の時のことを思い浮かべながら、時には思い出し笑いしながら書いたのではないかと私は想像しています。こういう勢いはどのようにも指導のしようがないものだと私は考えています。
 逆にこういう子どもの勢いをそぐ方法は、思い浮かべることができます。思い出すことに「あれこれ」注文つけて、「お上品に『…ました。…ました。』と書きましょう」と徹底すればできそうです。
 書きたいことを、しっかり思い出して、思い切り書きたいように書きましょうしかないかなと思うのです。   
5、「おかあさん」と学級担任
 「おかあさん」
〈おかあさんは/どこでもふわふわ/ほっぺはぷにょぷにょ/ふくらはぎはぽよぽよ/ふとももはぼよん/うではもちもち/おなかは小人さんが/トランポリンをしたら/とおくへとんでいくくらい/はずんでいる/おかあさんは/とってもやわらかい/ぼくがさわったら/あたたかい気もちいい/ベッドになってくれる〉
 私は、この詩を今年四月三日の朝日新聞朝刊「天声人語」で読みました。土井晩翠を生んだ仙台市は毎年東北中心に小学生の詩を募り「晩翠わかば賞」を贈っているそうです。この詩は昨秋佳作に選ばれたのだそうです。
 この詩の作者西山拓海君は「おととい、青森県八戸市の家で九年の生を閉じた。電気コードで首を絞めたと認めた母親(三十)が逮捕された。何度も抱きしめた『もちもちのうで』が、この朝は凶器だった」と書かれていました。
 何と言うことであろうかと思いながら、記事を読みました。子どもの詩や作文を新聞やテレビでももっと扱ってほしいと私は願っています。子どもの詩や作文がいかに「よきもの」かをもっと宣伝してほしいと思っていますが、こんな形で詩が扱われるとは…。この事件の続報を私は調べていないし、背景も分からないので、これから私の書くことはトンチンカンなものになるかもしれませんが、この詩と記事だけを読んだものの感想として書いておきたいと思います。
 この詩を指導された担任の先生のことを私は思っていました。私は、この詩に書かれている詩は、どのような指導の中で生まれた詩なのであろうかということをまず思いました。これは彼の願望だったのでしょうか、事実だったのでしょうか。この表現にリアリティがあるのでしょうか、ないのでしょうか。それは、担任にしか分からないことです。
 そして、この詩をコンクールに出された担任の先生は佳作入選を期待を込めて母親に通知されていたのではないかと想像していました。ひょっとしたら、何かを感じておられて、母親と拓海君の関係が詩の通りであってほしいと願っておられたのではないかと思ったのです。
 学級担任というのはそう言うものではないかと私は思っています。  
 子どものため?大人のため? 
(2008・8月号)
1、感動体験発表会
 どこでもそうなのかどうか知りませんが、京都市は、「感動体験発表会」を奨励しています。校内だけでなく、支部でそして全市でそういう発表会を開催して大きな賞状を用意します。
 感動を大切にしたいと私も思っています。そして、感動したことを文章に書くことも大賛成です。学級で詩を書くときにも感動体験を詩に表現できる子になってほしいと願います。それをみんなの前で発表できる力をもった子になってほしいと願います。
 しかしながら、ここで言うところの「感動体験発表会」は、京都市教育委員会や校長会が主催するもので、各学校代表が発表するというものです。私の地域の場合四年生がその担当にあたっています。私が単級の四年生担任になったものですから、「小宮山さん、頼むわな。」と早い時期から言われていました。大勢の中から選ぶのならまだしも、それほど多くない中から選ぶのですから、どうしようかなあと思いました。結局、私は「わたしのとっておきの話」という単元設定をして、子どもたちに自分が感動したときのことを思い出して書くようにしました。
 しかし、四年生の子どもが私が願うような「感動体験」を探してくれるとは限りません。私は、石橋を叩いて渡るために、河村君に「君、おけいこのこと書いてみいひんか。」と誘ってみることにしました。河村君の家は、代々能楽の大鼓(おおづつみ)をしておられます。多くの子どもが体験できないことをしている子どもなのです。彼は、まじめな子で書く力もある子でした。また積極的に発表もできる子でもありましたから、彼が書く気になってくれれば、鬼に金棒、私もその役を無事果たせるし、学校としても体面が保てるというものです。そして、これはきっと本人のためにもなると私は思いました。
 私は、「君が分からないことはお父さんにしっかり話を聞いてきて、書くように」言いました。「きっと、他の人は、大鼓といっても分からないだろうから、初めて聞く人にも分かるように説明を入れて書こう」と言いました。
 河村君は、何回もお父さんから話を聞いてきて、それに自分の経験や知識を駆使して、次のような作文を書き上げました。実際は、この何倍もの分量の下書きをノートにしてきていて、私と二人でまとめたというのが、実情です。
2、できあがった発表原稿

ぼくと能の大鼓

                            Y・K
 ぼくのお父さんは能楽師(のうがくし)です。
 能というのは、古い日本のげきの一つです。
 ぶたいで、お面をつけた人が舞います。そしてぶたいの後ろで、はやし方が、楽器をえんそうしたり、うたいというものをうたったりします。うたいというのはこんな歌です。(うたい「吉野天人」の一節をうたう)
 その舞う人が主役なのですが、はやし方という人たちが、その心の感じをもっと目立たせるために、ゆっくり歩いたりするときには、ゆったり感じさせる作りの曲をえんそうします。
 反対に笛が入ってすごい速いスピードでえんそうするものもあります。その時舞う人は、はげしく強く舞います。強く足ぶみすると舞台の下には、つぼが入ってるので、つぼで音がひびき、すごく強い音に感じます。
 はやし方には、太鼓、大鼓、小鼓、笛の四つの役があります。能の曲は昔二千曲以上あったそうですが、今は二百曲ぐらいあります。
 ぼくのお父さんは、そのはやし方の中の大鼓(おおづつみ)をしています。お父さんは、その能の演目にあわせて大鼓を打ちます。
 「道成寺」という曲があります。その曲を演奏してしているのを見たとき、すごく感動しました。
 やっている人はみんなまっ赤になっていました。みんな気合いが入っていました。お父さんは、舞台でえんそうするのは、「心と気合いの勝負だ」と言っています。なるほどなと思います。
 お父さんは、ぼくにこんな風に教えてくれました。
「大鼓は、自然にたとえると大地だ。大地はいくら強くふみしめてもこわれない。そして岩はどしっと重たく、手で持ち上げようとしてもふんばる。そのように大鼓は打つのだ。」
 ぼくは、お父さんは
「がまん強くじっと打つためにこらえて、火山のように思い切り打ち込む」
ということを教えているのだと思います。
 そして、そこにかけ声をかけます。かけ声はおなかのそこから出します。それが気合いになります。
 ぼくのかけ声を聞いてください。
 お父さんは、ぶ台では、しんけんな顔で岩のようにふんばっています。
 かけ声は、火山がばくはつして、マグマが地面のそこからふきあがってくるような感じで、ぶたいをもりあげるために大きな声を出します。
 打つ音は、大地にひびきわたるような音で、ぶ台をもりあげています。その音はぼくの心にひびきひろがっていくようで、感動します。ぼくはそう思いながらいつも見ています。
 ぼくが、初めてぶ台に出たとき、お客さんが目の前にいておどろきました。
「お客さんは野さいやと思え。」
と言われました。なので、野菜だと思いながらやりましたが、ぜんぜんこうかがなくて、まちがえてしまいました。
 まちがえたとき、すごくくやしかったです。
「みんな、わからないから大丈夫。」
となぐさめてくれる人もいましたが、すごくかなしかったです。ちょっとだけまちがっただけなのにすごくくやしかったことを、今もおぼえています。国語の勉強でまちがってもぜんぜんくやしくないのに、あの時すごくくやしかったのはなぜなのかなと今でも思います。このくやしい気持ちをわすれずに、今おけいこをしています。
 おけいこで楽しいのは、その演目の話を聞かせてもらいながら大鼓を教えてもらうことです。
 おけいこが終わった後、おいしいおかしを食べるのも楽しみです。
 おけいこの時、楽しい曲の時は、一発で終わるときがあります。その時は気持ちがすーっとします。
 だけどやっぱり、本番の時に、すーっと打てたら、すごく気持ちがよくなり、ああもう終わったかと思います。そしてすっきりして気持ちが落ちつきます。
 ぼくは、「ひきつげ」と言われています。
 ぼくもお父さんのように、人に感動をあたえられる能楽師になりたいと思っています。            

 *太字の所は、発表を盛り上げるために、私が「謡」や「かけ声」を聞かせてあげた方がよく分かるから入れるように言ったために入っています。          

3、いよいよ本番
 教室で発表を聞きました。他の子に感想を求めましたら、「とても上手だ」「びっくりした」という中に「まるで大人みたいだ」と言う子がありました。もちろん言っている子は批判的に言っているのではないのです。それぐらい立派だと言っているのです。しかし、私はその言っていることの意味を半分しか理解していませんでした。
 全校の人にも聞いてもらう機会を持とうと言うことになりました。全校朝会で、彼は演壇前でこれを発表しました。みんな静かに聞き入りました。とりわけ喜んでくれたのは校長でした。本校に伝統文化芸能に携わっている子がいてがんばっていることを発表するのは、学校の名誉につながるというわけです。学校長の名誉のために書いておきますが、私も同じ思いだったのです。何とか私の学校の発表を立派なものにし、学校の面目を保ちたいと思っていたのです。(何故強く意識したかは省略します)
 朝会の時、彼は「かけ声」を言いませんでした。「謡」は披露してくれたのですが、「かけ声」は声が裏返るのではずかしかったとのことでした。
 そしていよいよ本番。
 私と学校長の期待を受けた彼は、見事に「謡」をうたわず、「かけ声」をかけずに、原稿を読みました。
 私と学校長は「がっかり」肩を落としたというわけです。
4、大人の都合
 「謡」や「大鼓のかけ声」の入ったこの発表はきっと評判になったことでしょう。演出としてはなかなかだったと「私」が思っているのです。しかし作者の意欲からでたものではなかったのです。大人の私が満足するものだったのです。そしてそれには、大人の間でなら通じるであろう理屈もあったのです。
 私は、子どもの意欲や子ども自身の表現を大切にしてきたつもりですが、やっぱりどこかで見栄えや体面を考えていることが、この「感動体験発表会」で露呈してしまったというわけです。
 発表が終了してしばらくしても私はがっかりしていました。「河村君はなんで…。」と期待をはずした彼を非難する気持ちがありました。しかし、帰り道つらつら考えてみたのですが、やっぱり私の押しつけでしかなかったのだなと今度は反省したというわけです。子どもたちが、「まるで大人みたいだ」と、彼の作文を批評したときに私は、もっと気づいておればよかったのかもしれません。彼の作文や発表は、子どもからみれば「大人びて見える」ものだったのです。
 サークルでこの作品を出したとき、ある人が、「この作文はリアリティに欠ける」と批評しました。さて、子どもの作文におけるリアリティとは何か、私はまた考え込むわけです。
 この作文をご両親は喜んでくださいました。彼が「能」をどのように考えて、大鼓をお父さんから継承する事に対して、どのように考えているのかがある程度分かって安心されたのではないかと思います。四年生の時点での彼の思いは表現できていると、私も思いながら、伝統芸能の世界の修行やお稽古の一端を見せていただいたと思うのです。
5、自由に書くと
 彼が、その後に自由に書いてきた日記の文章です。
土曜から日曜のこと
河村 凜太郎
 ぼくは、土曜日、朝六時に目がさめた。
 そしてテレビをつけてチャンネルをてきとうにいじりまくった。そして、八チャンネルがつくと、「ゲゲゲの鬼太郎」をやっていた。だから、鬼太郎を見た。ぼくはゲゲゲの鬼太郎をテレビで見たことがなかったから、(へえ、この時間で、このチャンネルだとやってるんだあ)と思ったから、紙に書いておいた。けっこうおもしろかった。
 だけど、今日(土曜日)はおけいこの本番だからソワソワしていた。
 そしてお母さんがおりてきた。ぼくは、「おはよう。」っていっていなかった。そして、お母さんに
「今日、本番何時ぐらいに出るの。」
と聞くと
「五時五十五分。」
と言われた。そしてまた、
「じゃあさ、何時位にこの家出るの?」
と聞いた。そうすると、お母さんが、
「三時位。」
と言った。(かな?)
 (中略)
 とうとう行く時間になった。 タクシーをよんで、それで観世会館に行った。父がいて、
「ここにすわっておいで。」
と言われた。が、すわった場所が火ばちの前で、それも、『もんつき』をきているので暑くなって、だんだんくらくらしてきてねむくなったので、ボウーとして、そしていよいよ本番という時になると、「鼻血」が出た。そして放送席からアナウンスがなった。だけど、「鼻血」が出て、だいぶ出るのがおそくなってしまった。それでぼくのいとこの方のおばあちゃんが来ていて、おばあちゃんとお母さんは、「どうしたのかな。」と思っていたらしい。
 だけど、「鼻」に「テッシュ」をつめて出た。そしてぶ台にあがった。が、まだ体がういているようにポワーとしていたので、一番初めに打つところを打ち込んでいませんでした。
 そして、ぼくのならっている太鼓の先生のお父さんが、ぼくにこういっていたらしい。
「なんで、太鼓ならっているのに、なんであそこが打ち込めなかったんや?」
と言われた。正直がっかりした。そして家に帰ってねた。
 そして、日曜日、太鼓のけいこがあります。が、ぎょえん(京都ごしょ)でバードウォッチィングをしていたので行きました。
 そして太鼓のけいこへ行く、と行きたいところなんですが、ぜんぜん家でけいこをしていなかったので一時間けいこをしてから太鼓に行きました。一時間のせいかが出たか、うまいこといって、
「あと一回でおわりにしょうか?」
と言われて帰りました。
 土曜〜日曜まで能楽日和でした。
 楽しかった〜とは言えませんが、一応楽しかったと思っています。

 最後の所は、「能楽日和」ではなくて、「能楽三昧」と書きたかったのかもしれません。これを読んでいると、小学校四年生の背丈で書いているなあと思います。
 お母さんの話では、彼がお父さんと大鼓のリズムの話をし出すと、お母さんもついていけないとのことでした。伝統芸能の家の子は、このように育てられていくのだなと思いました。
 子どものための作文教育が、いつのまにか大人のための作文教育になっていないかという自省を込めて今月号はおしまいです。
  
 つい渡ってしまう橋
(2008・9月号)
1、今年も感動体験発表会
 八月号で昨年の北下タイム発表会(京都市北区北下支部八校の感動体験発表会)のことを書きました。
 二年続きで今年も四年生を担任することになった私は、今年もだれか発表者を決めなければなりません。
 今年の実施要領が送られてきて「ねらい」を見て、あれ?こんなことだったのかと(去年は読んでいなかった)ビックリしました。
 「心をたがやす教育活動の一環として、子どもたちが感動したこと、いじめをなくす自分たちの主張などを自分の言葉で表現し、発表する機会を通して、北下支部学校間の交流を深めるとともに、子どもたちの道徳的実践力を高め、感性豊かな子どもの育成をめざす。」
と、ありました。
 この会の主催は、教務主任会です。しかし教務主任会が自主的に主催を提案したわけではありません。もう十年ほど前に教育委員会の肝いりでどこの支部でも開催されることになりました。道徳教育に熱心に取り組んでいることをアピールする目的もあったなあと、この「ねらい」を読みながら思い出していました。教務主任会が使われているのは権力の狡猾さです。教育長名のデッカイ表彰状が贈られます。表彰式には主席指導主事という偉い方もご臨席されます。
 そういえば、小学生の駅伝大会(開催当初は全国でも珍しいものでした)「京都市大文字駅伝」の「支部予選会」は初め管理職が提案、運営、実施していましたが、いつのまにやら「体育主任会」が提案し実施することになりました。
 様々な他校との交流の場を一概に否定は出来ないことだと思いますが、ズルズルと既成事実を作り上げていくやり口がどうにも性に合わず、私は「感動体験発表会」も「駅伝大会」にも反対してきました。
 しかし、こういう取組が恒例化すると、親も関心を高めますし、期待を寄せるようになります。「いい取組やないか。」ということになります。自校の出来映えや成績が問題にされるようになるのです。
 今までは感動体験発表会を担当する学年を、私が担任してきませんでしたので、私は他人事として見ていました。申し訳ありませんが、「ご苦労さん」と思っていました。
2、私のクラスの発表作
 前置きが長くなりましたが、今年は本当に困りました。昨年は、持ち上がりで、まただれがどんなことを書けそうかということの予想が立ちましたので、何とかなると思えました。しかし今年は担任してまだ二ヵ月で書かせて決定しなければならなかったので、海のものとも山のものともの状態でした。六月初めに予告されて、「ああ、えらいこっちゃ」と思ったというのが実情です。
 とりあえず、「とっておきの話」を選んで書こうということを申しました。「とっておきの話」といっても子どもも困るでしょうから、もう少し具体的に話しました。
 その時の板書です。

とっておきの話
■自分のこと
 長い期間つづけていることで
・くじけそうになったけどがんばっていること
 陸上
 サッカー
 おこと
 一度だけのことで
 ・あれは楽しかったなということ
 ・あれはすごかったなということ
 ・わすれられないなということ
 ・人にしてもらったことで
   うれしかったこと
   なきそうになったこと 
 
 こういう話をして、書きたいことを決めてくるように予告しておいて書いてもらうことにしました。そういう過程を経て、今年は次のような作品を発表することになりました。

おじいちゃんの死
                  H・N
 一月五日の朝、おばあちゃんが大声で、
「いやあ!」
とさけびました。わたしはねていましたが、その声で目をあけました。その時(何事だ!)とびっくりしました。ママもびっくりして下へいそいでいきました。下から声が聞こえてくるのを聞いていると、
「おじいちゃんが、おふろに…」
と聞こえてきたので、おじいちゃんがおふろでどうしたのかなと思い、大変そうだなと思いました。わたしは、こわくてふとんに入りました。
 しばらくすると、ママが、上へ上がってきて、けいたいで電話をかけていました。わたしはふとんにもぐっていたので、どこへ電話をかけていたのかわかりませんでしたが、あとで
「どこへ電話をかけたん。」
と聞くと
「きゅうきゅう車をよんだ。」
と言いました。わたしは、おじいちゃんが病院に運ばれることになったようなので少しホッとしました。ママが
「服とってくるから、きがえなさい。」
と言って、下へ服をとりにいきました。わたしはこわくなって
「おじいちゃん、おじいちゃん。」
となき声でいっていました。ママが
「晴菜、これをきなさい。」
と言ったので、きがえました。そして、ママのお姉ちゃんの車をママが運転して、おじいちゃんが通っていた病院に行きました。
 ちゅう車じょうに車をとめて、中に入りました。先にきゅう急車に乗って病院に行っていたおばあちゃんとママのお姉ちゃんがイスにすわっていました。
「おじいちゃんは?」
とママがきくと
「今、自分で心臓は動いているんだけど、いきができないので、いきするきかいでやっている。」
と言っていました。
 わたしは、(おじいちゃんがいしきふめいじゃなくなりますように)と願っていました。
 ママは他のしんせきにも電話していました。
 やっと、おじいちゃんの顔を見ることができました。いしきはないけど、ねむっているいつものおじいちゃんに見えました。おばあちゃんは、
「目はあいてないけど、言葉はきいてくれるんやで。」
と言ってくれて、わたしはうれしかったです。でも顔を見ていると、かなしくなってしかたありませんでした。
 それからいっぱいしんせきがきて、最後に旅行に行っていたおっちゃんがきました。夕方までおじいちゃんは生きていてくれました。おじいちゃんがなくなった時、わたしはなみだが止まりませんでした。
 わたしが、おじいちゃんのことでおぼえていることは、おじいちゃんがわたしの行っていた保育園へあやとりを教えにきてくれたことです。おじいちゃんが、ほいく園のホールで、あやとりをおしえてくれました。おじいちゃんは、「あやとり」が上手でした。
 川とか東京タワーやはしごやゴムゴムのやりかたとか他にもいろいろ教えてくれました。おじいちゃんが教えてくれて、あやとりは楽しいなと思い、家の中ではもちろん、旅行のときやお出かけの時にも持っていって遊びました。
 わたしは、すごくあやとりがすきになりました。
 もうひとつおじいちゃんがとても上手でわたしがおぼえていることがあります。
 わたしが、けんばんハーモニカやリコーダーをふいていると、おじいちゃんはハーモニカをふいてくれて合そうしました。
 わたしがかしてもらって、ふいてみましたが、へんな音しかでませんでした。
 わたしは、ききました。
「おじいちゃん、なんでそんなにきれいにハーモニカふけるの?」
と聞くと、
「こつやで、こつ。」
といわはりました。
「へー、こつか。」
と心の中で思い、
「はるも、こつをおぼえて、うまくふけるようになりたいなー。」
と思いました。、
 おじいちゃんは、なんでもできるなあと思いました。
 わたしは今、おじいちゃんにこんなことを聞いてみたいと思っています。
 おじいちゃん、天国で元気にしていますか?
 ときどき、こっちの世界も見に来てね。
 おじいちゃんといっしょにかっていたねこの「にや」は元気にしていますか?
 わたしは、おじいちゃんがすきなハーモニカが上手になったように、これからわたしも、自分のすきな水泳や手芸のこつがわかって上手になるように努力します。  
 おじいちゃん、天国で見まもってね。

3、私の「指導」
 みなさんは、この作文をどのようにお読みになられたでしょうか。どうやったらこんな作文を四年生が書けるのかとその指導法を学びたいと思われたでしょうか。それともこういう作文は問題だと思われたでしょうか。
 私の学校の管理職は「Nさんはよく書ける子ですね。」とおっしゃいました。私は、こう申しました。
「先生、四年生の子が、あんな風に書けると思われますか?あれは、発表会用の作文で、私が相当無理をして書かせたのです。」
 では、どのような私の「指導」があったのかの種明かしをします。私はこれから書くような「指導」を行ったのです。
 初めに彼女が書いたのは、おじいちゃんが亡くなった日のことだけでした。
 それだけでは、感動体験発表会の作文になりにくいなと思った私は、「おじいちゃんとのことで一番覚えていることはどんなこと?書いてみる?」と誘いました。
 彼女がその時に話した「あやとりのこと」「ハーモニカのこと」を「いいお話やねえ。」と言って書くようにすすめました。彼女はそれにこたえて、日記帳に書いてきてくれました。
 つづいて次の日には、「今おじいちゃんに聞きたいことや言いたいことはありませんか。それをおじいちゃんに話すように書いてみて。」と書かせています。
 そして、その三つをつなげて、できあがったのが、「おじいちゃんの死」という発表用作文なのです。
 最初に彼女が書いた文とあとの二つの文をそのままのせてどのようにつないだのかを見てもらったらよく分かるのですが、字数に制限があります。
 つまり、この作文の構成は彼女が考えたものではなくて、私が考えたのです。そして彼女は私の誘導で書いたということになります。私は「破序急」の構成でいこうと決めています。
 そして、それは単に構成が変えられたことに留まりません。この作文の主題にも関わることになります。構成をそのようなものにしたために、彼女がそれほど自覚していなかった、おじいちゃんに学んだことを受け継ぐ決意を表明する作文になったのです。彼女は素朴におじいちゃんが亡くなった日の大変で悲しかった出来事を書きたかったのです。そして、おじいちゃんが親戚のものみんな集まるまで命長らえて生きていてくれたことに驚きをもち、感謝していることが書きたかったのです。私の「指導」はそれを無視し、聞いているものに分かりやすいおじいちゃんの人間性が見えるエピソードを加え、さらにおじいちゃんに語りかけるという手法で思いを強調させたのです。
 彼女が書いていることは嘘ではありません。確かに彼女が思いだして書いたものです。しかし書いた時には思ってもいなかった作文に変身しまったのも事実です。
 記述に関わることで、彼女が書いている不十分なところや分かりにくいところは、確かめて書き直しを要求しています。例えば、おじちゃんという方が旅行のために不在だったことは、彼女には自明のことですが、読み手にはよく分からないことです。「なんでママのお姉ちゃんの車に乗っていったのに、病院のイスに先にすわっておられるの?」とも聞いています。「ママが運転していた。ママのお姉ちゃんはおばあちゃんと救急車に乗って先に行っていた。」という話でやっと私には納得できましたので、それが分かるように書き直しをしました。
 さて、こういう「指導」を教師はしたほうがよいのでしょうか、それともしてはいけないのでしょうか。
 私も普段なら西澤さんが書いてきたままを文集に載せていたことでしょう。しかしコンクールとかこういう発表とかが、私に渡っては行けない橋を渡らせたのです。そして困ったことには、こういう場面に追い込まれたら、また渡るかも知れないのです。
 この「指導」は子どもの認識を確かにさせるためとか、記述や構成の何たるかを教えるために推敲指導したとかいう立派なものではありません。発表作品を仕上げるためです。私は学校の体面や私の自尊心のためにしたのです。
 「おじいちゃんの死」は西澤さんと私の合作です。指導作品というなら、「指導」作品とカギカッコが必要です。
 「書き直し」「推敲指導」…『作文と教育』誌で石澤さんと田倉さんの論争が始まりました。私の報告は参考にもならない? 
 
ことば遊びの楽しさと可能性 
(2008・10月号)
1,ことば遊びの楽しさ
 私が子どもの頃から、いえもっと昔からあることば遊びで「なぞなぞ」があります。
 一年生の子どもたちを担任していた時のことです。
 私は、毎日三つずつ「なぞなぞ」を出すことにしていました。子どもたちはとても楽しみにしてくれていました。問題は、どこの本屋さんにもある「なぞなぞの本」から選ぶことにしました。わずか数百円の本で、毎日子どもが楽しんでくれるのですから安いもんです。
 ある日、こんな「なぞなぞ」を出しました。
「お母さんにくっついている『ぼう』ってなんだ?」
これ、正解は「あかんぼう」とか「あまえんぼう」です。
私のクラスの一番背の低いあきちゃんが、元気よく
「はい!」
と、手を挙げました。
「あきちゃん」
「はい、しぼうです。」
私は、大笑いしました。あきちゃんのお母さんはとてもスマートな方で決して「しぼう」がくっついているような方ではありません。しかし、どこかで脂肪が肥満の原因であることや、お腹まわりの脂肪が話題になることを聞いたことがあるのでしょう。私はあきちゃんの答えをはなまるの大正解にしました。
 そして、私が教えた子どもの中に、こんな詩を書いた子がいたなあと思い出して、また楽しくなりました。
お母さんのおなか
三年 かなこ
おふろの中で
お母さんのおなかを見た
お母さんのおなかは だんだん畑
わたしをうんで一だん
弟をうんで二だん
ひろいひろいだんだん畑
おへそは
だんだん畑のおとしあなみたい
 ことば遊びのおもしろさと言っても色々あります。
 一人で楽しめる「ことば遊び」もありますし、大勢でやる「ことば遊び」もあります。
 大笑いのおもしろさ、くすくす笑いのおもしろさ、やられたなあと感心するおもしろさ、その笑いの種類も様々です。
 昔からあることば遊びもあれば、つい最近テレビで流行りだしたものもあります。
 遊びですから、おもしろくないものは自然淘汰されます。
 あまり難しいルールがあるようなものも敬遠されて忘れ去られます。 
「遊び」の特性として、知らず知らずのうちになにがしかの力が身に付きます。ことば遊びの場合、『言語の力(ことばの力)』と関係がありそうです。
 また、集団の中で遊ぶわけですから、人間関係を円滑に進めるための様々の知恵も身につける必要があります。ルールを守って遊ばなければ楽しくありません。上手な子も下手な子もありますから、その力に応じて楽しくするための空気読む必要もありそうです。
 私たちは、ふだんのくらしの中で様々に『ことば遊び』を楽しんでいます。『ことば遊び』は、ことばに対する感覚やセンスを磨き、ことばの可能性について考えるきっかけを与える契機になりそうだと考えています。
 私がやっている教室で楽しめる『ことば遊び』をいくつか紹介しながら、ことば遊びの可能性について考えたいと思います。
2、あいうえおの文作り
 教室の黒板に「あ・い・う・え・お」と横書きします。
 そして、それぞれその文字で始まることばを考えます。
「あ」のつくことばに何があるかな?…そうだ「あり」だ。
「い」のつくことばは…「いし」にしよう。
「う」のつくことばどうかな?…「うれしい」がいいな。
「え」のつくことばは?…そうだ、「えんそく」だ。
「お」のつくことばはーっと?…「おおごえ」にしよう。
これをつないで文作りをします。たとえば、
ありさんが
いしの上で
うれしそうに
「えんそくだ!」と
おおごえだした
というように作るのです。
 友だちの楽しい作品をしょうかいしましょう。
あしたは はれかな
いいことあるかな
うれしいことがあるかな
ええことあるかな
おもしろいことあるかな

あめがふりそうだったので
いそいで家にかえったら
うん動場に
えんぴつの入ったふでばこを
おいてきました
 私は、この「あいうえおの文作り」は、物語作りだと思っています。実話でなくてよいのです。制限された文字から始まることばによって刺激を受け、自分の中である事や物を想像し、あるいは思い出して、自分の世界を創り上げるのです。テーマが一貫している方が高度ですし、おもしろいのです。
 このあいうえお絵本はたくさん出ています。多くの絵本作家と言われる方が挑戦しておられます。しかし子どもの作品がそれらに遜色ないものになることを私は見てきました。
 次の作品はどうでしょうか。
あんた
いつも
うるさいな〜
え〜やん
おこってばっかりうるさいわ
 これは、どうもだれかに対して言っているようです。作者の思い、本音が、「あいうえお作文」という制約の中で表現されたのです。私は、こういう制約がかえって子どもの中の思いを引き出すことがあることを指摘しておきたいと思います。実は「自由に書け」ということぐらい不自由なこともない…ということも一面の真理なのです。「子どもによっては」という制限をつけた方がよいかも知れません。教師の誘いかけのことばが、子どもの書きたいことを引き出したり、書く勇気を与えたりすることは、多々あることです。
 俳句が「季語」「五七五「折句」という手法などという制約をもっているのは、実は制約することがかえって表現を自由にするという逆説でもあるのではないかと考えます。
 次の作品は、四年生の子どものものです。私はどきっとしました。
やきもち
ゆがんで
よいことないかも
 私たちは、子どもをバカにしてはいけません。子どもの精神生活は私たちが考えているより進んでいるのです。

3、アクロスティック
 次に「アクロスティック」という遊びです。先ほどの「あいうえお作文」や、川柳や俳句の「折句」と言われるのもこの仲間です。
 人名やものの名前などを各句の一番上に置いて、それを意味あるものにつないでいくのです。よく自己紹介をこれでしておられるのを見かけます。学級開きで自分の名前を使って紹介し合うのも楽しいです。たとえば、
花田さんは、次のようです。
はなが好き
なかよしなのはみさきちゃん
だからいっつもあそんでる
 昆虫大好きぬはるのぶ君はこんな自己紹介です。
はれた日に
るんるん
の原で
ぶんぶんをとる
 私は、学校紹介をする時に使っています。私の学校の名前は「柏野(かしわの)小学校」です。野外学習で学校紹介をしなければならなかったので、全員でコールするのに、この遊びを取り入れました。もちろんそのセリフはみんなで考えるのです。こんな学校紹介です。
か…かめが10ぴき
し…しまうまが3とう
わ…わにが1ぴき
の…のうさぎが20ぴき…いません。
か…かしこい子ばっかり
し…しわせな気分で
わ…わるい子はいません
の…のりのりの毎日です
 などと作りました。さて、一つ目と二つ目、何が本当で何が嘘なのか…ウウンどっちもあやしげだと聞いている子は思ったでしょうか。
 また「アクロスティック」は、「一年生を迎える会」「六年生を送る会」などのメッセージを言う時や、学級目標を作る時にも使えそうです。
4、回文づくり
〜上から読んでも下から読んでも同じ〜
 むかしから有名なのには「しんぶんし」「たけやぶやけた」などがあります。
 かんたんに作る方法は、二文字の言葉で、上から読んでも下から読んでも意味のある言葉を見つけて、それの間に「くっつき(助詞)」を入れて作る方法です。
 「○△は△○」「○△を△○」「○△の△○」「○△が△○」「○△に△○」などと作ってみましょう。
 二文字のことばで、案外たくさんあります。
 「かば」・「わし」・「かい」・「しか」などですね。これらにおもしろくお話を作るつもりで「くっつき(助詞)」を入れてみましょう。
 それでは、いくつか紹介しますから、参考にして下さい。
・タイがいた(たいがいた)
・北の滝(きたのたき)
・セミの店(せみのみせ)
・今朝は酒(けさはさけ)
・口がチク(くちがちく)
・元は友(もとはとも)
・ワニの庭(わにのにわ)
・タカの肩(たかのかた)
・がけでケガ(がけでけが)
・ろうやのやろう
・イルカは軽い(いるかはかるい)
・ぶつぶつのつぶつぶ
・つい会いたいあいつ(ついあいたいあいつ)
・短気な金太(たんきなきんた)
・タックが食った(たっくがくった)

5、にたものことば遊び
 「ぶた」と「ふた」はだく点がつくだけでにています。
 「ぶたにふた」したらかわいそう!でもおもしろそう。
 「こむすび」と「おむすび」は一字ちがいです。「こむすびのおむすび」ってどんな味かな?大きそうですね。
 にたものことばをつないで、お話作りをしてみましょうというのがこの遊びです。ツッコミを入れながら読むとおもしろいです。
@ライオンの体温(熱でもあるの?)
Aパンダのパンツ(何色?やっぱり白と黒のもよう?)
Bしょうじきなそうじき(正直なそうじ機…どこにある?そんなそうじ機)
Cぼうちょうするほうちょう(膨張する包丁…こわい!)
Dほうじにそうじ(法事にそうじ…いそがしいのに)
Eうちゅうにむちゅう(宇宙に夢中…そんな人もいる)
Fかけでまけて、がけに落ちるかげ(かけごとは身をほろぼすよ)
Gキックはきくときくち君(気の毒なきくち君)
Hびんぼうなマンボウがしんぼう(ガンバレ!)

6、洒落ことば遊び
  洒落と言えば、語呂合わせなどで、人を笑わせる気の利いた言葉の意味です。センスの良いおもしろいことば遊びというニュアンスを持っていることばです。
 それに駄がつくと(ダジャレ)、「つまらない、しょうもない、平凡な」などの価値が付加され、「おやじ」が付くことによって(オヤジギャグ)、「しょうもない事言うな!中年オヤジ!」という誹謗中傷の悪意をもったことば遊びになったようになります。しかしながら、洒落ことば、語呂合わせは、落語など古典芸能や古典と言われている文学作品の中にもいくらでも使われているものです。
 子どもたちは喜んでたくさん作ります。子どもたちと「しゃれことばあそび」をしてみました。
・プリンはえいようたっプリン
・オルガンをおる、ガーン
・牛を買う
・イカつったらイカんとイカのいかり
・エイはエイよ
・マスをつりマス
・ブリくったらうんこブリブリ
・もちをもち帰る
・おにのおにぎり
・白にしろ
・父さんはここから通さん
・ようかいに用かい
・わしはわしだ
・ヘビー級のへび
・カンガルーがかんがえるー。
・ゾウの銅像
・トラをとらえる
・げたがにげた
 ことば遊びが持っている楽しさ・風刺性・感性の磨き・イメージの転換、拡大、意外性の妙など、これらがもっと生かされる場があってもいいのではないかと思っています。               
 子どもの作文を読み合う
(2008・11月号)
1、表現各過程と読み合う授業の大切さ
 作文や詩をそして日記を、どのように書かせるのか(教師の側から言えば『書かせる』であり、子どもから言えば『書く』)ということも大切なことですが、そこから生まれた作品をクラスでどのように読み合うのかについては、書かせる指導や方法と同じぐらい大切にしなければならないと思います。
 それは、子どもの作品を読み合うという活動が、子どもの生活に対する姿勢を鍛え、物事をしなやかな感性でとらえ、認識を確かに豊かにするからです。そして、そのことが言葉と表現を鍛えることにつながるからです。また、読み合う授業が、子どもたちの次の表現へとつながっていくからです。私たち生活綴方の仕事を大切にされてこられた先輩は経験としてこのことを実感され、主張してこられました。
 ところが、文部科学省やそれに追随する官製の研究会は、子どもの作品を読み合う授業については、重視してきませんでした。
 『鑑賞批評の授業』という言い方を日本作文の会はしてきました。はたしてこの用語が適切かどうかについては、議論をするべきであろうと思いますが、とにかく、『読み合う授業』を大切にすると言う点においては、一致して私たちが主張してきたと言えます。
 少し脱線しますがお許し願います。
 大阪の先生たちは「書く前の指導」と「書いた後の指導」という言い方をされます。大阪の先生たちは『指導』を大切にしておられるのです。それを指導をしないかのごとく誤解することは間違いです。何もせずに書かせておられるわけではないのです。また、時には何もしないことが指導であると思っておられる場合もあると私は理解しています。
 日本作文の会は、表現過程を「表現意欲喚起・取材・構想・記述・推敲・鑑賞」としてきました。文章表現一般の過程をこのように分析するのは、正しいと私は思っています。この分析によって明らかになることが多くあり、これを意識的に取り入れることによって、日本の作文教育は前進したと思っています。
 しかしながら、「鑑賞批評」が、表現各過程に入っていることの違和感が私にはありました。表現はあくまでも個人的な営みであり、推敲で完結するのです。一般的な表現過程で言えば「表現意欲喚起・取材・構想・記述・推敲」でよいのです。「鑑賞批評」は、学級という集団で行う作文指導を前提に、指導過程として考え出され組み込まれた「表現指導各過程」の一つなのです。
 そういえば、「表現意欲喚起」という語も『表現過程』という概念から言えばおかしな用語です。「表現意欲想起」ではないでしょうか。「喚起」は児童生徒に対して「喚起」させる指導なのです。
 つまり、私の言いたいことは、日本作文の会の『表現各過程』というのは、表現指導各過程と一体で考え出されたものであったと言うことなのです。
 このように表現指導を定式化しますと、当然のことながら、それぞれの過程での指導のあり方が議論になりますし、研究の対象になります。大阪の先生たちの主張は、指導過程の細分化がもたらす弊害への警鐘であったと私は理解しています。
 先ほど「とにかく、『読み合う授業』を大切にすると言う点においては、一致して私たちが主張してきた」と書きました。この一致点を大切にこれからもしていきたいと私は考えています。

2、読み合う授業での発問について
 子どもと作品を読み合う時、どんな発問が考えられるでしょうか。私が準備する発問はそれほど多くありません。列記してみます。( )内はこの発問をするねらいです。

@好きなところはどこですか。そのお話をしてください。
(作者へのはげましと共感を広げる)
A思ったことや感じたことを言いましょう。
(読み合う授業にある程度慣れてきたら、これが一番あっさりしていて多様な意見が聞ける。必ずしも読み手は書かれていることに賛同しない場合もある)
B○○さん(作者)らしいなあと思うところを発表しましょう。
(自己表現であることを大切にした発問。@と同じく作者へのはげましと共感が基本にある。一方で個の生活と表現が一致していることを確かめている発問であるとも言える)
C読んでいて作者と同じだなとか、同じような体験をしたことがあるなということを発表しましょう。(作者への共感・わたしもこのことが書けそうだなという表現意欲の喚起)
D作者に、聞きたいことはありませんか?(共感が基本にある前提で考える。分からないことを明らかにする質問。書かれていないことを質問することで、より作者へ近づく。作者の思いや考えを明らかにする)          

 私は、普段の一枚文集を読み合うだけのことなら、子どもたちと感想を言い合って終わるだけでよいと思っています。ですから、前記の五つの発問の一つか二つを言うだけで十分です。何よりも書いた子が「書いてよかったな。また今度書こう」という思いをもってくれたらいいと思っています。

3、読み合う授業の実際
 しかし、時に私は次のような授業もします。
 それは、私がクラスの子どもの表現についてもっと伸ばしてやりたいと願い、ここに課題があるなと感じている事項について説明したり、具体的に教えたい時です。子どもがこれからも表現する時に、このことを身につけておいた方がよいと判断した内容について、クラスの子の作文や詩を使って授業をする場合です。
 私は、何をこそ丁寧に思い出して書くのかを、作品に即して指導することが大切であると考えています。それは、主題との関わりで明らかになると考えています。子どもが主題意識を持って作文や詩が書けるようになることは大切です。
 主題と描写について教えたいと考えた時の授業を具体的に書いてみます。
 段落番号は、立ち止まりのために打ちました。

すこしかなしい日
                   K・M
@今日は、お姉ちゃんの手じゅつの日です。
Aますいするのが十一時からなので、九時にいきました。九時はまだねているかもしれない時間でした。でも、今日は、ねむ気じゃなくて、きんちょうでした。
B病院についたのは、九時半ごろでした。わたしは、
「エコサマー。」
と言って、バスをおりました。
Cお姉ちゃんの病室は、五かい五六○号室です。六人部屋の入ってすぐ右の所です。お姉ちゃんは、テレビを見ていました。
D手じゅつ室に行く時間になったので、お姉ちゃんは、あまりみんなの顔を見ないようにして、
「じゃあ。」
と言って、手じゅつ室に入って行きました。その時わたしは
「いってらっしゃい。がんばってね。」
と心の中で言いました。
E手じゅつが始まったのは、だいたい十二時ぐらいです。一時間ぐらいしてから、談話室にお昼を食べに行きました。うめおにぎりとサンドイッチ三つです。すこしゲームをしてラウンジにもどると、たかちゃん(イトコの高二のお兄ちゃん)とおばあちゃんとおじいちゃんがいました。わたしはゲームをしました。けっこう時間がたったので、手じゅつ室のまえで、お姉ちゃんをまちました。たかちゃんも来ました。まだかなと思いながら、たかちゃんと遊びました。
F手じゅつがおわったのは、三時でした。ベッドにねころんでもどって出て来たのは、お姉ちゃんなのに、お姉ちゃんじゃないような感じでした。お姉ちゃんは、いつも元気でたよりになったのでちがうように思えました。
「明日には元気になっているかな?」
おばあちゃんに聞くと、おばあちゃんは、
「今日よりはな。」
と言いました。
G今日遠い方のおばあちゃんの家に行くので、
「行ってきます。」
とお姉ちゃんに言いました。
Hお姉ちゃんは、今元気です。

 私は、次の四つの発問を用意しました。
@読んで思ったこと、感じたことを発表しましょう。
AMさんに聞いてみたいことは、ありませんか。
BMさんが一番書きたかったこと(作文のテーマ・主題)は何でしょう。
CMさんが、お姉ちゃんの様子をよく見ているところをしっかり読みましょう
 以下発問と子どもの発言そして森澤さんの答えです。

@読んで思ったこと、感じたことを発表しましょう。
・お姉ちゃんは、手術こわくないのかなあと思いました。
・今、元気でよかったなあと思いました。
・手術がうまくいってよかったと思いました。
・Mちゃんは、やさしいなあと思いました。
 「同じや。」という声がいくつかの発言に寄せられました。子どもたちは、森澤さんの気持ちに近づきながら読めたようです。

AMさんに聞いてみたいことは、ありませんか。
 これは、立ち止まり毎に聞きたいことを確認しました。
@では
・「今日」というのはいつですか? 
 八月十四日です。
・お姉ちゃんは何の手術をしたのですか?
 りらん性骨軟骨炎で足のかかとを手術しました。
Aでは
・だれと行きましたか。
 お父さんといっしょに行きました。お母さんはその前に病院に行って私たちが来るのを待っていました。
Bでは
・どこの病院ですか。
 京都府立大学病院です。
・「エコサマー」って何ですか?
 京都市バスが夏休み中だけ、小学生の親子が乗車した場合、子ども料金を無料にする取組を「エコサマー」と言うのだそうで、彼女はそれを利用するために、降車時に「エコサマー」と言ったのです。これは私もわけの分からないことを口走ってふざけたのかと思っていました。
 ここで子どもたちが質問していることは、書かれてないために分からないことです。読み手に分かってもらうためには、書く必要のあることです。
 字数が足りないので省略して最後のHでは
・今お姉ちゃんはどうしていますか。
 今、お姉ちゃんは松葉杖をつきながらですが、学校へも行っています。
 この質問が、一番森澤さんの心に近づこうとしている質問かもしれません。

BMさんが一番書きたかったこと(作文のテーマ・主題)は何でしょう。
・お姉ちゃんが手術して、心配したこと
・お姉ちゃんの手術がうまくいって安心したこと
・心配したけど、今は安心したこと
などの意見が出されました。

CMさんが、お姉ちゃんの様子をよく見ているところをしっかり読みましょう
 この発問をする前に、私は森澤さんの作文のテーマを確認しています。お姉ちゃんの手術を心配したことを、そしてうまくいったことを書きたいのなら、お姉ちゃんがどんな様子だったのか、私はどんな気持ちになったのかを丁寧に思い出す必要があることを強調した上で、次の箇所に注目させたのです。
 Dの段落の
『お姉ちゃんは、あまりみんなの顔を見ないようにして、
「じゃあ。」
と言って、手じゅつ室に入って行きました。』
のところです。これを森澤さんは意味ある行動として意識したから、書いているのです。お姉ちゃんがみんなの顔を見なかったのは、見ると泣きそうになったからでしょうか。
 また、お姉ちゃんのこの時の気持ちをくんで、次の行動をとります。
『その時わたしは
「いってらっしゃい。がんばってね。」
と心の中で言いました。』
 なぜ、心の中で言ったのでしょうか。ここに現代の子どもの繊細な気づかいを感じ取ることができます。
 同じような気づかいはFの段落にも見られます。
 なぜおばあちゃんに「明日には元気になっているかな?」と尋ねたのかと言うことです。
『お姉ちゃんなのに、お姉ちゃんじゃないような感じでした。お姉ちゃんは、いつも元気でたよりになったのでちがうように思えました。』というお姉ちゃんの様子に対する描写がヒントになります。しかし、これはお姉ちゃんの具体的な描写としては弱いとは思いますが。
 「Mちゃんはやさしいなと思いました」という感想は、お姉ちゃんの様子と自分の行動を描写しているからこそ出てくるの感想なのです。表現を大切にして読むというのは、こういうことだと私は思っています。
 書かれていないことに難癖をつけるのではなく、書かれていることから積極的な表現を学び合うことが大切かと思います。勿論、不十分さは思いつつですが。
 
 私の言いたいことー詩を書く授業ー 
(2008・12月号)
1、長崎の巡回講演会へ
 来年の第五十八回日本作文の会大会は長崎で行われます。その巡回講演会の講師を頼まれて長崎へ行って来ました。この巡回講演会かなり講師にはハードな内容で、まず、授業を公開します。続いて十五分後に一時間の講演をするというものでした。事前に相当準備が必要です。
 長崎作文の会は、私の前に他の方に講師依頼されました。が、日程的な問題と作文の授業は自分のクラスでするものだという理由でお断りになったそうです。ごもっともな理由です。私も断った方がよかったのです。私の学校も二期制で、前期終了式が十月九日です。講演会が行われる時は通知表作成の真っ直中。自分で自分の首を絞めるのは明々白々でした。
 それなら、十月三日早朝に飛行機に乗ってその日のうちに戻るような計画にすればよいのに、私は二泊三日で長崎へ行って来ました。私は、明治時代の煉瓦建築や洋館の宝庫である長崎に興味があってそうしたのです。そのほうが、長崎の方たちとの交流会にも参加できるし、不測の事態が起こる可能性も少ないという理由もあったのですが。
 しかし、この三日間で私は望外の長崎を体験することができました。原爆資料館で聞いた城山小学校女教師の被爆体験の話に涙がこぼれました。永井隆医師のことも考えさせられました。江戸時代二百数十年間禁教であったキリスト教でしたが、それでも信仰を守り続けた潜伏キリシタンの方たちのこと、友人のためにアウシュビッツ収容所で飢餓刑を甘んじて受けお亡くなりになったコルベ神父のことなどなど、長崎にはいかに生きるかを問う内容の話がたくさんありました。軟弱な生き方しかしてない私にも「ナガサキの心」が熱く伝わってきました。
 長崎は色々な魅力のある町です。来年夏の大会はそれぞれの楽しみを持って集まりましょう。
 というようなレポートをするのがこの連載の本意ではありませんが、まあいいか。

2、詩を書く授業 
 私は、こんな授業をしてきました。

国語科(作文)学習授業案
1,日時   平成二十年十月三日(土)
2,児童   長崎市立西坂小学校一年二年
3,単元名   わたしの言いたいこと
4,単元目標
・自分のくらしをふりかえって言いたいことが言える。(表現意欲喚起)
・だれに、どんなことをどんな言い方で言うか考えられる。(取材・構想)
・その人に話すように自分の心が届くように書くことができる。(記述)
・自分の作品を読み返すことができる。(推敲)
・友だちの詩を読んで、好きなところ共感できるところを見つけることができる。(鑑賞批評)
5,単元について
 『言いたいことを言う』ことは、自分らしさを発揮するための最初の一歩であり、自己表現そのものであるといえましょう。
 「言いたいこと」をだれにも遠慮なく言うことが出来たらどれくらい気持ちがよいことでしょう。でも現実には言いたいことの半分も言えずに黙っていることが大人も子どもも多いのではないでしょうか。『言いたいことを言う』ことはリスクを負うことでもあるからです。いっぱい気を遣いながらできるだけ波風たてずにくらさなければ現代という時代は生きにくいのです。
 児童詩の大切な指導の中に『話す=放す』という過程があります。自分のいつも話していることばで、気取らずに訴えるのです。心を解き放すのです。書いてスッキリした、書いてよかったという爽快感を味わってほしいと思います。 私はこのことの持つ意味はますます現代を生きる子どもには大きな意味を持っているのではないかと考えています。
 話す(放す)ように書くことでリズムが生まれます。自分の内在律に合わせて自分の思い・願いを引き出す授業ができたらいいなと考えています。
 また、それを読み合うことで、友だちをより深く理解できることも経験したいと思います。
6,児童について
 長崎市立西坂小学校一・二年生、二十一名の子どもたち
7,指導計画(全2時間)
一、自分のくらしの中から言いたいことを見つけることができる。
二、書き出しを考え、言いたい相手に効果的に伝えるためにはどう書けばよいか考えて書き自分の詩を発表できる。(本時1/2)
三、友だちが書いた詩を一枚文集にして読み合い、その詩のよいところ好きなところを見つけたり自分の表現に生かしたりできる。
8,本時の目標
・自分の生活の中から「言いたいこと」をみつけ、効果的に相手に伝える表現で詩を書き、発表できる。
9,本時の展開
学習活動  教師の発問と予想される子どもの反応  指導上の留意点 
自己紹介
歌を歌う

心って?



心の動き


作品紹介
詩を書く

詩の紹介
小宮山繁と言います。
小宮山先生といっしょに歌を歌ってくれますか?
どこで「あんなことしたい」とか「こんな所へ生きたい」と思うのだろう?
心ってどこにあるのだろう?
  心臓  頭
心ってどんな形してるのだろう?絵に描いてみましょう。
心の絵はかけたけど、心の中で思っていることはどうすれば人に見せられるでしょう?
心の動き(ふるえ)にはどんなものが ある?(気持ちのことばには?)
・わくわく・うれしい・楽しい・かんしんする・すごい!
・かなしい・つらい・はずかしい・はらがたつ・むかつく・いらつく
全国の友だちは心の中にどんな言いたいことを持っているか見てみましょう。
だれかに今一番言いたいことを書いて みよう。

・○○さんの詩を紹介します。
 
ゲーム 
「ドラえもんのうた」楽譜



絵を板書する
詩ということ ばを教える
それを詩に書く


参考作品用意
だれに?なにを?
カード用意
作者の了解

 この時に使用した参考作品は次のようなものでした。
@おとうさんのまね
   二年 えさき しんじ
ぼくは、おかあさんに、こういいました
「おい、ねまきとパンツもってこい。」
おかあさんは、ぼくのあたまをつかんで、
ふろのなかへつっこみました。
だからなきました。
でも、すぐなきやんで
じぶんで、ねまきとパンツをとりにいって、
また、おふろにはいりました。
そしてまた、おかあさんに、こういいました。
「おい、バスタオル もってこい。」
だから、おしり五はつぶたれました。
(ココロの絵本から)
Aわたしも言うよ
   二年 中田 るみ
ピアノからかえってきて、すぐに
「しゅくだいしー。」
「しゅくだいしー。」
て言われるけど、
わたしだって、
学校でもいっぱい手をあげてるし
作文もいっぱい書いてるし、
本読みもいっぱい読んでるし、
算数も九九だって
いっぱいがんばってしてるんやで。
わたしがしゅくだいしているあいだ、
おかあさんはねころんでる
わたしだって、
きゅうけいして、ねころばして。
(ココロの絵本から)
Bふるたくんのひみつ
      一年 はら えいじ
せんせい しってた?
ふるたくんって
ゆみちゃんがすきなんやで
まえふるたくんがゆってた
まえはみかちゃんとケーシーちゃんが
すきってゆってはった
でもいまは
ケーシーちゃんはきらいで
みかちゃんはふつうらしいよ
で、ゆみちゃんがすきなんや
きょうれつにこわいとこと
やさしいとこが
すきなんやて
(文集「ぼちぼちいこか」より)

Cずっといっしょにいたいな
     二年 中村 ひびき
おとうさんは いまにゅういんしています
おとうさんに早く帰ってといいたいな
ちょっとずつ
がいはくをふやして
帰ってきてちょうだい
学校でこんなこといろんなことあったよって
いろいろいいたいな
かぞくそろってまっていたよって
いろんな話をもっともっとして
いっしょにあそんだりしようね
ほんとに早く!
帰ったらいっしょにいろいろしようね
(文集「ぼちぼちいこか」より)
Dおにいちゃん
   二年 後藤 よし花
おにいちゃんは
タクシーや家で
お母さんにおこられたら
わたしにかたをくんだりたかいたかいをしてくれたり
かばってくれたりする
したにおりるときおんぶもしてくれる
かたぐるまもひこうきもしてくれる
わたしはおにいちゃんにひとこといいたい
ありがとうって
(文集「ぼちぼちいこか」より)
Eまほちゃん
    二年 おち りつこ
あんなあ
ちょっといいたいねんけどなあ
まほちゃん
いっつもにこにこわらっているけど
どうしたら
そんな人をしあわせにできるようなえがおになんの?
わたしめっちゃくちゃ
うらやましいわ
できればそのえがおほしい
(文集「ぼちぼちいこか」より)
Fつまんねえ
    三年 遠藤 卓
つまんねえ、つまんねえ。
雨がふっていてつまんねえ。
それにファミコンはこわれている。
つまんねえ。
友だちさそってみたけれど、
みんなあそべないって。
そんなばかな。
つまんねえ。
(ココロの絵本から)
                           
 子どもたちは「おもしろかった」と言ってくれました。 授業終了時ある先生が、「感動しました」と言って握手をしにこられました。講演会を計画された長崎の先生たちは喜んでくださったようでした。まあ遠来の授業者前にけなす人もいないでしょうけど。
 私は授業を終えて、ホッとしました。

4、しまった!
 クラスの子どもたちにお土産の「カステラ」を買って帰ることにしました。長崎と言えば「カステラ」と思ったのです。
 月曜日に長崎で感動した話をいくつかして、さっそくみんなにカステラを配りました。「やった!」「おいしい!」教室に歓声が起こりました。
 ところが、茉奈ちゃんが私に
「小宮山先生、Kちゃん…」
とKちゃんを見るようにうながしました。「エ?」私が見るとKちゃんが泣いています。シマッタと思いました。Kちゃんは卵アレルギーで除去食を食べている子なのです。みんなが喜べば喜ぶほど彼女は悲しくなったのです。私に悪気は全くなかったのですが、カステラとは結びつきませんでした。
「Kちゃん、豚まんは?それもだめ?絵葉書でかんべんしてくれる?」
 何ともかんとも…困りました。
地域に根ざす生活綴方教育ということ 
(2009・1月号)
1、柏野小学校からの発信…新聞づくり
 四年生の総合的な学習の時間に、国語の学習(『アップとルーズで伝える』)を連動させながら、学校のことや、学校にあるものについて調べて文章にまとめ、それを写真も入れながら新聞づくりをするということに取り組みました。まず、何について調べるのかを決めることにしました。
 子どもたちが作りたいと思った新聞とその概略です

@校長先生新聞
 これは、歴代の校長先生について調べるといういうものです。学校長へのインタビューと校長室訪問、歴代の校長の写真をみてくるという方法で取材しました。今まで何人の校長がいたのか、その中で女性は何人か?メガネをかけているのは何人か、白黒写真の人はなどをクイズ形式にしてまとめていました。先代の校長先生の写真をアップにし、
校長室全体をルーズにした写真を入れて作成しておりました。

A屋上のひみつ新聞
 私の学校の屋上は、相当恐い思いをしなければ上れません。子どもたちが在校中に上ることはまずありません。一年に一度貯水槽の点検のために業者の方が上られるぐらいで、出入り口は堅く施錠されていて、狭くて落ちたらまず助からないような垂直な階段に飛びついて上らなければならないからです。学校の屋上から俯瞰して校区の様子を見るというような学習は望めません。子どもたちが屋上を意識するのは、ボールをあげてしまった時ぐらいなのです。
 屋上には何があるのか、どんな景色が見えるのか、ボールは何個ぐらいあるのか、それを新聞にしようというわけです。この取材はなかなか難しいことになりました。とりあえず、上るためにはどのような順序で上るのかをいっしょに体験してもらいました。しかし、階段に飛びつく辺りからは危険なので、用務員さんにお願いして、屋上の写真を撮っていただくことにしました。取材する子どもたちは固唾をのんで用務員さんの雄姿を見ることになりました。何故私が上らなかったのかというと、私は高所恐怖症で足が震えるからです。
 子どもの書いた記事です。

■屋上の様子は?
 屋上の様子は、このとおり、貯水槽(タンク)と風力発電ぐらいしかありません。
 みんなが知りたいと思うボールはなんと…ソフトボール8こしかありませんでした。
 この写真を見ればわかるけど、屋上には、意外に手すりがあるのです。(*これは貯水槽から水道へ水を送る配水管のようです…小宮山)(後略

B教室の天井にあるもの新聞(OHPスクリーン)
 私たち教師にとってOHPスクリーンがあるのは不思議でも何でもありませんが、子どもたちにとっては不思議なのです。OHPスクリーンは一年に一度も使用しないことも考えられます。四年生の子どもたちが、四年間使ってきたそれぞれの教室に天井からぶら下がっているあれは何?と思って当然です。
 これは調べようがなかったのですが、まずインターネットでOHPスクリーンを検索してみました。しかし思うようなものは出てこないので、スクリーンだけで検索をかけると何とかなりましたが、会社の宣伝でした。
 しかたがないので、全面的に小宮山先生がインタビューを受けることにしました。私自身はOHPからOHCさらにPCへと変化する教室の視聴覚機器のことを語りました。また16mmフィルム映画、テレビ、ビデオ、PCやDVD視聴へと変化してきたことも話しました。

2、考える人新聞
 私の学校の正門に「考える人」像があります。裏に「柏野小学校PTA」と「柏野小学校教育後援会」の文字が刻まれています。それについて調べたいというのです。
 二宮金次郎像がある学校は多いと思いますが、「考える人」は少ないと思われます。
 子どもの関心は、「考える人」そのものにあるようです。インターネットで「考える人」とロダンについて調べました。ロダンの名前の長いことに興味をひかれたようでした。そして、地獄門の一部だということにも興味を持ったようでした。しかし、そのあとが続かないようでしたから、アドバイスすることにしました。
○「考える人」はいつごろ正門前に作られたのだろう?
○「PTA」や「教育後援会」の人はなぜ校門前に「考える人」の銅像を置いたのだろう?どんなメッセージがあるのだろう?
 調べ方としては、「柏野小学校五十年史」を調べることと、自分たちのお父さんやお母さん、おじいさんやおばあさんなどの中で柏野小学校出身の方たちに聞くことにしました。私は、「柏野小学校五十年史」に書いてあるだろうとタカをくくっていたのですが、記述がありませんでした。
 調べた子どもの中のおじいさんが、こんな話を聞かせてくれました。戦争前に学校の校門の所には、二宮金次郎と楠木正成の像があったというのです。そしておばさんが学校に通っていた頃に確か「考える人」に替わったというのです。二宮金次郎と楠木正成は、戦争中に供出されたように思うということもおっしゃったようなのですが、はっきり思い出せないということでした。
 「考える人」が、PTAと教育後援会が設置した理由についてはおおよそ想像がつくのですが、私は二宮金次郎じゃなく「考える人」にするために論議があったのではないかと想像して知りたいものだと思っていました。
 それにしても転任してわずかしか日にちがたっていない教師が地域教材を発掘するのはなかなか難しいことです。教師が腰落ち着けて地域にねざした学習をするためには希望するものは長くいられるようにすべきだと思います。

3、柏野石碑新聞
 私の学校の砂場の後ろに石碑があります。
 学校に唯一ある石碑です。その石碑にはこんな文字が刻まれています。これについて調べたいというのです。

■表側
 朝鮮民主主義人民共和国
 帰国者西陣集団一同
■裏側
 千九百五十九年九月十九日
 
 実は私もこの石碑については転任した時から気になっていました。おそらく学校の敷地内にこのような石碑がある学校は珍しいものではないでしょうか。
 私の勤務する柏野小学校のHPの学校の歴史の中にこんんな記述があります。
・昭和二十六年(一九五一)一月二十六日 朝鮮児童課外授業開講式(民族学級)
・昭和四十二年(一九六七)三月三十一日 民族学級閉鎖
 十六年間民族学級が行われた学校だったのです。その間にこの石碑も建てられたことになります。
 私は困難を予想したのですがその通りになりました。
 まず、学校にその当時の資料が全く残されていないのです。五十年史もふれていません。そして現在在日韓国朝鮮人子弟はほとんどいないのです。仕方がありません。帰国事業についてインターネットなどで調べることにしました。そして、子どもが書いたまとめです。(…小宮山)とあるのは私の補足です。そしてそれのない(  )はこの文を書いた子が辞書で調べたことです。
柏野の石碑について 
 在日朝鮮人というのは、戦争の時につれてこられた朝鮮の人のことです。(正確な意味としては日本に住んでおられる朝鮮人ということです。…小宮山)
 何のためにつれてこられたかというと、大変な作業や仕事に取りかからせるためにつれてこられました。(在日朝鮮人の中にはもちろん自分の意志(気持ち)で日本へ行こうと決めてこられた方々もいました。…小宮山)
 それと日本と北朝鮮の間は、昔には(実は今も…小宮山)国交(国と国との交流。また仲よしになること)ができていなかったので、日本赤十字という物(団体)と朝鮮赤十字という物に分かれていました。それで実務が行われていました。(これも正確ではありません。日本におられる在日朝鮮人の方々の中で、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)へ帰国希望する人を帰国させるお世話を両国政府ではなく赤十字が行ったということです。…小宮山)
 (この帰国事業は…小宮山)一九五九年十二月十四日に最初の帰国船(国に帰るために作られた船)が新潟港(新潟県という都道府県につくられた港)から出港して、何度かの中断を(と中で止めること…小宮山)含めて、一九八四年まで続いた。
 その帰国船の帰る時の一番最初の日に帰った人(たち…小宮山)がほりのこしていった石碑が学童の前の石碑です。(あとの説明にある年月日から察すると第一陣で帰国された可能性が高いと判断されます。…小宮山)(中略)
 調べてみた結果、その日は帰国船の出航する始めの日でした。(三ヵ月後の新潟出航です…小宮山)なので、その石碑をほった人は帰国船の出航の初めの日に帰ったと分かりました。(おそらく最初の帰国団に相当数の柏野地域の方々が含まれていたことが予想されます。帰国者西陣集団は必ずしも柏野の方々だけとは限りませんが、柏野小学校に石碑があると言うことは、柏野がその集団で大きな位置を占めていたことが予想できます…小宮山)(中略)
 在日朝鮮人は、日本から地理的に近い朝鮮半島南部出身者が多かったが、そのような人たちにとっては、住んでいなかった国でありますが、異郷(ふるさと)への帰還(自分のいる所からほかの所へ行き、また自分のいる所へ戻る事)となりました。
 ぼくは、さ別なしに北朝鮮との国交をすれば、北朝鮮などどけんかなどしなくてもよくなるだろうと思いました。

 四年生の子どもがこの帰国事業について理解することは大変難しいのです。理解するためには当時の在日韓国・朝鮮人の方々の状況や日本と朝鮮・韓国との歴史的な経緯などの理解が必要です。それに加えて、なぜ柏野校区に在日の方が多く住んでおられたのかについての理解が必要になります。京都の伝統産業西陣織と在日の問題について調べる必要がありそうです。校区の西側を流れる紙屋川の歴史も関係がありそうです。あの石碑のもつ意味を理解するのはやはりなかなか難しいことです。
 そして、今あの帰国運動がどういう意味があったのかの問い直しが行われていて、証言をしてくださる方の口が堅いという現実もあると思われます。
 「学校沿革史」という簡単な資料が校長室にあり、その中に興味深い資料が見つかりました。児童数の変遷が分かる資料です。それによりますと、この一九五九年前後の児童数に驚くべき変化があったことが分かりました。
柏野小学校児童数の変遷
年度  児童数 学級数
1944 818  ?
 1950  907  19
 1958  950  20
 1959  ?  ?
 1960  912  19
 1961  665  14
 1962  599  14
 1963  546  13
 2008  119  7
  分校が分離独立でもしないかぎり一年で二百五十人近い児童の減少が考えられるでしょうか。わずか六年間で四百人の児童減少!という事実とこの帰国運動が関係あるのかないのか。この時代は団塊の世代が通い終わって、卒業する時期と重なりますから、必ずしも帰国問題だけがこの減少の理由とは言えないと思いますが、それにしても…です。
 仕方がないので私の体験を書くことにしました。

4、私の体験 
 私は一九五九年当時四年生でした。
 同じクラスに金森明親(金明親)さんと言う子がいました。元気な女の子でした。ある日突然だったのですが、担任の先生が
「金森さんが、自分の国へ帰ることになりました。」
と言われました。同じ学年に数名の在日韓国朝鮮人の子どもたちがいまして、その中の一人が金森さんだということはみな知っていました。
(他の子も帰るのかな?)
と思いました。しかし、そういう疑問を先生にだれも聞かなかったと思います。子どもである私は、在日の方々の団体が二つあることも、朝鮮半島が二つの国に別れていることもはっきりとは知りませんでした。
 クラスの女の子が、金森さんが帰国するから記念に「万年筆」を送ろうとみんなに呼びかけて、百円集めてプレゼントしたという話をつい最近同窓会の幹事会で知りました。私がそれにお金を出したのかどうか記憶がありません。
 その女の子が、「カートリッジもいっしょにあげないと、むこうで使えないのでは。」
と心配して金森さんにたずねたら、
「私の帰る国はカートリッジもいっぱいあるから大丈夫。」
と答えたと言うのです。
 金森さんは、ゆめをいっぱいもって帰国したのだなと思います。
 最近になって、帰国した人々が大変苦労されたし、今も日本への帰国が実現していないという心配な情報が入るようになりました。今、金森さんは、どうしているのかなと柏野の石碑を見るたびに思います。
 たぶん私の年代のもの(五十代後半)は、級友の在日朝鮮人の帰国を覚えていると思うのですが、『柏野の五十年史』という冊子にも何の記述もなく、ただ石碑だけが現在残されているというのが現状です。

5、地域にねざす生活綴方教育
 生活が加速度的に激変していく過程で「わからない事物」がますます増えました。残った事物を拾い集めて現代の課題から新しい光を当てることが必要になるのではないでしょうか。『地域にねざす生活綴方教育』は京都綴方の会の合い言葉でした。しかし、この四十年あまりの会の歴史の中でいつのまにやら横に置かれました。置かざるを得なくなりました。なぜ?それは必ずしも京都だけの問題ではないはずです。 
日記指導、子どもを知る
(2009・2月号) 
 
 私の実践講座の題名は『日記・学級作り』です。
 看板に偽りありじゃないかとどこからもご批判を受けることがなかったのですが、日記指導についての言及が弱かったのは確かです。で、今月号は日記指導について書いてみます。(子どもの名は仮名です)

1、日記指導、子どもを知る1
 私のクラスの池上君の日記をまず読んでもらいます。

散髪屋に行った
          四年 池上 哲也
 今日、ぼくはお父さんといっしょに散髪屋に行きました。
 「いつもと同じように。」
と言うと、前と同じようにきらはります。
 かみをきったり顔をそったりしてくれはります。
 今日は、お父さんもきりました。
 お父さんはたまにしかきりません。
 お父さんは、まるぼうすにすると言うけど、いつもしなくてうれしいです。
 やっぱりお父さんは、丸ぼうずじゃなくて、ハゲてるほうがすきです。

 教室の机にすわっていると、池上君が私の後ろへまわって肩に肘をかけて、私の仕事をのぞき込んでおりました。そして、おもむろにこんな事を言うのです。
「先生、ぼくのおじいちゃんと同じ臭いする。」
私はショックでひっくり返りそうになりました。加齢臭(カレイシュウ)という言葉が頭を巡りました。
「おじいちゃん、どこに住んだはるの?」
などとひとしきりおじいちゃんのことを聞いて、こう言いました。
「そうか、小宮山先生は、おじいちゃんと同じ臭いか。おじいちゃんと小宮山先生は同じぐらいの年なんかな。」
同居ではないおじいちゃんのことでした。
 「クサー。小宮山先生ジジイの臭いする!」と囃し立てたら私はもっと落ち込んでいたかもしれませんし、気色ばんでいたことでしょう。まあ、私にくっつきに来る子がそんなことは言わないでしょうけど。
 しばらくして、また、同じような格好をしていて言うのです。
「先生、やっぱりおじいちゃんの臭いと同じや。何か古くさい臭いするねん。」
確かに私は円空さんとか石仏とか煉瓦建築とか銭湯とか落語とか古くさいものが好きですけど、『古くさい臭いはないやろ』と、少々腹がたったので、黙ってました。
 これはたぶん私に対して、親近感を持っていて、感じたままを表現しているのでしょうけど、私がどう思うかに対しては、無頓着なのです。
 この池上君が、日記に「お父さんの家」のことを書いてきました。お父さんの家はごみが散らかっていて、ペットボトルなどが散乱していて汚いというのです。
 私は、これを読んで「別居」という言葉を思い浮かべました。家庭訪問の時はお父さんお母さんそろって私を迎えてくださったのになあ…と思いました。
 遠足の電車の中で、ちょっと勇気を出して
「『お父さんの家』って日記に書いてあったけど、どこにあるの?」
「家のすぐ裏にある。お父さんが何の仕事したはるかぼくはよく知らんねけど、そこでPC使って仕事したはる。ご飯は、お母さんの家で食べるけど。」
 彼は、お母さんの家、お父さんの家と普段から使い分けていたのです。
 そして、最初の日記へもどるのです。
「やっぱりお父さんは、丸ぼうずじゃなくて、ハゲてるほうがすきです。」に私は大いに安心しながら笑いました。

2、日記指導…子どもを知る2

怖い犬
          四年 林 誠二
 ぼくは、お家から見て左に行ったところの犬が、怖いです。なぜかというと、僕が通ると吠えるからです。ぼくはなぜか分かりません。
 あそこの前は、一目散に走ります。実は僕は大型犬が怖く見えてしまいます。でもお母さんは、
「怖くない。」
と言うのです。もうあの前を通るのはこりごりです。
 あの犬は特ちょうがあります。子どもが通る時はきまって吠えるのです。今まで特ちょうがあるなんて気づきませんでした。でもそのことに気づいたのは、お母さんでした。
「なるほど。」
と思いました。
 今は、怖いけど、いずれは仲よくなりたいと思っています。
 
 林君は、四月に大阪から引っ越し転校してきた子です。おばあちゃんの家へ引っ越してきました。
 彼は私の学校の子には珍しく進学塾へ通っています。進学塾通いが珍しい学校が最近では珍しいのですが、私の学校は有り難いことに、進学問題に煩わされることが少ない学校なのです。彼は物知りです。色んなことを知っています。計算は速いし漢字を覚えるのも得意です。百マス計算などしようものなら、圧倒的に速いのです。誠二君は、塾に行っているから賢い子だとみんな思っています。
 みんなには知らせませんでしたが、こんな日記も書く子なのです。

ぼーっとしたりしてない日
            四年 林 誠二
きのう、学校から帰って、ぼーっとしました。
ぼーっとしてたら、お母さんに、
「せめて、学校の宿題をしなさい。」
と言われました。
「宿題をして、ぼーっとしていい?」
と言ったら、
「ごはん食べてから。」
と言われ、ごはんを食べたら
「夜八時まで。」
と言われました。
夜八時以降は、勉強さされましたので
夜九時にねました。

 これを読んだ時、あまりに主体性のない言いなり状態の彼が心配になりました。四年生の子どもにしては何という従順さでしょうか。素朴で素直だとも言えますが。
 彼といっしょに学校で生活している間に彼に対する見方も多様になってきます。物知りで賢い誠二君という顔以外にも、色々な顔を持っていることが徐々に分かってきます。
 最初に紹介した「怖い犬」は本当に彼らしい日記です。
 習っていない漢字(怖い・僕・一目散・吠える)を駆使しながら書いています。賢い物知りの誠二君の面目躍如です。しかしながら、書かれている内容を読むとそこには、こわがりの、お母さんに頼り切っている気弱な彼がいます。そして理屈で合点している分析的な彼がいます。象徴的なのは「怖い」という漢字を使いながら、自分の家を「お家(うち)」と表現しているところです。
 この日記はみんなで読みました。クラスの子どもたちは一斉に声を挙げました。
「誠二君、あの犬何にもこわいことないで!」
「何でこわいの?」
 彼が友だちのこの言葉をどのように聞いたでしょうか。
 彼らは、『何をゴチャゴチャ理屈つけて、こわがってんねん!』とは言わないものの心の中では、彼の行動をそのように評価しているように私は感じました。
 子どもの書く文章は、子どもそのものだなと思います。
「だれか、いっしょについていって、犬と仲良しにさしたげたらどうや。でもな、犬が何にもこわくない人と、すごくこわい人がいるんやで。実は先生は、犬がこわいねん。」
と、自分が小学生の時に犬に追いかけられて一回転して腕を骨折した話をしました。その後で
「誠二君は、『今は、怖いけど、いずれは仲よくなりたいと思っています。』て書いてはるから、先生よりは、犬がこわいと思ってへんと思うで。」
と、私ができる話をしました。

3、日記指導、子どもを知る3
 日記はタイムリーにその子今の情報を教えてくれます。
 だから読む意味があるとも言えます。例を挙げる必要もない自明のことかとも思いますが、書いておきます。
 
おばあちゃんがたいいんした
中村 光
 今日、おばあちゃんが西じん病院からたいいんしました。
 ぼくは、たいいんするまでに、おばあちゃんと
「たいいんしたら、すしやいこな。」
とやくそくしました。
 でも、おばあちゃんがたいいんしても、食べもののたべられる量がきまっているので十一月十六日にいくことにしました。
 おばあちゃんがたいいんしたので、ぼくはカギがあまりいらなくなりました。でもたまにいります。
 おばあちゃんがたいいんできただけでもラッキーです。

 そういえば、最近大きなカギを首からぶらさげてるなと思ってました。共働きのご家庭で、お隣がおばあちゃんのお宅です。苗字が同じですから、家庭訪問で間違っておばあちゃんのお宅をピンポンと押したものですから、私もお会いしたことのあるおばあちゃんです。が入院しておられたことは知りませんでした。ご両親が帰宅されるまでは、おばあちゃん宅で過ごしていたのです。
 おばあちゃんの退院がどれだけうれしかったかを中村君らしい表現をしています。「おばあちゃんがたいいんできただけでもラッキーです。」これは、「カギを持つ必要がある日があっても、おばあちゃんの退院がうれしい」という意味なのか、「お寿司を食べる日が延期されたけれどもうれしい」という意味なのか、まあどちらでもあるのでしょう。こういう喜びを中村君とそのご家族がしておられることは、彼が日記を書いてくれなかったら分からなかったのです。そして文集で読み合うことでみんなで喜び合えるのです。
「よかったな、中村君。」
こういう言葉をかけ合う関係が学校になくなったら、寂しいと私は思っています。

4、日記指導、子どもを知る4

新しい図書館
             四年 井上 拓
 さいきん、新しい図書館ができました。
 新しい図書館の名前は右京中央図書館という図書館です。
 こんかいかりた本は8さつです。
 一つはパン・めんです。
 スターウォーズという本は2さつかりています。一つはマダガスカルです。一つは料理・おかし大百科です。一つはにせことわざずかんです。一つはなぞなぞ大問題です。一つは食べ物クイズです。さいこう10さつまでかりられますので、ぜひかりてみてくださいね。

 最初の懇談会の後、話があると残られた井上君のお母さんは、
「先生、うちの子はやる気をなくしてます。みんなからもバカにされていじめられてるように思います。」
とおっしゃいました。
 担任してしばらくたった算数の時間に井上君は
「先生、ぼくこのクラスで一番アホやし。」
と言い放ちました。
 自信を失い、プライドもなくしている井上君に私はこう言いました。
「君がそんな悲しいことを言わなくても良いように、先生はがんばりますから、君もその気になってがんばりませんか。」
 井上君が自信を持ってやる気を出して学習ができるようになったら、クラスみんなの力も伸びているはずだと私は思ってきました。その井上君の最近の日記に図書館通いのことが書かれていたのです。個人懇談会でお母さんに、「図書館へいっしょに行く習慣にされたらどうですか」とアドバイスしていた私は、格別な思いでこの日記を読みました。「さいこう10さつまでかりられますので、ぜひかりてみてくださいね。」彼は、みんなに耳寄り情報を提供しています。この働きかけは、以前の彼ではありません。
 子どもの積極的な今が見えることは、何より私たちの喜びです。その喜びが日記で味わえるのですから、続けられるのです。

5、生活を書くことは
 京都市教組教研集会国語分科会でこんな話を聞きました。
 市教委主催の夏休みにあった国語教育講座に来た講師(文科省官僚)は、開口一番「新しい指導要領を読んだか?」と尋ねたそうです。そして数人しか手を挙げないのを承けて、「読んでないものは、帰れ!」と恫喝したというのです。そして、「私は、日本の教師の六割は辞めてほしいと思っている」と述べたそうです。
 続いて「私は生活綴方の研究をしてきたが、生活を書かせることに意味はないし、子どもを賢くすることはないい。」と言ったというのです。
 「何とも気分の悪い研修会でした。」とその話をして下さった方はおっしゃっていました。
 生活綴方が有害だというようなことを、こういう官僚の威を借りて主張する輩も出てきました。
 私たち生活綴方の諸先輩は繰り返し繰り返し生活を見つめ書くことが子どもを賢く優しくすると主張してこられました。私もまたそれに続きたいと思って仕事をしています。今月号で書いたことはそういう居丈高にデマを飛ばす連中への私の反論です。

 
 生活綴方このよきもの
(2009・3月号) 
1、作品主義ということ
 ある時期から私は「日本子ども文詩集」に作品を送ることをやめました。また、自分の文集を文集展にも送らなくなりました。それまでは、日本作文の会の会員である私は率先して送ることが最低の義務だと考え送っていました。
 送るからには入選したいと思います。「日本子ども文詩集」に選ばれている作品を自分なりに分析してみると、一般的に値打ちのあると思われる賢そうな題材を書き切った(書かせ切ったかな?)作品が選ばれていると判断しました。これは入選基準がおかしいということではなくて、そういうまじめで前向きで積極的な生活姿勢が見える子どもを育てたいと誰でも思うのですから当然のことでしょう。結果的には「よい子のよい作品」が選ばれるという結果になります。困ったことはそういう作品を自分のクラスからも生み出さなければならないというように自分の仕事をそれに合わせることです。文集づくりもしかりで、そういう作品を生み出させるためには、どのような作文指導が大切かということが明らかになっている文集がよい文集だとなります。
 日本作文の会に誉めてもらうために仕事をしているわけではない…私は作品も文集も送らないという判断をしました。これは正しかったのかどうかと今も思います。誰が見ても優れていると思われる文集が作れなかった私の力量不足でしかなかったのでしょう、きっと。
 作品主義という言葉があります。どなたも否定されます。しかしこの作品主義は私の場合も相当根深いところに巣くっています。これを封印するためにはコンクールから決別することが私には必要でした。

2、忘れられない日記・1
■子どもの文は先生へのラブレター
小宮山先生へ
          二年 山下 かな
 先生はちがうがっこうでまたおしえるから、わたしはいやです。なぜかというと、この小学校でいちばんやさしい先生と思いました。おわりの会でシェハーのかみさまをしたり、土ようびはしゅくだいなしで、中かんやすみは、先生とおはなししたりしました。わたしはせんせいととったしゃしんと、ともだちととったしゃしんをみて、わたしは、はんなきをしました。
 わたしのめは大きいです。おかあさんはわたしのチャームポイントはめだといっています。わたしはたしかになきむしです。いつもおじいちゃんのいえにいったら、おじんちゃんになかされます。でも、もう三年生だからあんまりなきません。
 そして、わたしはわるいことをしてしまったんです。それは2つあります。一つはくすのき(養護育成学級)のきいろいじしゃくをぬすんで、もう一つは大川さんとゆむらくんと大たにくんとであそんでいて、六とうからいしをなげていて、大たにくんがくるまのガラスをわりました。わたしはもうはんせいしてます。
 またおへんじください。まってます。
小宮山しげる先生へ
かなより

 子どもの書く文は先生へのラブレターだと教えていただきそれに憧れてきました。子どもから、ラブレターがもらえる教師になりたいと思ってきました。かなちゃんが思ってくれているほどの教師であったのかどうか、私は本当に優しい教師だったのかと、こういう手紙を書いてもらうと喜びながらも謙虚にならなければと思いました。
 それにしても私は転勤して行くのに、なぜ自分が車のガラスをわったことを告白するのでしょうか。書いて楽になりたかったのでしょう。誰かに言っておきたかったのでしょう。子どもの書く日記にはそういうこともあるのだなと思いました。何でも書ける自由があるというのは、大切なことであると思います。

3、忘れられない日記・2
■生理にかんしゃ?
 生理にかんしゃ
                五年 洋子
 ヤッタ、ヤッタ、ヤッタ ふふふ、うれしいな。
 今日、みんなといっしょに 体重測定やらんでよかった。うれしいな。
 みんなといっしょやったら、後からかげでなんかいわはんねから。
 でも、今日は生理でやらんでよかった。
 今日、トイレにいったら、パンツが赤でよごれていた。一目見て生理とわかった。ナプキンは持っていなかったので、ハナカミをパンツにしいた。で、先生に言うて、保健室でナプキンをもらって、トイレでしいた。それで、体重測定やらんでよかった。
 でも、田中さんや吉本さんに
「なんで、先にやったん。」
と聞かれたけど、
「ちょっと。」
て、ごまかしていた。
 うれしいな。このごろ体重測定が、いつあるかと心配して、ハラハラドキドキしてた。でもよかった。
 身長をはかる時、大きいのがみんなに見られるし。先生に言うて、反対向けにして測ってもらおうとも考えた。
 でも今日はやらんでよかった。生理にかんしゃ。

 これは、思春期の女の子のデリケートな気持ちがストレートに表現されていて、正直ビックリした日記です。この日記のすぐ後に、この子はこんな詩を書きました。
ボンボン
             五年 洋子
Mさん
もうちょっと 人の気持ち考えてほしいなあ

あんたとみきと おかちんと もうひとりいて
おかちんが
「おとうさんだよ。」
て言うて みきにだきついて
他の二人もだきついていた
私が横で見てて
「私も入れて。」
て言うたら みきが
「この人だあれ。」
て言うて
「しんせきのおじさんにしとき。」
て言うた
そしたら あんたが
「おばさんにしとき。オッパイボンボンやし。」
て言うたな
あんたはじょうだんで言うたつもりでも
私には むねに グサッときたで
言われて 私 すぐ自分の席に帰った

あんた 体だけ私とかわってみるか
私かって好きで こんな体してへん
好きで 大きくしてるわけちゃう
私 いっつも気にしてるねんで
体重測定や 身体測定の時 いややねんで
その原因 あんたみたいな人いるしや
私 あんたと帰っている時
びくびくしてる
あんたは おもしろいし明るいけど
人をいたわる心持ったらもっといい

 このMさんと言う子はそれほど悪気があるわけではないのですがズケズケとものを言う子でした。私の家へ遊びに来て
「先生とこの男の子、ちょっと変わってるで。」
と言う子でした。思ったことは言わずにおれないのです。 しかし、洋子さんのすごいところは、傷つきながらもMさんのよいところを認めているところです。「人をいたわる心持ったら」「もっといい」と言い切るというところです。お前なんか大嫌いや!と切り捨てないところです。
 私は、先の日記は、みんなで読む必要はないと思いましたが、この詩はMさんに届ける必要があると思いました。もちろん、洋子の了解をとってです。これはMさんにも洋子にも意味のあることでした。そしてこの詩の訴えの切実さを決定づけているのが先の日記でした。私が真剣にMさんに洋子さんの思いを伝えなければと思えたのは、先の日記があったからです。そして洋子さんはMさんの行動は否定していますが、人格を否定していないところがポイントでした。

4、忘れられない日記・3
■教師による日記指導
 本来、日記は人に見せるものではありません。しかし私たちの先輩が見つけだした日記指導は大変素晴らしいものだと私は思い続けています。

日記
         五年 ゆり
(前略)
 先生の書いている言葉を見ました。カブト虫のことを書いた所には「早いのですね」とか書いてくれていました。ほとんどの日が短い言葉なのに今日はどれを見ても長かったです。
 私の日記が文集に大きくドバッとのった時、先生が
「ゆりさんは、日記二さつめがもう終わります。」
と書いてくれていました。その文集をもらった一、二日後に日記に二さつ目で書ききれなかったから三さつ目に続きを書いて出しました。かえしてもらった時、又二さつ目の先生の言葉を見ていると最後に
「もう三さつ目だね。すごいスピードで書いているね。」
と書いてくれていました。
 それをみた時、私はうれしかったです。私は自分で心が少しふるえたような気がしました。私はその言葉を何度も何度も読み返しました。これからもがんばって書こうと思います。

 私が書いている赤ペンは、ありきたりのことです。それでも心ふるわせて読んでくれるのです。魔法の赤ペン評語などないと私は思っています。全力で書けば通じると思っています。

5、日記に何を書くか
 楽しいことも悲しいことも、おもしろいことも辛いことも何を書いてもいいのです…と私たちは言ってきました。 しかし、自分の仕事をふりかえると、その時々に傾斜がありました。
 自分の中にある「おろかさ」を普遍性あることとして笑いに変える力は、人間を楽天的にします。自分がおもしろがっていることを書くこと、そういう場面を切りとって書きとめることは、意味あることです。何より心はずむ楽しいことであると思います。私は「おもしろいこと」「楽しいこと」が好きな人間です。ですからユーモア精神溢れる作品が大好きです。こういうことを子どもと楽しむことは何の抵抗もなくできます。
 しかし、生活綴方教育を学んでいるうちに「クラスの一番言いにくいことを抱えている子がそれが言える学級に」とか、「生活の重荷が重荷として認識できる子に」とかいうことを考えることもまた大切だと考えるようになりました。これは自分自身の生い立ちや人生観、人間観と関係あることだと思います。
 「現代生活綴方教育の課題は何か?」に応えないような仕事は価値がないかのように意気込んだ時もありました。
 「生活台」を基盤に生活綴方を捉えるか、「子どもの野生」をその基に置くか、いや、両方を統一的に捉えて考えることこそが大事なんだなどと思いました。これは北の生活綴方と南の生活綴方の両方から学ぶことなのだと、深い学習もせずに勝手な解釈をしてきました。
 こういう思いこみが全部悪いことだとは思いませんが、
実際の仕事の場面では、私の場合、仕事の方向を決めてしまうことになりました。
 具体的には、自分では子どもが書いてくるものの許容範囲を相当広く持っているつもりでしたが、偏っていたのではないかと振り返って考えることもあります。口では「何を書いてもいいのです」と言いつつ、実際には「書いてほしい」ことが先行していて、子どもたちは指導者である私に合わして書くことになったのではないかと思います。これは人間のすることですから仕方ないことです。それはまた、教育に携わるもののやりがいにつながることでしょうし醍醐味なのでしょう。であればこそ教師は、しっかりと世の中を見据える必要があります、人間に対する深い洞察力が必要です。
 日記指導(文を子どもに書かせる仕事)をする意味は、教師の側から言えば、子どもを知ることに尽きるという趣旨のことを前号で書きました。もう一つ加えるとしたら、それは自分の教育観を日常的に試す仕事であると言うことであろうと思います。だから教師はこの仕事を手放してはいけないのです。

6、前へ、さらに前へ
 私もあと一年で定年を迎えます。三十余年間、仕事を発表する機会を与えていただいた「作文と教育」誌に感謝しております。そしてこの連載終了と百合出版から「作文と教育」が離れることが同時であることに深い感慨を持っております。
 私は第一回でも書きましたが「ええかっこしい」です。連載を任されたり、講演などに呼ばれるようになった自分がすごい教師であるような舞い上がりをしてきたと思います。愚直さに憧れながらその対極にある自分の器用さを自覚しています。不遜な私の馬脚をこの連載で露呈することはなかったでしょうか。心配しています。
 この一年間最後まで我慢して連載を続けさせてくださった編集部と百合出版並びに読者のみなさまに感謝しています。「作文と教育」そして「生活綴方教育」が前へ、さらに前へ進むことを信じて終わります。 
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