湖南アルプス石仏巡り

2012・10・9(火)及び10・27(土)撮影
2012・11・23(金)作成

 私は詳しいことはよく知らないのですが、湖南アルプスは、文字通り琵琶湖の南側で、滋賀県大津市や栗東市、草津市にまたがる標高600mほどのいくつかの山々から成る、山あり、川ありのハイキング・登山コースの総称のようです。歩いていると東海自然歩道に指定されている道もありますし、道標などもよく整備されているように思います。でも、いくつものコースがあり、遭難される方もあるようで注意書きを各所で見ました。またどうも松茸が出るようで、ほとんどの道が縄張りしてあり、立ち入り禁止でした。
 私は2004年7月に狛坂廃寺跡磨崖仏を見に行っています。この時は車で栗東ICから道の駅「こんぜの里」を目指し、そこから金勝寺を通って馬頭観音駐車場で車を降りて、茶沸観音などを見てから狛坂廃寺磨崖仏へ行きました。
 その時に逆さ観音というのがあるらしいと地図で見ていたのですが、時間がなくて行けませんでした。
 今回は2回湖南アルプスへ出かけました。1回目(2012・10・9)はバイクで上桐生にある桐生若人の広場まで行って、逆さ観音と狛坂磨街仏を尋ねました。2回目(2012・10・27)は、JR石山駅まで行って、帝産バスに乗り換え、終点「アルプス登山口」まで行きました。そして「迎不動や泣不動を経て不動寺まで行って来ました。2日間とも自宅を10時半頃出発しましたので、現地着はちょうど12時ぐらいでした。
湖南アルプスへ行くにはJR草津駅や京阪・JR石山駅から帝産バスが大体1時間に1〜2本出ています。

(1)逆さ観音から狛坂廃寺磨崖仏

1,逆さ観音

逆さ観音
 磨崖仏(逆さ観音)の前を通る遊歩道は現在人々の憩いの場となっていますが、かってはヒノキの大木が茂る田上山の一角だったのです。
 しかし、持統天皇の藤原京、続く七代七十余年の都として栄えた平城京の南都七大寺などの建設のため悉く伐採されて、約千年後には一大禿げ山となってしまいました。
 金勝山に建っている「金勝寺」は、聖武天皇の勅願により国家鎮護の祈願時として良弁僧都が建立したものです。
 この道は、金勝寺への横参道として津倉手、所々の大岩には磨崖仏が彫られています。
 この「逆さ観音」もその一つで、鎌倉時代の初め頃に作られたものであり、同時に金勝寺への「道標」になっています。
 一番不思議なことは、なぜ逆さになっているのだろうか。
 次に、なぜ三尊石仏なのに、「観音」さんなのかしら
 更に、大岩の一部が削り取られているのではないか
の疑問が湧いてくるでしょう。

 元は、その上部の山上にあり逆さになっていなかったのです。正しくは「阿弥陀三尊石仏」で、中央が「阿弥陀如来」左右の持仏が「観音・勢至菩薩」なのです。
 大岩の一端は、下流の「オランダ堰堤」築造時「明治二十二年完成」に石材の不足が生じてそれに使われたのです。そのために後にバランスを失い山上からずり落ちて逆さになったのです。
 以来、身を削られ逆さになっても、地元の人を大洪水から守ってくださると敬われています。
                          平成13年12月 滋賀県森林管理署
 
 桐生のキャンプ場を出た辺りに「オランダ堰堤」がありました。なぜオランダ堰堤なのかというと、それを造るときに指導したのがオランダ人のデ・レーケであったから。明治15年のことのようで、この切石布積アーチ式堰堤は2004年に土木学会選奨土木遺産に設定されていると、堰堤前に胸像と共に書いてある石碑がありました。そこから歩いて10分ほどで「逆さ観音」の案内立て札があり、川を渡るとすぐ「逆さ観音」さんがおられました。
 しかし堰堤を造るためとはいえ、削られた阿弥陀三尊は転げ落ちる憂き目にあわれたわけでえらい迷惑な話です。
 それで、何とか逆さでない状態の「逆さ観音」の写真が撮れないかと工夫してみました。しかし上の写真でも分かるように、角度45°ぐらい上を向いていて、前から写真を撮って上下反対にしても寸詰まりの不自然なものにしかなりませんでした。横からとって見たら、何とか転げ落ちる前の状態が想像できる写真になりましたのでそれを紹介します。像高1.4m蓮華座に座す本尊と観音・勢至菩薩、なかなか美しいお姿の阿弥陀三尊だったようです。

2,狛坂廃寺跡磨崖仏

 この石仏については前回紹介していますのでそちらをご覧下さい。秋の陽はつるべ落とし。午後2時半、木漏れ日が背後から当たっています。

(2)迎不動から泣不動そして不動寺へ

 2回目の湖南アルプス石仏巡りは「アルプス登山口」まで帝産バスで行って登り始めました。確か登り口付近に車の進入禁止の案内があったと思うのですが、道はアスファルトで時々車が横を通っていきます。あれ?これならバイクでも来られたなあと思いながら歩いていたのですが、果たしてどこまで車で行ってもよいのでしょうか。完全にシャットアウトしてあったのは、もう泣き不動の少し手前でした。そこに簡単な駐車場のようなものもありましたから、ここまではいいのかもしれません。
 このコースの石仏は太神山にある不動寺(平安時代初期円珍の創建)へ行くまでの道にある2体の不動明王です。「迎不動」と「泣不動」です。二つの不動さんの間に、アスファルトの道が途切れます。そして、雨が降ったら滝や急流になるのではないかと思われるような水に深くえぐられた道がそこそこの距離続きます。
 その不動さんの紹介です。

1,迎不動と泣不動

迎不動を祀る祠。円珍像が左にある。 迎不動
大きな石を彫りくぼめた中に泣不動 大きな目の背後に火炎も

2,不動寺

 泣不動からしばらく歩くと、まっすぐ進むと信楽、左に不動寺の山門に着きました。この入口の門には注連縄が張ってありました。山門によくある仁王さんの代わりに不動三尊の脇持仏制多迦童子(右)と矜羯羅童子(左)がおられました。江戸時代に造られた石灯籠や道標もあり、大阪此花など商人と思われる方々のお名前がありました。
 この山門から不動寺の本堂までまだ距離があります。山道を登っていきますとやっと着きました。着いたと思ったのですが本堂までは、かなりの階段を登る必要がありました。「ああ、しんど」でした。
重要文化財 不動寺本堂
大正十三年四月十五日指定
 不動寺は智証大師円珍の創建と伝え、天台寺門宗に属する。田上不動の呼び名で親しまれ本尊に不動明王をまつる。
 現在の本堂は室町前期に建てられた。形式は正面三間、奥行三間の背後に一間の仏間が岩屋内に造られた懸造の建物。本堂屋根は寄棟造の檜皮葺。正面の礼堂、玄関は後世に付加されたものである。
 小規模な本堂であるが、作りがよく数少ない舞台造りの特色を持った貴重な建物である。
                                                     昭和六十三年三月 滋賀県教育委員会
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