2004・8・21(土)撮影
2004・8・22(日)から作成
9月6日(月)終了
奈良破石町バス停から少し南、新薬師寺へ行く細い道は奈良の古寺巡礼の道です。油土塀や石垣のお寺があり古い看板のお店があって、高畑町は私の好きな町並みです。この辺りを歩くと、高校生のころ和辻哲郎や亀井勝一郎の本を頼りに仏像を見て回ったことを思い出します。40年近く前はまだ油土塀が修復されてなくてひどい状態のお寺もありました。
今日は、石仏巡りです。この油土塀の道を東へまっすぐ進むと柳生街道です。滝坂の道という言い方もあるようです。この柳生街道に私が一度は見てみたいと思っていた石仏がいくつもあるのです。奈良時代・平安時代・鎌倉時代それぞれの時代を代表する石仏が目白押しの柳生街道!
新薬師寺へ行く道と分かれ、空也上人縁のお寺を通過してさらに東へ。飛鳥中学校のあるところへ出ます。ここで、ハイキングコースの看板とにらめっこしました。
この地図ちょっと分かりにくくて、春日原生林へ入る道の方に石仏もありそうに描かれていますが、石仏巡りはあくまでも柳生街道沿いです。
いよいよ柳生街道
春日山と高円山の間、谷川沿いで奈良と柳生をつなぐ近道。本能寺の変で堺にいた徳川家康が急遽三河へ帰る時にこの道を抜けたということで私は記憶しています。昔は人通りが多かったようですが、今は東海自然歩道になりハイキングの人の道になっています。江戸時代はじめに奈良奉行が道を石畳にしました。
柳生街道(滝坂の道)石仏巡りコース
(1)寝仏 | (2)三体地蔵 | (3)地蔵立像 | (4)朝日観音 | (5)首切り地蔵 |
(6)地獄谷聖人窟 | 峠の茶屋 | (7)芳山二尊石仏 | (8)春日山石窟仏(穴仏) |
一番最初に「寝仏」の案内がありました。街道に転がっている比較的大きい石の裏側に彫ってありました。
よく見たのですが一体何がどうなっているのかよく分かりません。近くで見るとよけいに分かりませんでした。
右側の写真は90度回転したものです。頭は如来のようです。手はどうなっているのでしょうか?合掌しているように見えます。向かって左側へのびているのは一体何でしょうか?一番不思議なのはなぜ横になってしまったのでしょうか。初めから横向けだったのでしょうか?色々想像力をかき立てられる寝仏です。
街道の北側高さ2m幅5mぐらいある石に彫られています。暗くてどうもうまく撮れませんでした。南北朝時代の作だそうです。
滝坂三体地蔵菩薩磨崖仏の上にこの地蔵菩薩がおられました。もうお昼近くの時間だったのですがお日様が当たってこれはしっかり写真が撮れました。鎌倉時代末期の作と言われているようです。
この滝坂三体地蔵菩薩磨崖仏と地蔵菩薩磨崖仏の場所に「夕日観音」の案内がありました。どこやろ?と探したらこの2つの磨崖仏が目に飛び込んできました。岩場から落ちそうになったりして興奮しながら写真とっているうちに何を勘違いしたのでしょうか、肝心の滝坂弥勒如来磨崖仏(夕日観音)を見ずに次へ進んでしまいました。もう一度出かけなくては行けません。夕日観音は鎌倉中期の作で像高1.6m胸に卍があり来迎印を結んでいます。クヤシイ!
滝坂阿弥陀磨崖仏(夕日観音)
やっぱり気になって気になって。出かけました。雨が降る中、ごくろうさまと自分でも思います。もう夕闇が迫る時間でそれはぴったりだったのですが、何しろ林の中の道ですからそれでなくても暗いのです。そして天候は雨ですから夕日に映える夕日観音は見られませんでした。
前回私が見損なった場所に「夕日観音」の案内板があります。しかしそこから見えるのはこの上の二つの三体地蔵と地蔵菩薩磨崖仏です。
しかし必ずあるはずだとあっちこっち見回りました。結局かなり高い位置に見事な来迎印の阿弥陀如来像発見!
さてここからすぐ近くまで行くのに一苦労しました。高いところが苦手な私はびびりながら何とか阿弥陀さんの近くへ進むことが出来ました。
この朝日観音には長文の銘があります。中尊は弥勒でその左右にそれぞれ銘文があり、文永2年(1265)の年号と大施主性勘の名前があります。弥勒の両側に地蔵菩薩があり、右の地蔵のさらに右側に塔が見えます。中尊像高232.2m。大きな磨崖仏です。夕日観音そして朝日観音という命名には意味があります。昔柳生の里人が奈良へ一日一往復して商いで生計を立てていたそうです。朝はこの朝日に照らされる朝日観音を拝み帰りは西面する夕日観音を拝んだのでしょう。この滝坂の石仏たちは道標であり道中の無事を守る仏たちでもあったのでしょう。
この仏の近くにあった説明版をそのまま引用します。
「荒木又右右衛門がためし斬りしたと伝えられる首切り地蔵です。彫刻の手法から鎌倉時代の作と思われます。谷川沿いに登ってきたこの道は滝坂道と呼ばれ、江戸中期に奈良奉行により敷かれた石畳の道は、昭和の初めまで柳生方面から奈良へ※や薪炭を牛馬の背につけて下り、日用品を積んで帰っていくのに使われたものです」
日本各地に首なし地蔵があります。石仏では首が一番細い部分になります。その傷部分に水分が入り氷結するなど寒暖の差ために首の部分が切れることになるようです。それを荒木又右右衛門の話にしているところが滝坂の道ですね。柳生・笠置・伊賀・上野と続く道の話です。
首切り地蔵から地獄谷聖人窟(石窟仏)へ行くことにしました。柳生街道から外れます。途中高円山ドライブウエーと交わります。そこにあった看板です。
ここはすごく期待していきました。残念ながらお日さんが差し込んでいるのですから一日の中ではよい条件だったと思いますがこの程度でした。初めてこの石窟仏の存在を知ったのは昭和45年ですからもう30年以上前です。日本の美術45「日本の石造美術」(小野 勝年 昭和45年2月 至文堂)を見て胸にある卍までしっかり見え、線刻とその色彩が鮮やかに見えるだろうとワクワクだったのですが残念でした。
鉄格子の向こう側の聖人たちはなかなか人を近づけようとはしておられないなと思いました。
芳山二尊石仏への道はおそらく聞かなかったら分からないだろうと思います。峠の茶屋で昼食をとった時に、どのくらいの時間で行けるのか聞きましたら、峠の茶屋のご主人が下の地図を下さいました。下の石仏へ行く地図とても役に立ちました。「道、間違うたら山から帰ってこれへんから」とおっしゃった時にはちょっと大層なと思いましたが、確かにその通りでした。この石仏のあるところは私有林だそうで、先ほどの滝坂の道ハイキングコースにも名前がありません。もちろん案内板とか道しるべがないのです。唯一この地図だけが頼りでした。この地図があっても迷うところがありましたから慎重さがいります。
右上写真 左に神社がありここから山には入ります。何の案内もありません 中写真 門がありますが、ここから中に入ります。右上に石仏のことをに おわす事が書いてあります。中にはいると すぐに「芳山石仏火の用心」の文字案内があります。 右下写真 分かれ道に「芳山石仏火の用心」の文字のある2つめの道しるべ があります。このあと何の案内もありません。ちょうど石仏までの 道のりの半分ぐらいです。ここからかなりきつい山道になります。 |
この石仏に対する評価はどうも分かれているようです。初めの3名の方は奈良時代後期から平安初期までと言うかなり古い時代を想定しておられます。それはそのお姿からの判断だと思われます。もちろん奈良春日山滝坂道にあるという場所もその判断材料であろうと思われます。
「石造美術入門」(川勝 政太郎 昭和42年)より
近年太田古朴氏が発見された奈良市高畑町芳山(ほやま)二尊石仏は、春日山の奥の山上に人に知られずにあったものだが、奈良時代後期も末の立派な石仏である。
日本の美術147「石仏」(鷲塚 泰光 昭和53年8月 至文堂)
「発見当初はこの石仏は転倒していたようで」「頭部の形からすると古様で、躰部は平安初期一木彫像の奈良元興寺薬師如来像などを連想させるところがある。太造りの体躯に比して手は細めであるのも木像の特徴といえよう。時代は明確にはしにくいが、あるいは奈良時代にさかのぼる作例かもしれず、少なくとも平安時代初期を下るものではあるまい。いずれにせよ大形の切石浮彫彫像の古例としてその発見は貴重である」
「石仏」 (清水 俊明 講談社現代新書 昭和54年12月)
芳山二尊仏は付近の花崗岩を切り取って造られている。高さ1.84mの石の南面と西面に、壺形を深く彫り窪め、蓮華座に立つ像高1.28mの如来像を半肉彫りしている。二尊ともに両手を胸前で、転法輪印(説法印)という印相を結んでいる。
表面は少し磨滅作用が加わってはいるが、比較的保存状態はよい。体躯に比べて小さくまとめた頭部の造りは、奈良時代後期の仏像によく見られる特徴である。また引き締まった気品高い面相、ゆったり安定感のある体躯に彫られた通肩(両肩を隠す衲衣)の衲衣の衣紋は、下方でU字形を作り、裳裾を水平に切った作りなどに、古い時代の仏像の表現を見ることが出来る。崇高で調和のとれた見事な出来映えは、一流石工の作品と考えられ、奈良時代後期に、頭塔石仏群や芳山石仏を手がけた、石大工グループがあったと考えられる。
これに対していやそんなに古くないだろう、鎌倉時代ではないかと言う意見を紹介します。
「石仏」 久野 健 (昭和50年12月 小学館 日本の美術36)
「尊名は南面を釈迦如来の説法相といい、西面は阿弥陀如来説法相といわれる」「この二尊は、近年先輩により8世紀の遺品ではないかといわれ注目されたものであるが、残念ながら私は、それほどさかのぼり得るものではないと考えている。なるほど面相は丸く、優雅で天平時代の仏像彫刻と共通するところもあるが、体躯や衣文の表現は形式的で、ことに腰から下のY字形衣文などは、平安初期彫刻にはじまる形式を踏襲しているが、すっかりくずれてしまっている。
私は、この二尊の印相からみても前記したように鎌倉時代をさかのぼり得ないものではないかと考えている。ことに二尊像が自然石を壺形に彫りこみ、その中に尊像を浮き出させた形式は、石塔基壇の四仏等を除き、寡聞にして、藤原時代までさかのぼり得る優品を知らない。こうした優美な面相は、確かに天平時代にもみられるが、しばしば木彫仏でも古い方にもってゆく傾向がある」
さてその後これは論争になったのかどうかそれこそ「寡聞にして」私は知りません。もしどなたかご存じの方があればお教え下さい。
「磨崖仏紀行」(邊見 泰子 1987年 平凡社)という写真集があります。
その中に「皮肉な出会い」という一文があります。邊見さんがはじめてこの石仏と出会われた時の衝撃をこのように書かれています。
「おおげさにいえば、それまで観てきたのは、磨崖仏もどきであったような想いにうたれたのである。芳山二尊石仏にめぐりあって、初めて磨崖仏を識ったとは、痛烈な衝撃であった」「神の御座所というよりは、むしろ御神体そのものとして仰がれてきた日本古来の磐座信仰を直視させる作者の敬虔な祈りを宿して、芳山二尊石仏は、私の前に佇立していたのである。」「天然の崖を穿って彫出する、磨崖仏の神髄を見せられたような想いにうたれたのだった」
峠の茶屋へ戻り、柳生街道を今度は破石町の方へ戻ることにします。しばらく歩くともう一度高円山ドライブウエーとクロスするところに出ます。さらに柳生街道に沿って進みます。下りの見事な石畳の街道が続きます。すぐに「春日山石窟仏(穴仏)30m」の案内があって、道を右に登っていきますと、今日最後のの石仏に到着しました。
この下の写真のように動物園の檻のような中に穴仏さんたちはおられました。
雨は降り込みませんから乾ききったホコリいっぱいという感じの石窟です。「今まで何とか姿を留めていてくださってありがとうございました、ご苦労様でございます」と言いたくなる仏様たちです。
凝灰岩層を利用して、東西二つの石窟を彫り込み、内部に如来、菩薩、天部を刻んだ我が国には珍しい石窟仏です。明治時代には数十体合った仏様たちですが、現在18体おられます。
作られた年代がはっきりしています。12世紀中頃(1155〜1157)今如房と言う人が作ったようです。平安末期を代表する石窟仏なのです。
東窟(右側の部屋)の石仏
東窟は、間口二間(3.6m)奥行き八尺(2.4m)高さ六尺(1.8m)。
菩薩像
この右に天部の立像がありましたが写真は撮れませんででした。
(2)柱の四面四仏如来像
中央に四方四仏をを彫った石柱が残っています。土の中に埋もれておられます。
(3)地蔵菩薩像
これは東窟右面の地蔵菩薩さんたちです。顔料がわずかに残っているのがわかります。奥にも何か彫られていたのではないでしょうか。
西窟(左側の部屋)の石仏
西窟は、間口二間(3.6m)奥行き七尺(2m)高さ七尺(2m)。
(1)多聞天像
この多聞天はしっかり残っておられる像で、みんな完全な姿で残っていたら素晴らしかっただろうと想わせてくれます。
(2)如来座像三体
左から定印の阿弥陀如来像、右手を施無畏印の尊名不詳の如来像、その右はさらにわかりません。この石面に文字が彫られておりこの石窟仏が何時代に作られだれが作ったものかが特定できるという点でもこの石窟仏は貴重なものだと言えます。
阿弥陀さんの右に「保元2年」(1157年)とあり、真ん中の如来さんと左の如来さん(大日さんという説もある)の間に「八月廿日始之作者今如房願意」という刻銘が今も読めます。年号は今は読めませんが江戸時代の記録では当時読めたそうで「久寿2年」(1155年)だそうです。
この石窟仏は今如房と言う人が12世紀中頃に作ったのです。