伏見ぶらぶら42
明智越えから明智藪

 左の道標があるのは、京都市伏見区深草大亀谷敦賀町。
八科峠
右 京みち
左 六ぢそう

と達筆で書かれている。
 右上は、現在の勝竜寺公園。
 右下の明智藪の説明があるのは京都市伏見区小栗栖小阪町。
 
 「明智越え」と言えば、亀岡(亀山)城から保津峡を通り京都市内本能寺へ向かう道が有名である。しかし、ここで紹介する「明智越え」は違う。伏見から小栗栖へ抜ける道である。おぐりす道とも言ったようだ。現在一部が京都一周トレイル東山コースと重なっている。
 「京都伏見歴史紀行」(山本眞嗣・山川出版社)にこんな記述がある。「小栗栖から深草の大亀谷へ抜ける道がある。昔は伏見への近道として、この峠を利用するものが多かった。(中略)この道はまた“明智越え”ともいい、天正10年(1582)山崎の合戦で敗れた明智光秀が、淀から鳥羽街道をへて、大亀谷から近江路を通って坂本へ逃げるべく通った道である」 
 明智光秀は勝竜寺からどういう経路で十数名の家臣とともに伏見を抜け明智藪へ向かったのかを追ってみた。

(1)勝竜寺と恵解山古墳

 
勝竜寺城 光秀が最後に籠もった城   恵解山古墳  恵解山古墳から天王山・山崎・男山方面
 勝竜寺跡(京都府長岡京市勝竜寺)は公園になっていてる。この建物の中で細川家と明智のことを紹介する映像が流れ、資料や出土品の展示がある。NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の放映を受けてバージョンアップしたのか2019年の説明板が多い。細川忠興と妻細川ガラシャ(玉・光秀の娘)が結婚式をあげたのはこの城。長岡京市では毎年ガラシャ祭が行われている。
 勝竜寺の近くに
恵解山古墳がある。立派な前方後円墳だ。発掘調査で土器の他、火縄銃の鉛玉が出ている。前方部に大きなほりこみがある。円墳部の現在墓地になっているところが三段の棚田状になっている。これらの事実から、明智光秀がここに陣を敷いたと考えられている。
 ③
左の写真建物の後方右側の山が天下分け目の天王山である。ここに秀吉の陣があった。分かりにくいが、左の山が石清水八幡宮のある男山である。その間が三川(桂川・宇治川・木津川合流)地点の合戦場山崎。

(2)勝竜寺から八科峠へ

 先程紹介した「京都伏見歴史紀行」(山本眞嗣・山川出版社)には光秀は「淀から鳥羽街道を経て、大亀谷から近江路」向かったとある。私も山本眞嗣氏の想定に沿って考えてみる。
 光秀は勝竜寺を出て、落合橋辺りで小畑川を越え、水垂で桂川を渡ったようだ。さらに淀納所へ向かい、ここから、鳥羽街道を北へ行く。
 この後、可能性として考えられる道が二つある。
1)油掛通り経由八科峠
 旧羽束師橋から東に向かい油掛通りのコースである。油掛通りという名は、この通りに油掛地蔵で有名な西岸寺があるからである。
 「油掛地蔵」
の由来は以下の通り。「拾遺都名所図絵」に次のような話がある。昔山崎の油商人が荷を担ってこの寺の門前まで来たとき、誤って桶を転がし、油を流してしまった。しばらく茫然としていたが、運命とあきらめて、残りの油を地蔵尊に掛けて帰った。このことがあってから商売運に恵まれこの男大金持ちになった。それ以後祈願あるものは油を注いで祈ると霊験あらたかであるという信仰を集めるようになった。
 こういう話が残るのは、山崎と伏見中心部の往来にこの通りが使われたことを示している。
2)赤池から津知橋通り上板橋通りから大亀谷八科峠へ 
赤池から八科峠へ
 向日市の競輪場前から伏見区桃山町正宗にある海宝寺まで真っ直ぐ繋がっている道がある。
 伏見の町中では津知橋通りと呼ぶ。海宝寺からこの道を西へ進むと1号線との交差が「国道赤池」である。そして鴨川の手前で鳥羽街道と交差する。鴨川を越えるとすぐ桂川を渡る。越えたところが、「久我」である。ここは平安時代最高権力者松殿基房(まつどのもとふさ・藤原基房)が久我水閣を建てた場所であり、道元の誕生寺がある。更に進むと菱妻神社という古社がある。
 津知橋通りと京阪電車が交差する踏切の名が左の写真である。「山崎街道」私がこの踏切名を見つけた時違和感があった。西国街道は現在の国道171号に並行する道である。この場所から相当西を通っている。なぜ「山崎街道(西国街道)」なのか、考えられるのは昔この通りが山崎街道に通じており頻繁に往来があったのではないかということだった。
 光秀は目立たぬように家臣十数名で勝竜寺を抜けたようであるから、伏見の街中を歩くよりこの道の方が都合良かったのではなかろうか。
 津知橋通りの一筋南が大亀谷八科峠へ繋がる上板橋通りである。海宝寺の正宗は伊達政宗の屋敷跡を暗示しているが、光秀の時代にはない。海宝寺の前の通りを「伊達街道」という。伊達街道と上板橋通りの交差する辺りは「長岡越中北町」。長岡越中というのは細川忠興のこと。勝竜寺の城主の嫡男。後に細川家の屋敷があったのであろうが因縁めいたものがある。

*少し脱線して
(恋塚寺と赤池のこと)

 丹波橋通りと鳥羽街道(新千本通り)が交わるところ。国道1号を少し西を北へ行くと、恋塚寺がある。恋塚寺という名前のお寺は二つ。一つは下鳥羽の恋塚寺。もう一つは上鳥羽にある浄禅寺。上鳥羽の浄禅寺は「京都六地蔵巡り」で紹介している鳥羽地蔵が祀られているお寺。両方のお寺共に次のような伝承がある。
 時は平安時代末期。北面の武士遠藤盛遠は、渡辺渡の妻袈裟御前に横恋慕し、袈裟御前の母衣川を脅して思いを遂げようと画策する。袈裟御前は母親への孝養と夫への貞節の板挟みになる。そこで、盛遠に夫を殺して欲しいと頼む。盛遠は夜陰に乗じて忍び込み寝ている渡の首をかく。しかしその首は袈裟御前のものであった。袈裟御前は夫に代わって首をはねられたのである。盛遠は自分の行いの罪深さを知り、仏門に入り「文覚上人」となる。その文覚上人開基と伝わるのがこの寺である。すぐ近くに「赤池」という地名がある。この地名は盛遠が首を洗った時に池が赤く染まったからその地名になったらしい。
 しかし盛遠と袈裟御前のこの話は実話かというとそうでもないようだ。
(3)八科峠付近
八科峠 黒田長政下屋敷跡参考地   ②明智越え入口 左大亀谷御霊参考地  深草トレイルの案内 
 海宝寺から伊達街道を南へ一筋目、上板橋通りを東へ八科峠の上り道を行く。JR奈良線踏切を越える。
 この道路の南側は永井久太郎町という面白い名前。永井右近大夫と堀久太郎という2人の大名の屋敷を合わせた命名。この町内に現「桓武天皇柏原陵」がある。保育園の次に森林総合研究所関西支所があり、藤城小学校から北堀公園へと続いている。この道路の踏切から50mほどを二十年ほど前拡張時に発掘調査がされた。前田利家の塀の跡と溝跡が出たらしい。発掘結果を京都市考古資料館で見たことがある。
 北側は桃山町正宗という町名で、民家が続く。ここは伊達政宗の屋敷跡の可能性が高く数年前発掘が行われ、瓦や礎石などが出た。藤城小学校の前に「清涼院」がある。ここは五郎太町といいう名前。この寺は尼寺で、家康が愛妾お亀を住まわせたところ。お亀は慶長5年(1600年)男子を出産し、名を五郎太と付けた。この子が後尾張大納言義直になる。
 北堀公園入口付近に介護施設「藤城の家」がある。右に北堀公園の木々を見ながら500m程行くと
八科峠の三叉路に着く。
 この道を左へ20m行くと大亀谷御霊参考地のある明智越え(小栗栖道)との分岐に着く。ここで参考地の方へ東に折れて行くと「東古御香公園があり、坂道を登り切った所に「京都老人ホーム」がある。ここで民家が途切れ、深草トレイルの案内があって竹藪に入る。

*60年前のこの道

 60年前のこの辺りのことである。
 この道はまだ舗装されてなくて細かった。車も走らない道で南側が幅1mくらいの深い蓋のない溝で、そこそこの水量で水が流れていた。後で書く浄水場からの水だった。この流れに笹や草の舟を流して遊んだ。
 JR踏切から藤城小学校北側グラウンドのある辺りは大文字の送り火が見られる場所だった。8月16日午後8時になると大勢の人がこの場所に集まって来た。今は家が建って道からは見られなくなった。が、家の二階以上の部屋からなら今も鳥居形・舟形・左大文字・妙法の法が見える。大文字は稲荷山に遮られ見えない。
 藤城小学校及び北堀公園のあった場所には浄水場があった。伏見にあった師団のために設けられたと聞いた。北堀公園のテニスコートやグラウンド辺りが水源池だった。水源池の土手に腰を下ろして池を眺めた。サクランボのなる木があった。ちっとも甘くなかった・・・。
 水源池から西へ藤城小学校のある場所まで施設が続いていた。ここの水道で水を飲んだ。
 水源池の水は、八科峠にあるポンプ場から川となって流れてきていた。水は宇治川から引いてあると聞いたのだが、どうやってこんな高いところへ?と思った。
 池や川の周りを歩く道もあった。細く暗い道で、池へ落ちれば危険でもあり、子どもの立ち入りは禁じられていたと思う。私は蛇が出そうで怖くて入れなかった。町中では見ないおもしろいトンボやカナブン、カブトムシなどもいたし、ゴイサギの巣もあった。北堀公園から近鉄が造った桃山城へ行く道は昔のままだ。
 「藤城の家」前の坂を登った所から東は「大亀谷万帖敷町」。「万疊敷けるぐらいの広い平地」という意味だろう。なぜその名なのかかよく分かる場所だった。広い畑が向こうの墨染のほうまで広がっていてキャベツ畑だった。いっぱい蝶々が飛んでいた。

(4)明智越えを行く

 
左大岩山展望台 右明智越え  明智越え(舗装部分)  明智越え竹藪 
 しばらくして大岩山と明智越えとの分岐になる。この辺りから多少のアップダウンはあるが基本的には小栗栖への下り道。舗装部分もある。タケノコの栽培をしているようで手入れがしてある。光秀が襲われたという竹藪の雰囲気がする。 

(5)弘法大師杖の水

 小栗栖側の斜面になるところに大きなトラックの停めてある倉庫のような工場のような場所があり、急な坂道になる。降りていくと「弘法大師杖の水」になる。
 古くからこの道が伏見から小栗栖へ抜ける道だという証拠になるのがこの湧き水であろう。おそらく弘法大師が杖で突いたら湧き水が出たという言い伝えなのではないか。今水が湧いているようには見えず溜まっていた。今から30年ほど前にはここで水を飲んだと思う。
 この休憩所は30年前にはあったが、こういう感じではなかった。説明板もあったと思うのだが。
休憩所 石造物と旗 湧き水

(6)小栗栖へ入る

 醍醐地域が広がる 石田幼稚園  小栗栖の灸・寺本 
 ①「弘法大師杖の水」からすぐに展望がきくこの場所に着く。55年前の展望が急に開けるこの場所を覚えているが、景色は全く違う。家はそれほど見えなくて、農地がずーっと広がっていた。彼方に醍醐寺の五重塔が見えた。今残念ながら醍醐寺が見えない。
 坂を下りきると三叉路に出る。ここを左に曲がる。
石田幼稚園がある。この幼稚園は外環状線石田交差点の東にあったが、ここへ移転してきた。
 道なりに進むと小栗栖宮山小学校へ出る。その前に、
「小栗栖灸寺本」のロゴが壁面にある家があった。子どもの頃小栗栖と言えば「お灸」だった。信仰深い老女が虚無僧から秘法を伝授されたそうで、もとは深草にあったが、江戸時代宝永年間(1704~10)にこの地に移り、昭和の初め頃毎日200人から1000人の人が長蛇の列をなすほど繁盛したというからすごい。「京都伏見歴史紀行」(山本眞嗣・山川出版社)より
 最盛期六地蔵からバスが出ていたというのを読んだのだが、何の本だったか思い出せない。
 小栗栖宮山小学校を過ぎると小栗栖八幡宮へ登る石段が見えてくる。「明智藪」の案内旗も。

(7)小栗栖八幡宮

 下にある由来書によると八幡宮のあるところは、小栗栖城のあった場所で、地頭であった飯田左近将監が城主であり神主でもあったようだ。
 小栗栖宮山小学校の宮山はこの八幡宮からの命名のようだ。小高い場所にある。下の道から階段で登ると社務所があり、鳥居をくぐり本殿への階段が続く。この地は地頭飯田将監左近屋敷であり、城であり神社であると書いてある。
   八幡宮前の道を進むと小栗栖自治会の「明智藪」の旗のある三叉路がすぐある。
 ここを左に折れると地蔵堂に水が湧いている屋根のある小屋につく。この場所を右に上がっていくと本教寺と明智藪の分岐に出る。二つとも50mほど。ます本経寺へ向かう。

(8)本経寺にある光秀供養塔

 本教寺は日蓮宗の寺。明智藪は本経寺の地所らしい。平成10年に供養塔をお建てになったようだ。右がその解説。明智藪はこの寺の東の崖下。

(9)明智藪

 先程の分岐点から道なりに坂を下りていくと、明智藪の説明碑に到着。これは平成三年のものである

①明智藪説明碑

   

②明智藪とその周辺

 
 数年前までは本当に竹藪の中だったのだろうと想像できる場所である。今(令和2年3月)変貌している真っ最中。現在進行形で周囲の竹藪が更地になっている。
 右上は、明智藪の南側。ショベルカーを使って竹の地下茎を掘り起こしながら工事している。
 中央上は、明智藪の全景で西側が写っている。ここも整地が済んだようだ。この整地した土地は本経寺に繋がっているのだろうか。本教寺本堂西側が更地になって広がっていた。
 三種類の旗が翻っていた。終焉の地小栗栖自治会、生誕の地岐阜県可児市、お城のある福知山ミュージアムのものである。
 中央下は、整地が完了している東側で、小栗栖街道に出ていく道がある。
 下右はすぐ北側にあった鉄分を多く含んだ湧き水の出ている場所。大岩山東の扇状地のようだ。 小栗栖という地名は「小さなクルス」という意味らしい。「クルス」というのは、大和言葉で比較的高い平坦地を言うそうだ。

③明智光秀を討ったのは

①土民説「昭和京都名所図絵洛南」竹村俊則著1986駸々堂出版)

 明智藪は南小栗栖(伏見区)の本経寺の東にある。藪中に一筋の路が伏見山(桃山)を越えて西に通じている。これを一に「明智越」という。天正十年(1582)六月十三日、明智光秀は山崎の合戦に敗れ、江州坂本城を目指し逃れる途中、この地の藪中よりおどり出た土民の竹槍に刺され、あえない最期を遂げた。それより明智藪といい、この藪を領するものはわざわいにかかるといわれ、本教寺に寄進するに至ったとつたえる。 
 武者狩りの名も無き誰かが、襲ったということだとすると、光秀と知ってのことか知らなかったのか。
 本能寺で信長が討たれ、山崎で合戦が行われ、光秀が敗れたことを知って、光秀がこの道を通ると予想して待ち伏せていたとしたら、その当時の情報の流れる速さがすごい。
 光秀と思っていなかったとしても誰かが逃げると予想して待ち伏せていたのは準備万端のプロの強盗団である。世は戦国時代、百戦錬磨の武将十数名を仕留めたのであるから襲った集団も相当なものだったのであろう。

②飯田一党説「京都伏見歴史紀行」(山本眞嗣著1983年・山川出版社)

 明智光秀最期の地 この辺り(本教寺)一帯に室町時代の武将飯田源五郎家秀が城を築いていた。嫡子の俊永が足利義詮について信州飯田の本国へ帰国したため、その一族の次郎永盛は、醍醐三宝院門跡の准后満済の坊官をつとめることになった。この飯田の一党が“明智藪”といわれるあたりで光秀を討ちとったというのが真説らしい。すなわち、飯田一族のなかに左吉兵衛というのがいて、織田信長に仕えていたが、本能寺の変にさいし、追腹を切ったその恨みを晴らすため、その一族が近辺の土民をそそのかして、計画的に光秀をおそったことが、「古今醍醐記」や「飯田文書」に記されている。しかし物語としては小栗栖村の長兵衛の仕業とする方がおもしろく、お芝居に演ぜられて普及したのである。
 山本眞嗣氏の著述を続けると・・・。
 「豊鏡」(全4巻竹中半兵衛の三男重文の著)には光秀の最期をこのように書いているという。
「水無月13日、月はたけ登りぬれども、いと曇りてくらかりけり。里の中の道、細きを行くに、垣根越しに突ける槍、明智光秀が脇にあたりぬ。されど、さらぬ体にてかけ通りて三町ばかり行き、里のはずれに馬よりころび落ちたり」
 この場所を“ワタデ”といい、光秀の内蔵がとび出したところだとか、この藪には血竹といって、血の色がまじった竹が生えたとかいろいろ伝説が語られている。これは光秀の怨霊の祟りをおそれてのつくり話と思われる。

 北小栗栖より北へ800m、昭和45年(1970)山科区勧修寺近くに「明智光秀之塚」が建てられた。「明智胴塚」とも言うらしい。それは、この話を受けて有志が建てたもののようである。

 山本眞嗣氏はさらに光秀が生き延びて、山中越えで坂本城に入り、後に家康の元で天海僧正として政治に参画したと大津市坂本西教寺で聞いたことがあるとも書いておられる。
 光秀の首は本能寺で晒された後、粟田口で再度晒された。これは事実のようだ。 

■歩いてみようと思われる方へ

■八科峠から小栗栖ルート
JR藤森駅(奈良線)下車。・墨染通りを左に道なりに500m進むと古御香宮社に出る。道が南に曲がるのを7,80mm進むと大亀谷陵墓参考地に着く。
■小栗栖から八科峠ルート
京都市営地下鉄「石田駅」下車。西へ1kmほど進み突き当たりが小栗栖街道との三叉路森本。この付近で小栗栖宮山小学校の場所をお聞きになるのがよいでしょう。

HPへもどる