伏見ぶらぶら15

伏見のお地蔵さん

私の好きな伏見のお地蔵さんです。
伏見の六地蔵さんを誰に相談することもなく決めました。

かばのしっぽが決めた伏見の六地蔵さん
NO お地蔵さんの名前 簡単な説明
@ 腹帯地蔵さん
(摂取院)
JR稲荷駅南すぐ。平安時代末期の貴重な地蔵菩薩像であることが最近判明した。座像で半丈六像。前の灯明台に天保15年の文字がある。
A ぬりこべ地蔵さん
(有野山墓地)
全国から歯痛祈願やお礼の手紙などが届く有名な石地蔵。元摂取院の墓地におられたが16師団の兵器庫建設のために現在地へ。
B 賽の河原のお地蔵さん
(石峰寺)
江戸時代中期の画家伊藤若沖が下絵を描き十余年の歳月をかけて石工に作らせた石仏五百羅漢群像の最後に賽の河原のお地蔵さんがある。
C 油掛地蔵さん
(西岸寺)
山崎の油商人がお地蔵さんの前で油桶をひっくりかえし茫然としたが、油を掛けて帰ったところ大金持ちになったという由来を持つ有名な地蔵。芭蕉や西鶴も訪れたというお寺。
D 柿ノ木腹帯地蔵さん
(両替町1丁目)
町内がお守りされている木造地蔵尊は珍しいのではないか。聖徳太子が彫られたという由来がある。安産祈願の地蔵であり宇治川運航の守り地蔵でもあった。
番外
別格
伏見六地蔵さん
(大善寺)
小野篁が木幡山の桜の木で六体造ったと伝えられるうちの一体で京の街道の入り口六ヶ所に安置したのは平清盛であるという。800年の伝統ある京の六地蔵巡りの一つ。
E 腹帯地蔵さん
(善願寺)
醍醐におられるお地蔵さまで京都一大きい丈六のお地蔵さんで座像です。恵心僧都源信の作という寺伝があり、藤原時代の作で重要文化財です。
 巡る順を考えて順番をつけました。
 大善寺の伏見六地蔵は「六地蔵巡り」で有名です。これを外すわけにいきませんが、番外別格扱いにさせてもらいました。

      *お地蔵さんの名前の所をダブルクリックすると、そのお地蔵さんのところへ飛びます。

かばのしっぽの伏見の六地蔵巡り順路・・・交通機関を使った場合

JR稲荷駅(京阪伏見稲荷はやや遠い)下車・・・(徒歩2分)・・・@摂取院腹帯地蔵・・・(徒歩10分)・・・Aぬりこべ地蔵(有野山墓地)・・・(徒歩5分)・・・B石峰寺賽の河原のお地蔵さん・・・(徒歩15分)・・・京阪深草駅・・・(京阪電車)・・・京阪伏見桃山駅下車・・・(徒歩10分)・・・C正岸寺油掛地蔵・・・(徒歩15分)・・・D両替町1丁目呉竹地蔵さん・・・(徒歩10分)・・・京阪観月橋駅・・・(京阪電車)・・・京阪六地蔵駅下車・・・(徒歩10分)・・・番外別格・六地蔵大善寺・・・京阪六地蔵へ戻る・・・(京阪バス)・・・醍醐和泉町下車・・・(徒歩すぐ)・・・E善願寺腹帯地蔵・・・(徒歩15分)・・・地下鉄醍醐駅

(1)腹帯地蔵さん
(摂取院)

伏見区深草直違橋11丁目
最寄りの駅 JR稲荷駅

 このお寺は本町通りとJR奈良線が交差するところ北東にあるお寺です。JR稲荷駅から南へ2分です。光明山摂取院と言います。地蔵堂の前に「腹帯地蔵尊」という石標と常夜灯があります。この常夜灯には天保15年の年号が入っています。またお寺の前にあった掲示物にはこの半丈六像が平安時代末期製作の貴重な地蔵菩薩像であることが判明したと書かれていました。地蔵堂の解体修理などの時にお地蔵さんの踏査もされたようです。現在京都府の指定文化財になっているそうです。お地蔵さんの前に指定文書が飾られています。このお地蔵さんは座っておられます。半丈六というのは一丈六尺の半分(約2.5m)という意味です。
 
このお地蔵さんはどの本にも紹介がありませんが、姿の美しいお地蔵さんです。普段は見られないのですが地蔵盆の日(2003・8・23)にはお堂の地蔵格子が開けられていて拝むことができました。

(2)ぬりこべ地蔵さん
伏見区深草石峰寺山町
最寄りの駅 JR稲荷駅・京阪深草駅

 摂取院の腹帯地蔵のすぐ北の細い道を東へまっすぐ行きますと(300m)稲荷大社から石峰寺へ抜ける道に出ます。その交差点が有野山墓地です。それを右に曲がりますとすぐ、ぬりこべ地蔵さんの地蔵堂が右手に見えます。さらにその道を進みますと次に向かう石峰寺へ出ます。
 このお地蔵さんは有名です。たいていの案内書に説明があります。
 石のお地蔵さんで右手に錫杖、左手に宝珠を持って立っておられます。頭には比丘(修行僧)形なのでしょうがバンダナ風(?)に布が巻かれています。そしてよだれかけ。織りで立派です。
 このお地蔵さんは全身どこの痛みにも対応して下さるそうですがとりわけ歯痛に力を発揮されるそうで、全国各地から手紙や葉書、年賀状まで届くのだそうです。
 名前の由来については、「塗込めの堂宇に安置されていたから」「塗込めをさらに病気を封じ込めるの義に解し」たとのことです。(竹村俊則・「昭和京都名所図絵」より)
 「京都伏見歴史紀行」(山本眞嗣著)によりますと「塗込め」とは、貴族の邸宅の寝室のことをいい、四周を土塀で塗り込んで、その中に念持仏を祀る風習があったとこのことで、悪鬼を払って安らぎを得るという意味だそうです。
 私は何度もここを訪れているのですが、よく近くの方が拝んでおられるのに会います。
 私が一番感心したのは岡部伊都子さんの「京の地蔵紳士録」(淡交社・昭和59年刊)の随筆でした。岡部さんは随筆家として有名な方ですがこの本は最近知りました。その文章の中から知ったことを書きます。ぬりこべ地蔵さんは有野山(ありのやま)墓地の中におられます。有野山墓地は稲荷学区が区内の戦没者のためにつくったもので、兵隊の墓が多く将校の墓はほとんどないそうです。岡部さんは平和の問題と重ねて文を書いておられます。ご自身の婚約者との話は何度読んでも胸をうたれます。
 岡部さんの随筆から私が知ったことです。
@初めは今の警察学校の西北に当たる深草平田町あたりの田の中に祀られていた。(摂取院の墓地)この摂取院が@の腹帯地蔵の摂取院と同じかどうか未確認です。
A明治40年〜43年くらいに、16師団の兵器庫ができたので、墓地も、お地蔵さんも移転してこられた。
B当時の檀家総代が「あらたかなお地蔵さんやさかい、お前とこへ預かってくれへんか」というので木村藤太郎氏が預かり、大切に守ってこられた。
C摂取院が「かえしてほしい」と石地蔵をお寺へ運んだことがあったが、藤太郎が「そんなわけにはゆきまへん」と「背たろうて」とり戻した。
D藤太郎氏はお亡くなりになったが、今も木村家が地蔵堂を預かっておられる。

(3)賽の河原のお地蔵さん
(石峰寺)

伏見区深草石峰寺山町
最寄りの駅 京阪深草駅

 ぬりこべ地蔵さんから西へ細い道をまっすぐ進むと石峰寺の石段下へ出てくる。石峰寺については「深草石峰寺(秋)」に詳しく紹介したのでそれを見て下さい。
 この石峰寺から京阪深草駅の方(西)へ向かいますと「茶わんこの井戸」(深草野手町)というのがあります。これだけ紹介しておきます。京都の名水の一つです。都に住む茶人が使用人に命じていつも宇治川まで水を汲ませに行かせていたそうです。ある日石峰寺の前で水をこぼしてしまった使用人はこの茶わんこの井戸水を汲んで持って帰りました。違いを見抜いた(それを見抜くのがスゴイと思いますが)主人に事情を言いますと、宇治川の水より良いと言い、お咎めなくそれ以後は水を汲みに行くのが近くなって助かったという話があるそうです。(「深草・稲荷をたずねて」山本真嗣著より)

(4)油掛地蔵
(西岸寺・油掛山地蔵堂)

伏見区下油掛町
最寄りの駅・・・京阪桃山・中書島駅 市バス京都駅81「京橋」

 京阪伏見桃山駅で降りて大手筋通りを西へ行きますと、アーケードの切れるところ、左納屋町、右風呂屋町。左(南)へ向かい納屋町商店街を出た通りが油掛通りです。それを右(西)へ曲がって竹田街道へ出るまでに北へ入る道があり少し入っていきますと油掛地蔵さんに到着します。
 このお地蔵さんも有名なお地蔵さんです。高さ1.7m、幅70cmの花崗岩の表面に、像高1.27mの地蔵立像を肉厚彫りしたお地蔵さんです。その造りの様子から鎌倉時代のものと言われています。「油掛通り」「油掛郵便局」など地名の元にもなっています。この油掛通りというのは江戸時代には大手筋通りより賑やかだったようです。このお寺の西に駿河屋さんという羊羹で有名なお店がありますがこの前には日本初の電車がここから出発したことを示す碑があります。その他造り酒屋山本本家(神聖)、和菓子の富英堂などもこの通りにあり、伏見の町屋が並ぶなかなか風情のある通りです。
 さてこのお地蔵さんの由来です。「拾遺都名所図絵」に次のような話があります。昔山崎の油商人が荷を担ってこの寺の門前まで来たとき、誤って桶を転がし、油を流してしまった。しばらく茫然としていたが、運命とあきらめて、残りの油を地蔵尊に掛けて帰った。このことがあってから商売運に恵まれこの男大金持ちになりました。それ以後祈願あるものは油を注いで祈ると霊験あらたかであるという信仰を集めるようになりました。
 「油掛地蔵さん」は京都にもう二体おられます。一つは右京区嵯峨天竜寺油掛町におられます。ここも油掛町になっているのは偶然でしょうか。そちらはお地蔵さんではなく鎌倉時代末期の阿弥陀座像だということが明らかになったとか。もう一体は右京の長福寺らしいです。
 山崎(乙訓郡・油座の本所、離宮八幡宮があり、油製法の秘伝によって西国一円に及ぶ独占販売権を持っていた)に近いという地理的な位置から考えても伏見の油掛地蔵に肩入れしたくなるのですが、これは身びいきでしょうか。竹村俊則氏は「本市における特異な地蔵信仰の一である」と書いておられました。
 この西岸寺に芭蕉の句碑があります。伏見には文学碑があまりありませんが、これは伏見では貴重なものの一つです。任口(にんく)上人を訪ねた芭蕉が、当時伏見の名物であった桃にこと寄せて任口上人の高徳が自分にも及びますようにという意味が込められた挨拶の句です。
            「我衣(わがきぬ)に ふしみの桃の しずくせよ」(野ざらし紀行)

 西鶴もこの寺を訪ねたことが「西鶴名残之友二」にあるそうです。

(5)柿ノ木腹帯地蔵さん
(両替町1丁目集会所)

伏見区両替町1丁目
最寄りの停留所 京阪中書島駅

 油掛地蔵から油掛通りを東へ向かうと200mで突き当たります。ここが「四辻の四つ当り」というところでどの道から来ても撞木型になっていて突き当たるようになっています。伏見も京都にならって通りは碁盤目なのですが、ここだけは城下町らしい軍事警察上の配慮があるところになっています。
 そこを右(南)に折れるとここから伏見の酒蔵のメッカ。山本本家(神聖・居酒屋鳥せい)から始まって、黄桜酒造カッパカントリーなどを経て大倉酒造(月桂冠)へ続きます。月桂冠大倉記念館もこの道に面しています。酒蔵見学しながら歩くのはたのしいものです。
 大倉記念館も越えて行くと道が二つに分かれます。右(西)に行くと中書島の弁天さん長建寺をへて中書島の駅に行きます。柿ノ木腹帯地蔵さんは左(東)に曲がります。南浜小学校を左手に見ながら京阪の線路を越えると新町通でその次が両替町通り。そこにおられます。
 このお地蔵さんを紹介してある本はたぶんないと思います。
 普段は閉まっていてお地蔵さんを拝むことができません。たぶん地蔵盆の時は開けておられるんではないかと思い行ってみたら案の定町内が地蔵盆をしておられました。年配の女性が5〜6人おられました。お願いして拝ましてもらうことにしました。「実はお地蔵さんに興味を持っていて、HPの載せてたいので写真を撮らせてほしい」とお願いしましたら、私はすっかり「お地蔵さんの研究をしておられる人」になってしまいました。地蔵堂の中は奥行きがあって、畳敷きの6畳の間の奥に厨子があり、その中に柿ノ木腹帯地蔵さんはおられました。
 冷たいお茶を入れて下さいました。何でもこのお地蔵さんもともと金の錫杖を持っておられたそうですが盗んだ不届き者がいるようで、それも書いて欲しいと言うことでした。やはり町内にこのお地蔵さんのことをお調べになっておられる方もおられるようです。もう少しで「国宝」や「重要文化財」になるお地蔵さんだと誇りをもっておられました。町内がお守りしておられるお地蔵さんがお寺のお地蔵さんではなく、石の地蔵さんではない木造だというのは珍しいのではないかと思います。
 
 由来が書いてあるものが額に入ってました。それをそのまま紹介します。
「両替町1丁目の地蔵堂には、安産に霊験あらたかと信心をあつめている柿ノ木腹帯地蔵が祀られている。
 近くの願船寺に残る寺伝によると、聖徳太子が仏法を広めるため伏見の里を通ったとき、不思議なことに空に妙なる音楽が響き、周囲に芳香がただよい、柿ノ木に紫雲がたなびいて、そのなかに地蔵菩薩が顕現したという。そこで、太子は柿の霊木から地蔵菩薩を彫刻したところ、その夜、一人の僧が現れ、、広く人々に仏法を説いて、さまざまな迷うから解き放ち、悟りをひらかせるよう語ったという。
 古くは船戸村(現在の両替町1丁目柿ノ木浜町)に鎮座していたが、兵火によって堂宇が荒廃してしまったので、願船寺に移された。妊娠した女性がこの地蔵さんに願をかければ、安産で母子ともに健全、しかも子孫は長く富有を楽しむことができると信じられている。また、地蔵秘伝の五香湯があったらしく、秘薬を服すれば胎内の子どもは無病息災なりと信仰されていた。
 この地蔵さんは、宇治川運航の守り地蔵さんでもあった。」(文・星宮智光・聖母女学院短大教授) 
 
 このあと、六地蔵大善寺へ向かいます。もとの道を戻り「中書島」へ行っても良いのですが、まっすぐ東へ向かい京阪「観月橋」駅へ出て、京阪「六地蔵」駅へ向かうことにしましょう。
(番外別格)伏見六地蔵
(大善寺)
伏見区桃山町西町
最寄りの駅 京阪六地蔵 JR六地蔵

六地蔵大善寺については、別のページに詳しくありますので、そちらをごらん下さい。
詳しくは「京の六地蔵巡り」「六地蔵大善寺」です。

(6)腹帯地蔵
(善願寺)

伏見区醍醐南里町
最寄りの駅 地下鉄「醍醐」駅

 六地蔵駅から京阪バスで醍醐和泉町。降りて少し戻ったところにあります。帰りは西に歩いて外環状線まで出ると地下鉄醍醐駅に出ます。
 旧奈良街道ぞいにあるお寺です。さらにバスに乗っていくと醍醐寺です。
 りっぱなお堂です。のぞき穴があって覗いてもお地蔵さまはおられません。隣の新しいお堂におられました。拝観希望を告げましたら見せて下さいました。立派な丈六(一丈六尺約5m)の地蔵座像で、京都で一番大きな地蔵大仏だそうです。法衣の下に腹帯によく似た下裳が見えることから「腹帯地蔵さん」と呼ばれています。藤原時代の作だそうで重要文化財に指定されています。
 寺伝によりますと奈良時代光明皇后の発願で行基菩薩が地蔵尊を本尊として創建されたと伝えられています。999年〜1003年(長保年間)に恵心僧都源信が再興し、丈六の巨大な地蔵尊を造り、広く女性の難産の患いを救うため、一千日の間、一千部の地蔵菩薩本願経読誦、写経して胎内に納めたとのことです。安産、子育て、先祖供養の祈願を受け、現世利益ももたらす地蔵尊として有名です。これも寺伝で、平重衝の夫人「佐の局」が近くに住み、安産祈願をして無事授かったのでお礼に建物を寄進したとのことです。

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参考にしてください

お地蔵さん豆知識

@お地蔵さんの正式な名前は地蔵菩薩です。
Aお地蔵さんは、直接縁のない私たち(縁なき衆生)でも救ってくださいます。
Bお地蔵さんは様々に変身(変化身)されます。

Cお地蔵さんは、その変身術を使って、六道(地獄・餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)すべてで活躍されます。(六道能化)
Dお地蔵さんは六道の中でも一番苦悩の大きい地獄や餓鬼が専門分野です。

Eお地蔵さんは、お釈迦様が亡くなったあとの末法の世に於いて、わたしたち(衆生)を救うことをお釈迦様から任せられた仏様です。
Fお地蔵さんは永遠に仏にはなられない菩薩(菩薩はいずれは仏になられる存在)です。なぜなら迷える衆生を救うのがお地蔵さんのお仕事だからです。

Gお地蔵さんは子どもたちのほとけです。

地蔵和讃

 賽の河原の地蔵信仰は室町時代からだそうです。それが江戸時代に和讃として成立するようなのですが、なぜか地蔵和讃は空也上人作と伝えられています。空也上人は六歳念仏にもその名前が出てきます。地蔵和讃にも色々あるようです。現在一番よく知られているのが「賽の河原地蔵和讃」です。現行の地蔵和讃は26句の以下のものです。
地蔵和讃
これはこの世のことならず
死出の山路の裾野なる
賽の河原のものがたり
聞くにつけても憐れなり
二つや三つや四つ五つ
十にも足らぬみどり児が
賽の河原に集まりて
父上こいし母こいし
河原の石をとり集め
これにて回向の塔をつむ
一重くんでは父のため
二重くんでは母のため
日も入りあいのその頃は
地獄の鬼が現われて
くろがね棒をとりのべて
積みたる塔をおしくずす
その時能化の地蔵尊
われを冥土の父母として
思うてあけくれ頼めよと
幼き者をみ衣の
裳裾(もすそ)のうちにかき入れて
憐れみ給うぞありがたき
未だ歩めぬみどり児を
いだきかかえてありがたき
南無阿弥陀仏あみだぶつ

お地蔵さん関係のことばを広辞苑で引くと

地蔵・・・地蔵菩薩の略
・地蔵会・・・地蔵盆に同じ
・地蔵顔・・・地蔵菩薩に似てまるくてにこやかな顔。柔和な顔。また、にこにこ顔。
・地蔵頭・・・地蔵菩薩の頭のようなまるい頭。
・地蔵講・・・地蔵菩薩の功徳を講讃する法会。また、その信者たちの寄合。
・地蔵格子・・・(地蔵堂正面扉にあるからいう)細い木を手違い組みに組んだ格子)
・地蔵堂・・・地蔵菩薩をまつった堂。
・地蔵菩薩・・・釈尊の入滅後、弥勒菩薩の出生するまでの間、無仏の世界に住して六道の衆生を教化・救済す  るという菩薩。像は、胎蔵界曼荼羅地蔵院の主尊は菩薩形に表されるが、一般には比丘形で左手に宝珠、  右手に錫杖を持つ形が流布。中国では唐代、日本では平安時代よりさかんに尊信される。子安地蔵・六地   蔵・延命地蔵・勝軍地蔵などもある。地蔵。
・地蔵盆・・・京都で、8月(古くは陰暦7月)23,24日の地蔵菩薩の縁日に行う会式。各地にも、この日、児童が        石地蔵に香花を供えてまつる風習がある。地蔵会。
・地蔵眉・・・根もとは太く、末は細く、湾曲した長い眉。

・地蔵と閻魔は一(いつ)・・・地蔵も閻魔も共に本地は阿弥陀如来で、地蔵はその慈悲を、閻魔はその分怒(ふ                  んぬ)を示現するというもの。
・地蔵の顔も三度・・・仏の顔も三度に同じ。
・地蔵の十福・・・〔延命地蔵経〕地蔵菩薩を信仰すれば、女人泰産、身根具足、除衆病疾、寿命長遠、聡明智             慧、財宝盈溢、衆人愛敬、穀米成熟、神明加護、証大菩提の十種の福徳があるということ。

・勝軍地蔵・・・軍神として尊信される地蔵菩薩。鎌倉時代以降、武家の間で信仰された。甲冑を着け、右手に錫      杖を持ち、左掌に如意宝珠を載せ、軍馬にまたがる。勝軍不動尊も、この地蔵の変化身という。
・本地・・・仏・菩薩が衆生済度のために仮の姿をとってあらわれた垂迹身に対し、その本源たる仏・菩薩をいう。      例えば、熊野権現の本地は阿弥陀如来とする。
・本地垂迹説・・・日本の神は本地である仏・菩薩が衆生済度のために姿を変えて迹(あと)を垂(た)れたものだ      とする神仏同体説。平安時代に始まり、明治初期の神仏分離により衰えた。
・比丘・・・仏門に帰依して具足戒を受けた男子。修行僧。

地蔵信仰の流れ

(1)奈良時代は

「地蔵十輪経」はすでに唐から伝来したが、地蔵信仰はほとんど発達しなかった。奈良時代のお地蔵さんは一つもない。

(2)平安時代になると・・・貴族社会で

・天台宗の僧や貴族社会中心に地蔵信仰が芽生える。
・源信「往生要集」は「十輪経」の一節を引用して、地獄に入り衆生の苦を救う地蔵の悲願をたたえている。源信の著作布教活動は、藤原摂関家に圧迫され、無常観を深め、来世の浄土に思いを寄せた貴族たちに支えられていた。
・天台浄土教や貴族社会では、地蔵は阿弥陀をとりまく聖衆の一員そして拝まれた。
・この時も地蔵像が独立して造られ崇拝される、いわば地蔵専修の信仰は、まだ生まれていなかった。(阿弥陀・観音との三尊形式かあるいは阿弥陀・観音・勢至・地蔵・竜樹を一群とする五尊形式で作られた)

(3)平安時代・・・民衆の中で(今昔物語に見る地蔵説話)

・一般民衆の間に仏教の教えが広まる。・・・新しい地蔵信仰
・貴族社会では見られなかった地蔵専修の信仰
・実睿(三井寺の僧)「地蔵菩薩霊験記」・・・のち「今昔物語」巻17に全部で32遍の地蔵説話。地蔵専修の信仰と同時に説話内容が庶民的。庶民の日常生活の場に入って人々を救おうとしている。

(4)平安時代まとめ(地獄必定の意識)

・民衆にとっては、前世業縁で卑しい身分に生まれ、毎日の功徳を積めないわれわれは、阿弥陀仏をはじめすべての仏にうとまれて、浄土往生もかなわず、ついには地獄に堕ちるだろうという絶望的意識が深まった。
・貴族は功徳の衆生が容易なため、地獄の恐怖がさして切実ではなく、地蔵信仰があまり発達しない。浄土往生の功徳を積むすべのない民衆の間で、「ただ悪趣を以てすみかとし、罪人を以て友とする」地蔵菩薩の信仰が発達し、「ただ地蔵の名号を念じて、さらに他の所作なし」という地蔵専修が成立した。(無住「沙石集」)

(5)鎌倉時代・室町時代に入ると(現世利益と地蔵)

・鎌倉時代、法然や親鸞によって、、いかなる悪人も弥陀の大悲で救われるという他力易業の浄土教が民間に広まると、地蔵信仰の性格は変わってきた。
・阿弥陀専修の人は「地蔵を信ずる人は地獄に堕ちる」と言った。
・旧仏教側は地蔵の利益を協調する。
・民衆にとっては俗界に住んでいるぶん、阿弥陀にまさる「世間の利益」を代表する地蔵菩薩を信じるものもいた。
・「身代わり地蔵」の信仰・・・地蔵が信者の欲する力を持った人間となった現れたり。危難を蒙りそうになった信者の身代わりになってくれるなど。
・勝軍地蔵・・・足利尊氏が地蔵を深く尊ぶ。甲冑をつけ、右手に剣をとり、左手に幡をなびかせ、戦い臨めば向かうところ敵なしという我が国独自の勝軍地蔵。

(6)それ以後現代まで(冥府の支配者と慈悲の面)

 阿弥陀専修念仏の成立によって浄土信仰としての役割は弱まるが、なお素朴な冥界への恐怖と結び、民衆に受け継がれた。14・5世紀仏教各宗が民衆の中へ浸透する過程で、死者の葬式追善の儀礼を十王信仰と結びつけて強調するようになると、地蔵は冥府の支配者として畏怖の対象となった。
 日本における十王信仰というのは地蔵を閻魔大王の本地仏とするもので、人は死後順次十人の冥道の王の審判を受け生前の罪に罰が科せられるというものである。中でも死後35日目の審判を司るのが閻魔大王(地蔵尊)であり、35日目の追善供養の様子も地獄のジョウハリの鏡に映されるから35日の供養は特に大切だという書物もできた。
 こういう畏怖と同時に比丘姿で地獄の鬼から信者を護るという慈悲の面もかねる菩薩として、人々の心をとらえた。六道を巡って衆生を導くという信仰は、町の辻の六地蔵を生み、小僧に実を変えるという信仰は、地蔵を子どもの守り神にした。地蔵が地獄の鬼に苦しめられる子どもを救う、賽の河原の信仰は室町時代に生まれ、江戸時代初期には、多くの「賽の地蔵河原和讃」が作られた。
 こうして現世利益信仰だけでなく来世的菩薩として、民衆に一番近い親しみ深い存在として今日に至っている。

2003・8・30(土)

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