伏見ぶらぶら6
百丈山(ひゃくじょうざん)と号し、黄檗宗に属する。
宝永年間(1704〜11)万福寺の千呆(せんがい)和尚の創建と伝え、当初は諸堂を完備した大寺であったが、度重なる災火により堂宇を焼失し、現在の本堂は昭和60年に再建されたものである。
本堂背後の山には、石像釈迦如来像を中心に、十大弟子や五百羅漢、鳥獣などを配した一大石仏群がある。これは、江戸時代の画家伊藤若冲が当寺に庵をむすび、当寺の住職密山とともに制作したもので、釈迦の生涯をあらわしている。なお、境内には若冲の墓及び筆塚が建てられている。
また、門前より少し西へ行ったところにある古井戸は、古くから名水として知られ、「茶碗子の水」と呼ばれ茶の湯に愛好されている。(京都市設置の案内板より)
ちょうど紅葉の美しい時期であった。庫裏に干し柿が吊してあり晩秋を感じた。またこのお寺は南天が多く美しい。たしか松本章夫さんのエッセイに紹介されていたように思うがその本が見つけられない。朱の竜宮造りの門によく似合っている。
伊藤若冲(1716〜1800)について
錦小路の青物問屋に生まれ自ら「平安錦街居士」と称した。のち黄檗禅に興味を持ち、煎茶を修行の手段としたことで知られる売茶翁とも親しく、黄檗山万福寺20世伯c(はくじゅん)に参禅し、その師千呆(せんがい)の関係で石峰寺門前に住むようになったらしい。石峰寺の一大石仏群は石峰寺7代住職密山(みつさん)和尚の強力を得て、妹の真寂と二人でここに庵をむすび、6,7年かかってつくりあげたといわれている。
画風は宗達・光琳派に属し、花鳥、とくに“鶏”を得意とした。中国の写生画の影響もうけているといわれている。
相国寺の大興禅師のもとでも参禅し、無欲枯淡の人生を好んだ。その号“斗米庵(とべいあん)”というのは、米一斗で絵を描いたからだという。
*補足
2002年12月7日に聖母女学院の伏見学講座「伊藤若冲と石峰寺」を聴講してきた。講師は狩野博幸氏(京都国立博物館・京都文化財資料研究センター長)であった。最初に自己紹介で大学教授から博物館に移ったときのエピソードを楽しくされた。自己紹介の上手な方の話はおもしろい。
いよいよ本題。伊藤若冲の経歴を簡単にメモした物を用意されていて編年でその足跡を辿られた。私が初めて知ったことがいくつかあった。
@若冲にとって相国寺の大典顕常というお坊さんが精神的パトロンであった。この大典さんは漢詩人であり、当時(17世紀末)漢詩人というのは最高の美意識の体現者であった。この大典さんが荻生狙来ら江戸の漢詩人たち(古文辞派・中国人の感性で詩を創作する)に対して反古文辞運動を起こしていた。この運動は反江戸運動であり上方文化運動であった。この新しい漢詩運動は精神主義的なものを素直に表現するという側面と日本人の持っている感情を日本人らしく表現するという側面を持っていた。精神主義的な物を画家として追求したのが曽我簫白であり、日本人らしさや写実主義を追求したのが若冲や応挙であった。
A若冲は決してお金に困って絵を描いたりするような人ではなく、実家は大きな商家(青物問屋)であり、絵の具も大変上等なものを使っている。
B若冲は無名な画家では決してない。当時高名な画家であった。
C売茶翁との出会いで彼はその生き方にあこがれをもちいくつもその肖像画を描いている。
D石峰寺の五百羅漢さんは若冲が下絵を描き石工にわたして彫らせたものである。(私はてっきり若冲が彫ったと思っていた)
E大典さんの書いたものによると若冲は、全く学問に興味がなく、歌舞音曲にも興味がなく、遊び女性にも興味をもっていないし商売もやる気がない人物であると書かれているらしい。
お話をうかがったあとその作品をスライドでたくさん紹介された。若冲という人物おもしろいと思うし売茶翁という人物にも興味が湧いた。
このキリシタン地蔵は本堂南側にあるお地蔵様の祠を解体修理したときに、祠の下の方から出てきたそうだ。初めてこのお寺に寄せていただいたときにうかがった。伏見にもキリシタンの方がおられたのだ。そして、その信仰を尊重して残された方がおられたのだ。ただ、何時代のものなのかは分からないとおっしゃっていた。
物語が生まれそうなお地蔵様である。