比叡山修験の道
私は京都に住んでいますから、比叡山へ行くには、@八瀬まで行ってケーブルに乗って登るA修学院雲母坂から歩いて登るB比叡山ドライブウエー(山中越え)で車で登る…という3つの方法で登ったことがあります。大原からも登れるようなのですが、まだ登ったことがありません。
滋賀県の坂本からもケーブルが出ていることは知っていましたが、乗ったことがありませんでした。
今回は、坂本から修験の道コースを歩いてみることにしました。そのハイキングの記録です。
朝10時に出発。京阪丹波橋駅から三条駅まで京阪電車乗車(260円)。三条駅で、京阪電車京津線に乗り換えます。地下鉄東西線醍醐行きはよく来るのですが、京阪京津線はなかなか来てくれません。浜大津で乗り換えて坂本まで。ところが乗った電車が近江神宮駅止まりで、再び乗り換えてやっと坂本に着いたのが11時15分でした。「スルッと関西」のカードを使おうと思ったら京津線では使えませんでした。京津線は京阪電車の中でも赤字路線らしく最近も地元大津市に協力要請をしたという話が新聞に載っていました。三条駅から坂本駅まで520円です。ですから丹波橋駅から坂本まで780円です。所要時間1時間15分。
ちなみに、帰りはJRを使って湖西線の坂本駅から京都駅、京都駅から奈良線で藤森駅まで乗りました。所要時間は合計40分。料金は400円。JRを使えば、所要時間も料金も半分です。坂本の町に入るのは京阪が近いですから歩くのがいやという人は京阪が良いかもしれませんが、これは勝負にならないなあと後から思いました。
坂本で思い浮かぶこと…馬借・明智光秀・延暦寺門前町・鶴喜そば・日吉大社…このぐらいかな?
京阪坂本駅の中というか横に茶畑があって最澄(伝教大師)が日本で最初にお茶の実を持って帰られたという説明がありました。私は、日本へ最初にお茶の実を持って帰って栽培されたのは栄西禅師だと思ってきたのですが、本当はどうなのでしょうか。建仁寺には栄西の顕彰碑があります。(「伏見と道元」参照)
(ア)生源寺…伝教大師の生まれたお寺
生源寺というお寺がすぐにありました。山門を入っていきますと清流が音を立てて流れ、産湯で使われた井戸や幼少像、説明の絵などがありました。最澄は三津首という渡来系の一族の出身であることなどが説明してあります。
(イ)坂本・鶴喜そば
このお店は、京都にもチェーン店を展開しておられます。京都のお店は坂本のお店とイメージが違って、国道筋にあるおソバ屋さんという感じです。坂本の鶴喜そばの建物は「登録有形文化財」指定の由緒あるもので、昔の街道筋とか門前町のおソバ屋さんはこういうものだったんだろうなと思わせてくれます。11時半になっていたので、昼食は997円のそば定食を食べることにしました。こしのきいたやや堅めのそばでおいしかったです。早めの昼食にしてよかったです。私が店を出るころには、店の外で待つ人が列を作っておられました。
県道を渡り、いよいよ修験道へ入ります。かわいい花が心和ませてくれます。
スミレ | ショウジョウバカマ |
この道を歩いている間に行き交ったり追い越したりして会ったのはわずか3人!ところが、この山道随分歩きやすいように石が敷いてあったり階段が作ってあったりで整備されているのです。たぶん昔からの大切な比叡山への道だったことが察せられます。お地蔵さんが何体かありました。そしてお花がしっかり供えられています。大切にお守りしておられる方がおられるようです。
杉の幹に中に安置されているお地蔵さんは顔のないお地蔵さんで、胴体に小さな石ころが乗っていました。
(ア)杉の幹地蔵
紀貫之の墓が比叡山の山中にあることは、根本中堂近くの道標で見たことがありました。でもこの道から登れることは知りませんでした。この道を歩くことは二度とないだろうと思いちょっと無理して紀貫之の墓へ行くことにしました。
是より九町道標 | 是より五町道標・ここからの登りがきつかった! |
この2つの道標は大正2・3年に建てられています。その前に下の案内板がありました。
さて、この5町の道標から行って帰ってくるのに私は30分かかりました。かなりきつい坂です。こういう案内が励ましてくれます。
この紀貫之の墓のある山は裳立山(もたてやま)と言う名前です。この山からの景色を紀貫之が愛したようで、自分の墓をここに建てさせたということだそうです。山頂付近にクマザサが生えていて琵琶湖や谷の向こうの無道寺明王堂が見えるところがあり、ベンチも用意されていました。墓そのものは明治初年に建てられたものです。そして「裳立山上碑」(明治46年)という立派な石碑がありました。二つとも紀貫之のことを明治時代に顕彰するために建てられたものでした。土佐の守として現在の高知県へ赴任した紀貫之、そのゆかりの南国市から「土佐日記」が始まるというので南国市はこの墓を大切にされているようです。市長の花束が供えられたり参拝記念の木標が立っていたりしました。
もたて山から琵琶湖 | もたて山から無動寺明王堂 |
紀貫之の墓から下り坂になります。そしてもう一度きつい上り坂になって無動寺谷と呼ばれるゾーンになります。ここは南山とも呼ばれているところです。
(ア)玉照院
その最初のお寺が玉照院です。
山門・禅寺みたいです | ヤマツツジがきれいでした |
(イ)無動寺谷大乗院
大乗院は親鸞上人修行の跡地という案内がありました。
大乗院・美しく模様が入っています |
この写真を撮ってたらお坊さんが出てこられました。このわらじは だれが使うのかと訪ねましたら私が使い古したものだとのこと。こ の方は回峰行中の方なのかなと想像しました。 |
(ウ)無動寺谷明王堂
明王堂には回峰行に関係のある像などがありました。不動明王を拝ませていただきました。千日回峰行の時の中心のお堂だそうで、最後の不眠不休の行はこのお堂で行われるとか。
重要文化財・明王堂 |
明王堂から琵琶湖 |
この明王堂のお坊さんが千日回峰行をされたようで、その記念の石の鳥居がありました。昭和40年代のことのようです。
(エ)無動寺谷弁天堂灯籠
ケーブル延暦寺駅に行くまでに見たことのある名前の灯籠を見つけました。これは弁才堂の灯籠でした。
ケーブル延暦寺駅・ケーブル坂本駅この2つの駅の駅舎は登録有形文化財に指定されているようです。では2つの駅とケーブルから見た琵琶湖です。
(ア)ケーブル延暦寺駅
(イ)ケーブルから琵琶湖
(ウ)ケーブル坂本駅
案外早い時間に戻ってきたので、坂本の町をブラブラすることにしました。日吉大社へ行くことにしました。
初めての日吉大社訪問。全国に三千八百余社の分霊社をもつ総本宮。境内は八王子山(牛尾山)を含む13万坪。国宝2棟(東西両本宮本殿・日吉造)、重要文化財17棟。建物や神輿は織田信長の叡山焼き討ちのため全て灰燼に帰し、それ以前のものはなく、それ以後の桃山・江戸初期のものです。
東本宮の祭紳は、大山咋神(おおやまくいのかみ)で、古事記上巻に「此の神は近淡海国(ちかつおうみ)の日枝山(ひえのやま)に坐(ましま)す」と記載されています。昔から比叡山に鎮座する地主神。
西本宮の祭紳は、大己貴神(おおなむちのかみ)で、この神は天智天皇7年(668)大津京遷都に当たって、大和の国三輪山(大神神社)より勧請された神。
平安時代になり、京都に都が移ると日吉大社が都の表鬼門に当たるところから鬼門除け、国家鎮護、方除け、災難除けの社とされました。伝教大師(最澄)が比叡山に天台宗延暦寺を建立すると、天台宗の護法神、あるいは伽藍神として仏教と深い関係を持ち、「日吉山王」と言われるようになりました。(日吉大社説明しおりより)
叡山の僧兵が日吉神社の神輿を担いで強訴したことはあまりにも有名。
(ア)日吉神社参道と桜
(イ)鳥居
この鳥居の上についている山方は珍しいものです、こんな形初めて見ました。
(ウ)猿の霊石
日吉神社のお使いは「猿」だそうです。日本猿が飼われていました。「魔が去る」という意味で「魔去る」の「猿」だそうです。京都の大豊神社に猿の狛犬(猿)がありました。そこはやはり日吉社でした。東本宮楼門前に猿の霊石がありました。猿の顔に似ていました。
(エ)出世橋
猿ついでに…。日吉神社にはおもしろい形をした橋が3つありました。大宮橋、走井橋、そして二宮橋です。その中の二宮橋は「出世橋」の別名がある橋だそうで、太閤秀吉に関係があるようです。その説明板があったのですが、猿が関白の着物を着たものでした。
二宮橋(出世橋) |
(オ)西本宮
西本宮楼門(重要文化財) | 国宝西本宮本殿 |
(カ)東本宮
重要文化財東本宮楼門 | 国宝東本宮本殿 |
東本宮本殿付近から拝殿楼門など | 東本宮にあった神輿 |