伏見ぶらぶら21
春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり
曹洞宗宗祖道元というお坊さんは、ただただ座禅され、たくさんの書物をお書きになり、求道の一生を過ごされたました。若くして非凡な才を自覚し自分しか正法を受け継ぐ者はいないという自負で修行されました。日本に自分の師はいないというので中国・宋へわたり悟りを開いて帰国し、曹洞宗の礎を築かれました。
伏見の久我に誕生院があります。建仁寺を出て最初に住まわれた深草「安養院」は現在の墨染の「欣浄寺」。最初の禅宗寺院「興聖宝林寺」は現在の深草「宝塔寺」あたり。伏見に大いに関係のある道元さんです。日本最高の哲学者であり仏教者だといわれる方を追いかけてみます。
道元誕生地 (久我・木幡) |
比叡山 (得度の地) |
建仁寺 (修行の地) |
入宋 正師如浄 |
欣浄寺 (深草安養院) |
興聖宝林禅寺 (初の禅宗寺院) |
六波羅蜜寺 (洛中伝導) |
永平寺 (曹洞宗大本山) |
覚念邸 (示寂の地) |
東山赤辻 (荼毘地) |
道元の教え (キーワード) |
道元禅師年表 |
2004・1・18
道元の誕生した場所はその候補地が2ヶ所あります。
1つは父方の久我通親(源通親)の所領で、京都市伏見区久我(当時平安京南郊・桂川右岸の村落)。そこに久我氏は別業(別荘)を持っていたようで「久我水閣」と呼ばれていました。現在この「久我水閣」の故地と伝わっている場所に「誕生山妙覚寺(通称誕生寺)」があります。
もう1つは宇治市木幡にある母方の松殿基房(藤原基房)の別業「木幡山荘」です。木幡は藤原氏葬送の地であり、また別業が多く建てられた場所でした。ここには現在「松殿山荘」があります。
◆「誕生山妙覚寺(通称誕生寺)」・・・「久我水閣」故地
誕生寺は伏見区と向日市を結ぶ道路途中にあります。「国道赤池」からさらに西へ向かいますと桂川に久我橋が架かっています。この久我橋を西に渡った土堤下にめざす誕生寺はあります。「久我水閣」は、桂川の水を利用した舟遊びが出来る池を持った立派な建物だったようです。
明治維新のあと、京都の公家は京都を捨てて東京へ移り住みますが、久我家も例に漏れずここ久我の地を捨てました(確か女優さんで久我美子さんという方がおられましたがこの方は久我家の方だったとか)。そのためこの周辺は荒廃しました。それを大正8年に永平寺66世貫主日置黙仙が、福井県小松の華厳山妙覚寺を移し、道元顕彰のために建てたのがこのお寺です。
本堂などは昭和63年建てられたものであり新しいものです。
そして、平成12年(2000年)道元生誕800年を迎えるため復興計画が進められたそうです。
では、誕生寺の紹介です。
誕生寺山門 | 誕生寺本堂 |
道元禅師産湯の井戸 | 道元禅師両親の墓 |
道元禅師の和歌 | 道元禅師幼少像・・・神童だったそうです |
「おろかなる 吾れは佛けにならずとも 衆生を渡す僧の身なれば」と書いてあって、私は「意外」な歌だと思いました。道元と言えば自信満々で自身を「おろか」などと思ったことはないと思っていたからです。
両親の墓のうち、母の塔は道元が菩提を弔うために建てたと言われ「鶴の塔」といわれていたものの模刻です。実物は京都市上京区北村美術館庭園にあり、重要文化財です。
◆道元禅師の父母のこと
母は松殿基房(まつどのもとふさ・藤原基房)の子で、「伊子」といいます。
伊子の父基房は藤原摂関家の氏長者の位置にあった人で、摂政・太政大臣・関白などを歴任した人物でした。時の権力者後白河法皇からも信任されていた人物でした。
ところが1179年平清盛の台頭で冷や飯を食わされます。
しかしその4年後1183年木曽義仲が北陸から入京し義仲が朝日将軍と持ち上げられ政局をにぎると、基房は自分の三女「伊子」を義仲に差し出します。そして松殿家は権力中枢に復帰します。
しかしまた今度は鎌倉の源頼朝派遣の義経軍にけちらかされた義仲とともに松殿家も政権の座から遠のけられます。そして基房の弟九条兼実に朝廷の主導権が移ります。兼実は頼朝と親しく鎌倉との協調をはかろうとします。これに反発する勢力は丹後の局という後白河法皇の寵妃(法皇死後も力)とその信任を受けた村上源氏の血を引く政略家久我通親(源通親・土御門通親)を中心に巻き返し、後鳥羽上皇に讒訴して兼実を放逐します。これ以後久我通親は娘在子と後鳥羽天皇の間に生まれた後の土御門天皇を即位させ、外祖父の座を得て倒幕計画を進めることになります。
その久我通親に目をつけたのが松殿基房でした。義仲にしたと同様通親に伊子を送ります。道元はこの二人の間に生まれた子です。道元の母伊子は当時三十歳前後、父親の通親は五十歳ぐらいだったとか。もちろん母伊子は側室の一人でしかありませんでした。
つまり道元は藤原摂関家の母と当時最高権力者の父との間に生まれた子だったのです。
道元は幼くして父母を亡くします。父は3才の時に。母は8才の時に。
神童の誉れ高かった道元は松殿家復興の切り札として期待され、叔父の師家は養子にと申し出ますが、道元は断り、出家の道を選びます。
「永平寺三祖行業記」には出家の理由が「慈母の喪に遇い、香火の煙を観て、潜かに世間の無常を悟り、深く求法の大願を立つ」とあります。わずか8才の子が世の無常を悟ると言うこともすごいことです。道元は、祖父や父のような政治家になろうと思えばなれたにもかかわらず自分の意志で僧侶の道を選びました。父母の死とりわけ母親の死が関係したであろうことは想像できます。
◆宇治「木幡山荘」・・・松殿基房の別業地
木幡は藤原氏葬送の地であり、また別業が多く建てられた場所でした。今も木幡から万福寺にかけての山地には宇治陵と呼ばれている古墳(33号墳派伊子の墓という伝承がある)が多くあります。道元のもう一つの誕生地候補である「木幡山荘」のその後は明らかではないらしいです。しかしその「木幡山荘」の跡であろうと思われる場所に現在「松殿山荘」が営まれています。茶人の高谷宋範という方が大正・昭和にかけて建設されたというもので周辺の松林に残る土塁は旧松殿の遺構だそうです。。
「道元禅師は13歳になった建仁2年(1212)春、みずから求法の大願をたてて木幡山荘を忍び出、比叡山延暦寺に入った。木幡から比叡山へ向かうには、東北方の山を越えて伏見の里へぬけ、鴨川沿いに北上して白川越えないし雲母坂を登るのが一番早い。おそらく道元も心はずませてこのコースを辿ったのであろう。「道元」(淡交社刊・百瀬明治著・京都宗祖の旅シリーズより)と書いてありました。
しかし別の本には少年期を過ごしたのは堀川院(京都市中京区堀川通り二条下ル京都国際ホテル)だったという事が書いてあるものもあって定かではありません。
もし松殿で幼少年期を過ごしたのならきっと伏見の里を通ったでしょうね。そのころの伏見はどんな所だったのでしょうか。
道元は母方の叔父であり当時の高僧であった良観の庵に入り出家を求めます。良観は松殿氏が道元に期待していることを知っていましたから反対しますが、道元は母の遺言を楯にして出家の志を曲げなかったそうです。そして比叡山の横川楞厳院般若谷の千光房に入ります。翌年4月9日天台宗座主広円について剃髪し、翌10日戒壇院において菩薩戒を受け、修行生活を始めます。
比叡山横川中堂 |
元三大師堂前の石碑 | 道元禅師(承陽大師)得度霊跡 |
*承陽大師という名は明治時代におくられた名
当時延暦寺は宗教界一の勢力を誇っていました。ということは世俗的(名聞利達・仏教界での立身出世や権力との結びつきなど)でもあったことになります。そして横川は比叡山の三塔の中でも一番奥にあり、山内の中でも念仏信仰の中心地でした。「往生要集」の作者恵心僧都(源信)が住まいしたところでもあり末法思想と浄土教の影響をもろに受ける環境であったわけです。道元が出家する前年に法然が亡くなっています。都には浄土宗が流行っていたのです。また、武士の世の中になり落ちぶれた貴族階級には「末法思想」「無常観」がはびこっていました。道元が出家した年に鴨長明が「方丈記」を書き上げています。そういう時代の中で、比叡山に入った道元には否応なく「世俗化」「末法思想」(釈迦の正しい教えは時代が下がるにつれしだいに衰徴し、正法、像法、の次の末法には戦乱悪疫がはびこり、ついにこの世が地獄と化すという考え)「無常観」「念仏信仰」をどう考えるかという課題があったわけです。
道元も最初は「世俗化」の影響を受けたらしい。「教導の師も・・・国家に知られ天下に名誉せんことを教訓する故に、・・・先ずこの国の上古の賢者に等しからんと思い、大師等にも同じからんと思いき」(正法眼蔵随聞記)しかしこの邪念を払い「求道の大願」を貫くところが道元のすごいところです。
横川恵心堂 | 横川・恵心僧都源信六道説明図 |
道元が抱いた教理への疑問
大乗仏教では「一切衆生悉有仏性」といい、人間は生まれながらに誰でも仏性=理想的な人格者になる素質を備えていると説いています。天台宗の本覚思想はさらに人間は生まれたときから覚っているのだ「本来本法性、天然自性身」と主張します。 まず大乗仏教の教えに従えば、「末法思想」は人間の可能性を認めないわけですから間違っていると言うことになります。道元は「末法思想」と決別します。道元は藤原摂関家にゆかりの人ですから当時の貴族の心を捉えていた末法思想の影響を受けたはずです。しかし彼の合理的な頭脳はそれを打ち消したと言うことです。「仏教に正像末を立つること暫く一途の方便なり」そういう考えは「方便」だと言い切ります。そして「大乗仏教には正像末をわくることなし」とも言って末法思想を否定します。人間に仏性があることは認めるが故に「末法思想」を否定する必要があったのです。それが人も自分も救い救われる道だということであったのでしょう。
道元の疑問は、天台宗の本覚思想「本来本法性、天然自性身」にありました。つまり、人間が生まれながらに覚っているのなら、なぜ「三世の諸仏」は「発心」して「菩提を求むるや」と思ったのです。自分が出家し修行に励むわけが分からなくなると考えたのです。比叡山は今日でも千日回峰行などの荒行で有名です。道元が荒行をしたかどうかは不明ですが何故の荒行かと言うことではないでしょうか。
道元はこの疑問を解決しようとします。
まず当時顕密の奥義を究めた学匠として名高かった園城寺の長老公胤の門をたたきます。公胤は当時法然の専修念仏に帰依していたようですが、この疑問には答えられず、建仁寺の栄西を紹介します。
栄西は建仁寺で当時宋から持ち伝えた臨済禅広めていました。道元より60歳以上年上の大先輩でした。栄西は「三世の諸仏有ることを知らず、狸奴白牡、卻って有ることを知る」という中国の禅僧の言葉で応じたそうです。意味は「あなたの疑問は妄想に等しいのではないだろうか。三世の諸仏はそういうことは意識されないまま成仏されたようだ。あなたの疑念は理屈っぽいからもっと悟りを体得自覚したほうがよい」ぐらいの意味のようです。この栄西の言葉が道元に届いたかどうかは疑問ですが天台教学にない魅力を禅に対して持ったのは確かなようです。
この後数年、道元は諸方の寺をまわり師を求めます。そして比叡山で大蔵経を読むことに没頭します。
そして「此の国の大師等は土瓦の如くにおぼへて、従来の身心皆あらためき」(正法眼蔵随聞記)と言い放ちます。
つまり日本の祖師高僧は土瓦と同じだ、今まで信じてきたことはリセットするというのです。道元は20歳に満たない修行僧です。その彼が日本仏教に絶縁状を叩きつけたのです。
法然の「専修念仏」に対しての道元の疑問は2点でした。@他力本願でよいのかA浄土往生ではなく現世往生の道はないのか、ということです。法然が教えを「易行化」したことは時代の要請でありこれは道元もその方向で自分の教えを作っていくわけですが、、人間の可能性を信じ、強い生き方を願う道元からすれば自力本願の道を探ることになりますし、現世の生き方こそ問題にしなければならなかったと思われます。
道元の場合、「無常観」(定めがないこの世の状態をはかないと思う気持ち)についてはこれを創造的なエネルギーに変えることに成功した人だと言えるでしょう。どうせこの世は無常なものであるからあきらめて、あくせくするのはやめましょうという鴨長明(方丈記ワールド)になるか、無常だからこそ真理真実を求めて求道の道を進みましょうという道元になるか、同じ時代に生きても道が180°違ったのです。
道元は栄西から禅の啓示を受けた後、約7年間建仁寺で修行をしたようです。道元が建仁寺に入った時、すでに栄西はなく、建仁寺2代目住持明全に師事することになります。道元にとって明全は信仰の先達にはならなかったようですが、深く人格的影響を及ぼしたことが「正法眼蔵随聞記」にも見られます。「全公(明全)は祖師西和尚(栄西)の上足として、ひとり無上の仏法を正伝せり。あへて余輩のならぶべきにあらず」(「正法眼蔵「弁道話」)
弟子ではあるが、「此の国の大師等は土瓦の如くにおぼへて」と自分のことも思っている弟子です。「中国・宋の国へ行って正師をさがす」という道元の入宋の目的を明全は知っていたのでしょうか。私みたいな狭量の人間ならそんな弟子を宋へ連れて行かないだろうと思います。しかし明全は道元と共に入宋します。この事実だけでも私は明全と言う方を尊敬します。
明全は修行途中で天童山了然寺で1225年没します。入宋して3年目のことでした。
建仁寺茶碑・栄西喫茶養生記で茶を広めたことの顕彰碑 |
建仁寺三門 | 明全の墓がある開山堂 |
栄西・明全・道元記念モニュメント | 「道元禅師修行の遺跡」の説明板 |
貞応2年(1223)24歳になった道元は明全らとともに4月明州慶元府につきます。明全はすぐに上陸し天童景徳禅寺に入ります。しかし道元は別行動をとります。なぜか3ヶ月間上陸せずに船中に滞留します。病気のために体力を蓄えていたのでしょうか、語学の習得に努めていたのでしょうか。
椎茸買いつけの典座に学ぶ
船中にいた道元は、阿育王山の典座(寺の食事係)が、椎茸買いつけのため船を訪れたのに出会います。年齢は60歳を超えている典座でした。道元は「一夜語り明かしましょう」と言います。しかし老典座は「自分の仕事が大切だからできない」と言います。「あなたの代わりはいるでしょう」というと「私は年老いてから典座職についたので、これが最後の弁道だと思う。他人任せに出来ない」と言います。道元は「文字とは何ですか、弁道とは何ですか」と尋ねます。「自分の脚下をふみはずさなかったら、その人は真実の学人でしょう」という答え。不審がる道元に老典座は「まだよく分からなかったら阿育王山へおいでなさい」と言い残して去ります。典座でもこれほどの道心に達しているということを知った道元は命がけで宋へ来たことは間違ってなかったと思います。
「なんの用ぞ」
ある修行僧に次々「なんの用ぞ(それな何のため?)」と問われ次第に答えに窮するという経験をした道元は、日常生活そのものが修道であること「生活禅」といった認識に至ります。人間肯定、自力弁道に接近していきます。人生を離れて悟りの境地などないということに気づきます。
「単伝」思想・・・正師を求める心
正しい教えは釈迦に発して現代につながると道元は考えます。そして悟りを得た人々の縦の系譜(単伝)を考えます。これが道元が他の宗祖と違うところです。他の宗祖は人間にあらざる超越的な存在にすがることをその教えの根本に据えます。しかし道元は人間釈迦から単伝された正法を受け継ぐ正師に出会い、自分がその正法の伝承者になることをめざしたのです。
正師如浄に出会う・・・心身脱落
天童山で如浄に出会った道元はこの人こそという確信を得ます。そして如浄の弟子になって3ヶ月後のことです。修行中に眠っていた修行僧に対して如浄が、その怠慢を大喝(大声で叱ること)を加えているのを聞き、自分が別のものに生まれ変わった(大悟)ことを感じます。そして如浄を尋ね焼香します。「何のための焼香か」と問う如浄に対し「心身脱落し来る」と答えます。すると如浄も「心身脱落、脱落心身」と応じました。如浄は道元が悟ったことを認証したのです。道元26歳のことでした。
帰国・・・九州へ
1227年28歳になった道元は宋での修行を終え、明全の遺骨を抱いて日本へ戻ります。
1228年九州から帰り、建仁寺に戻ります。京都に戻るまでに2年を要しています。その間に「普勧座禅儀」を著したと言われています。
しかし純粋禅を主張する道元と建仁寺僧団とは相容れず、また新宗派の出現に対して法然の専修念仏同様弾圧と破壊で望もうとする比叡山延暦寺の圧迫の中で、孤立した道元は1230年建仁寺を去り深草安養院に閑居する道を選ばざるを得ませんでした。
深草安養院というのは、京都市伏見区深草宝塔寺寺山町にある日蓮宗宝塔寺の近辺と見られています。その宝塔寺門前辺りの町内を深草極楽町と言います。遺構などは発見されていない「幻の寺」で、面山瑞法という江戸時代の坊さんは安養院は極楽寺の別院と断じておられるようですが、はっきりしたことが分からないようです。極楽寺は室町中期まであったようですが今は地名だけ残っています。
宝塔寺入り口付近 |
極楽寺の寺号は受け継がれています。京都市東山区本町22丁目の「十王」で有名な極楽寺です。
そして安養院の法灯を嗣いでいるのが京都市伏見区西桝屋町にある欣浄寺です。はじめは極楽寺廃寺の安養院といったそうですが、戦国末期天正年間(1573〜1592)に欣浄寺として現在地に移ったようです。
(1)京都市設置の説明版「欣浄寺」
清涼山と号する曹洞宗の寺院である。
寺伝に寄れば寛喜2年(1230)から天福元年(1232)道元禅師がこの地で教化に努め、当寺を創建したといわれる。当初真言宗であったが、応仁の乱(1467)後曹洞宗となり、天正・文禄(1573〜92)の頃、僧告厭(こくえん)が中興し浄土宗に改められ、さらに文化年間にもとの曹洞宗に改宗した。
本堂は俗に「伏見の大仏」と呼ばれる丈六の毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)をはじめ、阿弥陀如来像、道元禅師石像などを安置している。
また、当地は昔深草の少将(百夜通い)の屋敷があったところと伝えられ、池の東の藪陰の道は「少将の通い道」と呼ばれ、訴訟のある者はこの道を通ると願いが叶うといわれている。なお、池の畔には少将と小野小町の塚と「墨染井」(すみぞめのい)と呼ばれる井戸がある。
(2)比叡山にあった道元禅師の一生の説明板
これはまた深草をえらい草深い山の中に描いてあります。道元はこんな草深いところに草庵を建てたのでしょうか。
安貞元年(1227)、求法のため渡っていた宋国から御帰朝された曹洞宗(大本山永平寺)の宗祖道元禅師は、寛喜二年(1330)から天福元年(1232)宇治興聖寺に移られるまで、当寺に閑居された。当時は竹林山安養院といい、道元禅師「深草閑居」の旧跡と称されている。道元禅師ご自作の石像は今も当寺に遺され、境内には文化九年(1812)天照卍瑞和尚が再建した、道元禅師の作になる左記の如き詩碑がある。
生死可憐雲変更
迷途覚路夢中行
唯留一事醒猶記
深草閑居夜雨声
この詩の大意は次のように解される。
生あるものはいつかは死を迎える。丁度行く雲のようである。生死について今まで色々考えてきたがそれはすべて夢の中を歩いていたようなものであった。生死とは何か 今その真髄を得た。ときあたかもこの深草の閑居の夜、外は雨音しきりである。
安養院へ集まる道元を慕う人々の数が増すにつれ修行道場が必要になった道元は、極楽寺内に興聖宝林寺(興聖寺)を建立します。道元が浄財を集めるために綴ったとされる「宇治観音導利院僧堂勧進疏」には「而今、勝地一所を獲たり、深草の辺、極楽寺の内に在り。初め観音導利院と号す。・・・寺院の最要は、仏殿・法殿・僧堂なり。仏殿はもとよりあり、法殿未だし。僧堂最も切要なり。今これを建てんと欲す」とあります。
ここで『典座教訓』や『正法眼蔵』の中の「現成公案」をはじめ各巻が仕上がります。また、かっては道元に論争をしかけた懐奘(『正法眼蔵随聞記』著者・永平寺第二代住持)たち日本達磨宗の集団入門などもあり、教団としても体裁を整えていきます。
34歳から44歳までの10年間をここ興聖寺で過ごした道元の受戒の弟子は2000余人を数えたそうです。
この興聖寺は現在のどこに当たるかということですが、やはり宝塔寺あたりではないかということになります。では現在の宝塔寺です。日蓮宗のお寺です。極楽寺村は一村法華だったところです。
しかし現在摂取院のあるところが道元ゆかりの興聖寺跡という説もあるようです。摂取院については「伏見のお地蔵さん」参照)
重文総門・室町中期・切妻造本瓦葺四脚門 | 仁王門宝永8年(1711)ボタンの天井画 |
重文本堂 | 重文多宝塔・永享11年(1439) |
宇治・仏徳山興聖寺
道元が深草の興聖寺を去って約400年後宇治川の北に興聖寺が永井尚正によって再興されました。江戸前期慶安元年(1648)のことです。永井尚正は10万石の大名で淀藩城主でした。父の菩提を弔うためでした。造営費用をすべて負担したそうです。
ここは、とりわけ紅葉の時期美しく「琴坂」は有名な写真スポットです。「京都の紅葉情報」参照
興聖寺僧堂が完成した頃、道元は教化伝道にも乗り出す。説法の場として選ばれたのが空也上人ゆかりの六波羅蜜寺です。後に永平寺を建てるときに全面的に支援する御家人波多野義重が六波羅蜜寺の近くに住まいしていたことがこのお寺を説法の場にした理由であろうと言われています。1242年1243年頃のことです。(六波羅蜜寺については京都落語地図「幽霊飴・「六道詣り」参照)
道元は寛元元年(1243)44才の時、越前へ向かいます。
道元がなぜ京都から離れたのかについては諸説あるようである。
@比叡山の圧迫。興聖寺への襲撃破壊。
A朝廷への向けて出した「興禅護国論」が却下され挫折。
B洛中伝道失敗(これも比叡山を敵にまわしたため)
C如浄(道元の正師)の言葉に従った(城邑聚落に住することなかれ。国王大臣に近づくなかれ」
D在俗信徒で鎌倉御家人波多野義重の所領が深山幽谷を求める道元の希望と合致した
E如浄は宋の越州で越前が懐かしい(と述懐したという)
F越前の白山天台教団は道元に好意的であった
などです。
道元が永平寺に入って大きく変化したのは「出家至上主義」に変わったと言うことです。「身の在家出家にかかはらじ」と言って在家成仏を説いていたものを「しるべし、出家して禁戒を破すといへども、在家にて戒やぶらざるにはすぐれたり」と自身の教えを大転換します。
永平寺に入った道元は一度鎌倉へ出て執権北条時頼に会っています。宝治元年(1247)のことです。7ヶ月滞在したそうです。彼の中にやはり権力者に認められ保護されながら自由に伝道したいという欲求があったのでしょうか。
しかしこれ以後建長元年(1249)門弟を前にして、たとえ国王の命令があっても永平寺を離れることはないと誓っています。
永平寺訪問記
2004年1月4日福井県にある永平寺へ行ってきました。3回目の訪問です。
初めて行ったとき、京都や奈良の大寺院になれた私には少し違和感がありました。まず吉祥閣という建物の大広間で、説明を受けるのですが、どうもそれが押しつけがましくて野暮ったい気がしたのです。「ここは観光気分で来るところではない」とはっきり宣言されるのです。「ここには国宝や重要文化財といった建物も仏像もない」とも言われます。「ここは修行のお寺であって今も240名の僧侶が修行しているから、その妨げになるようなことはするな」という趣旨のことを言われます。若い頃、それなら完全に門を閉ざして修行だけをすればいいのではないかと思いました。大勢の参拝者(観光客)が落としていくお金がずいぶんお寺の台所を潤しているのではないかと思ったものでした。観光気分で来るものをその宗教の本質に触れさせてこそお寺の使命感が達成されるのでは?とまあ生意気なことを思っていたものでした。
でも、今回の訪問ではこんな言葉の方に気持ちが動きました。「ここの建物や仏像の写真を撮るのは自由だが、修行僧にカメラは向けないでほしい」ナルホド・・・。これはもちろん人権に対する配慮もあるのでしょうが、修行中の僧侶にカメラが向くと修行の邪魔になると言うことなのでしょう。承陽殿で作法の練習をしていた僧侶達は随分不自然な歩き方を何回も繰り返し練習しておられました。町の中でもしあの歩き方すれば大笑いなのですが、永平寺の中では何か不思議な威厳がありました。自分が写真を撮りたかったからということもあったのですが、京都の万福寺同様、建物などの写真を撮ることを許可しておられる永平寺の方針はそういうものがこの寺の本質ではないぞというお寺の姿勢を示しておられて感心しました。
永平寺に入るときは「春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえて、すずしかりけり」という道元禅師の歌で始まり、帰りは「てふてふひらひらいらかをこえた」という種田山頭火の句におくられて帰ってきました。
春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえて、すずしかりけり |
道元禅師御歌(交番前) 尋ね入る みやまの奥の 里なれば もとすみなれし みやこなりけり (この歌に道元の都へのあこがれをかえって感じました) |
永平寺正門 | 永平寺石柱と瑠璃聖宝閣 |
仏殿・明治35年(1905)中国宋様式 | 本尊釈迦牟尼仏 |
法堂前に雪が残っていました | 法堂内部・本尊聖観世音菩薩 |
大庫院(台所など)の大すりこぎ さわると料理が上手になるとか |
承陽閣 道元の墓所・歴代住職の位牌など |
鐘楼(大晦日恒例の鐘) | 鐘楼・浴室へ行く道 |
浴室がありました。七堂伽藍の一つです。中へは入れませんでした。今も使われています。「跋陀婆羅菩薩」(水を因縁として悟りを開いた菩薩)が祀られているそうです。
種田山頭火の碑
水音のたえずして御佛とあり | てふてふひらひらいらかをこえた | 生死の中の雪降りしきる |
永平寺で「道元禅師からのメッセージ」というメッセージ写真集と「正法眼蔵随聞記」を買って帰りました。
「道元禅師からのメッセージ」にこんなことが書いてあります。
はきものをそろえる
はきものをそろえると心もそろう
心がそろうと、はきものもそろう
ぬぐときにそろえておくと
はくときに心がみだれない
だれかがみだしておいたら
だまってそろえておいてあげよう
そうすればきっと、世界中の人の心もそろうでしょう
永平寺のトイレにこんな貼り紙がありました。
道元は建長4年(1252)秋頃から健康を損ね、病床に伏すことが多くなりました。
建長5年(1253)7月急激に病状が悪化します。懐奘に住持職を譲り、自縫の袈裟を付します。直系の弟子をと願ったにもかかわらず懐奘を越える弟子は育たなかったのです。
波多野義重の進めもあり弟子との約束を破る形で道元は京都へ向かいます。
建長5年(1153)8月5日、いよいよ病が重くなった道元は、永平寺を出て京都へ向かいます。
8月10日西洞院高辻西の俗弟子覚念の邸宅に落ち着きます。
しかし都の名医もどうすることもできず8月28日夜半亡くなりました。
54歳でした。今の私と同じ年齢です。
京都まで付き添った懐奘、覚念、波多野義重たちが赤辻の小寺で荼毘に付したそうです。
その荼毘地は現在円山公園の最南端円山音楽堂の南出口前西行庵の南にあります。この場所西行庵からは行けません。東側の細道を南へそして西へ入るとあります。ちょうど高台寺の住職たちの墓地の東側に当たります。
遺骨は懐奘によって永平寺へ持ち帰られ埋葬されました。
道元禅師荼毘塔 |
西行庵(この裏手にある) |
只管打坐(しかんだざ)
座禅に打ち込むことによって、釈尊の悟りと一体となることができる、という道元禅の核心となる教え。悟りを求めて座禅するのではなく、一切のこだわりを捨ててひたすら座ることを説いた。
心身脱落(しんじんだつらく)
身も心も一切の束縛から解放され、体の痛みも心の雑念も抜け落ちた状態。如浄のもとで到達した道元の境地。ただし如浄は「心塵脱落」と書いているらしい。心の塵を落とすということである。「心身脱落」は道元の造語らしく、その造語によってより深い境地に達したと言えよう。
現成公案(げんじょうこうあん)
「現成」とは万物がありのままに実現し完成した状態、「公案」は人間の手によらず自然に現れていて動かすことのできない事実そのものをさす。現実の事物すべてが仏道そのものであり、ありのままの万物すべてが仏法の真理であることをいう。「正法眼蔵」の出発点となる言葉。中国禅を母胎としながら「仏」そしてある広汎な世界を「選択された自己の行為」という一点に集約して把握すし表現する、それが道元の教えであったといえるであろう。
*週刊朝日百科「仏教を歩く」NO3道元より
元号(西暦) 年齢 事績 関連事項 正治2(1200) 1 1月2日京都に生まれる。父久我通親・母藤原基房(松殿)の三女伊子。 5月念仏宗禁止。 建仁2(1202) 3 10月21日、父久我通親没。久我通具が養父となる。(久我通具実父説もある) 栄西、建仁寺を創建。 承元元(1207) 8 冬に母・伊子没。「慈母の死に逢い、香火の煙の立ち上るのを見て、人生の無常を感じ、仏門に入る気になった」(『建撕記』)母は臨終の床に道元を招き「私が死んだら、必ず仏門に入って修行を積み父母の後生をとむらってほしい」と固く遺言した。(『建撕記』) 法然、親鸞配流。 承元2(1208) 9 松殿の主で伊子の弟師家が養子にと申し入れる。 建暦2(1212) 13 春に元服。木幡の山荘を出て、叔父の良観の室に入り出家を求める。母の遺言を楯にして出家の志を曲げなかった。横川楞厳院般若谷の千光房に入る。 法然没。鴨長明『方丈記』なる。 建保元(1213) 14 4月9日天台宗座主広円について剃髪し、翌10日戒壇院において菩薩戒を受ける。 健保2(1214) 15 「本来本性天然自性身」の教理の疑問。園城寺の長老公胤の門をたたく。公胤は建仁寺の栄西を紹介する。公円の天台座主退位まで比叡山にあり、山を去る。栄西禅師のもとに入る。建仁寺に入り、栄西禅師の高弟・明全と相見する。建仁寺の栄西の室に入ってはじめて臨済の宗風を聞く。栄西禅師が亡くなる前年。 延暦寺衆徒園城寺を焼く。栄西『喫茶養生記』なる。 健保5(1217) 18 10月8日「因って18歳の秋、建仁寺和尚(明全)の会に投じて僧儀を備う」(『伝燈録』) 承久3(1221) 22 承久の乱起る。6月六波羅探題を置く。幕府が7月に後鳥羽上皇を隠岐に、順徳上皇を佐渡に流す。10月土御門上皇を土佐に流す。 貞応2(1223) 24 明全らと入宋。3月下旬博多出航。4月初めに明州慶元府沿岸に着。5月阿育王山の老典座(食事係)と問答。弁道の真義を教えられる。7月栄西ゆかりの天童山景徳寺に入る。1年で去る。中国各地歴訪。 元仁元(1225) 26 天童山景徳寺に戻る。無際了派が亡くなり如浄が住持になったことを聞く。5月如浄に相見。
同じく5月明全病没。(42歳)7月はじめて如浄禅師の方丈に入る。如浄を師と仰ぐ。親鸞「教行信証」を著す。北条泰時執権に。
翌年7月北条政子没。慈円没。宝慶元・嘉禄元(1227) 28 天童山を辞し、帰国。8月肥後川尻に着き10月「舎利相伝記(明全の遺骨の伝来記)」を撰す。 専修念仏禁止。7月久我通具没。7月京都大洪水。 安貞2(1228) 29 太宰府を経て建仁寺へ。「普勧座禅儀」を撰述する。如浄没。 寛喜2(1230) 31 7月深草・安養寺に移る。禅の布教を始める。8月「弁道話」を記す。比叡山の圧迫。 12月松殿基房没。 寛喜3(1231) 32 安養寺で了然尼に法要を説く。8月「弁道話」記述。 天福元(1233) 34 安養寺から極楽寺の旧跡にあった道を建て、観音導利院と名付ける。7月「普勧座禅儀」清書。 4月大飢饉。京都に餓死者多数。5月京都大雨で鴨川大氾濫。 文暦元(1234) 35 「正法眼蔵随聞記」筆録始まる。 専修念仏宗禁止。
京都大地震。嘉禎2(1236) 37 新たに禅寺を建て興聖宝林寺と名付けた。日本で最初に建てた禅寺であった。 嘉禎3(1237) 38 「典座教訓」一巻を撰す。正覚禅尼が法堂の建設を担当。 6月京都大地震。 嘉禎4(1238) 39 叔父松殿師家没。 延応元(1239) 40 4月「重雲堂式」を著す。 2月後鳥羽法皇没 仁治2(1241) 42 春、懐鑑、義介、義尹、義演、義準ら門下に集まる。興聖宝林寺「菩薩戒を受けたる弟子2000余輩」(『建撕記』) 8月藤原定家没。 仁治3(1242) 43 12月『正法眼蔵』「全機」巻を六波羅密寺波多野義重らに説く。 寛元元(1243) 44 4月『正法眼蔵』「古仏心」の巻六波羅蜜寺に説く。7月波多野義重に請われて11年間住み慣れた深草を引き払って、越前の比志荘に移る。吉峰寺に着く。背景に南都北嶺の諸寺からの圧迫があった。閏7月比志荘の市野山の東方傘松峰の近くに敷地を求め禅寺の建設を始める。
寛元2(1244) 45 4月寺竣工。吉祥山大仏寺と名付ける。(今の永平寺より5,6キロ奥) 寛元3(1245) 46 「大仏寺弁道話」を著す。波多野広長に法話。 1月京都大地震。 寛元4(1246) 47 4月に大仏寺を永平寺に変更。吉祥山永平寺。 宝治元(1247) 48 8月鎌倉下向。北条時頼の招き。時頼は菩薩戒を受け道元を引き留めようとしたが道元は半年で越前に戻る。 宝治2(1248) 49 3月永平寺に帰る。翌日から上堂。 元明を破門。 建長元(1249) 50 9月尽未来際吉祥山を離れないことを誓う。 3月京都大火。 建長2(1250) 51 後嵯峨天皇紫衣を道元に贈る。道元固辞するが再三の使者に受け取るが生涯着衣しなかった。 建長4(1252) 53 秋から健康を害する。「正法眼蔵」最後の一巻「八代人覚」を書く。 建長5(1253) 54 「正法眼蔵」最後の一巻「八代人覚」完成。7月14日永平寺を懐奘に譲り自縫の袈裟を付す。8月5日京都に向かう。8月10日京都高辻西洞院の覚念邸に入る。8月28日示寂。東山赤辻で荼毘に付される。享年54歳。9月6日、懐奘は道元の遺骨を抱いて京都を発ち永平寺へ向かう。 4月日蓮立教開示。