幽霊飴
(六道の辻から高台寺)

あらすじ

 六道珍皇寺の門前に一軒の飴屋があった。
 ある夜表の戸を叩く音で出てみると青白い女が一人。「えらい夜分にすみませんが、アメを一つ売っていただけませんか」と一文銭を出して言う。次の日もまたその次の日も、同じように一文銭を出して買っていく。それが六日間続く。
 「あれは、ただもんではない。明日銭持ってきたら人間やけど持ってこなんだら、人間やないで」「なんでですねん」「人間、死ぬときには、六道銭というて三途の川の渡し銭として、銭を六文、棺桶に入れるんや。それを持ってきたんやないかと思う」
 七日目女はやはりやってくるが、「実は今日はおアシがございませんは、アメをひとつ・・・」と言う。「よろしい」とゼニなしでアメを与えてそっと後をつけると、二年坂、三年坂を越えて高台寺の墓原へ入っていく。そして、一つの塔婆の前でかき消すように消える。
 掘ってみるとお腹に子を宿したまま死んだ女の墓。中で子が生まれ、母親の一念でアメで子を育てていたのである。。この子、飴屋が引き取り育て後に高台寺の坊さんになったと言う。
 母親の一念で一文銭を持ってアメを買うてきて、子どもを育てていた。それもそのはず、場所が「コオダイジ(子を大事=高台寺)。
(米朝ばなし『上方落語地図』講談社文庫より)

■幽霊飴伝説と落語「幽霊飴」

 この「幽霊飴」を落語に仕立てたのは余生を風流ざんまいに送った桂文の助という人で、「文の助茶屋」はこの人が高台寺の境内に茶店を営んだのが始まりである。
 「赤子塚伝説」は全国各地にあるようで、京都市内にも4カ所(他に上京の立本寺・伏見の大黒寺・北区千本北大路十二坊・)ほど確認されているそうだ。「六道の辻あたりの史跡と伝説を訪ねて」(加納進著・室町書房刊)より
 落語と伝えられている話とのちがいは二つ。
 @七日目雨がシトシト降る中傘もささずに女は全身ずぶ濡れになってやってきて、銭を払う。しかし帳尻が合わない。その分銭箱に樒の葉が入っている。それを不思議に思った惣兵衛(飴屋の主人)が八日目に後をつけるという話になっている。
 A後をつけて高台寺の墓原ではなく鳥辺山の墓地にさしかかったところで女は姿を消すことになっている。
 高台寺というのは「サゲ」に持っていくための文の助の創作であろう。
 なお、子育飴由来書によると、慶長4年(1599年)江村氏妻の話になっている。又その子は八才で僧となり修行怠らず後、高名な僧になり、寛文6年(1666年)3月15日、68才で亡くなったということになっている。

■「幽霊飴」の咄が生まれた背景・・・六道の辻あたりのこと

 古くから葬送の地であった鳥辺山の麓にあって、あの世とこの世の境域と考えられたところから六道珍皇寺門前あたり(京都市東山区松原通東大路西入小松町)を言う。石碑が西福寺前にある。松原通は昔の五条通である。現在轆轤(ろくろ)町はむかし髑髏(どくろ)町と言われたものを江戸時代に改名したものである。昔相当量の人骨が出土したことからの命名らしい。
 平家の時代清盛が「六波羅」に館を設けたこと、鎌倉時代「六波羅探題」が設けられたことなどを歴史の時間に学んだが、この六波羅(六原)という地名もむかしこのあたりを髑髏原(どくろはら)といっていたことから転訛だという説もあるそうだ。
 ちなみに六道とは人間の生前の善悪の行いによって導かれる冥界とされ、天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄のことである。 

◇六道珍皇寺と小野篁

六道珍皇寺(臨済宗建仁寺派) 小野篁が冥界入りに使った井戸
 コミックス「陰陽師」安倍清明ブーム以来「京都冥界・・」とか「魔界なんとか」と言う本を見るようになった。そしてこの寺も必ずその本に登場している。
 この寺には閻魔堂(篁堂)と言う建物があり、閻魔さんと篁はんが並んで安置されている。狭い穴から覗くと目が慣れるにしたがってその閻魔座像(室町時代のもの)と小野篁立像(江戸時代)がそれぞれ両脇士を連れておられるのが見られる。ちょっと迫力があるからコワイ物の好きな方にはおすすめ。この寺で行われる六道詣り(六道さん)は盂蘭盆に先立つ8月7日〜10日まで行われる精霊迎えのことで、篁が高野槇の枝を伝って、その穂先から冥府へ通じる井戸へ入ったという伝説に因むものである。またその日は五条坂で陶器市が開かれる日とも重なりすごい人出になる。
*小野篁(802〜852)平安時代の政治家・学者・歌人。小野妹子は遠祖。小野道風、小野小町の祖父にあたる。『令義解』の選者。
 京都では「それ、篁はんが見てはるで」と子に言い聞かせたほど、小野篁と地獄の関わりはよく知られています。『今昔物語集』には左大臣藤原良相が閻魔庁で裁かれる時に小野篁に救われたという話を載せています。以後、篁と地獄伝説は数知れず普及するようになりました。実際小野篁は、遣唐使に任じられた時に、時の最高権力者、嵯峨天皇に反抗し隠岐に流されたほど硬骨、不覇(ふき)の人です。
 「京都に強くなる75章」(京都高校社会科研究会編クリエイツかもがわ刊)より

◇六波羅にある寺・あった寺

六波羅蜜寺
真言宗智山派の寺院。
創建は10世紀半ば。人々から『市聖(いちのひじり』と呼ばれ親しまれた空也上人が建立された「西光寺」が元。平清盛が六波羅に一族の屋敷を並べ栄華を極めた頃この寺も栄えた。教科書でおなじみの空也上人立像(口から仏さんが六体出ておられる像)や平清盛像、運慶像など重要文化財の有名な仏像が多数ある。ここは「都七福神」巡りの弁天さんでも有名。
西福寺
松原通大和大路東入西轆轤町。
浄土宗の寺院。敬光山敬信院。
空海(弘法大師)が鳥辺野の入り口に地蔵堂を建てたのが始まり。
嵯峨天皇の皇后(檀林皇后)がしばしば参詣した。正親親王の病気平癒祈願をしたことからこの地蔵尊を「子育て地蔵」ともよぶようになった。六道絵や六道十界図などを有し精霊迎えの時には公開され絵解きも行われる。コワイもの好きな方は六道詣りの時にぜひ。
愛宕念仏寺
もと松原通大和大路東入北側(現松原警察署あたり現在石碑が残る)にあった寺院。1922年区画整理のため右京区嵯峨鳥居本深谷町に移転。珍皇寺の旧名愛宕寺を継いで真言宗東寺派の寺院に属し等覚山愛宕寺という。空也の影響を受け「念仏上人」と言われた千観が再建した寺。本堂は鎌倉時代のもので重要文化財。愛宕神社同様「火之要慎」のお札がある。ユニークな羅漢さんが多数あり楽しい。(デジカメ劇場)

◇文の助茶屋のこと

祇園閣 文の助茶屋だったところ 霊山観音
 この落語の作者文の助が余生を過ごした文の助茶屋は確かに高台寺の前にありました。でも今はありません。どうなったのか私は分からないのですがとりあえずあったところの入り口だけは昔のままでした。
 子どものころ父親が霊山観音へ私を連れて行きました。職業軍人だった父親にはそこを訪ねたい理由があったのでしょう。私には何も言いませんでしたが。
 祇園さんから直角に何回か道を曲がると、子ども心にもおかしな建物である祇園閣(伊東忠太設計昭和2年)が見えてきます。それを南へ行くと霊山観音はありました。その途中に文の助茶屋はありました。一度入って甘酒が飲みたいと子どものころ思いました。今なら一人で行って飲めるのですが今はありません。とても残念です。

◇高台寺とその墓地

 高台寺は小さなお寺だというイメージがありましたが訪ねるとなかなかどうして大きなお寺でした。私はお墓を捜すのが目的で高台寺を訪れたものですからちょっと変わった拝観者でした。小堀遠州の庭や重要文化財の霊屋や茶室よりも墓探しするのですから。高台寺の墓地は広大でした。(しょうもないと自分でも思いますが・・・)でも外からはうかがえないのですが東山の裾野までずーーーーっと墓地が広がっていました。まず、その墓地から紹介します。
歴代の住職と一般の方の墓。高そう! ずーっと広大な高台寺の墓地

◇高台寺と幽霊飴

 これ、全く関係なさそうでした。お寺の案内をされている方2名とお庭を掃除されていた方、そして売店におられる方に「そういうお墓はないか?」と訪ねたのですが、「知らない」とのことでした。「私が知らないだけかもしれませんが・・・」とおっしゃった方は「幽霊飴」のことはよくご存知でした。
 文の助さんがサゲのために高台寺を使われたというのが正しいのでしょう。少なくとも高台寺にはそういう墓はないようでした。

◇ついでに高台寺紹介

 高台寺は慶長11年(1606)秀吉没後北政所ねねが、夫の菩提を弔うために開創した寺である。ねねは寛永元年(1624)76才で亡くなった。その後建仁寺の僧を迎えて高台寺と号した。
 何回もの火災で多くの堂宇を失ったが、史跡の小堀遠州作の庭園、開山堂、霊屋(秀吉とねねの像が安置されている「おたまや」と読む。内陣の高台寺蒔絵で有名)重文の茶室などがある。
高台寺方丈 庭園〜霊屋を望む 方丈の石庭
重文茶室傘亭 重文時雨亭 霊屋〜開山堂へ続く臥龍廊

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