宇治の柴舟
(宇治橋から伏見へ)

あらすじ

 大阪は堀江の材木問屋の若旦那が恋わずらいになる。親旦那は手伝いの熊五郎にその様子を聞き出してもらうように頼む。(ここらは崇徳院と同じ)
 若旦那が言うには絵に描いた女に惚れたのだという。夏場のことでもあり、宇治が涼しいからそこへ出かけて伏見・京都当たりをうろうろしてたら見つかるかもしれないと若旦那を誘い出す。
 ある日の夕方、熊五郎が出かけた留守に二階の手すりから外を見ていると年の頃なら二十才ぐらいの眉を剃って歯を染めた女(つまり既婚者)が通りかかる。そして伏見へ帰りたいが舟はないかと訪ねる。「あいにく舟が出払っている。もう少し観月橋の方へ行ったら」と言われ川下へ向かう。若旦那絵にそっくりなこの女を追いかけ舟に乗って先回りをして宇治橋で待つ。首尾良く女を舟に乗せ5,6町行ったところで舟を止め「実は・・・」とうち明ける。しかし女は夫ある身、「うん」とは言わない。 舟の中で争ううちに女は宇治川へ飛び込み若旦那もいっしょにドボーン。というところで熊五郎に起こされる。
  
宇治川から塔の島へかかる橋あたりの船宿
伏見三十石舟の出発点・観月橋あたり

□宇治の柴舟というのは

宇治の柴舟は、田原郷(綴喜郡宇治田原町)から柴薪を竹の輪で束ねたまま、宇治川支流の田原川に放流して、宇治川に下し、天ヶ瀬付近、当時甘樫浜と呼ばれた所で小舟に乗った人が拾い上げて竹の輪を抜き、縄で縛り直して舟に積んで下流方面に運搬したのだそうだ。(「米朝ばなし」桂米朝著・講談社文庫より)

□宇治橋

三の間
秀吉も茶のためにここで水を汲み
伏見城に運ばせたという。
宇治橋東南角 宇治橋から天ヶ瀬方面望む
左宇治神社・中に塔の島
右に平等院がある

□宇治の平等院

平等院鳳凰堂(10円玉のお堂です)
 平安時代王朝貴族ははやくからこの宇治の地に別荘を建てて遊学と静養の場にしてきた。父藤原道長の別荘を受け継いだ頼通はこれを寺院に改め永承7年(1052)本堂を建立し、」平等院と号した。翌天喜元年(1053)に阿弥陀堂(鳳凰堂)が完成し定朝作の阿弥陀如来像が安置された。
 国宝だけでも次の通り。
@平等院阿弥陀堂(鳳凰堂・・・この名は江戸時代かららしい)
A阿弥陀如来座像(定朝作・1053)・・・鳳凰堂中堂内
B天蓋(1053)・・・鳳凰堂中堂阿弥陀如来座像の上
C雲中供養菩薩像(1053)・・・鳳凰堂内
D鳳凰堂中堂壁扉(へきが)画(1053)
E鳳凰(鳳凰堂中堂旧棟飾・・・11世紀)
F梵鐘(11世紀後半)天下の3名鐘の一つ(銘の神護寺・声の園城寺・姿の平等院)

□宇治上神社(うじがみじんじゃ)と宇治神社

宇治神社を塔の島から望む
 宇治上神社は宇治川の右岸ちょうど平等院の対岸にある。宇治神社が川を臨んだところにありそのさらに山側(仏徳山)にある。明治以前は宇治神社と宇治上神社は一体で、宇治神社が下社(若宮)宇治上神社は上社(大宮)という関係であった。祭神は応神天皇とその皇子の仁徳天皇、莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)。莵道稚郎子は応神天皇の末の皇子で皇太子であったが天皇の死後兄の仁徳天皇に皇位を譲り自殺しこの地に葬られたと伝えられる。
 宇治上神社は藤原氏と密接な関係があったといわれる。中近世は土地の産土神(槇島・莵道・三室戸・太鳳寺)として崇敬を集めた。明治以降宇治上神社と呼称し、氏子は槇島のみとなった。
国宝宇治上神社本殿
平安時代のもので日本最古の遺構
(11〜12世紀)
外観は五間社流造社殿
内部に3棟の内殿を持つ覆屋
左殿莵道稚郎子中殿応神天皇右殿仁徳天皇
国宝宇治上神社拝殿
(11〜12世紀)
切妻造
正面6間側面3間
檜皮葺
大変美しい建物

□塔の島には「先陣争いの碑」もある

寿永3年(1184)木曽義仲と朝廷から
義仲追討の任を受けた源義経とが激流
を挟んで合戦した場にある碑。義経軍の
名馬「するすみ」に乗ったと梶原景季と
名馬「いけづき」に乗った佐々木高綱の
「先陣争い」で幕を切って落とした。先陣
は策にたけた高綱がとり義経軍が一斉
に渡河して義仲軍を打ち破った。

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