あらすじ出入りのだんなのところへやってきた喜ィ公「わて島原へ行ったことおへんね」という。「ほなら連れて行ってあげよう」ということになる。しかし普通に行ったのではおもしろくないというので、喜ィ公をだんなに仕立てて出かけることになる。上から下まで全部上等のもの借りて出かける。角屋へ上がる。太夫が煙管で吸い付けて渡す。それをだんなが一服してフッと吹くと吸い殻が間違えて太夫のうちかけに落ちる。金襴の縫い取りのあるうちかけが焦げると大あわての喜ィ公に対して太夫は「大事ござりません」と平然と対処する。喜ィ公「大したもんや」と感心して、「わしもやったろ」と煙管を取り出す。ところがこの煙管手入れがしてないものだからジュウジュウ音がする。タバコを詰めて思い切り吹くと吸い殻が飛び上がって喜ィ公の頭のてっぺんへ。髪の毛が焦げだした。「お客さんえらいこっとす」とみなが騒ぐと、喜ィ公半泣きになりながら、「大事おへん、ほっといてくださりませ」 |
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島原角屋入口の門 |
1,朱雀野の垂柳
2,中道の夕照
3,野寺の晨鐘
4,塵塚の桜花
5,西口の菜花
6,楼上の夜月
7,衣笠の積雪
8,両所の神社
と、いうことだ。何となく想像が付くものもあるが、それを案内したものは現在ない。後に紹介する7つの文学碑めぐりに関係するものがいくつか見つけられる。
島原の大門にさしかかるとき、だんながこんな事を言う。
「さ、ここが大門や。これが“出口の柳”と、唄にもなってる名代の柳や。島原に七不思議というものがある。入り口を出口と言い、どう(堂)もないのに道筋と言う。下へ行くのを上之町、上へ行くのを下之町、橋もないのに端女郎、社もないのに天神さま、語りもせんのに太夫さん・・・・」
*太夫、天神、端女郎というのは遊女の格で、一番偉いのが太夫。太夫のことを「こったいさん」というのは“こちの太夫さん”というところから出た言葉。東京で「おいらん」というのは“おいらの太夫さん”の意で、同じ意味だそうだ。
(「米朝ばなし」(講談社)より
島原は、江戸時代以来、公共の花街(歌舞音曲を伴う遊宴の町)として発展してきた。寛永18年(1641)官命によって、島原の前身である六条三筋町(柳町)から現在の朱雀野(しゅしゃかの)に移された。その移転騒動が、九州で起きた島原の乱を思わせたところから、一般に「島原」と呼ばれてきたが、正式地名は「西新屋敷」という。この島原は単に遊宴を事にするにとどまらず、和歌俳諧等の文芸も盛んで、ことに江戸中期には島原俳壇が形成されるほどの活況を呈した。
しかし、明治以降の島原は次第にさびれてゆき、現在では揚屋(あげや・今の料亭にあたる店)の「角屋(すみや)」「置屋(おきや・太夫や芸妓を派遣する店)」の「輪違屋(わちがいや)」、それに島原入口の「大門」、これら三箇所がわずかに往事の名残をとどめるものとなっている。(島原伝統保存会パンフ「京都島原」より)
大門
島原は当初堀と塀に囲まれていた。門は東北角の大門だけだった。享保17年(1732)に西の大門が設けられた。明和3年(1766)現在地(島原の中央を東西に通る道筋東端)に移転。現在の大門は慶応3年(1867)に建てられた高麗門で京都市登録有形文化財として登録されている。角屋
角屋は島原開設当初から続く揚屋建築唯一の遺構。昭和27年に重要文化財に指定された。重文蕪村の「紅白梅図屏風」など所蔵美術品も蔵す。現在「角屋もてなしの文化美術館」として公開されている。*ただし夏冬は公開されていない。075−351−0024
休館日月曜日。1000円。輪違屋
元禄年間(1688〜1704)創業と伝えられる置屋。現在の建物は安政4年(1857)再建されたものでその後の増改築で明治4年に現在の姿になった。建築的に質が高く、また最古の置屋の遺構として貴重であり、京都市指定有形文化財に指定されている。現在もお茶屋業を営んでおられるので非公開。
@大門 島原のでぐちのやなぎをみて なつかしき やなぎのまゆの 春風に なびくほかげや さとの夕ぐれ 太田垣 連月(歌人 1791〜1875) |
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A歌舞練場跡記念碑 宝暦の むかしの夢は 見は見つれ 夜半の投節 聴くよしもなし 吉井 勇(歌人 1886〜1960) |
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B大銀杏 嶋原の 外も染まるや 藍畑 服部 嵐雪(俳人 1654〜1707) |
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C島原西門 西口菜花 花の色は いひこそ知らね 咲きみちて 山寺遠く 匂ふ春風 富士谷 世章(国学者1737〜1779) |
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D島原住吉神社 住吉の 松の常磐に 春はなほ 色香あらそふ 神垣の梅 富士谷 世章(国学者1737〜1779) |
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E幸天満宮 曇りなく 神の光も やはらぎて ちりづか山に 交る 端垣 富士谷 世章(国学者1737〜1779) |
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F東鴻臚館跡 白梅や 墨芳しき 鴻臚館 与謝 蕪村(俳人 1716〜1783) 平安時代渤海国使節のために利用された館 |
日本で最初の映画スター「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助の名前がありました。島原住吉神社の周りを取り囲んでいる石に彫られていました。