伏見ぶらぶら27

昔記念山があった

2004・8・11(水)作成

伏見在住のある方から昨年末メールをいただきました。こんな事が書いてありました。

HP拝見しました。私も伏見に住んでおります。大変興味深く楽しみました。特に伏見城址にある治部池のコーナーは興味津々・・実は私も子供の頃、治部池から禁断の地域に足を踏み入れたことがあるのです。何故かというと本来の伏見城天守閣があったとされる場所に行きたかったのです。その場所は明治天皇陵のすぐ裏側になります。そしてさらに奥の方へ進むと紅雪池がありました。岡紅雪という武将が宇治川から水をくみ上げて造ったとされる壕址です。子供の頃の記憶ですからやや不鮮明な部分もありますが・・表向きの明治天皇陵は大変美しく整備されていますが、この裏山はなんという荒れかたでしょう・・まるで原生林の中を歩いているようでした。そして、直径1メートルくらい、深さ50センチくらいの意味不明な穴がいたるところにありました。穴の廻りは石で覆ってありました。あれは一体何だったのでしょうか?今は私もいい大人ですので、さすがに立ち入り禁止区域へ近ずくことはできませんが・・・・
それともう一つ・・伏見大亀谷に昔の16師団の射撃場があったことは、ご存知ですか?私自身・・冒険心の強い人間ですので・・射撃場跡に探索に出かけたのです。その場所はちょうど谷になっており。今は少し湿地な荒地です。池なんかもあり神秘的なかんじがします。さらに向こう側の山を登ると・・凄いものを発見したのです。石碑です。乃木将軍の・・!!しかも草ぼうぼうのところに隠れるように・・・小宮山さん・・このような事・・知っておられましたか?もし詳しいことなど知っておられましたら、教えて下さい。へんなことを長々と書いてしまいましたが・・。HP楽しく拝見しました。また伏見の探検もののコーナーに期待しております!!

私はこんな返事を書きました。

HPをご覧いただいて感想まで書いてくださりありがとうございました。治部池からさらに明治御陵まで進まれたとのこと、大変興味深く拝見しました。
その深さ50p、直径1mの穴というのはおもしろそうですね。ひょっとしたら伏見城の関係でしょうか。その前の桓武陵でしょうか。一木一草も残すなという命令で伏見城は徳川家の手で破壊されたそうですが、でも何か残っているはずです。現在の明治御陵をもっと学術的に発掘したりできたら謎もとける物がありそうです。桓武天皇陵も秀吉が伏見城を作ったときに破壊されたという説が一番有力なようです。それも何か見つかるかもしれません。ぜひ明治御陵周辺を発掘してほしいなと思います。Sさんの書いて下さった情報は貴重です。HPを使ってマル秘明治御陵探検記を募集してみましょうか。昔入ったことがある人、入ったという人の話しを聞いた情報などで御陵内の様子を明らかに出来ないでしょうか。これっておもしろそうですね。
16師団の射撃場のこと天理教の山城教会から行けるようですね。私も子どもの頃に薬莢を採りに行ったことがありました。でもどこから入ったのか覚えて無くて人に聞いてみました。私の年代のものはたいてい行ったことがあるようです。墨染にフラッシングメドウテニスクラブがあります。その奥がたぶんSさんのおっしゃってる谷ではないでしょうか。深い谷ですね。そうですか、そこに乃木将軍の関係の石碑があるのですか。知りませんでした。一度探検したいなと思いました。伏見の戦争遺跡を訪ねることは考えていて20枚近くの写真は揃っています。桃山高校におられた池田一郎先生たちが丁寧に発掘されているのでそれを追いかけました。でもその乃木大将の碑は初めて聞きました。冬休みにでも見に行けたらいいなと思ってます。ありがとうございました。また感想など聞かせてください。

さらに追記がありました。

こんばんは!Sです。小宮山さん、メールありがとうございました。あの、昨日の乃木将軍の追記ですけど、確か、以前、もう一つ石碑がありました。それを発見したのはもう5年くらい前になりますけど、加藤清正公(断言できない・・・)と書かれた石碑でした。この附近一帯はクワガタやカブト虫がよく採れるとうちのお客さんから聞いていたので、地図を書いてもらって子供と虫取りに行った際、加藤・・を見つけたのです。懐中電灯で巨大?(2メートルぐらい)それを発見した際・・ただでさえ気味悪い場所なのに・・驚きました。それから去年なにか気になるのでもう一度その場所に行きましたが乃木将軍の碑はありましたが、加藤清正の碑はどうしても探すことが出来ませんでした。誰かが撤去したのでしょうか?(冗談ですが・・ナイトスクープに依頼してみようか?と思ったこともあります。)
私も戦争遺跡の本読みました。でもその場所については書かれていませんでした。そしてその場所について自分なりに調べてもみました。地元のおばあさんにお聞きしたところ・・その場所一帯は記念山と呼ばれていたそうです。現在90歳近い高齢の方ですが・・なんと子供の頃・・学校の遠足で行ったことがあるそうです。当時、すごくきれいな所だった・・と、おっしやっていました。やはり軍国主義を歩んでいたその頃の日本・・加藤清正、乃木将軍などは格好の象徴だったのでしょうか?しかし、今・・その場所は忘れられたように荒れ放題・・何かおかしくないですか?触れてはいけないものなのか?それとも唯たんに忘れられているのでしょうか?私はそこがわからないのです。(後略)

私このあと記念山へ出かけることにしました。その結果報告です。

この辺りが記念山かな?

射撃場跡

Sさんこんばんは。お忙しい毎日と存じます。
さて、今日記念山へ行って参りました。やっと上へ行く道が分かりました。天理教の教会のすぐ北の道を東へ向かうと宅地造成をしているところがありました。その奥さらに進みますと谷が見えて湿地みたいです。周りを竹藪に囲まれているところです。そこにもブルドーザーが入りこんでいてどうも家を壊して新しい宅地にしているようです。そこからさらに急な斜面に道がついていて登っていきますとロッジ風の山荘が現れました。それも現在壊されていてこの年末にもかかわらず何台もショベルカーなどが動いていました。残念ながら乃木将軍や加藤清正に関係するものは発見できませんでした。しかしおもしろい話を聞きましたのでお知らせします。また写真を何枚か添付しますのでSさんが見られたものと同じか教えて下さい。私が明治32年に作られた日露戦争の時に物資を運ぶ仕事を積極的にされた深草村のkという方の功績を讃えた碑を見ていたら、後ろから「何か用ですか」と声をかけられました。そんなとこで声をかけられると思ってもいませんでしたのでびっくりして飛び上がってしまいました。
でもその方のおかげで事情が分かりました。この記念山一体の地主さんでした。そしてその山荘に「記念館」があったとおっしゃってました。「記念山」の聞き違いかもしれません。そして小学生が昔は遠足へ来ていたともおっしゃってました。桜がきれいだったらしいです。その記念館には乃木将軍の碑確かにあったそうです。どうも漢詩が書いてあったようですね。もう一つ確かにあったようです。これはSさんのおっしゃっている加藤清正かもしれません。そしてこの二つの石造物は二つとも500万円で売れたそうです。つまりこの持ち主の方が1000万で売却されたようです。鞍馬石の立派なものだったとおっしゃってました。現在四国にあるとのことでした。その石垣には伏見城の石が使われていたようでそれも500万で売れたそうです。私が石碑と「曙天満宮」(嘉永の年号があるもの)の祈念塔をしげしげ見ておりましたら、「売ったげよか」と言われました。写真だけ撮って失礼しました。お地蔵様もあったようなのですがこれは、盗まれたとおっしゃってました。以上私が見てきたことです。
前置きが長くなりましたが、私が昨年末に見てきた記念山です。私の母親に聞きましたら確かにそこへ桜を見に行ったことがあると申しておりました。私も父母に連れられて行ったとか…。全然覚えておりません。
藤森神社の宮司さんの名前も出てきたように思います。うろ覚えですが。たぶん日露戦争の時に16師団に積極的に協力された方を顕彰するためにこの石碑が作られたのだということでした。日露戦争の英雄と言えば乃木希典と東郷平八郎です。乃木希典の漢詩碑があっても不思議ではないなと思いました。ここからは想像ですが記念山だとしたら戦勝記念だったかもしれません。

日露戦争後の功績をたたえる石碑

しかしひょっとしたら「紀念山」かもしれないと思ったのです。それはなぜかと言いますと、こんなものがいっしょにあったのです。
曙天満宮の線香台がありました。曙天満宮というのがこの記念山にあったのでしょうか?でもその文字が埋めて消されているのが気になります。裏の年号は嘉永七年です。

ついでにこんなものもありました。

 一体この方はどなたでしょうか?鎌を持っておられるのも訳が分かりません。この鎌はだれかがしゃれで持たせたものかもしれません。でももともと何か持っておられたようです。正装しておられるます。祈念山に関係ある方なのでしょうか?
 とにかく謎だらけの記念山です。戦争前はおそらく伏見の人たちがよく登ったのではないかと思うのです。戦後しばらくは桜の花見に大勢が出かけたのではないでしょうか。私も行ったというのですから。戦前は小学生が遠足で行ったというのですからおそらく「戦勝祈願」に遠足かねて登ったあるいは登らされた山だったのではないでしょうか。すっかり歴史の中で埋没してしまったような記念山です。
 もし私が想像するような役割を担わされた祈念山だったとしたらもう二度と蘇ることがないことを願います。子どもたちが戦勝を祈念するような場所がない平和な伏見であってほしいと思います。そしてそういう山があったことを忘れずに記録に留めるべきだと思います。
 私、やっと記念山について記述してある本を見つけました。
それは、『昭和京都名所図絵6洛南』(竹村俊則著)です。
そのまま引用します。
記念山…深草宮谷町。歩兵38連隊の戦没者慰霊のため、日露戦役後山頂に記念碑を建立したことから、記念山と呼ばれた。山中には深草谷口より小栗栖に通じる小道があり、俗に「小栗栖道」「石田道」と称し、行程約2.6km。ハイキングに好適
と書いてありました。
 私が日露戦争に関係があるのではないかと思ったのは当たっていたようです。

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