大津街道…この名前を知ったのはここ3年ほど前のことです。伏見街道のことを調べていた時にそんな街道が伏見にあったのだと分かりました。この道はどんな道だったのか、そして現在のどの辺りを通っていたのか、今に名残は残っているのか、大津街道沿いに何かおもしろいものはないか、そんなこんなを調べて見ました。
そして調べてみて、なんやその道やったら今も使ってると思いました。伏見の住人で抜け道を知ってる人なら大岩街道へ出る時ここを通ります。今も山科へ出る時の道なのです。
@「伏見鑑」下
大亀谷…藤の森の巽也。九卿(郷)の北内村ハ此地なり。伏見より大津に至るも道路にして、秀吉公開き給ふ所の新道なり。むかしハ六地蔵より醍醐を越えて大津に出る。
A「拾遺都名所図絵」四巻
軒うらに 去年(こぞ)の蚊うごく 桃の花 鬼貫 |
伏見より大亀谷を経て、大津へいづる道ハ、秀吉公伏見御在城の時より開初し也。今も関西の列候、吾妻へ参勤交代し給ふ時は、此道を通り東海道に趣き給ふ。 |
■この絵から読めること
この絵はどのあたりのことでしょうか。右手に川があるところを見ますと、七瀬川のようです。ということは、筆坂から谷口町辺りにあった茶店の風景のようです。
お店で働く女の人に酒を勧めている男。前の男と2人連れのようです。10人の人物が描かれているのですが、そのうちの8人がこの女性に視線を集めています。それぞれ笑っているようです。相当大きな声でやりとりしていて注目を集めています。
男の腰には小刀があります。そして後ろに荷札の付いた男の荷物のようなものが見えます。きっとこういうヒントだけでこの男が何者なのか分かるのでしょうが私には見当が付きません。
床几に腰掛け柱にもたれかかって眠っているような人物は扇を落としています。酩酊していることを表しているのでしょうか。
床几にある桶の中には豆腐や魚や野菜が見えます。まな板、包丁があるところを見ると、店前で料理をしたのでしょうか。
後ろの木には花が咲いています。鬼貫の句には「桃の花」と謳われているので、桃の花なのでしょう。そういえば右の絵の子どものような頭で振り分けの荷を担いでいる少年はどうも花を売り歩いている商人のようです。伏見城廃城後桃が植えられ古城山は桃の名所になり桃山と言われたとかで、この絵でもそのことを表現しているのではないかと私は想像しました。
それにしてもこの鬼貫の句には特別な意味が隠されていそうなのですが私には理解できません。「去年の蚊」というのは何のことでしょうか?
いずれにしても、大津街道は色々な人物の行き交う活気あふれる街道であったことが想像できます。
■大亀谷の由来とこの絵のこと
「都名所図絵」巻五にこんなことが書いてあります。「いにしえこの所に茶店ありて、容顔麗はしき女あり。名をお亀と称す。自然と所の名に呼んで、大亀谷といひしなり」きっと「拾遺都名所図絵」の作者はこの記載に影響されてこの絵を描いたのでしょう。この茶店の女性を「おかめ」さんに見立てて描いたのではないでしょうか。
因みに大亀谷の名前の由来については、こういう説もあります。「日本書紀」巻19に秦大津父が伊勢の国からの帰途この土地で狼が二匹争っていたのに出会ったことから狼谷と呼ぶようになり、訛って大亀谷になったというものです。
B「京都府地誌」紀伊郡村誌
大津街道…伏見墨染北玄蕃町ヲ東ニ入リ、本村(大亀谷村)ヲ歴テ深草谷口に至リ、東海東山両道ノ起線一等道路ニ合ス。本村領スル処、長サ十町、幅二間三歩。
この3つの文書から分かることは、@秀吉が作った道であること。A伏見街道から分かれて大亀谷村を通って深草谷口町に至る道であること。B東海道へ繋がっていること。C江戸時代西国の大名はこの道を通って参勤交代したこと。D伏見街道と分かれるところは墨染北玄蕃町であることです。
この地図を見にくいのですが、上が東です。1番上の道が大津街道です。2番目の道が伏見街道。3番目の道が京町通りです。
縦の道は1番右から津知橋筋、次が現墨染通りでこの道が八科峠を越えて六地蔵へ抜けていく道(「大亀谷街道」・「八科峠道」…この道も秀吉が旧道(大和路)を廃して新たに付けたと言われる道で京都と木幡…宇治をつなぐ近道)です。そして3番目の道が伏見街道から分かれた大津街道です。つまり右から3番目上から2番目のところが大津街道と伏見街道の分岐点ということになります。
ですから船で伏見京橋に着いた西国の大名たちは、京町通りを通り墨染通りを東へ行って直違橋通りに入り少し北に向かってすぐに東に向かって大津街道に入ったことになります。
今の道で言いますとJR藤森駅へ向かう道・藤森神社南入り口や京都教育大学南門の前を通る道を東へ行って、西福寺のところで北に向かう道です。この道は京都教育大学の敷地が戦前第九聨隊だったときに軍関係の車が通れるように拡幅されたようです。
つまり大津街道の南の出発点は現在銭湯泉湯のある所と言うことになります。
さて大津街道が西福寺から北へ向かう道の通りにある町内は丁寧に名前が記入されています。
大津街道分岐点の現況・左泉湯右藤森小学校
柝屋町・南寺町・中寺町・北寺町(ここに成就院がある)・大谷町・久宝寺町・ここで橋が架かっている(七瀬川)・フデガ坂・谷口町とあります。
現在の町名では、西寺町(東寺町)・大谷町・西久宝寺町(東久宝寺町)となりここで大岩街道に入っています。そして七瀬川が流れています。さらに東伊達町・谷口町・鞍ガ谷町と続いています。
藤森神社あたりの絵地図(天保時代の絵地図藤森神社蔵) |
これは藤森神社にある絵地図です。真ん中の建物などが描かれているところが藤森神社。この絵地図では外堀跡が描かれています。現在の金森出雲町には堀跡がしばらく前まであったと聞きました。一番右が津知橋筋です。そして墨染通り(大亀谷街道)との間にあるのが外堀跡で南側に木が植えられていたことが分かります。この外堀跡が一部伏見インクラインや疎水に利用されたようです。京町通りには町屋が続いています。そして墨染通りも直違橋通りも家が建ち並んでいます。七瀬川を越えて谷口町辺りまで人家が描かれています。
(1)西福寺前 | (2)成就院(天理教山城教会) | (3)道がカギ形に曲がる場所 |
(ア)(3)道ががカギ形に曲がる場所から『小栗栖道』へ
この場所は江戸時代からこのようにカギ形になっていたようです。
城下町の中にはこういう見通しが利かないようにわざとカギ形にしてある場所があると聞きました。伏見には四辻の四つ当り(伏見区桃山撞木町)という場所があります。ここはどこから来ても撞木形になっていて突き当たるのです。
私はこの場所もそうなのではないかと思っています。ここは車で行くといたって離合困難な場所で今も困った場面に遭遇することがあります。
今写真で見えている道をまっすぐ行くと(つまり東へ)この道は小栗栖へ抜ける道につながります。その道を「小栗栖道」と言ったようです。そしてこの道の途中に記念山(昔記念山があった参照)があります。
私がこの道を「小栗栖道」と呼ぶと知ったのは次の指さし道標です。
伏見土木事務所に指さし道標があります。指さしがあって「大岩・おぐりす道」と書いてあります。この道標を見て伏見土木事務所の道標の場所をやっと推理することが出来ました。興味ある方は「伏見の道しるべ」を見てください。
西面 | 南面 | 北面 |
久宝寺墓地西福寺 | すぐおぐりす道 | 大正九年 松本 |
(イ)今の記念山
と言っても2004年8月20日の写真です。この場所はなかなか見晴らしのよい場所だったようです。
私、やっと記念山について記述してある本を見つけました。
それは、『昭和京都名所図絵6洛南』(竹村俊則著)にありました。
そのまま引用します。
記念山…深草宮谷町。歩兵38連隊の戦没者慰霊のため、日露戦役後山頂に記念碑を建立したことから、記念山と呼ばれた。山中には深草谷口より小栗栖に通じる小道があり、俗に「小栗栖道」「石田道」と称し、行程約2.6km。ハイキングに好適
と書いてありました。
ちょっと寄り道しました。もとの大津街道へ戻ることにします。
この辺りは旧街道の面影が一番残っている場所です。ずいぶん前のことです。5月の連休中にここを歩いていた時に(藤森神社の祭礼中)この通りに立て札が立っていました。その時大津街道や参勤交代のことが書かれていたように記憶しています。もう一度祭礼中に立つかなと今年の5月祭礼中に行ってみたのですが立っていませんでした。残念。
ここまでは2004・11・27(土)作成
大岩街道への坂道・筆坂か?七瀬川の橋が見える |
谷口町は現在五差路の交差点になっています。大岩街道・そして昔の大津街道、そして昔東海道線が通っていた道。なかなか歴史的におもしろい場所です。
この場所に道しるべが立っています。
文面は以下の通りなのですが、文明5年(1785)にはこの辺りに桓武天皇陵があったのです。そしてこの「人王五十代桓武天皇陵」という文字にセメントが埋められています。きっと明治13年(1880)に現在の永井久太郎町の現桓武陵が決定されたころに埋められたものと思われます。
(ア)谷口町道しるべ
霊場深草毘沙門天 | 人王五十代桓武天皇陵 | 泉州堺… | 天明五… |
(イ)「拾遺都名所図絵」四巻にある桓武陵
桓武天皇陵(深草の郷中往還道、谷口村の後山にあり。土人谷口氏が家よりこの陵に到るなり)という記載があります。
(ウ)淨蓮華院
この写真の不思議な建物が淨蓮華院。その向こうに見えるこんもりした山が「谷口古墳」で、桓武天皇陵だと言われていた円墳。古墳時代後期の古墳だとか。
淨蓮華院は、文政4年(1821)に叡山の僧堯覚が有栖川宮韻仁(つなひと)親王を奉載して創建したのが起こり。その弟子堯雄が御影堂を建て、天皇の菩提を弔ったという。(昭和京都名所図絵6洛南より)このインドの建物みたいなものの入り口に菊の紋章がある。一時的とはいえ桓武天皇の縁と言うことで紋章が使われたのでしょうか。