伏見ぶらぶら13

伏見街道を行く

目次
1,伏見街道どこから?
2,伏見街道どこまで?
3,伏見街道その歴史
4,伏見街道にある小学校
5,伏見街道にある郵便局
6,伏見街道に架かる橋
7,伏見街道と銭湯
8,伏見街道の美しい民家
9,伏見街道とJR
10,伏見街道七不思議
11,伏見街道のやきいも屋
12,伏見街道(1)五条〜七条
   方広寺・耳塚・豊国神社など
伏水街道第四橋

1,伏見街道どこから(北の端は)?

 『都名所車』という江戸時代の旅行案内本に「伏見海道ハ五条橋詰東へ三筋目、南は大仏・東福寺・いなり・藤の森・ふし見への道」とあります。
 現在の
本町1丁目(本町通り五条)が伏見街道の北側の端です。
 本町は1〜22丁目まであります。そして22丁目までが京都市東山区です。その南稲荷榎木橋町からは伏見区です。江戸時代もここが京都町奉行と伏見奉行の管轄の境界でした。
 そしてこの道は稲荷御前町を経て、次は直違橋11丁目〜1丁目となります。つまり直違橋は伏見側(南)から数えるのです。大岩街道と交差する伏見街道は、さらに藤森神社の前を通って墨染通りへ出ます。この道は今「本町通り」と言われています。「維新前伏見管轄図」という地図ではここで行き止まりです。現在はこのあとこの道はまっすぐ豊後橋(宇治川に架かる橋で観月橋ともいう)へつながり大和街道(現在の国道24号)となります。
五条通から本町1丁目・伏見街道北口 本町通り南端・墨染この道を右へ・墨染通

2,伏見街道どこまで?(南の端は?)

 『宇治川両岸一覧』という本があります。万延元年(1860年)に発行された案内記です。その中におもしろい記載を発見しました。どうも伏見街道の終点は「中書島の蓬莱橋」だと言っているように私には読めるのですが。以下蓬莱橋の説明です。この記述に従って伏見街道の紹介をしていきたいと思います。
蓬莱橋南から北・龍馬通り 蓬莱橋北から南・中書島 蓬莱橋から京橋を見る
蓬莱橋・・・京橋の上、南浜町より中書島に架す。橋の長さ三十二間、幅二間。この橋すじは京街道の往還にして、上下の行人たゆることなくいたって賑はし。
 船上の旅客京師(みやこ)に到るに、各(おのおの)その勝手に任せて同じからずといへども、およそこの橋条(はしすじ)を北へ趣き下板橋通りに至る(この所行きあたりて道しるべの石あり。右はいなり街道、左は竹田街道なり)。これより右へ五町ばかり行きて京町通りに出で、それより北へ墨染をすぎ藤の杜・深草稲荷を経て京に入る。これを
本街道といひ、あるいは伏見街道、俗に稲荷街道とも号す。
 また、この所より、左へとりて下板橋を渡りて車道に出て北に上る。これすなはち東洞院通にして竹田街道といふ。西六条に趣くものは、六軒茶屋の南の方より西によぎりて竹田村をすぎ、稲荷の御旅所より油小路通にいづる。俗にこれを西竹田道といふ。

伏見中学校にある道しるべ

伏見街道は五条本町1丁目から中書島蓬莱橋までで7〜8km。本町通りと言われるのは、五条本町1丁目から墨染までで6km。本町通りから墨染通りを西に入り京町通り(北は師団街道)に入り、京町7丁目の上板橋通りで西へ御駕籠町で南へ蓬莱橋までを伏見街道ということにします。他にも大手筋で西に向かうという本もありましたし、油掛通りで西へ向かうというのもありました。要するにどこを通るかは伏見の中では自由だったのでしょう。京町通りへどうやって出るかの違いのようです。

3,伏見街道その歴史(誕生と発展)

 伏見街道は、京都から奈良へ向かう道の一部という面があります。伏見というところが、奈良街道や大和街道の途中にある場所だからです。これは古代中世からの役割を引き継いだと言えます。
 安土桃山時代(16世紀末)秀吉が伏見城を築いて、伏見そのものが政治の中心地になり、秀吉によって「伏見街道」が作られます。秀吉は京都と伏見を直接結ぶ道を必要としたのです。つまり伏見の主体性が確立して京都と伏見を結ぶ道が必要になったのです。伏見は中継地ではなく出発点であり終点になったのです。また大阪との道も「京街道」(毛利一族に命じて淀川左岸に文禄堤を築かせた。堤上の道が京街道)として作られました。
 さらに時代が進んで江戸時代になると大阪との関係がより重要になり、宇治川の三十石舟などで結ばれます。また陸路である京街道に宿場が4つ(伏見・淀・枚方・守口)設けられ、伏見は東海道54番目の宿場町になります。伏見街道の一部が西日本の諸大名の参勤交代にも使われるのです。伏見街道は、京都や近江や奈良や大阪を結びさらに江戸へつながる道として発展します。

(1)古代
 奈良と近江を結ぶ道は
「山背道」(やましろみち)として万葉集などに出てきます。「北陸道」とも言われました。まだ京都盆地が都として開発されていない時期ですから奈良と近江を最短距離で結ぶ道が重要であったわけです。そして道を奈良から京都盆地を直線で結ぶには、巨椋池が大きな障害になっていました。巨椋池を迂回して行くには現在の宇治橋のところで橋を渡って現在府道になっている道を六地蔵まで行きさらに、石田、山科、逢坂山へ行く現在の旧奈良街道そのもののようであり、現在の伏見街道とは関係ないようです。

(2)平安時代 
 初瀬詣の順路として古道
法性寺大路(大和大路)があったようです。「大和物語」「枕草子」「蜻蛉日記」などに登場します。
 とくに法性寺大門前から宇治に行き、陸路を奈良へ向かったという「蜻蛉日記」の記述は注目に値します。つまり途中までは現在の伏見街道に近いところを通っていると思われるのです。深草のどこかで木幡山へつながる道を行き、六地蔵、そして宇治橋へ出たものと思われます。つまりこの時代には平安京から深草を通って宇治へ至る道があったことになります。このルートが秀吉の時代まで続くことになります。紫式部も藤原道長も頼道もこの道を通ったのでしょうか。まだ現在の伏見街道はありません。
*法性寺大路(大和大路)とは
花洛名勝図会の記載です。
伏見街道・・・この往還は豊太閤伏見御在城の時に新たに開く。いにしえの街道は一町東にあり、泉涌寺の馬場先より東福寺中を経て稲荷の楼門前己下(いか)宝塔寺、池之端、極楽寺村おのおのいにしへの大和大路にて路形(みちかた)なほ存す。

(3)中世
 宇治橋が源平の戦いや承久の変にも登場するところからも、平安京に入る道として平安時代同様重要な道として機能していたことが察せられます。後醍醐天皇が吉野へ赴くときも
「大和路」という名で登場します。ルートを「大乗院寺社雑事記」文明17年(1481)10月の条では、宇治以北を「宇治・木幡・藤森・イナリ・法性寺・・白川・王城」と記しています。これもおそらく法性寺大路のルートのことでしょう。

(4)秀吉の伏見大改造・・・伏見街道の誕生
 秀吉は、巨椋池を分断する小倉堤を築くことで伏見と広野(宇治)を結びました。京都と奈良を最短距離で結んだことになります。また宇治川の堤防を築くことで巨椋池と宇治川を分離しました。今まで宇治橋を渡って奈良から京都に入るというルートはこれで必要がなくなりました。そして、新ルートの大和街道が出来ました。
 また京都から伏見までに新しい道を作りました。五条橋口から伏見までのこの道は、
本町通り・伏見街道・本町伏見街道などと呼ばれました。伏見街道の誕生です。
 また秀吉は大阪との水路陸路を作り、その後の伏見発展の礎を築きました。

(5)江戸時代の伏見街道
 伏見街道が本当ににぎわいを見せるのは秀吉や家康が伏見城にいたころより江戸時代に入ってからのようです。大阪と陸路「京街道」及び水路宇治川・淀川でつながった伏見は物資の輸送及び旅人の通る道、参勤交代のために通る大名行列の道としてその重要性をましました。ちなみに西国の大名は直接京都に入ることを禁じられたため、伏見街道から深草谷口町へさらに山科、追分へと出て東海道へ入ったようです。
 江戸時代中期以降に起こる旅行ブームは先ほど紹介した『花洛名勝図会』『宇治川両岸一覧』や『拾遺都名所図絵』などの案内本を生み出します。そこに伏見街道も登場します。またその旅行ブームは落語「三十石夢の通い路」を生み出します。この咄は江戸時代に成立したもので幕末から明治にかけて活躍した初代桂文枝が集大成したものです。また広沢虎造の浪花節「石松代参」で森の石松が「鮨くいねえ」というのもこの三十石です。西鶴の「好色一代男」にも撞木町や中書島が出てきますから、伏見街道は大勢の旅人が往来したメインストリートだったのでしょう。
 元禄時代オランダ東インド会社のケンペル「江戸参府紀行」に次のようにあります。「(伏見町)中央にある本通りは、伏見から京の市街まで続き、これらを互いに区別することは難しく、むしろ伏見は京の郊外の町と思ってよいくらいである」。17世紀末には街道筋に人家が切れ目なく続いていたと思われます。

(6)幕末と明治時代
 伏見と幕末については、興味のあることがたくさんありますが、それはまたの機会ということにします。幕末鳥羽伏見の戦いで市街地の大部分が焼かれ、明治になり幕府の直轄地ではなくなった伏見の凋落は想像に難くありません。
 文明開化の嵐の中で伏見は商業都市としての機能が奪われていきます。
 明治10年神戸・京都間に鉄道開通。
 明治43年京阪電車開通。
 この他にもあるでしょうが、物資の輸送は鉄道の開通でおそらくダメージをうけたことでしょう。淀川・宇治川にはその後、「川蒸気船」も就航したらしいのですが、旅客も鉄道にとられ(そのあたりを落語『胴乱の幸助」もものがたっています)京阪電車の開通で「川蒸気船」もなくなったようです。
 琵琶湖疎水を、インクラインを介して伏見旧外堀に連結させて、北陸や近江からの物資を最短距離で関西へ運ぶことも考えられたようですが、近代化の波は急速に伏見を港町、商業都市としては認められなくさせました。伏見街道もまたこの影響を受けます。

(7)軍都伏見の誕生と伏見街道
 明治31年(1898)歩兵38連隊・第19旅団司令部・京都連隊区司令部などが設置。
 明治41年(1908)にはこれらを統括する第16師団が深草に設置。
 師団本部(現聖母女学院本館)は伏見街道の直違橋(すじかいばし)5丁目に置かれました。そして、京都駅と師団を結ぶ道が新しく『師団街道』(当時2車線は珍しかった)として伏見街道のすぐ西に誕生しました。師団街道沿いにも軍の建物があり、この新しい道『師団街道』と伏見街道を結ぶ東西の道として「第一軍道」「第二軍道」「第三軍道」が作られました。大亀谷の射撃場練兵場をはじめ、現在の国立病院、京都教育大学、龍谷大学、桃陵団地(伏見奉行所跡)などに軍の施設が次々立てられ、伏見は軍都として再び活気づくのです。伏見街道には今もそのなごりがいくつも残っています。軍が使用する大切な道路としての伏見街道の役割は、敗戦の日1945年8月15日まで続きます。

(8)現在のこと
 京都と伏見をつなぐ大切な道路としての役割は相対的に低下したと言えます。それは、伏見街道が狭く、拡張するにはあまりに民家が密集していたからでしょう。現在北行き一方通行になっています。そのおかげで今も歴史を語り続けてくれる街道であるのです。
 基幹道路としての役割は、昭和8年(1933)京阪国道(旧国道1号)の開通、昭和41年(1966)現国道1号開通、国道24号(むかしは15号で大和街道)の整備開通、外環状線の開通、豊後橋の二階建て立体橋化、名神高速道路建設と京都南インターチェンジの設置などの中でその役目を終えたと言えます。 そして今油小路(新堀川通り)の整備開通高速道路化、新十条通りの有料道路化などでますます伏見街道は基幹道路ではなくなります。
 しかし歴史街道としての価値はますます大きくなるように思うのです。この歴史ある伏見街道の街並みを何とか保存しながら、さらに元気な街道にならないかなあと夢みたいなこと考えてます。「伏見街道総合発展計画」とでもいうものを作って、みんなが楽しんで、繁栄する街道になったらおもしろいなと思いながら、このページ作っていきます。
 伏見街道の魅力を伝えられたら幸せです。

4,伏見街道に面する小学校

 この道を毎日北へ向かっていますとたくさんあるなと思うものがいくつかあります。まず小学校です。これはそれだけ歴史ある通りだという証明だと思います。明治時代以来どこに小学校作ろうかと言うとき、多分みんなが集まりやすい大きな通りに面したところに作ることになったと思うのです。
 では、北から順番に紹介します。
一橋小学校
月輪小学校 稲荷小学校
深草小学校 藤ノ森小学校 板橋小学校
 この一橋小学校という名前はあとから紹介する伏見街道第一橋からその名前がついています。また月輪小学校は第3橋の近くだったので昔は三ノ橋小学校と言った時期があったようです。伏見街道がやっぱり命名にも影響を及ぼしていたのですね。

5,伏見街道にある郵便局と風景印

 学校が多いと思うよりも多いなと思ったのは郵便局でした。風景印というのはその郵便局がそこだけで捺す消印です。郵便局の建物はどこも同じでおもしろくないので、風景印を紹介しましょう。風景にはその郵便局の近くにあるお寺や神社が使われています。みんなあるわけではなくてある郵便局とない郵便局があります。
 ではこれも北から順番に紹介します。
方向寺国家安康の鐘 泉涌寺大仏殿 東福寺山門
京都大仏前郵便局
(東山区本町4丁目)
京都本町郵便局
東山区本町10丁目)
京都鳥羽道郵便局
(東山区本町21丁目)
伏見稲荷鳥居と楼門 伏見稲荷鳥居と楼門 藤森神社本殿と駆馬
伏見稲荷郵便局
(伏見区稲荷中之町)
京都深草郵便局
伏見区深草直違町5丁目)
京都藤森郵便局
(伏見区深草直違橋南1丁目)
 伏見稲荷と深草が同じなのはちょっと残念でした。伏見墨染郵便局と京都京町北郵便局と京都京町郵便局京都御駕籠町郵便局には風景印がありませんでした。伏見街道沿いに9つの郵便局があります。本町通りだけでも6つ。1km毎に郵便局があることになります。これだけ密度が濃い通りは少ない!と私は思うのですが。これも伏見街道沿いが明治になってからメインストリートだった証だと思います。
 ついでに、私が古道法性寺大路(大和大路)だと思っている大和大路(縄手通り・建仁寺通り)の郵便局を加えると、三条大橋まで北にあと3つ加わります。私はこの道を毎日北へ向かうので本当にたくさんの郵便局があると思うのです。
祇園祭鉾と舞妓さん 建仁寺と宗達の風神図 清水寺本堂(舞台)
京都祇園郵便局 京都大和大路郵便局 東山郵便局

伏見区の他の風景印が知りたい方はここ「風景印in伏見」

6,伏見街道に架かる橋

 伏見街道に架かる橋は4つ。第1橋〜第4橋まであります。6kmに4つの川が多いと思うか少ないと思うか・・・。私はよく分からないのですが、これは水が伏流しているからだそうです。伏見を伏水と書くことがあるぐらい伏流していることで有名な伏見です。伏見の名水はこの伏流した水。

□伏水街道第一橋

東山区本町10丁目

『花洛名勝図絵』より
一之橋(東福寺門前の北の端にあり。水源は今熊野社の艮(うしとら)の谷より出づ。「名跡志」に云う「この橋より南は紀伊郡にて、この橋当郡の中にては子丑(ねうし)の間の堺なり。上古には橋より南方は今のごとき人家有りしことなし。街道の東西は田畠にして、道の次傍(かたはら)には松柳等の双樹あって人家その間所々にありし」と云々。二の橋は同街これより南にあり。)
滝野社(同一の橋の南詰めにあり。)
現在暗渠になっているらしい。
川は滝野川と言ったらしい
現在一橋小学校グランド北にある

□伏水街道第二橋

東山区本町14丁目

しばらく前の第2橋・九条通高架下 現在の第2橋・九条通高架下
『花洛名勝図絵』より
二之橋(東福寺門前一之橋より一町ばかり南にあり。水源は常楽庵の奥より出づ。この橋の北に西に通ふ道あり、九条河原観音橋を経て九条村より東寺に出づ、洛陽観音巡りの通路なり。)

川の名前は不明。現在この下を暗渠で流れているのかどうかも不明。

□伏水街道第三橋

東山区本町17丁目

東福寺入口付近 三之橋から三ノ橋川を見るとこんな景色
『花洛名勝図絵』より
 同街道二之橋の二町ばかり南にあり。通天橋下洗玉潤の同流にして二、三の橋とも末は加茂川に入る。

□伏水街道第四橋

伏見区深草直違橋南1丁目

七瀬川に架かる第4橋 了峰寺の方(東)から見た第4橋
 この橋のあるところから直違橋1丁目が始まるところをみるとこの橋が直違橋なのでしょうか。伏見街道が七瀬川と直角に交わるから直違橋というのだったか、筋交いのように交わっているからだったか直違橋の名前は伏見街道と七瀬川の交わり方の様子を表しているとどこかで聞いたのか、読んだのか・・・思い出しません。

2003・7・30(水)

7,伏見街道と銭湯

 銭湯が密集するというのもやはり人が集まる証拠です。 では、紹介します。これもやはり北から。
 中書島新地湯は厳密には伏見街道ではないのですが蓬莱橋を越えてまっすぐ南に行くとあります。
本町通りにはかなり銭湯がありますが、伏見区にはいると少ないように思います。廃業された風呂としては伏見区に稲荷湯と墨染湯がありました。また名前は分からないのですが私が子どもの頃は撞木町に銭湯がありました。
正面湯(私のおすすめ銭湯)
東山区正面通鞘町
大黒湯
東山区本町新6丁目220
さくらゆ
本町8丁目
エレベータで2・3階へ 空豆地蔵が祀られている 小さいがいい!
泉湯
東山区本町10丁目
寿湯
東山区本町20丁目
軍人湯
伏見区深草極楽町
滝尾社の横にある銭湯 十条通りが出来るのでレンガ造りがよく分かる 16師団を物語る名前
泉湯
伏見区藤森玄蕃町
新地湯
伏見区南新地
羽衣のタイル絵がすごい! 建物が素晴らしい!

8,伏見街道の美しい民家と町並み

 日本家屋の専門的な知識がないので、どういう価値があるのかよくわかりませんが、伏見街道で見つけた美しい建物です。私が子どもの頃には、これほど立派ではありませんでしたがこういう格子の家や出床几のある家がほとんどでした。とても懐かしい気持ちになります。これは明治から昭和始めにかけての民家なのではないかと思います。こういう建物は維持されるのは大変だろうなと思います。こういう感じで伏見街道沿いの建物が統一されたらいいだろうなと思います。
 一番よく残っているのは本町9・10丁目あたり、伏見区深草直違橋9〜11丁目あたりだと思います。JR稲荷駅中心に南は第一軍道まで北は伏見人形の大西さんのお店ぐらいまで「町並み保存地域」にしたら、伏見稲荷神社や稲荷商店街に新しい魅力が加わるように思うのですが。

9,伏見街道とJR

 伏見街道とJRの関係。現在JR奈良線が稲荷駅南の踏切で交差します。東福寺駅からほぼ伏見街道と平行するように走り、その踏切で伏見街道から東へ離れていきます。。もともとの東海道線だった線が後に奈良線になったようです。ではまずJR奈良線の駅2つと交差する稲荷駅南の踏切を紹介しましょう。

JR奈良線の駅

JR東福寺駅(本町13丁目) JR稲荷駅(稲荷御前町)
稲荷駅南で奈良線と交差

伏見街道とJR東海道線

 東海道線が京都駅からまっすぐ東へ向かい東山トンネルを通ることになり伏見街道は切断されます。見事にちょん切られました。伏見街道は西側に迂回させられました。京阪電車のすぐ隣を通ることになりました。切られてしまった伏見街道の様子です。現在車は通れません。しかし歩道橋が架かっていますので歩いて渡ることはできます。
北側から横断歩道とJR 伏見街道・切断の北側 伏見街道・切断の南側
横断歩道から東山トンネル 現本町通りと東海道線交差地 横断歩道から西・京都駅

10,伏見街道七不思議

 これは、「京の怪談と七不思議」(京を語る会篇発行平成元年)という本に書いてあったお話しです。出典がないので、いつごろからこういう七不思議があったのか詳しいことは分かりません。東山区本町1丁目〜22丁目の七不思議のようです。では、伏見街道七不思議を紹介しましょう。
滝尾神社の水飲み龍・本殿欄間左右に一対の龍
伏見街道七不思議
@街道にある橋に伏見と書かずに伏水と書いてあります。
A法性寺廿八面観音 
本町16丁目に東福寺が出来る前から法性寺。観音堂の本尊は3面千手観世音春日作を安置。平安時代のもので頭の顔は廿八面あります。国宝。
B極楽寺の十王
本町12丁目東側、閻魔王始め十王が。十王そろうのは珍しい。本尊薬師如来。病気全快の9つの頭のある九竜王がまつられています。
C滝尾社の水飲み龍
本町11丁目東側に滝尾神社大丸の主人下村の祖先が立派な社を作る金出しました。商人は社を作り事ができないので某宮を立てたそうです。拝殿いっぱいに龍を彫らせたそうです。その龍が滝尾川の水をの飲みに行ったという。今、川は暗渠になり、龍も出られなくなってしまいました。
D猿松
滝尾社境内の松の枝に陶器製の猿がくくりつけられていましたが、その松が枯れ猿だけ舎内に祀られています。
E桶屋の薬
本町5丁目に生毛屋と云う桶屋がありまして家伝の毛抜きや小児の薬を売っています、桶屋が薬を売る不調和を七不思議に入れたものです。
F赤玉
正面下がる処を云います地名なんですが昔は雲助達の継場所、交代所でありました。カルタ製造の大石天狗堂の辺と云います。
G大仏餅
大仏の七不思議にこの大仏餅の看板が入っています。餅の名に大仏の名を冠したのを取り上げたのでしょう。
H道が上り下りする
京の町は北が高く南が低いのですが。この街道はあちこちに高低があります。
I七条下ル角に丁子七
というお店があり、不似合いな髪油を売るのが問題になりました。

2003・8・7(木)

11,伏見街道のやきいも屋さん

 何で急にやきいも屋さんなのとお思いかと思います。このやきいも屋さん、二軒ともなかなかの評判でおいしいです。やきいも屋さんも少なくなりました。「焼芋屋が持てる深草団扇かな」(蜃楼)という句があるようです。まんざら深草と関係ないこともないからいいか。
いなりの焼き芋屋さん・こにし
榎木橋町
深草の焼き芋屋さん・はやし
深草直違橋2丁目

12,伏見街道(1)五条〜七条

東山郵便局・大仏前郵便局・正面湯・烏寺・甘春堂本店・耳塚・方広寺・豊国神社・京都国立博物館・大黒湯

No 場所の名前 No 場所の名前 No 場所の名前
@ 東山郵便局 A 大仏前郵便局 B 正面湯
C 烏寺 D 耳塚 E 方広寺
F 豊国神社 G 国立京都博物館 H 大黒湯

C烏寺と甘春堂

 専常寺といい、浄土宗のお寺。1666(寛文6)年の開創。本尊阿弥陀蔵は後白河法皇の念持仏だという。専常がこの地で休んでいると2羽の烏が今日は熊谷蓮生坊の極楽往生の日だと語り、熊野権現に化したという寺伝を持っています。
烏寺 甘春堂本店
 この烏寺の東にこの辺りにいくつもある「菜々せんべい」で有名な「甘春堂」本店(和菓子屋さん)があります。ここの2階は喫茶室になっています。落ち着いた町屋でゆっくりできます。お勧めです。

D耳塚
(秀吉の朝鮮出兵の遺跡)

1591(天正19)年 名護屋城築城
1592(文禄1)年 朝鮮出兵(文禄の役)16万の大軍で。秀吉肥前名護屋城へ
1597(慶長2)年 朝鮮再出兵(慶長の役)14万の大軍。

1598(慶長3)年 秀吉の死で家康と前田利家の二人が終戦処理。秀吉の晩年の迷走、両国民を苦しめた侵略戦争がやっと終わる。
 朝鮮に侵攻した秀吉軍は、討ち取った敵将兵たちの耳や鼻を切り取って塩漬けにし、樽に詰めて秀吉の下へ送ったという。秀吉はこれを丁重に弔うように命じた。慶長2年(1597)9月27日、方広寺大仏殿の傍らに塚を築いてこの樽を埋葬したあと、五山の僧400人によって法要を営まれたことが「義演准后日記」に記録されている。江戸時代にはこの塚も顧みられることなく荒れていたが、明治31年秀吉没後300年の記念事業として、黒田長政の子孫らが作った豊国会によって修復され現在に至っている。(「秀吉の京をゆく」津田三郎著・2001年淡交社より)
 この耳塚の周りを囲む石には歌舞伎役者の名前が彫られています。川上音次郎の名前もあります。なぜ役者さんがこの耳塚に関係があるのかなと見るたびに思います。そして、左の写真にある「伏見勇山事小畑・・・」という人物はどういう方なのかと思います。ひときわ大きい石で、歌舞伎役者より目立っています。
 

E方広寺

 刀狩りの時、方広寺を作るのに使うから刀や槍などの武具を出すようにいったのは有名な話です。
実際の方広寺の大仏殿造営は難航の上完成したようです。
・1586(天正14)年4月 大仏殿建立発願
・1588(天正16)年5月 造営開始 普請奉行 前田玄以 統括責任者 高野山の僧木食応基
・1591(天正19)年5月 立柱式
・1595(文禄4)年9月  竣工 千人の僧を集めて開眼供養(千僧供養)国家鎮護と豊臣家の繁栄を願う。
完成した大仏殿の高さ45m、桁行82m、梁行50mという奈良東大寺大仏殿より大きいものでした。中の大仏ははじめ金銅大仏の計画であったが、漆喰塗り・彩色の木造大仏になりました。高さ20mというもので、これも奈良の大仏より大きかったといいます。
その後の方広寺と豊国社の運命です。
・1596(慶長元年) 伏見大地震で胸部が割れる。善光寺の如来を安置。祟りを畏れ返還。
・1598(慶長3)年8月 秀吉伏見城で病没。
・1599(慶長4)年  秀頼が再建に着手。
・1600(慶長5)年  関ヶ原の戦
・1602(慶長7)年 火災に見舞われる。
・1609(慶長14)年 秀頼三度目の建造に着手
・1611(慶長16)年 創建時より大きい大仏殿と金色の大仏が完成。
・1614(慶長19)年 7月方広寺大仏殿の鐘銘事件起こる。10月大阪冬の陣
・1615(元和元)年 4月大阪夏の陣 5月7日大阪城落城 8日秀頼・淀殿自刃。豊臣家滅亡。
             7月家康、豊国社破却を命ずるが北政所の嘆願で外苑部分のみになる。
・1618(元和2)年 家康駿府城で没。
・1619(元和3)年 豊国社妙法院によって私的に破却され、阿弥陀ケ峰から姿を消す。
・1662(寛文2)年 地震で破壊。木造に
・1798(寛政10)年 落雷で焼失。
・1843(天保14)年 尾張の有志が木造仏を寄進して仮本堂に安置した。
・1973(昭和48)年3月 火災にて焼失。     
 私は焼ける前の大仏様を見たことがあります。白木だったように思います。大きかったのですがどうも足元を思い出せないのです。
国史跡方広寺の石塁 現在の方広寺
重文「国家安康」「君臣豊楽」の方広寺の梵鐘

F豊国神社

豊国神社正面・左方広寺・右国立京都博物館 国宝・唐門
 この項は(「秀吉の京をゆく」津田三郎著・2001年淡交社)を参考にさせてもらいました。この本であらためて秀吉という人物が後世の京都や伏見にどれだけ大きな影響を及ぼしていたかが分かりました。秀吉の光と影がよく描かれていていい本です。お勧めです。この本で分かったことをいかにも前から知っていたように書きます。
 豊国社は秀吉の遺命で、秀頼が半年かけて太閤担(たいこうだいら)に80あまりの社殿や僧坊が造られたものです。秀吉は神になり豊国大明神の神号をもらいます。この頃の豊国社の繁栄ぶりを伝えるものとして、1604(慶長9)年8月7回忌の臨時祭の様子です。

豊国祭礼図屏風(豊国神社蔵・明治16年までは吉田神道家蔵・重文)がその様子をよく伝えています。
この臨時祭を計画したのは豊国社の創建に参画した吉田兼見と別当の神龍院梵舜、関ヶ原以降豊臣家の番頭格になった片桐且元の3人。
・8月2日 北政所豊国社に社参して27釜に及ぶ湯立神楽奉納
・8月12日 湯立神楽で臨時祭幕開
・8月13日 雨
・8月14日 神官馬揃え(金襴の衣装の神官200人が200頭の馬に乗って建仁寺を出発して豊国社へ。かつての信長の京都御馬揃えを凌駕する規模とか)田楽・能楽四座の奉納行事。(秀吉は大の能好き)
・8月15日 巨大な風流傘を押し立てた風流踊りの大集団が京の町々から繰り出して祭りは最高潮に。花笠をかぶり作り花を手に持って、太鼓・笛などにあわせて熱狂乱舞した。1603年出雲の阿国が京の町で評判になったというから、この頃の踊りは「かぶきもの」の影響があったであろう。方広寺大仏殿跡地(前年火災で大仏殿焼失)粥施行。これは豊国大明神の神徳を万民に分かち与えるため。
・8月16日 後陽成天皇奉納神楽
・8月17日 湯立て神事
・8月18日 勅使社参して奉幣。豊臣家一門の大名が社参。
・8月19日 怜人舞楽 臨時祭終了
 
  1599(慶長4)年大阪城にいる幼い秀頼の名代として正遷宮祭に参社した家康は、同年の8月18日の吉命日の例大祭にも社参しています。そして翌年1600年(慶長5・関ヶ原の戦いの年)4月、なぜか家康は衣冠束帯姿で社参し、この日を最後にこの神社に姿を現すことはありませんでした。
 これだけ派手に太閤賛美・追慕のセレモニーをされて、家康が楽しいはずはないと思います。
 豊臣家の繁栄と豊国神社の繁栄は一体のものと家康は思ったでしょう。家康にとっては秀吉が神と崇め続けられ秀頼に人心が集まることは、徳川家の安泰を脅かすものと映ったのは当然です。この豊臣家の盛り上がりを消し、天下人は徳川家が世襲することを示すために翌年1605年(慶長10)家康は征夷大将軍の座を秀忠に譲り自分は大御所として政治を動かします。
 1611年(慶長16)3月28日秀頼は二条城の家康を訪ねて挨拶するため上洛します。家康にすれば、主従が逆転していることを満天下に晒すためです。この時秀頼19歳。対面の後、初めて豊国社に社参し、方広寺の普請現場を見物しています。それが最初で最後の訪問でした。
 大阪夏の陣(1615)で豊臣家は滅びます。秀頼の子国松(8才・秀頼16才の時の子)も殺され完全に秀吉の子孫は絶えました。仕上げとしてこの豊国神社を取り壊すことが家康の仕事でした。北政所(おね・ねねともいう)の嘆願で一度は一部だけ取り壊すことに変更されました。しかし、1619年家康の命によって大仏殿の住職になった妙法院によって、私的に秀吉の廟堂のみ残してすべて破却されてしまい、豊国社はわずか20年で京の町から姿を消してしまいます。
 豊国神社が復活するには明治維新を待たねばなりませんでした。1880(明治13)年京都国立博物館北の旧大仏殿南半に復興しました。本殿正面の唐門は国宝。旧伏見城のものとも二条城のものとも言われているそうです。 

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