伏見ぶらぶら16
伏見にある道標(道しるべ)の案内です。
おそらく前からその場所にあったであろうと思われるものと、たぶん初めは違う場所にあったであろうと思われるものがあります。移動先は学校が多いようです。学校でもいいから残しておく方がいいと思います。ただし、どこからどういう契機で移転したのかの記録は何らかの形で残した方が良いように思います。でもそれがあまり記録されてないようなのでこのページも作る気になりました。
想像力を働かせながら楽しむ「道しるべ探検レポート」です。
では、出発。
NO | 道しるべの現在地 | NO | 道しるべの現在地 | NO | 道しるべの現在地 |
1 | 板橋状学校(1)(2) | 2 | 観月橋駅 | 3 | 伏見社会福祉センター |
4 | 伏見中学校 | 5 | 南浜小学校 | 6 | 御香宮神社 |
7 | 桃陵中学校 | 8 | 清涼庵(1)(2) | 9 | 八科峠 |
10 | 西福寺 | 11 | 住吉小学校 | 12 | 深草小学校(1)(2) |
13 | 伏見土木事務所(1)(2)(3) | 14 | ぬりこべ地蔵道標 |
なおこのページを作るのに参考になった主な図書は以下のものです
・京のしるべ石(著者 出雲路敬直 泰流社 9500円 昭和50年)
・老人が子等に語る伏見風土記第2集(平成9年 企画伏見区老人クラブ連合会)
・淀川往来(向陽書房・昭和59年発行・上方史蹟散策の会篇)
板橋小学校には2つの道しるべがあります。
板橋小学校(1)大仏街道道標
@ A B
裏面に天明二年(1782)銘の2mの道標
@右 京橋ふねのり場
(右 京橋ふ年のり場・右京橋舟乗り場)
A左 京 大仏街道 大津道
Bすぐ 大仏かいだう
(すぐ 大仏可いだう・すぐ大仏街道)
ひだり 竹田かいだう
(ひだり 竹田可いだう 左竹田街道)
大仏街道の名は江戸期の案内記にはよく見られるが、道標ではこれ一例。大仏街道は伏見街道を北行するときに使った呼び名。
上の写真は下板橋通りと京町通りが交差する場所(京町6丁目と京町南7丁目の境界)です。この道を左へとると京へ向かいます。右へとると豊後橋(大和街道)へ向かいます。
この道しるべの文面から分かること考えてみます。左に竹田街道があるということはこれはBが南面していたことになります。そしてその位置からすぐに大仏街道つまり伏見街道につながる京町通りがあるはずです。次にAは「左大仏街道大津道」ですから、Aの面は西向きです。そして@の「右京橋ふねのり場」はすぐ近くに京橋の舟乗り場につながる道か又は、直接京橋へつながっている道かどちらかがあるはずです。でも京橋へ直接つながる道は竹田街道ですから、ここでは京橋方面船乗り場へ行く道と考えるのが妥当でしょう。となりますと、この道標は現在の板橋校の前の下板橋通りで京町通りへ出るまでの通りのどこか北側にあったことになります。
すぐ隣の伏見社会福祉センターにもそのすぐ隣の伏見中学校にも同じような内容の舟乗り場と伏見街道を案内する道標があります。この辺りは大勢の旅人や大名行列が行き交った所だから密集して道標があることが分かります。
板橋小学校(2)指形道標
@ A @きやうかいだう
Aやまとかいだう
指形道標は伏見土木事務所にもあります。本町通りのぬりこべ地蔵(深草)の案内にもありました。そして全く同じ文面の道標が観月橋駅前にありますので次に観月橋のものを見てみましょう。
@ A B @きやうかいだう
(きやうか以たう・京街道)
Aやまとかいだう
(やまとか以たう・大和街道)
B斜めから
ずいぶん板橋のものに比べると汚れてしまっていますが、文字は読みやすいです。ここは24時間車の排気ガスに晒されていますからこれだけの違いが出るよい見本のようです。書かれている文字指さす方向そして大きさ字形全て板橋のものと同じです。おそらく同じ時期に同じ街道筋に建てられていたものだと思われます。この2面に文字があるだけで他の面には文字がありません。
さて、この道標がどこにあったかです。京街道ですから伏見街道のことでしょう。そして大和街道は奈良へ向かう道です。ですからこの道標は現在の位置にあって方角もあっています。つまり大和街道と書いてある面が北向きで、もうすぐで橋を渡るぞということになります。京街道の面は西向きです。この道は北へ向かいますと伏見奉行所の方へ行きます。だからこの道標は豊後橋北詰の西側にぴったりの道標です。今の位置はたぶん正確です。
では、観月橋にあるものと全く同じ板橋小学校のものは一体どこにあったものなのでしょうか。私はこの道標は、観月橋(豊後橋)北詰以外他の場所が考えられません。案外北詰に2つ向かい同士であったのかもしれません。(豊後橋北詰東側でもおかしくはない)同じものが2つあるなんて面白いですね。少なくとも板橋小学校近辺に該当する場所はないと思います。
板橋小学校のすぐ南のこの場所は、伏見区役所があったところです。そしてさらに前には伏見市役所、伏見町役場のあったところです。ということはこの辺りが明治時代以降伏見の政治の中心だった場所と言えましょう。さてその場所にある道標です。
弘化四年(1847)の銘
「東 左りふねのり場」
「南 右 京大津みち」
この位置でこの方向でピッタリの道標です。次に紹介する伏見中学校のものと同じ年に建てられています。
伏見社会福祉センターのすぐ西隣に伏見中学校があります。
@ A B C @「西 右 ふねのり場」
A弘化4年(1847)
伏見社会福祉センターと同じ筆跡同じ年号の道標である。
B「東 左りふね乃り場」
C「南 右 京都大津みち
左 京 竹田かいとう」
板橋小学校のものが一番古くからあり、その60年後に2つ(伏見社会福祉センターと伏見中学のもの)が加わったことになります。一番丁寧に案内しているのが伏見中学校のものです。伏見中学校のあるところは、蓬莱橋からまっすぐ北へ向かった道の突き当たりになります。幕末の地図では「伊藤屋敷」と書かれ全体としてこのあたり一体は「尾州御屋敷」つまり徳川御三家の一つ尾張藩屋敷があったところです。
江戸時代の旅行案内記「宇治川両岸一覧」に次のような記述があります。「船上の旅客京師(みやこ)に到るに、各(おのおの)その勝手に任せて同じからずといへども、およそこの橋条(はしすじ)を北へ趣き下板橋通りに至る(この所行きあたりて道しるべの石あり。右はいなり街道、左は竹田街道なり)」これはおそらく伏見中学校にある道標のことを書いていると思われます。
「淀川往来」(向陽書房・昭和59年発行・上方史蹟散策の会篇)の「京橋と三十石船」にこんな記述がありました。「京都・大坂間44.2キロ。大坂八軒屋を朝早く出て夕方には伏見に着き、今度は夜船で淀川を下って早朝大阪に着く。多い時には、162艘が淀川を往来し、一昼夜で約九千人の旅客を運んだという。船着場は伏見に四カ所、観月橋近くの平戸橋・京橋・蓬莱橋と阿波橋があった。下りは流れに棹さして行けばよいが、上りには九カ所ほど綱を曳く場所があって、幾人もの人が堤から綱を曳いて船を進めたのであった。大変な労力と時間を要したわけだ。」また、「寺田屋と坂本龍馬」にはこんなことも書いてあります。「明治には何軒か残っていた船宿も取り壊されてガソリンスタンドになったりして、現在残るのは寺田屋一軒のみである。越前屋、かくいや、山形屋、近江屋、水月、醍醐屋等々。これらの船宿はそれぞれ船主と組んで店前に船を止め、客を斡旋する代わり、船賃から2割程度の手数料を受け取る仕組みになっていた。また船待ち客に茶菓や食事の接待をし、その代金を収入としており、原則として宿泊はさせなかった。」
*寺田屋の写真は「落語地図・三十石夢の通い路」にあります。また「蓬莱橋・京橋」の写真は「伏見街道を行く」にあります。
2003・9・15(月)
2003・9・28(土)追記
@ | A | B | C |
@「南 すぐ 京 左り大坂舟乃り場 道」 南の文字の両側に小さく「天保12年(1841)」「施主笹屋伊助」 A「東 右 京 すぐ大阪舟のり場 道」 B「北 右 大阪舟乃り場 すぐ左 大津なら宇治 道」 C「西 すぐ右 大津 なら 宇治 左り 京 道」 |
これはまたすごくたくさんの字が書かれた道しるべです。
そして不思議な道しるべでもあります。東から西の面に抜けているこの穴は何でしょうか。そしていつの時代かこの道しるべは真ん中から折れたあとがあります。そして根元は丸い台石があります。大阪 大坂のと両方使われているのも時代を感じさせます。京町1丁目と2丁目の辻にあったらしいです。確かにこの京町1丁目と2丁目の間は立石道筋と「維新全伏見管轄図」にありますので、この道しるべが立石だったのかもしれません。
ここでいう「大津なら宇治」は一つの街道を言うのではなさそうです。豊後橋へ出ればそこへつながる大和街道(奈良)、六地蔵から黄檗宇治へ向かう道、そして石田から北へ向かう奈良街道(大津への道)の3本の道のことを言っているようです。
この辻を西へとると南浜町、蓬莱橋、そして寺田家の浜、京橋へと向かいます。大阪へ舟で帰る人で京から伏見街道を京町通りまっすぐ来た人は、絶対ここで西へ向かう必要があるのです。ですからlここに道しるべがないと困るのです。
ここでいう「京道」は伏見街道へつながる京町通りのことです。
「京のしるべ石」(出雲路敬直著)には「京道は竹田街道 大津・奈良・宇治道は大和街道ともいわれた伏見街道を意味している」と書かれているのですが、私はそうではないと思います。この道しるべのミニチュアを作ってみたのですが、私の解釈で何の不都合もありませんでした。
2003・9・16(火)
@南 | A東 | B北 | C西 |
@「南 右 上醍醐黄檗道 左 大坂舟のり場」 A「東 右 京大津道 左 奈良宇治」 B「北 発起 山城屋弥兵衛」 C「西 弘化四年(1847)」銘 |
弘化4年(1847)という年の道しるべこれで3本目です。この年に伏見の町に道しるべを建てようという何か動きがあったのでしょうか。
この道しるべは南と東の面が重要であとはそれほど重要ではないようです。ということは、西側がうしろ向いていた可能性が大です。つまり道の西側に建っていたようです。
東面は伏見街道(もしくはその近くの伏見街道へつながる道)に置かれていたことを表しています。 そして、南面は大手筋通りにぴったりの表現になっています。
現在の国道24号と大手筋が交差する場所(御香宮前現在の交番のあるあたり)が有力だと思います。これは現在この道しるべが御香宮にあることや、「維新全伏見管轄図」に御香宮の前大手筋通りすぐ東に「立石前町」の名前があるところから有力だと思います。
でも、現在の大手筋と京町通りの交差する場所の西側もぴったりだなあとも思います。
2003・9・19(金)
@東の面 | A東と北の面 | B南と東面 |
@南「南 すく大津道」 A東「右 御香宮門前大手筋 左 京ばしふねのり場 十六丁」 B北「北 左 大津道」 |
京橋から16丁逆算すると桃山丘陵の醍醐道の伏見坂あたりになるといいいます。
上の地図分かりにくいのですが、一番左(北)の道が大手筋です。右に宇治川が流れており豊後橋が架かっています。豊後橋から道が東へ延びていて、大手筋から延びてくる道(清水谷)と接続しているところが「伏見坂」です。その次に「御舟入」続いて「六地蔵新町」「大津町」そこで八科峠から来る道と接続して、西町東町となっています。「伏見坂」という地名私は初めて聞きました。
現在大手筋を東へ向かうと明治天皇陵になり、道が明治天皇陵の南側を周りながら京阪桃山南口へ向かいます。その道がJRの下を通のですが、その高架下北西に「御舟入」のあとの池があります。その「御舟入」の西にあったわけですから、たぶん桃山御陵のパーキングのあるあたりか京都橘高校のある辺りだと思われます。橘高校が移転してきたとき高校の敷地からいくつも無縁仏さんが出てきたという話しを聞きました。そして古い道が通っていたらしいとのことでした。橘高校の敷地は地元の土地だというので桃山地域にも売却されたお金が還元されて、自治会館が建てられたという話しを聞きました。
旧伏見城御舟入跡 |
桃陵中学校にある道しるべを先ほどの地図の三叉路に置いてみましょう。
西には何も書いてありませんから、当然、六地蔵方面から来た人は東面を見ることになります。そして右が御香宮前大手筋、左は豊後橋を通って京橋舟乗り場の方へ向かいます。北から、つまり大手筋方面から来た人は、道を左にとりますと六地蔵大善寺から奈良街道へ出て大津追分方面へ行きます。南から来た人は本当なら「右 大津道」と書いた方が分かりやすいかもしれません。しかし「すく 大津道」となっています。こちらから来る人(つまり豊後橋方面)は大津へ抜ける人しかいないのです。なぜなら大手筋へ抜けたら遠回りなだけなのです。北や南から来た人はみな大津へ抜けようという人たちなのです。
この道しるべは「伏見坂」にぴったりです。
「京のしるべ石」(出雲路敬直著)には「大津道は醍醐から大宅街道と、藤森から大津街道の二つをさしているのだろうか」と書いてあるのですが、私は醍醐から大宅へ抜ける奈良街道のみを指していると思います。
ついでに桃陵中学校にあった記念碑
維新戦跡の碑 |
車石(竹田街道の車石だそうです) |
(1)福寿観世音の道しるべ
@南面 | A東面 | B北面 | C西面 |
@「南 宇治見江 五町 御香宮江 九町」 A「右 ならかいだう 左 一ごん寺」あと小さい字判読できず B「宝暦七年(1757)」の銘 C 「是より東三町 五郎太町 福寿くハんせおん」 |
この道標の字の読み方は「京のしるべ石」(出雲路敬直著)を参考にしました。
清涼庵(院)は家康が、愛妾お亀の方を住まわせたところです。お亀の方が慶長5年(1600)年男子を出産し、幼名を五郎太と言い、それがのちの尾張大納言義直です。清涼庵のある町内を五郎太町というのは義直の幼名から来ています。この庵は後八幡町の正法寺に払い下げられ「福寿庵」と言われたが、寛文2年(1662)に黄檗山万福寺の清涼了観の隠居所となり、清涼庵と改称されました。そして、安永7年(1778)に知恩院派の尼寺になり現在に至っています。
福寿観世音というのは、長谷寺から遷したとされる観音様だそうです。昔福寿庵と言ったことが関係あるのかもしれません。「京のしるべ石」(出雲路敬直著)には「宇治見は桃山丘陵の西端で、宇治川のよく見える山であったところからの呼び名と考えられる。ここを越える道を月見ケ岡越とも称した。この道標の源位置は清涼院の西三町であったことが碑文から知られる。」と書かれています。
一町(丁)は60間で約109m強のことです。ということはもともとこの道標は清涼庵のあるところから、上板橋通りを西へ330mのところにあったことになります。それは現在JRの踏切のあるところあたりで伊達街道あたりになります。ここに置くと他の面との関係はどうでしょうか。西は合います。そして南の面は御香宮を古御香宮と考えるとうまくあいます。でも東から来た人たちはちんぷんかんぷんです。左右反対にするとかろうじてOKかな?でもそれでは全く道標の役をなしません。いずれにしても無理があります。
西面左側上 「三町」は読めるが
「是より東」は判読できない西面左側下
かろうじて五郎太町と読める一ごん寺の下に二十六町
他は分からない
もう一度見に行ってきました。すると西面の「是より東三町 五郎太町 福寿くハんせおん」というのが、どうも私には読めません。以前はそういうふうにはっきりしていたのでしょうか。「三町」と「五郎太町」はかろうじて読めます。「是」もそうかなというところでした。「東」がはっきりしません。
この道標私はお手上げです。
2003・9・21(日)
(2)女じゅんれい道の道しるべ
この道しるべには近づけませんでした。苔が美しく生えているからです。それで「京のしるべ石」(出雲路敬直著)の解説をそのままお借りしておきます。「是より女じゅんれい道 上だいご」と書かれているようです。「頭の部分が欠けている。女性の巡礼が許されていた上醍醐への道を示すものであろう。どこにあったか分からないが、おそらく桃山丘陵あたりであろう。」とのことです。
これは現役バリバリの道標です。私はこの道標で初めてそこの峠を「八科峠」と言うことを知りました。
八科峠
右 京ミち
左 六じぞう
裏面
松井市右衛門建之
この道標も一度折れたことがあるようです。
分かりやすくて美しい字だなと思いながらここを通ります。この道標の建っているお宅に車石の説明と実物があります。逢坂山つまり東海道の車石だそうです。すごいなあと思いながら、よく見ると、このお宅に使われている石はみな車石だったのです。道しるべの後ろの石もよく見ると車石です。石垣の石も車石でした。
@ A @京 右 大ぶつ ちおいん 大谷廟 左 本願寺 竹田かい道 車道
A左 いか いせ 大和かい道(伊賀伊勢大和街道)
裏面に「為橘屋家先祖代々 再興」の文字
西福寺はJR藤森駅下車、西へすぐで、京都教育大学正門(南門)の東側にあります。
ここは江戸時代の人の流れを考えるときに大切な場所になります。大名行列は伏見街道をまっすぐ北へ進んで京の町へ入ることは出来ませんでした。江戸幕府が大名と天皇の接触を避けさせるためだったようです。だから西国の大名は、墨染で伏見街道へ入るのですが、すぐに道を東へとって現在の京都教育大学南門の通りを東に向かい、この西福寺のある場所で左折し北へ向かい就成院(現在天理教の教会)前を通って久宝寺町、筆坂、そして谷口町へ出て、現在の大岩街道を勧修寺の方へ向かったようです。この道を大津道と言います。この大津道は勧修寺からさらに東の小野随心院に至り(大宅街道・奈良街道)、そこから北へ向かい東海道の追分に出ます。この道についてはまた近いうちに独立してページを作りたいと思っています。
そういう場所に残されている道しるべですから、私はてっきりこの前にあったのかと思ったのですが、どうもそうではないようです。「老人が子等に語る伏見風土記第2集」には「門を入ると正面にあります。寺横の三叉路に建っていたものでしょうか」と書いてありますが、どこに置いても文面と実際の道の関係が合いません。
まず@の面に書かれていることです。この面は、南向きのはずです。「大ぶつ ちおいん 大谷廟(大仏知恩院大谷廟)」とありますから、これは伏見街道のことです。「本願寺 竹田かい道 車道」が示しているは東洞院通とも言われる竹田街道です。伏見から京へ出る2つの道が書かれています。しかし、伏見街道と竹田街道は平行している道ですから、交わることはなく、これは右へ行くと伏見街道へつながり、左へ行くと竹田街道へつながるといういうことを表したものです。
次にAに書かれていることですが、これはこの道標が置かれている場所が豊後橋の延長線上にあることを示しています。そしてこれは東向きだったはずです。北と西側には何も書いていないのです。
私は墨染通りと京町通りが交わるところではないかと思います。ここなら、南から来れば、左へ行くと竹田街道につながります。右へ行くと伏見街道へ出ます。そして、東から墨染通りを来た人は、左へ行けば豊後橋の方へ向かいます。西福寺に近いという点でもここが最有力だと思います。
@南 | A東 | B北 | C西 |
@南 弘化4年(1847) 俵屋仁兵衛 A東 右 京 竹田かいとう すぐハはた 柳谷道 B北 右 阿波橋 左 京ばし ふね(年)乃り場 C西 すぐ京本街道 大津道 左り 京東西本願寺みち |
「京のしるべ石」(出雲路敬直著)には「京本街道は伏見街道、本願寺道は竹田街道、八幡柳谷道は大坂街道のことで、竹田街道を南下して、舟乗り場に近いあたりにあったと思われる。阿波橋は京橋とともに船乗り場近くの橋」との説明でした。
弘化4年の銘を持つ道標4本目です。この道標のあった場所を決める最大のヒントはどうも北面の「右 阿波橋 左 京ばし ふね(年)乃り場」にありそうに思います。私はこれは油掛通りにあったと思います。油掛通りの現在京都大橋総合病院Pのあるところの西細い道との交差点南東角にあったと思います。この南北の細い道は現在も大手筋で道が切れるのですが、昔はここから竹田街道が始まったようです。紀州屋敷が建ったため切られたようです。現在も月桂冠昭和蔵があり切れていますが土橋にまっすぐつながっている道です。ここに住吉小学校にある道標を立てますとぴったりです。北から来たものは右にすぐ阿波橋があります。左へ行くと京橋があります。西から来たものは先ほど言ったように左に曲がりますと竹田街道です。油掛通りですからすぐに伏見街道につながります。東から来た人は右が竹田街道です。そしてこの道西へまっすぐ行きますと横大路へ出てさらに大坂街道につながっています。ピッタリです。
2003・9・21(日)
(1)安政5年(1858)の道しるべ
@ A B 「右 京並大津道 すくも京みち」
「左 ふねのり場」
維時 安政五龍舎戌午五月建焉(安政五年は1858年)
「京のしるべ石」(出雲路敬直著)には「方角の表示がない。藤森神社近くの京大津追分かとも考えてみたのであるが確答は得られていない」と書いてありました。「老人が子等に語る伏見風土記第2集」には「米市の風呂屋の角あたりにあったものではないでしょうか」とありました。しかし米市の風呂屋の所(西福寺で書いた大津街道への分岐)では右へ行くと確かに大津道へはつながりますが、京道ではありません。そこはすでに京道なのです。だから矛盾します。
これはわたしの予想です。方角は@が南Aが東でBは北でしょう。これは西福寺の道しるべと同じく墨染通りと京町通り(師団街道)の交わるところ西側にあるのが適しています。
もう一カ所適している場所があります。それは現在の師団街道と大岩街道の交わる場所です。大岩街道は第三軍道とも言われました。江戸時代末にも谷口町へつながる道がありますからこの場所にこの道しるべがあるとぴったりです。南から来て右折しまっすぐ行くと大津道です。そしてすぐ伏見街道(京道)があって左折します。東から来て左へ行くとこの道は京町通りへ続いていますから舟乗り場へ向かいます。ぴったりです。深草小学校にあるという点から考えて私はこの場所だと思います。
(2)天保14年(1843)の道しるべ
@南 | A東 | B北 | C西 |
@「南 天保十四年(1843)癸卯 年二月建之 A「東 すく京みち」 B「北 右 大阪船のり場」 C「西 すく宇治 わうはく 左 大津 山しな道」 |
「京のしるべ石」(出雲路敬直著)の記述です。少し長いですが引用します。
「方角と指示方向がうまく結びつかない。西とある指示方向を北へ45度ずらせて見ると、ぴったりあてはまる。宇治・黄檗や京道というのが南北に通り抜ける伏見街道であるとすれば、大津・山科への道は大津街道のことである。大津街道は伏見街道の直違橋1丁目から東へ、七瀬川に沿って山に入り、峠を越えて大日山をくだり勧修寺にいたる道である。このコースは開通当時の東海道線の線路でもあったところである。大亀谷道というのは京阪墨染駅のところから東へ、仏国寺の前から八科峠を越えて六地蔵にいたる道を、そう呼んでいる。今では宇治道というと、観月橋から桃山丘陵の南側、つまり宇治川の右岸を六地蔵へ出る道が本街道であるが、古くは道といえるものではなく、車も通れるはずがなく、八科峠を越えるのが本通りであったようだ。六地蔵から黄檗をへて宇治へ行くところから、宇治黄檗道とも称した。移転された道標の旧位置を明らかにすることはなかなか困難である。人の記憶はあんがいあいまいなものである。それだけに道標の碑文を見ながら想像力を逞しくすることは楽しい。」
全く同感です。本当に楽しいです。
次は「老人が子等に語る伏見風土記第2集」の記述です。
「高さは120cm、墨染駅から東500mほどの地点に立っていたといわれています」
こういう記述は貴重です。伝承は大切です。
墨染駅から500mというのは現在JRの踏切のあるところです。その手前に三叉路があり峠というお店があります。ここは江戸時代の名所図絵にも茶店が紹介されている場所です。ここに置くとぴったりです。
2003・9・20(土)
京都市伏見土木事務所の玄関には観月橋の親柱があります。
そして入ってすぐ南側に道標が2つ。 あれ?3つあるはずだが名と思いながら事務所で尋ねましたら教えて下さいました。もう1つの道標は「身近な差別は・・・」という看板立てるための柱になっていました。これが一番見たかったのですが仕方ありません。
(1)正面に看板が・・・道標
@左 京道 A右 京道 もし看板がなかったら、
正面「左 北山上役行者鷲峯山 従是四里半」その両脇に「右 なら 左 宇治」と添えられているのが見えるはずです。そして裏面には「文化10年」(1813)銘があるとのことです。
これも「京のしるべ石」(出雲路敬直著)で学びました。この道標については以下のような解説がありました。
「源位置は観月橋南詰付近であったということで、京道は伏見街道、奈良へは同じ道が大和街道と名を変える。宇治川の左岸を通る道は宇治道である。鷲峯山(じゅぶさん)は宇治田原と和束の間にそびえる685mの山で、宇治川をさかのぼって行く。鷲峰山は役行者が開き、天竺の霊鷲山に似せて八嶺と名付け、修行したところという。のちに白山の行者・泰澄が役行者の跡をしたって堂を造営したのが、今も山上にある金胎寺(こんたいじ)である。昔からの行場であっただけに山は険しい。大和の大峯山にたいして“北の峯”といわれたところから碑文の“北山上”は、その意味であろうか。」
(2)すぐ京ばし舟のり場
右 京道 竹田道 すぐ 京ばし舟のりば 右 京ばし舟場
この道標は裏面がありません。半分に削られてしまっています。不要になったので道標を割ってしまったのではないかということです。3つに折れていたのを鉄の枠で固定してこの場所に建ててあります。土木事務所は京橋のすぐ南にあります。両側面の字ですが、「右 京ばし舟場」は確かに右に見えるのですが、反対側の「右 京道 竹田道」を私は確認できませんでした。京橋近くにあったことだけは確かなようです。
(3)指形道標(大岩街道)
「大岩 おぐりす道」の文字に指形を陽刻した小さな道標。小栗栖街道の途中で、今見える面を西に向けて建っていたものとと思われます。他の面には何も書かれていません。この指形の道標は案外新しいものかもしれません。大岩道(あるいは大岩街道)という名前の用例を幕末の地図では見られないのが気になります。
さてこの指さし道標があった場所ですが、私は八科峠敦賀町の北へ行った老人ホームへ行く道にあったのではないかと思っています。この道は『八科峠道』とか『大亀谷街道』と言われる道から小栗栖へ抜ける道です。ここに宮内庁陵墓参考地があります。今はゴルフ場へ行く道になっています。小栗栖へは車では抜けられません。途中東へ入る道を行くと記念山を経て、久宝寺町大岩街道へ抜けます。この指さし道標は、その三叉路東南角に建っていたと私は思っています。
「ぬりこべ地蔵さん」の案内をしている指形道標。ぬりこべ地蔵さんそのものが明治40年ごろに16師団の兵器庫建設のために移転したそうですから、その道標はもっと新しいことになります。この道標もいっしょに移転したとは考えにくいのでこの指形道標が作られたのが明治末以降でしょう。板橋小学校・観月橋・土木事務所・そしてぬりこべ地蔵のものは明治以降に作られたのではないかと私は考えたのですが。この4つの道標は石材大きさ書かれている文字や案内の仕方が似ているように思います。
2003・9・28(土)