□あらすじ京都見物を終えた喜六と清八は伏見街道を南へ向かいます。伏見街道では土産物に伏見人形を買います。そして、伏見寺田屋の浜へまいります。番頭が名前を帳面につけるのをからかったりして、いよいよ乗船。船の中で50両の金がなくなるが船頭の機転で首尾良く賊は捕まります。東の旅の最終にあたるスケッチ落語(米朝)。一時間はかかるという上方落語の中でも大作の一つ。 |
三条大橋立派な擬宝珠 | 四条大橋確かに擬宝珠がない | 五条大橋ここも立派な擬宝珠 |
清六
「五条大橋が、わしとこが一番おなごが少ないとぼやいた。三条でも四条でもぎょうさん色気のある女が通る。わしとこは橋下(五条新地のこと)だけやから淋しいとこない言うたんや。ほな三条が、そらわしとこも通るけどなんというたかて四条の橋や、祇園町と先斗町を両側に持っててこんな色気のある橋はないわいちゅうたら四条の橋が、なんぼ女が通っても、わしとこには肝心の擬宝珠がないとこない言うたんや。」(米朝落語全集第4巻より・以下同じ)
清六 「これが有名な誓願寺さんや。有名なお寺やで」 喜六 「ああ、誓願寺さん。ここの和尚さんは坊さんか」 清六 「そら何を聞くのやいな。どこの和尚さんかて坊さんやがな」 喜六 「そやけどお前、よう言うやないか。誓願寺の和尚さん坊さんで、坊さん鮹食うてへどついた・・・て」 |
左の写真が誓願寺の墓地にある策伝さんのお墓です。
策伝さんは慶長元和の頃(つまり秀吉や家康がいたころ)この誓願寺の第55世の住職でした。僧侶、茶人、文人、咄家として優れていました。美濃の人でとぼけた笑い話を得意にしたと言います。のち誓願寺境内北西(現在の銭湯桜湯あたり)に竹林院を創め、小堀遠州作の茶室を設け安楽庵と称しました。
小僧の時から耳にしたおもしろ話を聞きとめ、京都所司代板倉重宗に献上したのが「醒睡笑」八巻です。
この策伝を「上方落語の元祖」という見方に対して策伝は豊臣秀吉に仕えたという曽呂利新左衛門同様御伽衆の流れの人と見る見方もある。(落語家事典・平凡社より)
ある人が童を風の子というのはなぜだと聞くと、小賢しい者が答えるには、ふうふの子だから風の子という。
*これは、産経新聞平成12年10月12日にのっていた記事からの引用です。誓願寺に子ども向けの本を売ってました。
清六
「有名にもなんにも伏見人形しらんかい、稲荷山の土で焼いたあるねん。全国どこへ持っていっても、そこでその人形が割れるやろ。割れても土くれに返ったら、その土は稲荷山に戻るというような言い伝えがあるのや」・・・・・・・
喜六
「この饅頭食いちゅうのはこれなんや。手に持ってるのは、こら饅頭かい」
主人
「へえ、これはお饅食べてまんのやがな。これは賢い子どもどしてな、これお前はんお父つぁんとお母はんとどっちがありがたいと思うとこない聞きましたんで、へえ。ほんならこのパカッと二つにお饅を割りましてな、黙ってこうこれを出したちゅうんで、へえ。味に変わりはないちゅうことを見せたんどすな。はあ、賢い子で」
喜六
「お前とこの子とえらい違いやなあ」
伏見街道はおおよそ現在の本町通です。 川も何本か横切っていたようでこれは第二橋。 |
伏見人形 饅頭食い |
史蹟寺田屋のはま | 寺田屋の提灯 | 坂本龍馬でも有名な寺田屋 |
客
「同じく大阪の住友や」
番頭
「ホイホイ。鴻池さんの次が住友はんですかいな。」
客
「ウソやあらへん。ほんまやがな。福島羅漢前、炭屋の友吉や」
番頭
「ああ、炭屋の友吉つぁんで炭友さんで。あ、こら人相応しとります。
客
「こら、ばかにすな」
船頭唄
やれェ、伏見中書島な、泥島なーれどヨーエ。
なぜに撞木町はナ、藪の中よ、
やれさよいよいよーい
これを見ますと撞木町と中書島は張り合っていたようです。
撞木町の方は大石内蔵助も遊んだ廓として有名ですし、井原西鶴の「好色一代男」の中でも出てきます。
一方中書島は埋め立てられた島で、その廓も泥町と呼ばれていたようです。「好色一代男」では、撞木町でお金の足りない者が泥町に行くように描かれています。
そう言えば、ずいぶん昔私が子どもの頃に米朝さんが、こんな小咄をテレビでしておられました。最近は聞いたことがありませんが。撞木町の女郎が、客の男に言うてます。
「中書島の女は船頭ばっかり相手にして、
荒いしガラが悪い。
そう思わへんか、なあ、馬方はん」
どっちもどっちやと思うんですけど。売春禁止法が成立してすぐの頃の話です。私が4年生の時、同級生に撞木町で御茶屋さんをしておられたうちの子がいました。その子のうちに勉強しに行ったことがありました。
通された部屋には鏡台があって部屋全体が赤っぽい感じで、何ともなまめかしい感じを子ども心にも感じました。その頃は旅館をしておられたと思います。
今、撞木町には写真の門の跡と石碑が残っているだけです。家もほとんど建て替えられていて、廓だった面影はほとんどありません。(写真は撞木町廓入口の門の跡)