こぶ弁慶
綾小路麩屋町(あやふやなところ)

あらすじ

 大津の宿で好きな物を言い合っていたら、壁土が好きだという男(枝雀さんはこの男の名前を「よっさん」にしている。松鶴師は「喜六」にする。米朝師は名前なし)がいた。この男、すすめられるままに宿の壁土を食べる。翌朝からえらい熱が出てかごで家に戻る。この男の住んでいるところが綾小路麩屋町、えらいあやふやなところに住んでいる。
 二、三日で熱は下がるが肩にこぶができる。、やがてそれが人間の顔のようになり、ものをしゃべるようになる。そして自分は武蔵坊弁慶であるという。壁土の中の大津絵の中から蘇ったのだというのだ。一日飯は二升酒は三升時々散財(枝雀さんはソープランド)に連れて行けという。
 困ったこの男友だちのすすめで蛸薬師さんへ、イボと偽って取ってもらう願掛けをする。百日目、寺町で大名行列に出会う 弁慶は、行列の前に立ちはだかり大暴れ。そして寝てしまう。男は手討ちにするという大名に、自分ではなく肩の弁慶のせいであると訴える。大名は「昼間ならばまた勘弁のいたしようもある。夜のこぶは見逃しがならんわい」と言っておちになる。

この落語のさげについて

 紹介したさげは、米朝師のものです。(米朝落語全集第五巻より)大名「昼間ならばまた勘弁のいたしようもある。夜のこぶは見逃しがならんわい」松鶴師は「されば、夜のこぶは見逃しならぬのじゃ」(「上方落語」講談社)となっています。でも、これは今では意味が分からなくなっています。
 そこで、枝雀さんのさげは、「何、瘤の弁慶とな。ん、相手が弁慶のことであればこの手討ち“よしつね”にせねばなるまい」(枝雀落語大全第六集)となっています。『青菜』のさげ前の「よしつね、よしつね」と同じだなあと思われるのは枝雀さんはくやしかったやろうなあと私は考えてしまいます。でも、何とかこの「よっさん」を助けたいという枝雀さんの人柄が出ていると私は思います。
 米朝師の説明です。
 「昆布ーこんぶ、関西では「ん」を略して「こぶ」と言います。夜間、昆布を見たらちょっとつまんで食べる、「夜の昆布が見逃せん」等と言って、これはよるのこぶ、よるこぶ、ー喜ぶ・・・という言葉の洒落にしかすぎませんが、花柳界や水商売では今日でもある風習です。」(米朝落語全集第五巻より) 

枝雀さんはなぜ「よっさん」にしたのか

枝雀さんの『こぶ弁慶』には米朝師の演出にはないこういうやりとりがあります。
よっさん(こぶができた男)が、蛸薬師さんへ願掛けに出かけるときに
よ「ヘヘッヘェ、表へ出てもだれにも会わにゃええがなあ」
□「よっさん」
よ「あっ会うた・・・。早速会うてるがな」
□「お出かけですか」
よ「ちょっと蛸薬師さんまで」
□「ほぁー、何や担げてなはんな」
よ「へぇ、えぇー、おっ、えぇ、ええ」
□「何でんねん」
よ「いえちょっと、珍しいもんが手まわりましてね」
□「ほぉー、何です」
よ「えぇー、これ、あの・・・」
□「何でんねん」
よ「いえ、あの・・・」
□「何です」
よ「いえ、あの、あの」
□「何でんねん」
よ「いやいや、西瓜が・・・」
□「へっ?」
よ「西瓜が・・・」
□「西瓜。西瓜って夏のもんだっしゃろ、もし。えらい時期外れの西瓜でんな」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この調子で毎日でかけようとするとこの男があらわれて何を担げているのか尋ねます。
「よっさん」は、二日目は「胡瓜」だと言い、三日目には「象の卵」だと言い出します。
「何じゃい・・・この男、家の前で待ってんのとちゃうかいな」
聞いている方もそう思ってしまいます。
この辺が枝雀落語の真骨頂です。
こういう風にこの人物に感情移入してしまいますと最後のさげでこの「よっさん」を「昼間ならばまた勘弁のいたしようもある。夜のこぶは見逃しがならんわい」で、手討ちにはできなくなってしまうのではないかと思います。「よっさん」と語りかけるこの演出素晴らしいと思います。

現在の綾小路麩屋町・・・あやふやなところ

綾小路麩屋町北西角
この看板は綾小路麩屋町
町内案内板は麩屋町綾小路

 どんなところだろう?「よっさん」の住んでたとこ。
 期待して訪れたのですが、別に普通の京都の町の風景でした。
すぐ北の通りは京都一の繁華街四条通、すぐ東は電気の町寺町。高島屋や藤井大丸などのデパートもすぐの位置でした。
 この綾小路通りも麩屋町通りも車一台通るのが精一杯の狭く細い通りです。
 ここに住んでる人は自分の住んでるところが「あやふやなところ」と呼ばれていることご存じなのかなと思ってしまいました。蛸薬師へは歩いて10分かかりません。
 なお、京都の町はごばんの目のように各通りが直角に交差しています。綾小路通りは東西の、麩屋町通りは南北の通りです。

蛸薬師さん・・・おもろい名前です

蛸薬師の由来と信仰
 蛸薬師と呼ばれている薬師如来は、もともと永福寺というお寺にあったもの。池の中の島に安置したので水上薬師、また沢薬師(たくやくし)と称したがのち「蛸薬師」と言うようになった。
 一方こんな話もある。永福寺の親孝行な僧が、病母の願いで蛸を買ったのを見とがめられ、箱を開けさせられたが、日ごろ信仰する薬師如来に祈念したところ薬師経と変じて急場をのがれ母の病も癒えた。この霊験から、俗に蛸薬師とよばれ庶民の信仰を集めたともいう。
 この落語では「あそこへ蛸断ってお願いしたら、どんなイボでもとってくれはるちゅうやろ」と言っている。

大津絵の弁慶と浮世又平

大津絵の弁慶には2種類あるようです。
一つは三井寺の鐘を持ち上げている図。そして七つ道具をもって立ち往生の図など。
果たしてどんな弁慶をよっさんは食べたのでしょうか。

浮世又平は「吃の又平」とも云われ、大津絵の始祖と言われていますが
実在の人物ではなく近松門左衛門の浄瑠璃作品に出てくる人物です。

大津絵七つ道具の弁慶 三井寺の鐘持ち上げる弁慶

いずれも「大津絵作房」高橋和堂さんの作品です。
詳しくはこのサイトの「大津絵」を開いてください。

五条大橋の牛若丸と弁慶

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