はてなの茶碗
(衣棚と音羽の滝)


清水寺本堂いわゆる清水の舞台・国宝

□あらすじ

 京都衣棚の茶道具屋の金兵衛通称茶金さんは京都一の目利きで、この人が指さして「この品は・・」と言うだけで十両の値打ちがつこうという人。
 この茶金が
音羽の滝の前の茶店でお茶を飲みながら、湯のみをためつすがめつして「はてな」と言って置いていく。それを見ていた油屋が茶店から二両で買って茶金の店へ持って行く。
茶金はただの茶碗だが、どこからかお湯が漏れるので「はてな」と言っただけなのだが、この茶碗を三両で買ってやる。
 この話を関白鷹司卿にすると、短冊に「清水の音羽の滝の落としてや茶碗もひびにもりの下露」としたためた。これが時の帝の耳にも入り帝は箱のふたに「はてな」と御染筆。この茶碗は「はてなの茶碗」という名の偉い値打ち物になる。とうとう鴻池善右衛門が千両で買い上げる。油屋は五百両もらう。
 数日後そろいの浴衣の大勢に、重そうな物を担がせて茶金のところへやってきて、「ワアー、茶金さんか、十万八千両銭儲けや」「十万八千両の金儲け?どうしたんや」「水つぼの漏るやつ見つけてきた」 

衣棚通りとは

 衣棚は、1590年頃から大規模に進められた豊臣秀吉の京都大改造後に開かれた通りで、三条通近辺に袈裟衣を商う店が多くあったことから、衣棚通りと呼ばれるようになりました。(京都市設置の案内板より)
 室町通りと新町通の間にある。この通りの三条付近の町名を衣棚町という。千切屋一門の法衣商六十余軒を越える太物問屋町として栄えた。江戸時代後期、三条室町四辻が五色の辻と呼ばれたのは、周囲がすべて千切屋の借家で、東南に赤壁、南北に黄壁、東北に青壁、西北に黒壁を塗ったので、その名がついたという。(「米朝ばなし」講談社より)
三条衣棚から北を望む。
左に上記千切屋の看板が見える。
御池衣棚から北。
 なお、衣棚通りは北は上長者町から南は三条通までだそうです。でも六角まで細い通りは続いていました。その三条から六角までの所に安土桃山時代から江戸時代にかけて家康とも交流のあった茶人廣野了頓が住んでいたとのことです。
 この茶金さんを「茶屋金兵衛」通称茶金という風に演じることがあるのでしょうか。「落語手帳」(矢野誠一駸々堂)にはそのようにありました。もし茶屋なら豪商茶屋家が思い浮かびます。茶屋家は江戸幕府の呉服御用商人で朱印船貿易でも活躍した京の三長者の一つ。茶屋家は熱心な法華宗の信者で本阿弥光悦とも親交がある。長者でしかも当代一の「目利き」本阿弥光悦ともつながりがある茶屋家。居宅はもと三条新町あたりであったが、のち小川出水に移った。となると、衣棚にも近い。茶金なる人物「茶屋家」からイメージして作られたのではないかと想像しました。
 

清水寺音羽の滝

 子どもの頃よく父親が清水寺へ連れて行ってくれました。今はありませんが、清水の舞台に弁慶が履いたという鉄の下駄がありました。重くてはけなくて弁慶はすごいと思ったものでした。音羽の滝もよく水をくんで飲みました。後年東山トレイル(稲荷山から比叡山まで続くハイキングコース)を歩いた時音羽の滝の源流から流れをたよりに清水寺まで下りてきました。水量の多さと流れの速さとその冷たくておいしかったのを覚えています。
清水の舞台から音羽の滝を望む。
現在音羽の滝の前に茶店はない。
横にある。
音羽の滝
三筋の流れになって落ちる。

滝の南側にある茶店 滝の前にはお寺の販売所。
お札など販売しておられる。
音羽霊水
1本500円

大西良慶さんの「かもがわ」

 落語に関係ありませんがしばらくのおつきあいを。
 清水寺貫主大西良慶さんがお亡くなりになって何年になるでしょうか。何しろ百歳を越えられてもお元気に活躍されていました。
 その良慶さん102歳の時に字を書いてもらうことをお願いしました。日本作文の会第25回京都大会の速報の題字を書いてほしいとお願いしたのです。快く引き受けてくださり、書いていただいたのが左の字です。
 書けたということでいただきに参りました。成就院で松本大圓というこれまた有名なお坊さんにお会いしてしばらくお話しました。何をお話したのかさっぱり覚えていません。良慶さんにはお会いできませんでした。お昼寝をされていたようです。
 そうそう思い出しました。その日はアリと猪木が試合した日でした。26年前の話です。

清水寺については、10、「景清」 19「殿集め」を見てください。

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