北野天満宮の梅1

東風吹かば 匂い起こせよ梅の花
主なしとて 春な忘れそ(菅原道真・拾遺集)

 北野天満宮には梅約2000本、約50種の梅が咲く。京都市内の梅の名所の中でも私は一番だと思う。天神さんと梅の関係は上記の歌であまりにも有名。また天神さんの紋が梅鉢であることもこれまた有名なこと。
 このページの写真は2003年2月27日の撮影である。まだ少し時期が早い。
 以前最高に咲き誇っていた時期に訪れたら鶯色の鳥がたくさん梅の花に集まってミツを吸っていた。私はてっきり「ウグイス」だと思って「梅にウグイスって本当なんだ!」とえらく感心したことがある。でも後年「それはメジロかもしれない」と人から言われた。「メジロ」か「ウグイス」なのかはともかく白梅にも紅梅にも鶯色の鳥はとても似合っていた。梅の時期たくさんの人が訪れるので鳥が見られたのはラッキーなことだったのではないかと思う。

北野天満宮について

今出川通りから北野天満宮鳥居 一の鳥居横の狛犬
台座に梅の模様が入っている

■天神さんのはじまり

 北野天満宮は学問の神様菅原道真を祭神とする京都市内屈指の神社。天神信仰では太宰府天満宮と並び総社的地位にある。道真は903年に太宰府で没したが、その後京都で起こった災害は道真のたたりであるといううわさが広まった。942年西京の巫女多地比文子に北野に社殿を造れと天神(道真)の託宣があり、947年近江比良宮禰宜神(みわ)良種の男で太郎丸にも火雷大神が北野辺に鎮座したいとの託宣があり、神(みわ)と文子が協力して、北野朝日寺の僧最鎮とはかって祠宇を設けたのがはじまり。

「京都府の歴史案内」上(山川出版社)より

赤い目の牛も梅の花の下にいる

■その後の天神さん

 987年北野祭が官幣にあずかり、以後信仰が急速に広まった。
 比叡山は強訴するとき、日吉社、祇園社と北野天満宮の御輿を担いでいる。
 鎌倉時代神人や神官が起請文を書くときはこの神社前で行ったという。
 室町時代将軍家とのの関係深く、織物、酒、油、こうじの座が北野を本所とし商業上の特権を得た。秀吉の時朱印地602石を与え江戸幕府に継承された。
梅園にある史跡御土居
*御土居は1592年(天正19年)秀吉が京都大改造の一環として洛中洛外の区画を決めるために作らせた土塁。境界と水防の役割があったという。北野天満宮に残っているものはすぐ西側が紙屋川であり、水防の目的もあったことが分かる。かなり高いしかも幅の広いものであったと推察できる。

■芸能・学問と天神さん

 御霊信仰から始まった天神さんだが、学問・芸能の神ともされた。
 室町時代には宗祇らが連歌の会をしばしば開いたという。現在井戸のあるところが連歌の会が開かれた建物跡だという説明板がある。
 秀吉が1587年(天正15年)10月境内松原で行った北野大茶会は有名である。このとき秀吉は九州から凱旋して帰ってきたところであり、聚楽第完成記念のため、又自分が集めた茶道具の名器を披露するため庶民にも参加を呼びかけたという。茶席数は800とも1000だったとも言われる。当初10日間行われる予定であったが肥後の国で一揆が起こったため1日で終わったらしい。境内に記念碑と井戸あり。
 1603年(慶長8年)には出雲の阿国が北野社頭で歌舞伎踊を初めて興行したことから歌舞伎発祥の地ともされている。これだけ記念碑なし
 貞亨・元禄の頃(17世紀後半)この北野天満宮境内で、露の五郎兵衛が、辻咄を聴衆の前で口演した。露の五郎兵衛は上方落語の歴史の中で「咄家の祖」とされている。現上方落語協会会長二代目露の五郎さんが平成11年3月自身の落語家生活50周年を記念して石碑を建てておられる。(くわしくは「いらちの愛宕まいり」参照)
連歌の会のあった場所にある井戸
北野大茶会の址石碑 露の五郎兵衛石碑
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