■あらすじいらちの男(いらついて、せかせかする人、一つのことに落ち着かず次々いろんなことをする人)が甚兵衛さんの発案でいらちを治すために愛宕山の神さんにお願いすることにした。朝早くから起きて女房のおさきさんにつくってもらったお弁当とお賽銭もってでかける。鳥居が見えてきたので尋ねるとここは天神さんだと言われる。どうやら西へ向かうのに東へ来たらしい。改めて愛宕山へ向かう。登り切って愛宕神社に参詣するが、お賽銭と間違って持っているお金全部賽銭箱へ入れて「愛宕に小遣いとられた」と嘆く。 帰り道、鳥居の見えるところでお昼ご飯を食べようとすると風呂敷に包んだ弁当と思っていたものは箱枕を嫁はんの腰巻きで包んだもの。 亭主に恥かかしたと怒って家に帰る。帰って女房を「コノガキコノガキ」とたたいていると「まちなはれ、そういう声は隣のタケさんと違うのんか?」という声。どうやら家を間違えたらしい。わあーと家へ飛んで帰って、自分の嫁はんの前へ手をついて「ただいま、えらいひつれいを申しまして」 |
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伏見から見た愛宕山 | |
愛宕神社「火廼要慎」のお札 一体二体と数える。 一体350円。 |
黒門を過ぎると石灯籠の平らな参道になる | ここが愛宕神社の門 |
愛宕神社本殿 | お使いのイノシシ・本殿左右に欄間 |
伏見桃山にある愛宕さんの常夜燈 京都の各地(各町内)で見られる。 それだけ庶民は火事が怖かったし 共同体の願いを愛宕さんに託したと 言えよう。 |
*天神さんでこんなやりとりをします。
タケ「・・・ここ愛宕さんでしょう」
男「いやいや、天神さんですねん、ここは」
タケ「天神さん?あそう。いつから?」
男「いや、いつからってあんた、前から天神さんでっせ」
タケ「いやあー」
男「いや、いやあたかてどうでんねんがな」
タケ「ほーん」
男「いや、ほーんやないがな。あんた愛宕山へ行こうと思うて歩いてなはったんか。まあ まあ大きな間違いや、それでは、ええ。あんた西行かんならんのに、東来てなはんね ん東。西と東と間違うてまっせ」
タケ「ああそうですか。さよなら、慌て者」
男「あんたが慌て者やがな」
(枝雀落語大全35集『代書・いらちの愛宕詣り』より
ということはタケさんの住んでいるところは、愛宕さんと天神さんの中間あたりということになります。地図で見ますと御室、広沢、花園、鳴滝、太秦などが考えられます。
小佐田定雄さんは『桂枝雀独演会第17集』の解説の中で「主人公がはじめに間違えて行く「天神さん」というのは北野天満宮かと想像されます。そこらから推理しますに、主人公の住まいは太秦あたりだったのではないでしょうか?」と書いておられます。
なるほど。タケさんは国宝第一号弥勒菩薩像で有名な広隆寺や映画村で有名な京都太秦あたりに住んでいたということにしときましょう。
タケさんは、愛宕さんへいくつもりで家を出たのですが、天神さんについてしまいます。さてその天神さんについてです。
国宝北野天満宮本殿 豊臣秀頼寄進 |
天神さんと言えば牛 悪いところに触れると治るという |
天神さんの紋は梅鉢の紋
「狸のさい(狸賽)」でも五の目を「天神さん天神さん」と狸に頼むところが出てくる。土用干しの頃になるとこのように本殿の前で梅が干される。境内に梅園があり梅の季節は開園される。
北野天満宮は菅原道真を祀る神社で太宰府天満宮とともに全国にある天満宮の総社的な地位にある神社です。御霊信仰と同時に学問・芸能の神ともされ、室町時代には連歌の会がしばしば行われたと言います。
北野天満宮が歴史に名を残すことで有名なことと言えばまず1587年(天正15年)10月境内松原で行った秀吉の『北野大茶会』があります。
北野大茶湯之址の石碑 | その時使われた太閤井戸 |
1603年(慶長3年)3月には出雲の阿国が北野社頭で歌舞伎踊りを初めて興行したことから歌舞伎発祥の地ともされたと『京都府の歴史散歩上』(山本四郎著山川出版社)にあります。出雲の阿国といえば四条河原しかないと私などは思いこんでいました。現に四条大橋のたもとには出雲の阿国の銅像が建っています。
もうひとつ落語に関係あることです。「貞亨・元禄の頃この北野天満宮境内で露の五郎兵衛という人が、辻咄を聴衆の前で口演したのが、上方落語の咄家としての祖とされている」とのことです。(戸田 学さんの解説枝雀落語大全35集『代書・いらちの愛宕詣り』より)
ここ北野天満宮は上方落語発祥の地の一つでもあるようです。
要するに北野天満宮は江戸時代頃からの人より場所で、様々な芸能大道芸が行われるところであったということでしょう。
今も天神さん(毎月25日)は、弘法さん(東寺毎月21日)とならんで月に一度市が立ち様々な道具が並べられ掘り出し物を探す人で賑わいます。長いこと天神さんの市に行ってないので分かりませんが今も大道芸の人やタンカ売の寅さんみたいな方が商いをしておられるのでしょうか。
(「古今東西落語家事情」(平凡社・諸芸懇話会+大阪芸能懇話会編)より)
江戸時代も百年を経過しようという元禄の前後になると、庶民文化の高まりは各分野でみられるようになり、この気運のなかで、大衆芸能の担い手としての落語家が、大きく注目されるようになる。
京都をを活躍の場とした露の五郎兵衛は、もと日蓮宗の談義の僧であったが還俗し、貞亨・元禄頃、京都の北野・四条河原・真葛が原・百万遍その他開帳場などで辻咄を演じた。元禄の初年には、京都市中の物真似系の大道芸人のなかでも特に彼の軽口咄は評価され、日待・月待の座敷に呼ばれたり、貴人に招かれて演じることもあった。
彼の演じた咄は「露がはなし」「露新軽口ばなし」「軽口あられ酒」「露休置土産」などの軽口本として出版され今日伝えられるが、それらは身近な話題を平易な口調で記している。また、はんじ物という謎を出題し観客に参加を呼びかける芸も得意であった。元禄12年(1699)頃、ふたたび法体となって露休を名乗る彼には、談義僧としての経験を生かした「あたことたんき」という書も残されている。
後世の落語家に芸脈として直接つながるわけではないが、彼の演じた咄の作意・形態は、脈々と現行の咄にも生きつづけているといえよう。
現上方落語協会会長二代目露の五郎さんが平成11年建立された初代の石碑。
2003・2・28追加