笠置の磨崖仏

虚空蔵磨崖仏
 京都府笠置町は、京都府の南、奈良市柳生に接しています。京都からJR奈良線に乗って木津で関西本線に乗り換えて「笠置駅」へ行けます。車なら国道24号を南へ木津川にかかる泉大橋手前の道・伊賀街道(163号)を東へ行くと加茂町を和束町の次に笠置町に入ります。
 笠置は最近キャンプやカヌーなどを楽しむ人で賑わっています。昔から温泉が出ていたようですが、もう何年前になるでしょうか「わかさぎ温泉・笠置いこいの館」(大人千円)ができました。この温泉ぬるっとしていて、肌触りがよく上がった後も体が冷えません。スーパー銭湯がまだ出来てない頃で、この笠置わかさぎ温泉の成功で他の自治体が温泉を掘る気になったように私は記憶しています。
 この笠置に「笠置寺」があります。笠置寺は笠置山にあり、山そのものは290mほどです。JR笠置駅からここへ登る道がハイキングコースになっています。車でも登ることが出来ます。山頂近くに駐車場もあります。ところがこの車道離合が難しいこわい道です。対向車が来ないことを願いながら進みます。道の途中に何軒か旅館があります。
 笠置山の信仰は弥生時代まで遡るようです。この山にはたくさんの切り立った花崗岩の巨石・奇石があります。現在全山史跡名勝指定を受けています。
笠置寺山門

「笠置寺略記」より

「(前略)1300年前東大寺の実忠和尚、そのその師良弁僧正によって笠置山の大岩石に仏像が彫刻されその仏を中心として笠置山全体が一大修験行場として栄えたのである。
平安時代永承7年(1052)以後末法思想の流行とともに笠置寺の大磨崖仏は天人彫刻の仏として非常な信仰を受けたのである。鎌倉時代建久2年(1191)藤原貞慶(後の解脱上人)が日本の宗教改革者としてその運動を笠置寺から展開するとき笠置寺は宗教の山、信仰の山として全盛を極めた時であった。
しかし元弘元年(1331)8月27日倒幕計画に失敗した後醍醐天皇を当寺に迎えたことにより攻防1ケ月ついに笠置山は全山焼亡以後室町時代少々の復興を見たが江戸時代中期より荒廃、ついに明治初年無住の寺となった。
明治9年丈英和尚孤狸の住む荒れ寺に住して笠置寺の復興につくすこと20年ようやく今日の姿となったのである」 

(1)本尊弥勒大磨崖仏

 本堂、正月堂前に立つ本尊弥勒大磨崖仏です。高さ16m、幅15m。かつて日本最大最古の天人彫刻として崇められていたといいます。しかし戦火のため、今見られるのは巨大な光背のみです。
かつてどんな姿だったのかを残す絵画資料が仁和寺にあるそうで、それが展示してありました。それで、想像するしかないようです。
弥勒磨崖仏の前にあった香炉(山門入ってすぐにある)
この正月堂へ行くまでにもいくつもの巨石があり、それに「薬師石仏」「文殊石仏」の名があります。よく見ると何か彫られているように見えますがよく分かりません。

(2)虚空蔵磨崖仏

 唯一はっきり姿を留めているのがこの虚空蔵磨崖仏です。高さ12m、幅7m。奈良時代後期の作と推定されています。

(3)石像十三重塔(重要文化財)

 重要文化財に指定されています。鎌倉時代のもののようです。塔身(初軸)部分の仏が「当尾のわらい仏」に似ているように私は思いました。
この13重塔の背後にも巨石があります。「文殊石」とありましたが、はっきりわかりません。またこの左の方にも「薬師石仏」という案内もありました。

(4)天文13年銘石仏

 これは笠置寺修行場めぐりで、二の丸跡から行在所へ向かう道に彫られていました。仏の両側に文字が彫られており、天文十三年と読めました。天文12年(1543)に種子島に鉄砲伝来ですから、室町末期戦国時代の仏になります。舟形光背を彫りくぼめ、如来像が厚肉彫りしてあります。右手施無畏印(おそれを取り除く印)左手与願印(願いに応える印)です。私は阿弥陀如来立像だと思いますが釈迦如来かもしれません。

笠置寺修行場巡り

 今まで紹介した石仏もこの修行場巡りに組み込まれているのですが、それに入らない修行場(巨石巡り)案内です。一周800mで所要時間30〜40分。

(ア)千手窟

(イ)胎内くぐり

(ウ)太鼓石

たたくと音がするというのですが、たたき忘れました。

(エ)ゆるぎ石

ゆるぎ石のあるところは、見晴らしのよいところです。東側(伊賀上野)方面からの敵に備えての石だったのでしょうか。鉄砲のない時代石を転がり落とすというのは有効な戦術だったのでしょうね。
 下の写真はゆるぎ石のあるところから木津川の上流(伊賀上野側)を望む景色です。

(オ)平等石からの眺め

木津川の下流が見えています

(カ)蟻の戸わたり

 笠置寺略記には「蟻の戸わたり」とあります。どうも私はこの言葉に「!?」と思ったものですから、広辞苑を引いてみることにしました。やっぱりな、何か週刊誌かなんかの小説で読んだことのある語彙でした。「蟻の門渡」とあり、@蟻が一筋の細い道を縦列をなして行くこと。A会陰B信濃戸隠山中の奇勝。

(キ)後醍醐天皇行在所

(ク)鐘楼(重要文化財)

解脱鐘…鐘の基底部が六つに切り込まれた意匠は、日本に一つしかない。中国の形式を持った鐘で、建久七年(1196)東大寺俊乗重源和尚の作である。当時、日本の宗教改革者といわれた笠置寺解脱上人に、重源和尚はこの鐘と中国より持ち帰った紺紙金泥の大般若経六百巻を寄進された。しかし大般若経及びそれを納めた六角堂、鐘楼は、元弘の戦乱で焼亡したが、幸いにこの鐘は残ったものである。(笠置寺奉賛会)

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