当尾…「とおの」と読みます。京都府相楽郡加茂町の浄瑠璃寺や岩船寺のある辺りのことです。この辺りは花崗岩が豊かにあり、山肌に現れています。そして歴史的には奈良の都に近い聖域、仏たちの浄土という性格があったそうです。鎌倉時代から室町時代にかけて、都の名匠による磨崖仏が次々刻まれました。奈良から笠置、そして伊賀伊勢へ向かう古道近くに浄瑠璃寺や岩船寺、その中間にかってさかえた随願寺、それらの子院や塔頭の本尊だった磨崖仏もあるようです。
私は京都から車で「京奈和自動車道」で山田川まで、旧24号線へ入り東大寺の方へ向かいました。梅谷口で左折し東へ。浄瑠璃寺へ着きます。
近鉄奈良駅からバスが出ています。これは般若寺のあたりで東へ向かい浄瑠璃寺南口から入ります。
このお寺のご住職は京都府の教育委員を務められたこともある方で丁寧にこのお寺の説明をして下さいますしパンフレットも丁寧です。また平和問題についても積極的に発言される方です。
このお寺の寺宝は文字通り日本の国宝、超一級の国宝です。
浄瑠璃寺本堂と九体阿弥陀座像…平安時代の末法思想におびえた貴族たちは極楽浄土を夢見て九体阿弥陀を祀る九体阿弥陀堂建立させましたが、この浄瑠璃寺の本堂及び阿弥陀如来座像九体は平安時代に遡る唯一の遺例です。本堂も九体の阿弥陀座像ももちろん国宝です。この他四天王立像(平安後期)も国宝です。
重文吉祥天立像…鎌倉時代の代表的美人像で鎌倉前期の作。秘仏で年に3回開扉される。
浄瑠璃寺三重塔…この三重塔は一条大宮から移築されたもので、京都府に残る平安時代唯一の遺構。三重塔内には重文薬師如来座像が安置されています。
浄瑠璃寺本堂・現在修理中 | 宝池と浄瑠璃寺三重塔 |
阿弥陀像 |
浄瑠璃寺前に車を置いて岩船寺へ向かいまた浄瑠璃寺へ戻ってくることにしました。『当尾の石仏』(当尾を守る会発行・100円)という解説地図を売っておられたのが役に立ちました。
(1)水呑み地蔵(赤門)
奈良から笠置、伊賀への古道が浄瑠璃寺の南東を通っているが、ここを赤門坂といいます。この地蔵のそばに今もわき水があり(おいしかったです!)、以前は茶屋があったらしい。覆屋の火災でいたんでいますが、鎌倉時代のものらしく当尾でも古い時代のものらしい。説明板に荒木又兵衛の名前がありました。
(2)一くわ地蔵
これは分かりにくいが大きな石の上部に鍬を入れたような窪みがあり、そこに線刻されています。それが地蔵なのかどうかはよく分かりませんでした。命名がなかなか上手いと思いました。
(3)阿弥陀地蔵磨崖仏(からすの壺)
阿弥陀如来座像 | 地蔵菩薩立像 |
(4)わらい仏
このページトップの写真がこの「わらい仏」です。トップの写真の角度が正確です。あのように曲がってあります。この下の写真は私がカメラの角度を曲げてまっすぐにしたものです。
(5)ねむり仏(地蔵石仏)
この「わらい仏」のすぐ横に「ねむり仏」がおられます。このお地蔵さんは長く土の中に埋まっておられたそうでその名がついたそうです。表情が分かりにくいのですが確かに眠っておられるように見えます。
(6)弥勒仏線彫磨崖仏(ミロクの辻)
笠置山にも立派な弥勒線刻磨崖仏がありますが、私はこの線刻弥勒の顔が分かりません。衣紋は分かるのです。思い切りタワシか何かで擦りたい心境になりました。この弥勒の辻でバスが待っていました。
(7)三体地蔵
六地蔵はよく見ますが、三体は珍しいように思います。中央がやや大きい。目鼻立ちがしっかり残っているお地蔵さんです。宝珠と錫杖を持つお地蔵さんの一番ポピュラーな姿です。
ここで岩船寺に到着。石仏巡りを一旦休んで岩船寺を拝観することにします。
創立は天平元年(729)、聖武天皇が行基菩薩に命じて建てられたとのこと。最盛期には39の坊舎があり、偉容を誇ったが1221年承久の変で大半が兵火で焼失しました。江戸時代に徳川氏の寄進で修復しました。
このお寺は「関西花の寺25カ所」に入っていて「アジサイ」で有名。(浄瑠璃寺も「関西花の寺25カ所」です)確かに四季折々の花が美しいお寺です。
これから紹介する石造物や仏像は何れも重要文化財です。本堂には本尊阿弥陀如来座像(平安時代・重文)が祀られています。境内の三重塔も重要文化財。その垂木を支える木彫りの天邪鬼も重文。たくさんの重要文化財と花に囲まれた岩船寺です。
重要文化財の石造建造物
十三重石塔(鎌倉時代) | 五輪塔(鎌倉時代) |
石室不動明王像
鎌倉時代・重要文化財・応長第二(1312)の銘
この明王像は当尾の石仏と同じ仲間だと思います。でもなぜ岩船寺のだけが重要文化財になっているのか私は不思議です。当尾のものを全部まとめて指定すればよいように思うのですが。
岩船寺春の花
牡丹 |
シャクナゲ |
オオデマリ |
ミヤコワスレ |
ここからもう一度当尾の石仏巡りに戻ります。
(8)不動立像
頭上に開花蓮をいただく等身大の不動。この大岩の下に湧き水がある。一つだけ一心にお願いすればその願いを叶えて下さるとか。しまった!それを先に知ってたらお願いしたのに。さて?何を願おうか?
(9)アタゴ灯籠
おもしろい愛宕灯籠だなと思いました。京都市内にもたくさん愛宕さんの常夜灯があります。しかしこのアタゴ灯籠はおもしろい形をしています。
(10)藪の中三仏磨崖像
平安時代中頃から、名聞利養のために顕密の煩瑣な学問を修めるよりも、後世を期して往生の行業にひたすら精進する求道の僧が輩出した。かれらは聖(ひじり)、聖人、上人などと呼ばれた。(中略)総じて言えば、聖たちは煩瑣な教学から離れ、かわって隠遁によって往生行を確立して既成仏教の限界を打破しようとしていた。(中略)遁世の聖と浄土教の結びつきがある。浄土教は「聖の道」(今昔物語集)と考えられていた。(中略)東小田原寺に35年遅れて西小田原寺が、末法の年が近づく永承2年(1047)に造立された。本願主は当麻出生の義明上人。1108年新本堂が落成し、東小田原寺の迎接房が供養導師となった。この新本堂こそ九体阿弥陀堂であり、西小田原寺の浄土教的環境が一段と進み、念仏聖たちの信仰を集めることになる。(伊藤唯真「日本の国宝76所収『浄瑠璃寺と聖たちー既成仏教からの遁世ー』より)
なぜ、当尾が浄土信仰と結びつきここに石仏があるのかこの論文が一番分かりやすかったので引用しておきます。この藪の下三尊に東小田原西谷浄土院という銘があるところから、この三尊がその寺の本尊であっただろうと言うことです。
私はこの中の十一面観音菩薩立像の表情に惹かれました。慈悲というのはこういう表情なのではないかと思います。
藪の中三尊・十一面観音菩薩立像「慈悲」
(11)首切地蔵
「首切地蔵」とは穏やかではありません。藪の中三尊と同じ最古弘長2年の銘を持つ阿弥陀如来座像。阿弥陀なのになぜか地蔵?「昔首切りの刑が行われたと言われる地にあったが、一時姿を消し都会へ出ていたのを村人の努力で釈迦寺跡の現地へもどされたもの」と説明にあったのですが、一時都会に出ていたというのがおもしろいなと思いました。要するに盗まれたか売られたかということなのでしょう。でも阿弥陀さんが都会に出ていたというのは笑えます。街のくらしに憧れた阿弥陀さんというのが何ともユーモラスです。そういう阿弥陀さん、頼りにならないけど好きです。
この「首切地蔵」から浄瑠璃寺へ戻りました。そして後二つは車で戻る道にありました。
(12)長尾の阿弥陀
大きな笠石のある阿弥陀さん。黒い色してます。気の毒に大きな割れ目があります。徳治2年(1307)の銘があります。
(13)たかの坊地蔵
いよいよこのお地蔵さんが今日最後の当尾の石仏です。
『当尾の石仏』(当尾を守る会発行・100円)には35の石仏や石塔が紹介してあります。ここに紹介したものはほんの一部です。特に行きたかったのに行けなかったのは「大門仏谷の如来形大磨崖仏」です。当尾最大最古の石仏だそうです。奈良時代まで遡る可能性がある石仏だとか。次回訪れる機会があればぜひと思います。
では、今日の「当尾石仏巡り」はおしまい。
2004・5・2