かばのしっぽ日記2006

かばのしっぽはうんちをまき散らすための大切な働きをします。
まきふんは大切な威嚇の方法なのだそうです。
でもおかしなやつです。
『オレは強いんだ』と言ってうんこまきちらすなんて。
何かユーモラスです。
自分にとっては大切な行動でも他人様から見たら滑稽なことって私もしてそうで
「かばのしっぽ」みたいな存在かもしれないなあオレってと、思う今日この頃であります。
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今年から、何か新しい良いことが始まりそうに思うのです。

12月13日(水)
「京都検定」受験記2
 3級のテストで私が答えるのに迷ったのは、5〜6問でした。だからといって、私が必ず合格するとは限りません。間違ったことを思いこんで憶えているだけかもしれないからです。
 龍谷大学から石峰寺までは10分ぐらいでした。伊藤若冲の墓附近はまだ紅葉していてなかなか美しかったです。ゆっくり12時過ぎまで若冲プロデュースの羅漢さんを見せてもらいました。
 帰り道で昼ご飯を食べにお店に入りました。ところがこのお店注文してから出てくるまでに40分かかりました。試験まで1時間10分の余裕があったのでタカをくくっていたのですが正直焦りました。
 それで午後の2級の会場には15分前に到着しました。ほとんどの人が着席している状態でした。私は前から2番目の右端でした。私は試験受付最終日の前の日に速達で申しこみをしたものですから、かなり後ろの受験番号だったのです。試験会場は3会場あって龍谷だけでも3級は3000人余りでしたから「京都検定」大繁盛です。
 2級のテストの方は当たり前ですが3級より難しかったです。最初の10問の中に?状態のものが4問ありました。この調子で進行したらまずいなと思いました。最終的には20問近く?で迷いました。4択ですから消去法で答えを何とか絞り出しました。こちらは35分ぐらいで一通りできて、見直しをして50分で退室しました。
 と、こう書くといかにもよくできたようですがはたしてどうでしょうか?3級の過去の最高点は99点で、2級は91点だそうです。まあそんな高得点は望むべくもありませんが、何とか7割とって合格したいものだと思っています。
 2級受からないと次の1級は受験できません。1級はマークシートではなく記述式で、しかも文章でまとめるという形式のものもあるテストです。合格点も80点です。過去に2級合格している人は1700名ぐらいおられますから、この人たちの中で受験している人は相当数になると思われます。昨年の1級合格者36名、合格率4.5%という数字もなかなか魅力的です。なかなかの難関だというイメージは大切です。この「京都検定」の権威を高めています。
 京都商工会議所主催の「京都検定」なかなかのクリーンヒットです。ちなみにこの京都商工会議所のアイデア、日本各地で同じような企画の「検定」ブームを引き起こしたようです。
 つい最近奈良商工会議所が「奈良ソムリエ」の試験をすることを知りました。私これにも興味があるのですが、私が公式テキストブックを手に入れた時には来年1月末予定の第1回テストの申しこみ受付は終了していました。
 私が来年の今ごろ「京都検定」1級に挑戦しているか、2・3級に再挑戦しているか、奈良ソムリエの準備をしているかどうか分かりませんが、1月29日に結果が知らされるそうです。
 ちなみに、もし1月末に私の日記に「京都検定」の「き」の字も出てこなかったら不合格だったんだなとお察し下さい。いや、不合格をおもしろがって何か書くかも知れません。
 何かに直接役に立たないような知識をおもしろがって、人生を楽しむこのような遊び心が大切だと思います。
 しかし、京都市内の5・6年の小学生に半ば強制的に実施された「ジュニア京都検定」は大いに問題ありだと私は考えています。次回はそのことを書いてみます。
12月12日(火)
「京都検定」受験記1
 私は、日本史好きで、京都好きで、仏教好きで、あちこち見歩くのが好きです。そういう私に京都商工会議所が3年前から始めた「京都検定」は興味惹かれるテストでした。「京都通になろう」という呼びかけもなかなかおもしろいと思いました。
 しかしながら、何も商工会議所にお墨付きをいただく必要もないだろうというへそ曲がりな思いもあって2回までのテストはパスしてきました。
 でも今年は受けることにしました。その心変わりの理由についてはまたの機会にして…。
 私は、こういうテストのねうちは何の役にも立たないような知識をおもしろがって楽しんでいるところにあると思っています。このテストに受かったからと言って何かの資格が得られるものでもありません。あくまでも自分の興味関心の度合いを試す目的で受験するものだと思っています。強制されて受けるものではないと思っています。しかしながら、観光客相手のお仕事をしておられる方々は、受験が義務づけられているという話も聞きましたから私みたいなノンキな気分では受験できないかもしれません。
 1〜3級まで3段階のテストがあります。
 1年目は2・3級だけのテストでした。受験者数9801名だったそうです。3級5934名(合格2526名合格率42.5%)2級3867名(合格1150名29.7%)という結果でした。
 2年目受験者は12662名だったそうです。3級7085名(合格2196名合格率31%)2級4774名(合格572名合格率12%)1級803名(合格36名合格率4.5%)という結果でした。
 今年はもっと多くの人が受験したのではないでしょうか。
 12月10日(日)龍谷大学で10時からの3級のテストを受けるために、9時過ぎに自宅を出ました。丹波橋から京阪電車に乗ったら、何と私が乗った車両のほとんどの人が私も持っている公式テキストブックや前年度問題集を開いて最後の学習をしておられました。中には、自筆のメモを持って覚えておられる方もおられました。気合いの入った雰囲気が車両全体にみなぎっていました。
 こういう時、私はあかんのです。わざとそういう類の本を開けないで私は関係ないという顔をしてしまいます。そして冷ややかに周りの人を観察してしまいます。
 龍谷大学には9時半に着きました。わたしの座席は教室の一番右の一番後ろでした。この場所は、冷静に全体を見渡せる場所です。大学受験の時のようなきまじめで真剣な雰囲気が受験会場を覆っていました。みんなそれぞれの本を開いて最後のチェックをしていました。私も持ってきた本を開いて見ることにしました。祇園祭のこと、葵祭のこと、花街の祭りのこと、茶道のことなどをチェックしました。
 3級の試験が始まりました。答えが向こうの方からほほえみかけてくるような問題は自信満々で答えられるのですが、?状態のものもありました。100問出題されます。四択問題です。私の好きな分野の問題ですから楽しむことができました。90分の制限時間なのですが、30分経てば教室を出ることができます。私は40分で教室を出ることにしました。70点で合格だそうですが、はたしてどうだったでしょうか。結果は来年1月29日に郵送されてくるそうです。
 私は午後1時半からの2級も受けるので約2時間時間があります。カメラを持ってきていたので石峰寺へ行くことにしました。(つづく)
12月9日(土)
いつのまにやら
 紅葉を楽しみにしていたのですが、今年は一番よい旬の時機を逸してしまいました。紅葉シーズン到来が例年より10日ぐらい遅かったように思います。ところがそれからがスピードアップして気が付いたら終わっていたというところでしょうか。それでも旬の時機はあったわけでおそらく11月20日から30日ぐらいまでだったのではないでしょうか。そして『色づき始め』から『見頃』は少し時間があったのですが、『見頃』から『散り』がほんの3日〜5日だったように思います。
 土日に雨が降ったことと用事で京都を離れたために私は楽しめなかったのですが、みなさんはどうだったでしょうか。
 今年は奈良公園の紅葉に出かけようと思っていました。洞の石仏や滝坂道の石仏と紅葉をテーマに写真を撮りたいと思っていたのですが残念なことでした。
 また来年の紅葉を楽しみにしたいと思っています。
11月5日(日)
それって名誉なこと?
 今回の写真展は、国語の集会を同じ会場で同時並行で行うということをした。その研究会が終わって、写真展の後かたづけをする前に急な話が持ち上がった。
 某映画会社の方が、我々の写真展を使ってテレビ番組の一部を制作したいと言っているというのである。京都を舞台にしたサスペンスドラマらしい。
 そのストーリーは、新人の新聞記者が町屋で開かれている写真展を取材し、全くお客さんの来ていない写真展をいかにも大勢来ているかの如く記事にして、叱られるという内容だというのである。
 どうも町屋の持ち主の方はOKされたようである。問題は我々がその写真とイーゼルを貸すかどうかにあるようだ。
 よく考えたら、我々の写真展が選ばれた理由は、「人が見に来ないようなつまらない写真」だからのようだ。いかにも素人の他人が集まらない写真展にぴったりの写真というところに該当するのだろう。そういう扱いをうける写真を撮っている私たちって、テレビに出るからって喜んでいていいのかな。
 でもだれも反対を強く主張もしなかったし、どちらかと言えばおもしろがっていたので写真とイーゼルを置いて帰ることにした。
 私は帰りの車の中で考えていた。今日は搬出のために車に乗ってきた(おかげで打ち上げの飲み会に参加できなかった)のだが、イーゼルと写真の運び出しにまた来ないといけない。でも私だけ写真を持って帰りますと言ったら、しらけてしまっただろうなとそんなことを考えていた。
 自分の写真にもっと誇りを持っていたら、きっと断るだろうなと思う。きっとプロのカメラマンなら断るだろう。私には大切な写真だがそこまでの自信もない。少しずつ勉強して、こういう時に断れるようになりたいものだ。何よりそういうことに使いたいと申し込まれないようになりたいものだ。
 一方で、ドラマでどんな扱い方をするのかに興味がある。きっとそれをタネにまたみんなでいっぱいやりながらワイワイ言うことになるだろう。こちらの方がおもしろいと我々が思っているのだから、まあもちつもたれつの関係かな。  
10月14日(土)
左目眼球にも穴!
 生命保険会社の人が来られた。今入っているものは65才になったら切れるので更新してさらにグレードアップしてはどうかと勧められた。私はこういう話はとんと疎い。では、何が詳しいのかと言われたら困るけど。ついでに、「最近手術は受けておられませね」と聞かれた。「去年の11月に飛蚊症の手術をした」と言ったら、「ひょっとしたらそれは保険金が支払われるかも知れない」と言われ、手術名を調べるように言われた。
 お医者さんへ電話をかけたら『右目の網膜凝固術』という名の手術だったらしいことが分かった。診断書を書いて頂けるか尋ねたら、「あなたは、1週間後に診せに来るように言っているのに来ていないから、来なさい」と言われた。
 私の場合、手術後2回出血した。最終的には今年の1月に2回目のの出血があり、それからは飛蚊症もなくなった。飛蚊症の症状がなくなったのでお医者さんに診せに行かなかったのであるが、診断書にはその結果も書かなければならないらしいのだ。
 それで、昨日診断書を持って軽い気持ちで行ってきた。結果、手術した右目は完治していたが、新たに左目にの眼球に穴が発見された。飛蚊症寸前の状態だったのだ。そして、またもや即手術と言うことになった。
 タイミングがよかったというべきだろう。私は右目に続いて左目も網膜剥離になりかけていたのだから。
 目を触られるのは何とも気持ちの悪いものである。腰が完全に引けてしまう。一度受けている手術ではあるが慣れるというものでもない。明るい光を直視するように言われるのだが、これがまぶしすぎて苦痛である。そしてレーザーを照射すること60回余り。白と緑色のまぶしい光が見えて鈍い痛みが走る。すごい不安感におそわれながら手術は終わった。私の左目は、完全にピンク色の世界であった。
 下は、昨年私が手術後日記に書いた『飛蚊症』についての文章である。

 
 飛蚊症…ひぶんしょうと読みます。
 先週急に右目の前に髪の毛がかかったように見えだしました。あれ?と思って目をこすったり洗ったりしてもとれません。鏡で見ても何も付いていません。ますます???です。眼科へ行きました。飛蚊症だと言われパンフレットを読むように言われました。
 それによりますと、「飛蚊症は、目の前にゴミがちらついて、あたかも蚊が飛んでいるように見える症状のことです。本来は無色透明である硝子体の中に加齢と共に繊維性の混濁が生じてきます。その混濁が眼球を動かしたときにフラフラと動いて自覚されます。これらは加齢と共に多くの人に起こりうる『生理的飛蚊症』といって、心配いりません。しかし初めて自覚したときには、病気によるものと区別できないので、検査が必要です」と書かれていました。
 それで、私は眼底検査をして詳しく診てもらうことになりました。その結果私の場合は、心配のいらない『生理的飛蚊症』ではなく心配な『網膜裂孔・剥離症状としての飛蚊症』であることが判明しました。これは、後部硝子体剥離などの硝子体収縮のために網膜に亀裂が生じたり、網膜の血管が切れて出血して硝子体に血液が広がった状態になることのようです。「見つかりました。穴が開いています」と言われました。
 即、手術することになりました。レーザーを当てて人為的な傷を作り瘢痕(はんこん)にして感覚網膜と色素上皮を癒着させ、裂孔から網膜下へ水分が流れ込む危険性を減らすという手術です。開いた瞳孔からレーザーが照射される手術です。強い痛みではないのですが、気持ちの悪い鈍い痛みがありました。私の頭を、後ろにおられた看護婦さんが動かないように押さえておられました。私は前の金属の面みたいなものに押さえつけられてそれが額に食い込んその方が痛かったです。「四重に裂孔の周りにレーザーを照射した」とおっしゃっていました。
 一応手術が終わり、1週間後にもう一度診せに来るように言われました。私はその日のうちに医者へ行ったのでよかったようです。医学の進歩に感謝しなければなりません。一昔前なら私は確実に失明していたことでしょう。
 約58000円の請求でした。私が入っている生命保険が一日入院でもお金の出るものなら請求できるという説明を受けましたが、残念ながらそんなものには入っていませんでした。3割負担ですから20万円近くかかる手術と治療だったことになります。一度にこんな高額の治療を受けたのは初めてだったのでびっくりしたのですが、それでも失明するよりよほどましです。
 今、右目は小さい炭の粉のようなものがいっぱいあるように見えていて、その中をフワフワ糸くずのようなものが浮いています。そして明るい電灯などを見ると周りがぼんやりピントがあっていないように見えます。視力も若干落ちたかなと思います。この後ずっとこの状態なのか少しは改善されるのか分かりませんが、少なくとも写真を撮る時ファインダーをのぞく目は右から左に変えた方が良さそうです。


 右目が加齢に伴う飛蚊症になったのなら左目もその可能性があるのは当然だろうなと思いながら手術を受けた。私は体質的に目が弱いのだろう。「加齢と体質」そして「強度の近視」の人はなりやすいのだそうだ。
 これで、私は2通の診断書を書いてもらうことになった。
  
10月8日(日)
信じられない
 先週の日曜日、同じ職場の方のご家族にご不幸があってお葬式があった。午前中勤務校の区民運動会へ顔を出して、午後からのお葬式に出席するため急ぎ自宅へ戻り葬儀会場へ向かった。
 葬儀は2時からであった。ぎりぎり間に合った。会場では1件しか葬儀予定はなく何でもご兄弟の中に京都市に勤めておられる方がおられるとのことであった。確かに京都市のバッジをつけた方たちが大勢おられた。並んでいるうちにお亡くなりになった方の苗字を聞き忘れていることに気が付いた。聞いてきたらよかったなと思った。並びながら、私の職場関係の方がどなたもおられないのは、お通夜に参加される方が多いし、区民運動会だから分かるが、本人が会場に見あたらないので?と思った。何か事情があっておられないのだろうと解釈した。無事お焼香を済ませて帰った。
 しかし、どうも気になるので。翌日職場で「昨日のお葬式○○さんでしたね」と私がお見送りをした方の苗字を言ったら、「いいえ、××さんでしたよ」とのこと。!!!???私は全然関係のないお葬式へ行って拝んできたことになる。
 配布されたプリントをよく見ると、葬儀会場が「堀川北大路」となっていた。私は「堀川紫明」にある葬儀会場へ行ったのだ。最初の「堀川」だけみて、「ああ、あそこ」と今まで何回か行った葬儀会場だと思いこんだのだ。「堀川北大路」にそういう施設があるのは知らなかった。
 たくさん職場の方に笑っていただいた。思いこみというのはこわいことだ。これからもこういう間違いをたくさんしそうな気がする。頑固で融通がきかなくなってきている自分を近頃時々感じるから。 
9月5日(火)
ムカデ
 私の家は坂の途中にあり、家の前は林で裏手は梅林という環境である。もうここに住み始めてかれこれ25年経つ。特に不満はないが、毎年夏になると数回ムカデが出てくるのは困ったことである。
 先週土曜日酷い目にあった。居間でTVを見ていたら、「ムカデや!」という家人の声。約10cmのムカデが這っていた。急いで新聞で叩いた拍子に左手中指の先を刺された。激痛というのはこのことだろうと思った。
 夜11時のことであり、救急病院に電話して診てもらった。化膿止めの軟膏をつけてもらい、2,3日痛みはひかないだろうと言われた。「えーこの痛みは2,3日続くのか」とイヤーな気分になった。痛みを何とかしてほしいから来たのになあとお医者さんを恨んだ。
 おかげさまで次の日には痛みはましになり今、指先に違和感とハレはあるが順調に治ったようだ。
 それにしても、ムカデという生き物の生命力は大したものだと感心した。
 ところで、近江三上山(近江富士)を七巻半覆ったという大ムカデを退治した俵藤太の伝説は有名であるが、この七巻半というのは「鉢巻き(八巻)に少し足りない」の意だとか。どこまで真実なのか分からないが、鉢巻きより少し短いムカデもすごいが、それを三上山七巻半もする大ムカデにして、話を作る先人もすごいと思う。ちなみに俵藤太は藤原秀郷という武将で平将門を滅ぼしたとか。平将門は都に反旗を翻した東北の雄で、自ら「新皇」を名乗った人物。将門をムカデに仕立て上げた話にもとれる物語である。
8月28日(月)
子どもからのハガキ
 夏休みはいつも往復はがきを出すことにしている。今年もその返事が返ってきた。
 その中にこんなのがあった。
まず、1人目。

 「夏休みはいっつもだらーとしたいですよね。
 また先生のおくさんの写真みたいよ〜。
 ラジオ体そうもおわったし、もっとだらーとできる。それじゃ、しつ礼しました。
 ○○より 先生へ
 7月31日です。またね。」

 何とまあ、力の抜けた文章だ。こんな風に書けるのがうらやましい。でもこの子の言う通りで、夏休みはだらーとしたいと言うのはその通りだ。しかし毎日子どもにだらーとされたら、親は一言も二言も言いたくなることであろうと思った。

 2人目です。

 小宮山先生おげんきですか。
 ぼくは、まい日ひまだらけです。というよりか、一年じゅう、ひまだらけです。
 いま、くまもとから、かえってきたばかりです。くまもとで二かい花火をしました。くまもとからかえって、またあらたに、もとのいえの生活をはじめたものの、ぼくはいつもどうりくらくやっています。それでは、また学校で。
 
 自分の普段の生活を「くらい」と言い、「毎日ひまだらけ」というのはどのように思えばいいのかなと思った。子どもはいつも好奇心いっぱいで生命力溢れる存在だというのは、大人が『そうあってほしいという子ども像』なのであって、今を生きている子どもたちは、案外「退屈」なのかもしれない。
 「先生や先生のおかあさんの調子はどうですか?」と書いてくれた子がいた。ありがたいことである。私は母親が入院していたことを忘れかけているのに、憶えていてくれたのだなと感心した。
8月19日(土)
どっちが強い?
 オシムジャパンが2戦し、2勝した。今までのジーコジャパンとゴロリとメンバーが変わった。日本代表の試合は熱心に見るが、普段はそれほど熱心なサッカーファンでもない私には、初めて名前を聞く選手が多く、人によって人選は違うのだなと思った。海外のクラブチームに所属する選手を呼ぶ必要が今回の試合ではなかったのか(つまり相当な力の差がある相手という意味)、そういう選手は必要ないとオシム氏が判断しているのかぜひ聞いてみたいものだ。
 ジーコジャパンとオシムジャパン、幸い選手の重なりが少ないので、ぜひ試合をしてほしいものだと思う。本当はどっちが強いか見てみたいと思うのは私だけでもないと思うのだがどうだろう。これが、いちばん説得力のある比較の仕方だと思うのだが。
8月15日(火)
湖西道路
 湖西道路が無料になって2年ぐらいになるだろうか。しばらく前までの湖西道路は京都から近江舞子までが有料であった。無料になって大歓迎なのであるが、昨日走りながら気になったことがあった。それは、「ここで死亡事故あり注意」「正面衝突事故現場注意」の幟をいくつか見たことであった。無料になって国道161号を通らずに湖西道路を使う人が多くなっただろうが、事故も多発しているのではないかと思った。昨日は帰省で特別な日だったが、湖西道路の出入り口は京都側も近江舞子側も大渋滞であった。
 有料であることで道路が整備されたり、安全が確保できるのなら有料でもいいのではないかと思った。
8月12日(土)
箱根
 箱根へ行って来た。元箱根石仏群を見たかった。こういう人間は極めて少数だと言うことがよくわかった。
 もう四十数年前に中学校の修学旅行で行ったことがあった。大湧谷とか小湧園とかいう言葉をぼんやり憶えている。二泊三日の旅行で1日目箱根泊だった。バスから降りたら硫黄のにおいが強烈だったことは憶えている。
 時代は変わっているのだから、まさか今はそんなところではないと思いながら、どこかで、滝廉太郎「箱根八里」に歌われているような険しい山と谷があり、鬱蒼と繁る杉の並木がつづき「昼なお暗き」場所だと思っている。そして、広重の浮世絵の箱根に富士山の描かれた絵を想像している。「箱根八里は馬でも越すが…」などという馬子歌を思い出したりもする。
 私のようなイメージを持つ人間は少数なのだろう。山の中の街道筋のイメージは妻籠や馬籠など中仙道の宿場町で出来上がっていて箱根もそうなのだろうとどこかで思っていた。
 現実の箱根はもっと多彩な観光資源を次々作り出しているようだった。
 箱根の自然や歴史を生かしたもの(芦ノ湖観光・大湧谷・関所など)は当然の事ながら、人が集まることを前提にした集客能力の高い美術館や植物園がいくつもあった。千円をはるかに越える高額の料金を集める美術館がたくさんある。ガラス工芸・彫刻・ヨーロッパ絵画・日本画・ヨーロッパや日本の陶器・おもちゃ・童話の主人公の名前を冠したものなど色とりどりであった。
 不思議なのは、箱根でしか食べられないような名物料理やみやげ、寄せ木作り以外の工芸品がないことであった。おみやげ・名物というものがなかった。今に残るような「もの」がないのはそれは強みでもあるのだろう。一方できっとそういうものを打ち出す必要がないのだろうと思った。
 京都から御殿場まで名神東名高速道を走り、約6時間で箱根に着いた。帰りは高速道が事故や帰省の人たちで2、3カ所で渋滞し7時間近くかかった。
 今まで東は愛知県蒲郡までしか車で行ったことがなかった。「箱根を越える」というのは、昔は東から来るにしても西から行くにしても大きな意味があったのだろうが、今や死語か。
   
8月6日(日)
原爆忌の日に
 今日は広島に原爆を落とされた日だ。原爆記念日という言い方は今もあるのだろうか。記念日というと何か楽しいことがあったような言い方がして不謹慎な気がしている。
 8時15分にはバイクに乗っていた。蓮の花も今年最後になるなと思いながら「法金剛院」へ写真を撮りに行ってきた。7時から開門しておられるとばかり思いこんでいたら、それは終わっていて9時からであった。時間があるので、近くの妙心寺へ足を運んでみた。
 法金剛院の本尊は阿弥陀如来座像である。藤原時代の定朝様式の座像である。定朝様式の阿弥陀さんをしばらく前まで私は評価していなかった。しかし今日も思ったのだが、何と安定した気分を辺りに発散するお姿であろうか。原爆忌のこの日蓮の花と阿弥陀さんはふさわしい気がした。
7月24日(月)
めっけもん広場
 知り合いから「和歌山に、JAがやっている『めっけもん広場』というのがあって、すごく安い!」という情報をもらった。何でも、国道24号を南下して橋本越えて紀ノ川沿いに西に向かい粉河寺辺りだという。野菜・くだもの・切り花などが格安で手に入るという。インターネットで検索したら確かにある。日曜・休日は2000人〜25000人の入場数だそうだ。
 日曜日朝7時半出発。ナビで検索(рO736−78−3715)したら、高速道を使うコースを指定してきたが、せっかく安く買い物をしようと思って出かけるのだからなるべく一般道を使いたい。ナビは国道1号を通って行かせようとするが、初めに教えてもらった通り国道24号で行くことにした。京都から奈良まで京奈和自動車道(600円)を利用した。奈良市内から和歌山に入っても京奈和が開通しているらしいところがあったが不案内なのでひらすら24号を走った。10時半に着いた。
 すでに駐車場は満車状態だったが、買い物を終えて帰る人も多くすぐに入れた。大勢の人があふれ店は活気に満ちていた。カートがなくて困った。
 和歌山「あらかわ(安楽川)」の桃がたくさん出ていた。進物用の物は10000円ぐらいから3500円で化粧箱に入って並んでいた。不揃いのものなどは大きさにもよるが、1000円も出せば十個あまり入った物を売っている。店の人は「味は進物用と変わらない」と言っておられた。今の季節、桃がお目当ての客が多いようで、たいていの人は桃をケースで買っておられた。
 スーパーより安い山と積まれた野菜やくだものを見ながら「めっけもん」気分に浸った。京都でもああいう店作ったら流行るだろうなと思った。近くのスーパーや小売店は大打撃で潰れるだろうけど。
 ついでに近くにある根来寺と粉河寺へ行ってきた。名前しか知らない初めて行くお寺だった。
 帰りは、ナビの言う通りの一般道を帰ることにした。2時半出発。初めは24号だったが、途中から371号へ入り、河内長野へ入った。そのあとは170号(外環状線)を走った。どうも生駒山の西側を通っているようだった。富田林・羽曳野・藤井寺・柏原・八尾・東大阪・大東・寝屋川・枚方などを経て国道1号へ入り八幡市から京都市へ。帰ってきたら6時前だった。初めての道だった。これは昔の東高野街道のルートではないかと思ったが、違うかも知れない。
 初体験を色々できた一日だった。雨は和歌山にいる間ふらなかった。
7月23日(日)
なぜだろう?
 夏休みになっても梅雨明け宣言が聞けないというのは初めてです。
 宮崎では一日で一月分の雨が降ったとか。
 先週金曜日、気温が上がらずプールサイドでも気温23度でした。水温が25度。それに雨が降っていて、大雨・雷・洪水注意報が出ているのです。こんな夏休みのプールは初めてです。一体どうしてこんな気候になっているのでしょうか。やはり異常気象なのでしょうか。気温が上がらず太陽が出ないとなると米などの作物の出来具合はどうなのでしょうか。
 今年はいろいろな花の開花が軒並み1週間から2週間遅れたように思うのですが、一時的なことなのかどうか。涼しい夏の方がありがたいのですが、「涼しい夏はおろおろ歩き…」にならないことを願っています。
7月13日(木)
ジダンのことから
 真相はまだ不明だ。しかしジダンの言い分は極めて合理性があると思う。ジダンが侮辱された内容が報道されている通りだとしたら何と情けないことだろうと思ってしまった。
 世界が注視しているあのワールドカップの決勝戦の試合中に、下劣で低俗な言葉を言う一流選手というのが信じられない思いがした。それは、イタリアという国に対する失望につながる。世界のセリアAがある国であるにもかかわらず、この程度の人権感覚しかないのかと思ってしまう。
 二宮清純氏によれば、日本選手も同じように差別を受けているのだという新聞報道を見た。
 私は、中田がやめるのも、案外ヨーロッパ世界に対する失望もあるのだろうかと思ってしまった。 私は日本で生まれ日本で育って日本しか知らない。これからも外国で暮らすこともないだろう。こういう報道を見ていると日本の人権感覚は必ずしも失望することもないのかなと思った。イタリアの人々みんなが、あの選手のようでもないだろうし、白人すべてが有色人種を差別しているとは思わないが、世界に出ている日本人は必ずしも実力通りの世界で生きているわけではないのだろうと思ってしまった。そう考えると世界で通用しているサッカー選手は中田と小野と中村しかいないというのも不正確かも知れない。
 たとえそうだとしても、ブラジルの黒人選手が実力でかけがえのない存在として尊敬されるような実力を日本の選手にも期待したいと思う。
 ジダン報道の中で「テロリスト」の方が「売春婦の息子」より侮辱されているというイタリアの人権感覚が分からない。私はもともとそういう事を他人に対して言うということが信じられない。「売春婦の息子」なんという卑怯な非難の仕方が日常だというイタリアが信じられない。
 このことで私はイタリアと言う国が?になった。
 恐いことだ。一人の選手の言動がこれほどの影響を国家のイメージに対して与えることが。やはり、個人の人権感覚の問題として考えた方がいいのだろうか。
7月8日(土)
成果主義
 どの世界でもそうだと思うのだが、教師の世界でも成果を求められることが多くなってきた。
 例えば、『学力テスト』とか『教育課程テスト』とか言われるものの結果から課題を見つけ、自校の研究につなげなければいけないことの強調は、一見その通りである。しかしながら、これが公開されその結果責任を校長が負わされるとなると、校長は、当然の事ながら教員の尻を叩くことになる。またまたそれが、教員評価システムと結びつき給与にリンクしていくシステムになっていくと、教員側も無理をしても『点数を上げる』ことに汲々とするようになる。
 一昔前、『学力至上主義』批判があって、日本の教育に「ゆとり」がないことが問題になった。「ゆとり」の教育はかけ声ばかりで実質何の成果もなく今や霧散してしまった。ゆとりを目指して行われた期間にも『不登校問題』『荒れ』『少年事件問題』などが次々と社会問題化した。子どもを追い立てる教育は破綻しているということは明らかだ。しかし日本社会全体はやはり何と言おうが『学歴』が幅を利かせていると実感している親たちは、子どもを高学歴にすることをめざす。こういう親たちを誰が責められようか。
 そういう親と子のために、塾があり、私立有名校があり、中高一貫校がある。ここでは、土曜、休日も関係なく授業が行われる。そしてその競争を勝ち抜くことが求められる。奈良の事件は優秀な子どもたちの中にある病理が発露した事件だと思う。
 成果主義は、親に分かりやすい。「点数をこれだけ上げました」「こんな素晴らしい行事をしています」「設備をこのように整えています」なんとか「ウリ」になるものを作り出そうとする。
 私は、図工や作文がこれに使われ歪められることを懸念している。各種コンクールが行われ、その案内が学校に来る。「賞状がもらえる」ことは、親にも子どもにもうれしいことだろう。しかし、コンクールに向けた作品作りが行われ、賞状をもらうことが目的になり、それがまた教師の評価に結びついていくことになるとしたら、これは問題大いにありである。
 各種スポーツ大会もそうだ。サッカー・バレーボール・駅伝大会などの試合や大会が多くなった。その指導は、以前は社会体育として地域の指導者がその指導にあたることが多かったのが、いつのまにか我々の本務という位置づけになり部活動として教師が行うようになってきている。これも安上がりな成果主義を求める教育行政の一環なのである。
 「一校一品」運動という言葉が言われた。「校長中心の特色ある学校作り」がそれに続いた。しかしながら、総合的な学習の時間が思わしい成果が見られないと見切られる情勢になった今、残ったことは、学校成果主義であった。これは画一的に行われている。京都市全域でほぼ同じように同じ物差しで成果が測られている。教員評価システムの中で、一番内容的に厳しいチェック項目が並んでいるのは、校長教頭など管理職のものである。事細かに自己評価を求められている。 成果主義の弊害は必ず教育活動に無理と障害を生み出し、管理職も含めた教員の心理や精神に破綻をきたすことになるだろう。今でもその兆候が見えると私は思っているのだが。
 
7月3日(月)
やっと書けた…
 今、少しホッとしています。実は6月末締め切りの原稿が何とか書き上がったのです。
 昨年の6月に作文の副読本を作らないかという企画があり、私が4年生の担当になったのです。このことでずーっと一年余り頭を悩ましてきました。編集会議が3回あったのですが、私はまともに原稿が提出できずにいたのです。
 でも、6月末に間に合わさなかったら、他の方に迷惑がかかるので必死で書きました。
 ある意味で私の生活綴方教育が試されたなと思っています。
 なぜなのかはなかなか言いにくいこともあるのですが、私なりに努力してみました。来年4月発行の予定です。出版されたらまたここに書くことにします。ぜひご覧下さい。
 さあ、行きたかったところへ行って写真を撮ります
6月24日(土)
ワールドカップ観戦
 世界との差、それは残念だがある。そんなことは冷静に考えたら誰にでも分かるではないか。
1,Jリーグ発足当時活躍した外国選手(ジーコなど)は、もうとうに峠を越えた選手か、国内で無名の選手(アルシンドなど)だったが、なぜそれでも大活躍できたのか。
2,現在の日本のJリーグで活躍している外国人選手は、自国のA代表に入っていない人も大勢いるのにどうして、Jリーグで大活躍したり得点王になったりするのか。
3,日本で有名なサッカー選手がヨーロッパ各国のクラブに入ってもなぜレギュラーになれないのか。
 つまり、中田英、中村、小野以外の選手は、世界レベルではないということなのだ。
 そんなチームに期待をかけるように煽ることが罪なのだと私は思う。今回の成績は極めて順当な結果だと言える。アジアでは日本は強いチームの中に入るのだろうが、実力的には、ヨーロッパや北・南米・アフリカ相手では善戦が精一杯なのだ。
 日本にがんばってほしい!という願いで私もこの3戦見た。しかしあのブラジル戦に如実に現れていたように、惨めなぐらいの実力差であった。私が見た限りにおいて、今回のワールドカップ日本戦情報は応援放送一色であった。また、冷静に日本は勝てないだろうと解説する人はだれもいなかった。そんなことを言う人間は「非国民」扱いされかねない盛り上がり方だった。しかし、解説者なのだから、もっと冷静に「日本が実力的には3−7で劣勢だが、こういう風に戦えば、勝つ可能性はある」と指摘し、「もし日本が勝ったら、これは実力以上のものが出たのだから、選手を誉め讃えよう」と言うべきなのではないかと思った。
 クロアチアの選手が、オーストラリア戦の後、「日本には失望した。これで、日本の一次リーグ突破はないだろう」と言っていた。冷静だった。世界で活躍する得点能力の高いフォワードが何人か育った時、日本も世界と互角に戦えるようになったと言えるのではないか。果たしてそれはいつのことか? 
 さて、日本が負けて本当に残念だが、ワールドカップ観戦はこれからが本当におもしろいのではないかと思う。世界レベルの激突を見て、目を肥やすチャンスである。
 ついでに、野球のWBCではなぜ日本が勝てたかである。日本の一流のピッチャーのレベルは、大リーグでも十分通用するからである。野球におけるピッチャーの果たす役割の大きさは言うまでもない。野茂の切り開いた大リーグへの道は日本のピッチャーに自信を持たせたのだ。しかし、残念ながら、野手ではまだそこまでいっていないのではないか。イチローはすごいが、あれはイチロー個人がすごいのであって、日本の野球のレベルがすごいのではないと私は思う。松井もいい選手だが、日本での松井と大リーグの松井ではイメージが違いすぎる。松井が大リーグでも40〜50本のホームランを打っているのなら、日本のレベルが高いことになるかも知れないが、そうはなっていない。あの松井でも大リーグでは超一流のホームランバッターになれない大リーグの凄さを私は感じてしまう。 
6月24日(土)
母親の手術2

 母親の手術までに3回お医者さんと話す機会があった。
 最初はいつもかかっている病院の先生が、検査結果を基に、手術の必要を病状と共に話してくださった。
 2回目は、手術を受ける病院の担当の先生が、病状と手術のことやこれからの見通しを話してくださった。
 3回目は、外科部長が、検査の結果をレントゲンやCT検査や内視鏡の写真をもとに説明された。私は身内のものの手術の説明を受けるのが初めてだったものだから、丁寧さを感じた。大腸がんの様子と手術方法、手術に伴う合併症の可能性について、そして輸血に伴う感染症の問題などを話してくださった。そして、手術の同意書と輸血の同意書にサインした。
 手術日には、摘出された部位を見せながら、手術の経過を報告されたのだそうだ。私はこれに間に合わなかった。見た妻は、食事時思い出して困っていた。患者と面会していた時に、担当医が、手術後、高齢の人は、点滴の管を抜いたりすることがあるので、手を縛るかもしれないので、それの同意書にサインしてくださいとおしゃった。これもサインした。翌日母親に聞いたら、確かに手は縛ってあったと言うことであった。
 お医者さんも大変だなと思った。情報公開して、患者やその家族の同意の上で物事をすすめなかったら、あとで訴訟などの問題が起こるのだなと思った。
 今日で手術から5日目、経過が良好なので喜んでいる。
6月23日(金)
母親の手術1
 母親が大腸がんを手術することになった。私自身1週間前に体調を崩して休んでいて、手術日に休むのは気が引けたので、子どもたちに
「実は、先生のお母ちゃんが大腸を半分取って、小腸とつなぐ手術をするんやけど、小宮山先生休んでもいいかな」
と聞いた。
「行ってもいい」
「行ってもいいとかちがうやん。行かなあかんやん」
「そうや」
子どもたちが口々に言ってくれた。
「ありがとう。手術は10時からやけど、先生は昼から休むので、5時間目と6時間目がんばって、自習してくれるか?」
「うん」
 3年生の子どもたちが、「行ってもいいとかちがうやん。行かなあかんやん」と言ってくれたことがうれしくてちょっとウルウルしてしましった。
 それで、給食の準備をして病院へ駆け付けた。手術は終わっていた。経過は良好でホッとしている。
 翌日、学校へ行ったら、総合遊具で遊んでいたクラスの子が
「先生どうやった?」
と声をかけてくれた。
「ありがとう、手術成功やった」
にこにこ顔で喜んでくれた。何人もの子が私の顔を見たら聞いてくれた。ありがたいことだと思う。
5月13日(土)
家庭訪問週間
 今週は家庭訪問週間であった。
 学校週休二日制実施以来、授業時数確保が最優先課題になった。行事の簡素化が実施された。春秋二回行われてきた運動会を秋だけにする、野外宿泊学習のある学年は遠足をなくすなどである。そしてその中に家庭訪問週間をなくすということが行われるようになった。
 家庭訪問週間をなくすというのはどういうことかというと、それまで午後の授業をカットして家庭訪問を実施していたのを、放課後の授業や会議のない合間を縫って家庭訪問すると言うことである。だから、しばらく前は2時ぐらいから家庭訪問が実施できた。そうすると、移動時間を含めて一軒20分ぐらいの予定を組むから、勤務時間終了までに8軒ぐらい回れた。40人近い子の家庭訪問をしようと思えば、1日8軒回っても5日間必要なのだ。で、今はと言うと授業が6時間あれば、授業終了は3時20分ぐらいになる。飛びだして実際訪問できるのは3時30分。それから勤務時間終了の4時40分まで1時間ぐらい。3軒しか1日に回れない。しかし実際は各家庭の事情もあって、家庭訪問は勤務時間を超えて実施されている。私は5時半家庭訪問終了の日がほとんどであった。それでも5軒が限度だ。
 学校によっては、余裕のある夏休みに家庭訪問を実施している学校もあるらしい。又、家庭訪問の目的を家の確認に限定し、玄関先で立ち話をするというふうに決めている学校もある。必要があればいつでも何度でも家庭訪問すればよいと言うのである。これは、授業時数確保の中で生み出された苦肉の策である。
 私は家庭訪問は教師がゆったりした気分で実施する方がよいのではないかと思っている。駆け足のような気分で回ることがよいとは思えないのである。5月のこの時期に家庭訪問を実施することを定着させた先人の知恵は大したものだと思っている。学力の状態、友人関係、授業の時の様子などがおおよそ把握できたこの時期に家庭を訪問して、保護者と話して理解を深めたり願いを聞き取ったりすることは大切なことだと思う。   
5月7日(日)
ビッグスクーター
 ビッグスクーターに乗り慣れると、50ccの原付に乗るのが恐くなってきます。前につんのめりそうな感じになるのです。駐車しているところから方向転換する時は大きいほど厄介なのですが。
 室生寺の駐車場での話です。たいてい社寺のバイク置き場は駐車場入口にある小屋の周りを指定されます。私がヘルメットを脱いでいたら、駐車場の集金のおじさんが来られて、「このバイクの中はどうなっているの?」と座席下の収納庫の中をのぞき込んでおられました。私のスクーターの中はヘルメットが2つ入り小旅行なら荷物は全部入るというのが宣伝文句でした。容量をリットルで表示してあったのですが、水を入れるわけではないのにと思いました。カバンを入れるのは無理ですが、衣類などバラバラに詰め込んだら確かにかなり入りそうです。おじさんは「そうか、こうなっているのか」とちょっと感心して「ありがとう」と言って向こうへ行かれました。帰りには覚えておられて、「先ほどは失礼しました」とおっしゃってました。
 次、長谷寺の駐車場です。ここは連休の観光客目当てに「にわか駐車場」が乱立していて盛んに呼び込みが行われているという感じでした。普段はお寺に駐車場が設置されているのですが、参道が人でいっぱいになるので歩行者専用道路になるため入れないのです。この国道沿いのにわか駐車場でバイクを置くことにしました。指定された場所にバイクを置いてヘルメットを脱いだら、集金のおばさんに「もっと若い人かと思った」と言われました。「おっさんやった?」と言いましたら「いいえ、そんな」と言いにくそうにしておられました。ヘルメットしてたら年はわからへんでしょうね、確かに。 
5月3日(水)
憲法記念日
 ある学校であった話です。
 5月1日朝会がありました。5月の朝会での校長先生の話はたいてい憲法の話です。
 その学校の校長先生は、日本国憲法が天皇のことから始まって103条の条文で出来ていることを話したあと、日本国憲法の3つの原則についてふれたそうです。@戦争放棄平和主義のことA国民主権のことB基本的人権のことです。そして「校長先生はとてもいい憲法だと思う」と子どもたちに語りかけたそうです。
 私は今という時代とても勇気のいる発言だったのだなと思いながら聞きました。現在改憲が政治日程に上り憲法を評価をすること自体控える風潮の中での発言だからです。
 これは京都市だけの話なのか他の町でもそうなのか知りませんが、憲法の話を校長がする時は、3つの原則のうちの基本的人権にかかわることしか話さないのが通例です。私はかねがねおかしなことだと思い続けてきました。学校が当面する教育課題との関係からいえば確かに基本的人権にかかわることを話題にすることが大切です。しかし、憲法の話をするのなら少なくとも3年間かけて一つずつ話してもいいと私は思っています。12月に人権月間が設定されていたり、学校によっては毎月人権に関する話を教師が交代でしているのです。基本的人権の話は子どもにしたら「耳にたこ」かもしれません。「いやそれぐらい大切な話」だと言われればそうですが。
 例えばですが、私は憲法の話をする校長の中に一人ぐらい、選挙権や被選挙権について語り、棄権しないで選挙しようと呼びかける校長がいてもいいのになと思うのです。憲法と言えば人権だと校長は思いこまされているのではないかと思っています。
 基本的人権の尊重について語る校長を、教育委員会は評価するでしょう。そして平和の問題や国民主権について熱心に語れとは、決して指示していないのです。それを敏感に感じ取って校長たちは5月の講話をしているのです。そしてそのおかしさを思わなくなっているのです。
 私は日本国憲法は人間の歴史の中で生み出された知恵の結晶体であり、先の校長と同じく「よい憲法」だと思います。そして前文と103の条文一つ一つにそれまでの歴史の反省や人間社会のあるべき姿が書かれていると思います。国民主権や基本的人権の尊重という思想がどのようにして書き込まれたのかと言えば、それを必死で主張し戦いとった歴史があるのです。恒久平和の思想は、多大な尊い命の犠牲の上に成り立っていることを戦前の教育との関係で語ることが大切だと思います。
 私が子どもの頃は、まだ教育勅語を校長が読む時の厳粛さが語られ、奉安殿が学校にあって必ず礼をしていたことや「天皇陛下のため死ね」と教えられたことを語る教師がいました。そして自分自身の経験で中国で残虐行為を行ったことを語る教師もいました。そして、続いて今の平和憲法があることが語られたのです。これは説得力がありました。
 今、私たちは何をもって平和を語るのか、命の尊さを語るのか、そして1人ひとりが国の主人公であることの意味を語るのかを考えたいものだと思いました。
4月15日(土)
二条城
 4月8日に二条城へ行ってきました。桜の花見です。観光シーズンに二条城へ行ったことがなかったものですから、その人の多さにびっくりしました。車はおそらく満車だろうと思い、地下鉄で行きました。地下鉄を降りて歩いていたら、家族連れの方々の会話が耳に飛び込んできました。
 お父さん「おい、二条城って誰が建てたんやったかな?」
 娘さん(中学生ぐらいかな?)「源頼朝やったかな?」
 お父さん「いや、違うやろ。京都やからな。豊臣秀吉ちがうか」
 お母さん「大工さんや」
 お父さん「そんなもん、どこでも大工さんやろ」
で、この会話は終わりました。
 意地悪なぞなぞで大工さんが建てたという答えは私が子どもの頃からありました。私もそういうことを言うのが好きな子どもでしたからよく言いました。
 現在の二条城を建てたのは徳川家康です、確か。京都に家康の居城があったというのは意外なのかもしれません。家康と京都はなかなか結びつきにくいのは確かです。家康は東京の人間だというイメージです。そういうことから言うと秀吉は大阪かな。信長は安土かな、いや尾張かな。まあ、3人とも京都を代表する人物とは言えないと思います。
 この3人の中で「誰が好き?」と京都の人に尋ねたら私は秀吉が一番に来そうに思います。何となく庶民的で人間くさくて愛される要素をもっているからです。京都、そして伏見の大改造は相当強権的であったにもかかわらず、その影響は今も京都の各地に見られます。逸話もいくつも残されています。他の二人のものは?です。先ほどのお父さんが「いや、違うやろ。京都やからな。豊臣秀吉ちがうか」とおっしゃったのにはこういう背景があるのではないかと思いました。
 他の地方ではどうなのでしょうか?私は3人の出身地尾張三河愛知県では3人はどういう結果になるのかなと興味を覚えました。東京では?やはり家康なのかな。
4月12日(水)
 今週は毎日雨が降っている。こう毎日雨だと気分が暗くなる。この雨で桜もずいぶん散るのだろう。
 新しい職場で2週間が経過した。年齢と共に人間はかたくなになり、新しい人間関係に柔軟に対応するモチベーションや能力は若い頃に比べて落ちるものらしい。確かにそうだなと思う。
 今年は3年生の担任になった。23名の子どもたちである。この雨では子どもたちもおもしろくないだろう。
3月31日(金)
扶養家族
 長女が就職した。就職に伴い私の扶養家族でなくなる。その手続きをする旨申し出た。すると、確かにその会社に就職したことを証明する書類が必要だと言う。つまり「辞令」のようなものをもってこいというのである。娘に聞くと「そんなものは貰っていない」と言う。娘が会社から貰った書類だと言って「入社式のご案内」を出してきた。その他には何ももらっていないと言う。
 それを今日持っていったら、これではだめだということであった。会社の総務課などが作ったしかるべき印が押してある書類が必要なのだそうだ。
 そうかなと思いながら?マークがいくつもついた。
 私は扶養手当を出してほしいと言っているわけではない。今までありがとうございました、もう扶養手当を出していただく必要がなくなったので辞退したいと申し出ているのである。「ああそうですか」で給料から減額しても何も文句言わないし、税金から支払われているのであるからすぐに取り消し手続きしたらよいのにと思う。取り消しは本人の申し出だけで十分だと思うのだがどうだろうか。
 そういえば息子が大学院へ行った時には「何故大学を卒業したのにまだ扶養家族なのか」という質問を受けた。そして入学証明を出せと言われた。これは納得がいった。少しでも不要な経費は削減することが大切だからだ。
 娘に会社にそういう書類を作成してほしいと頼んでもらわなければならない。 
3月25日(土)
異動
 私は今年異動の年である。今年から人事異動のテンポがスピードアップされた。先週には内示が通告された。そして月曜日27日には新任校へ内示書類を持って行き簡単な挨拶をする。同時に現任校で保護者に通知される。そして離任式が30日に行われ送別会が夜行われる。そういえば送別会は例年4月3日で新任校の話などもできたけれど、今年はまた違った雰囲気になるのだろうか。どっちでもいいことだけれど。31日まで現任校に籍はあるが仕事は次の学校で行う。4月スタートをスムーズにするためだそうだ。
 例年なら3月24日までに通知票をつけることに専念し、春休みに入って指導要録などの記入をすればよかった。しかし今年は27日には新しい先生を迎えるため職員室の机を27日に移動する。私の私物が入っていたら困ると思い整理した。教頭は「そのままでよい」と言ってくれていたけれど、そういうわけにもいかない。
 会計の締めをすること、指導要録の記入などを含め、年度末に提出するものは十数種に及ぶ。今までは、それを3月末までに行っていたのであるが、提出締め切りは24日であった。何とか書類の提出は終えたのであるが、教室や職員室の私物の整理が残ってしまった。人にもよるだろうが、長く教師をしていると書籍を含めかなりの分量の「荷物」がある。困ったことだ。
 来週職員室では文房具などのない明け渡す事務机を使って私は公務分掌の引継のための仕事をすることになる。そして教室に持ち込んだ荷物を整理し次の学校へ運ぶ準備をしなければならない。思い出に浸ってる場合ではない。
3月11日(土)
「暗峠」考2
おおかみと暗峠
 今西祐行さんの「くらがり峠」についてです。その一節。
 「峠というものは、たいてい見晴らしのよいものですが、この峠はずいぶん高いところにあるのに、ほとんど見晴らしがききません。こんもりしげった木と山にさえぎられているのです。くらがり峠という名まえも、そんなところからつけられたのかもしれません。ところで、この峠道は、くらいばかりではありません。このあたりにはたくさんのおおかみがすんでいて、いつも旅人をおびやかしていたというのです。人々は、このおおかみを〈おくりおおかみ〉とよんでいました」
 このおおかみは、夜に現れるのだそうで、いつもまにか何十匹にもなって、音もなくつかず離れず峠を下るまで後をつけ、人が石につまずけばその場で食ってしまうのだそうです。
 年寄りたちは、おおかみがうしろにきているとわかったら、決して逃げたりせず、「おおかみさん、ご苦労さんでございます。よろしゅうたのんまっせ」と丁寧に挨拶し、峠を下ったら、「おおかみさん、おおきに」と礼を言ったらよいと教えたそうです。ただし、その挨拶や礼も振りかえっておおかみを見たら最後食べられるのだそうです。
 このおおかみから助かる方法はただ一つ。矢立にヒモを結びつけそれを引きずりながら歩くという方法だったそうです。金物の音とへびのようにゆれるひもをおそれておおかみが近づかないのだそうです。
 さて、今西さんの「くらがり峠」は5つの区切りで構成されています。私が勝手に表題をつけてみます。
 私がいま書いた部分が1,くらがり峠です。その後以下のように続きます。 2,大阪城落城とおおかみに襲われた忍者 3,血で描かれたおおかみの群像 4,平群村の絵師 5,その子善介という構成になっています。「くらがり峠」のおおかみを、とりつかれたように描く親子の物語になっており、なかなか迫力のある怖いお話です。そして最後はどんでん返しになり読み終わったあとに…これは書かずにおきましょう。興味のある方はぜひさがしてお読みください。
 私が「暗峠」という言葉から持ったイメージはこの物語に近いものでした。そして2から以下の話は慈光寺というお寺に集まった人たちがしあった話です。暗峠から北へ入ったところにある髪切山慈光寺を私は訪ねませんでした。先にこの話を読んでいたら行ったでしょうに。残念です。ほととぎすの声が美しい境内だそうです。ところでホトトギスっていつ鳴くのかな?
 私はこの話を読みながらむかし「おおかみ」がいた時代を想像していました。いまや日本おおかみは絶滅したそうですが、おおかみは身近にいる一番怖い動物だったのではないでしょうか。私の住んでいる場所のすぐ近くに「大亀谷」という場所があります。これは「狼谷」が訛ったものだという説があります。。「日本書紀」巻19に秦大津父が伊勢の国からの帰途この土地で狼が二匹争っていたのに出会ったことから狼谷と呼ぶようになり、訛って大亀谷になったというものです。
 「暗峠考1」で書いた上方落語「七度狐」にもオオカミを喜六清八両人がこわがる場面があります。伊勢参りなど旅人が畏れたおおかみ…いまはそういう恐怖はなくなりました。
 明治になってもしばらくは人間とおおかみは共存していたのです。でもおおかみを祀る神社を聞いたことがありません。神の使いとしてのおおかみも寡聞にして知りません。おおかみという動物と人間の関係を調べたらおもしろいかもしれません。「オオカミ=大神」なのでしょうか。西村寿行の小説に絶滅したはずのおおかみが狂犬病にかかり、人間を襲うという設定の作品がありました。そういえば、宮崎駿監督作品「もののけ姫」にもおおかみが出ていました。
 しかし「おくりおおかみ」という言葉が死語にならず、人間の所業を現しているのはおおかみにとって迷惑なことでしょう。
3月10日(金)
「暗峠」考1
 暗峠(くらがりとうげ)のことがどうもひっかかっていて、気になる。なぜかよくわからないけど気になる。
 大阪からお伊勢さんへ行く道だとしたら、落語「東の旅」に出てくるはずだと思って米朝さんの速記本で確かめてみた。「東の旅」は大阪からお伊勢さんへ行き、帰りに大津へ出て「三十石夢の通い路」で終了する長い話である。冒頭は「旅立ち」・「煮売家」・「七度狐」と続く。
 その一番最初に確かに暗峠が出てきた。古代奈良から大阪の「玉造」への道が「暗峠越え」だと書いてあったのだが、落語でも「玉造」が確かに出てきた。玉造という大阪環状線の駅があったなあと思い出している。この名前も大和の政権とのつながりを想像させるものでおもしろい。落語の「くらがり峠」はエピソードらしいことななく、あっさり紹介されている。とにかく急坂なので馬の鞍もひっくり返るぐらいだというところから「くらがえり峠」だというのである。確かに大阪側からは特に急坂でこんな名前の由来を思いつくのも落語らしい。
 たまたま「くらがり峠」という本を見つけた。本当にたまたまである。著者は今西祐行さんで、偕成社から1981年に出版されている。教師をしているものなら児童文学者の今西祐行はよく知っている方である。何回か講演にも来ていただいた。現在も「一つの花」という有名な文学教材が教科書に掲載されている。しばらく前に訃報を聞いた。
 ひょっとしたら私が興味を持っているあの「暗峠」のことだろうかと読んでみた。この本は8つの短編が納められている「くらがり峠」は1973年に発表されたものらしい。確かにこの「くらがり峠」は私が行ってきたあの「暗峠」を題材にした作品であった。今西さんは少年時代の幾年かを生駒山麓の一軒家ですごしたのだそうだ。そしてお父さんから聞いた話を基にこの話を創作されたという。
 この話に出てくる暗峠はその名にふさわしいエピソードが書かれていておもしろかった。詳しくは次の機会に書こうと思う。
2月9日(木)
写真展終了2
 掲示板にも書いたのですが、写真展をしたら来てくださった方が気を遣ってくださって「手みやげ」を持参くださるということは私は予想していませんでした。そんなお気遣いいただくものでないということは重々承知の上の写真展です。でもそういう「発表会は『お祝い』なのだ」という説明に「ああそういことなのか」と納得した次第です。これからはもっとお気軽に来て下さると私はうれしいです。この写真展の間にみなさんがご持参くださったものは、和菓子・洋菓子・お花・かばの人形などで本当に恐縮です。
 しばらく前このHPの掲示板で京都や金沢などの和菓子が取り上げられました。私も和菓子好きで、デジカメ劇場などにいくつか取り上げました。そしてこの写真展の間に持参くださった和菓子の中に初物や私の好物がいくつかあって、ありがたく頂戴しました。
 堺の名菓・かん袋の「くるみ餅」。これはおだんごを抹茶の入ったたれにつけたもので、甘くて抹茶の香りがして美味でした。センスの良い陶器に入っていました。何でも14世紀からあるお店だそうで、京都の老舗も顔負けの歴史を誇っているお菓子です。
 茶洛の「わらびもち」。何でもとんねるずのTVで手みやげNO.1になったわらびもちだそうです。写真展会場の近くにお店がありました。その近くに住んでる友人に「一度食べたいと思ってるねん」という話をしてたら、わざわざ買って持って来てくれました。かなり早い時間帯に売り切れになるわらびもちです。抹茶とニッキ2種類をきれいに並べてあって、味の方もなかなかでした。そういえば以前この掲示板でも話題になりました。
 そして、玉寿軒の「紫野」。これは大徳寺納豆をが芯になっている上品なお菓子。3種類あってどれもなかなかのものでした。
 金谷正廣の「真盛豆」。これは私一押しの和菓子です。ちょっとしたおみやげに最適だと思っています。黒豆をすはまでくるんだものですが、なかなかいけます。
 とらやの羊羹…これは有名なものですから説明省略。そしてこれも定番の「阿じゃり餅」(漢字が分からない)。
 などなど写真展でいただきました。
 本当に申し訳ないことです。私たち、どなたに何をいただいたかを記録することをしていませんでした。失礼なことばかりで本当に申し訳ないと思っています。礼儀知らずの私たちのやることですのでお許しいただきたいと思いながら、次回からはもっと気軽に「来たよ」と声をかけて下さることをお願いいたします。 
2月6日(月)
ジャイアン写真展終了1
 「お父さん、またやんのかいな。『ジャイアン写真展』」息子に言われました。
 ジャイアンはのび太たちが嫌がっていることには関係なく「お前たち、そんなにオレの歌が聞きたいのか」「じゃあ仕方がない、コンサートをやってやろう」と恩に着せた物言いをします。そして「来なかったら分かってるだろうな!」と脅しをかけてコンサートを開き続けています。
 落語に「寝床」というのがあります。それに登場する旦那も自分の「オガオガピー」(浄瑠璃)を聞いていただくために酒やご馳走を用意します。近所の人・店子・使用人は「これさえなかったら、ええ旦那やのに」と大迷惑しています。
 似たような話はいつの時代、どこにもあるようです。
 『ジャイアン写真展』うまいこというなあと感心いたしました。
 私たちの場合(少なくとも私の場合)、みなさんがぜひとも見たいという写真では決してありません。それでも見てほしいのです。そして脅しはしませんが、友人知人・親戚家族・教え子たちのお情けに頼って来ていただいているわけです。「行っておいた方がいいかな」と案内された方は思って下さっているのだろうと思います。本当にご迷惑をおかけしているという点で「ジャイアン写真展」は言い得て妙です。笑ってしまいました。
 私はきっとジャイアンも旦那も自分の力量が分かっているので本当は申し訳ないといういう気持ちがあるのだけど、ああいう表現の仕方しかできないのだと思います。自分が「ジャイアン写真展」をしているものですから、ジャイアンの気持ちに近づけたようです。さらに腕を磨いて「行きたい」写真展にしたいものです。
 写真展に写真家水野克比古氏が顔を見せてくださいました。そして「自由に楽しんで写真を撮ることが一番です。これからも楽しんで撮って下さい。来られた方たちの感想をよく聞いて参考にされたらよい」とおっしゃって帰られました。「プロやセミプロと呼ばれる方たちに変に影響を受ける必要はない」とおっしゃっているように私には聞こえました。印象に残ったのはとても丁寧に最後まで一枚一枚の写真を見ておられたことでした。最初だけ見て我々のレベルを測っていい加減な見方をしておられなかったことでした。有名写真家風をふかさず私たちの写真を見ておられました。エライ方でした。
2月2日(木)
ロウバイを見よう
 1/31〜2/1花背山の家(京都市野外教育施設)へ子どもたちを連れて行ってました。そのため、今日は10時半に授業が始まるので私もその時間に出勤すればよいのです。ゆっくり家にいようかと思ったのですが、かまきりりゅうじさんの書き込みに刺激を受けて、「そうだ、北野の天神さんへ出かけよう。時間があれば植物園へも行こう!」と決めて普段通りの出勤時間に出かけました。
 8時半頃に北野の天神さんに着きました。境内にほとんど人はいなくて雨のあとの晴天で空気が澄んでいるように感じました。北野天満宮のロウバイであることを意識した写真にと思いながら撮ってみたのですがなかなか思い通りになりませんでした。テレビカメラを持っている人が、神職姿の人と話しながら梅の映像を撮っておられました。年輩の方が神職姿の方に「昨日京都新聞に載っていた梅はどこに咲いているの?」と尋ねておられました。2カ所咲いているようです。「宗像社」のある場所と北東の出入り口付近です。でもかなりつぼみはふくらんできていて、何となく枝全体が色づいてきています。
 植物園へ。開門直後の9時少し過ぎだったのですが、まだ門も完全に開いてなくて、園内でほとんど入園者に出会いません。たまに出会う人は私のようにカメラをぶら下げた年輩の男性です。ゆったりと歩いておられます。私のようにせかせかと目的地に向かって歩き回っていません。仕事をしておられる方たちもゆっくり仕事を始めておられて、植物園全体の時間の流れがゆったりしているのです。梅林、つばき園、ハス池、薬草園を見て回りました。お目当てのロウバイ良い香りで存在感を示しておりました。
 木を見上げたら野鳥(名前が分かりませんが)がたくさんいました。植物園にもっとゆっくりいたかったのですが、残念ながら時間切れでした。意外だったのはツバキ。ほとんど咲いていないのです。サザンカは咲いていますが、ツバキはほとんど咲いていません。ロウバイの開花が今年は1ヶ月遅れらしいのですが、ツバキも遅いように思います。ツバキは皆無に近い状態でした。一昨年は今頃咲いていたように思うのですが。
 私は退職してから、今日みたいにバイクに乗って9時開園と同時に植物園に飛び込んで写真を撮ったり鳥のさえずりを楽しんでいる自分を想像して、それも悪くないなと思っておりました。京都御苑や植物園などを毎日のように訪ねて、ゆったりした時間を堪能する…そういう生活もいいなと思いました。
 明日は節分。壬生寺や千本釈迦堂・千本エンマ堂へ行きたいなと思います。
 そして明後日は立春。いよいよ写真展です。ぜひ西陣の町屋へお越し下さい。
1月28日(土)
5プラスOne写真展
 会場の下見も済みいよいよ準備をしなければ間に合わないかもしれなくなってきました。この1年間撮りためてきたものを見直したり、自分なりのテーマを決めたりに時間がかかります。
 私の撮っているもので多少独自性があるとしたら何になるかなと考えました。
 1つ目は私が石仏の魅力を写真で表現できないかと思って撮ってきたものから5点選びました。
 2つ目は四季折々の花々とお寺の建物などの写真を15点選びました。
 3つ目に「デジカメ写真劇場」を5点新作も含めて作りました。ワードを使うと吹き出しが使えるのでHPのものと少し違うものが出来ました。
 それをどのように展示するかも自由なので、私は友達がイーゼルを貸してやろうと言ってくれているので、それを2つ借りて展示します。これには額縁を用意しました。鴨居にぶら下げる形でA1色段ボールに5作品ずつ「デジカメ写真劇場」などを貼り付けました。これで写真は何とか目途が立ちました。準備が進むとワクワクしてきます。
 昨年の1回目の時は自作の巾着を展示したり、私が彫った仏さんも展示しました。今年も作品はあるのですがどうしようかと考えています。何か写真以外の表現物もと考えています。
 これをご覧のいただいた方、ぜひ足を運んで写真展をのぞいて下さい。コーヒーやお菓子なども用意してお待ちしております。もちろん入場無料です。今年はお花を活けるサークルの方々が作品を出して下さるそうで、それも楽しみです。 
1月27日(金)
替え歌
 昨年末東京へ行った時に「ハゲアンドワズカ」という教師のグループが替え歌を歌い、評判になっているという話を聞きそのCDを手に入れた。おもしろい!と思った。そしてこれは私にも出来そうだと思った。そして、みんなで作りませんかと呼びかけることにした。
 先週土曜日に京都市つづり方の会で5曲紹介したら、みんな喜んでくれた。「歌詞」をほしいという人もいた。「あんた、歌って回り。」という人もいた。今教師に閉塞感があり、言いたいことがあふれている。この3年間の『教育改革』は多忙化に拍車をかけた。こんな朝令暮改の教育政策に振り回されるのは懲り懲りだという思いもある。子どもや親との関係もますます難しくなっており、教師の中には自信を失って教職を去っている人も多い。そんな中で『現状を批判的に笑い飛ばして元気になる替え歌』がおもしろいのである。
 今日、南区の教師の集まりに呼ばれた。そして歌ってきた。私が作った替え歌は3曲になった。30名近くの人たちが笑いながら私といっしょに歌ってくれた。私は今こういうことをおもしろがってくれる仲間と「サンザンオールスターズ」というグループが作れないかと考えている。
1月22日(日)
J楽器店で
 ギターケースを買いたくて北大路ビブレにあるJへ。初めて行く店である。
 そう言えば、私が初めてギターを購入したのは伏見納屋町にあるWという楽器店であった。中学3年の時だからもう40年以上前のことになる。祖母に3500円で買ってもらった。その店はレコードも売っていてレコードを見たり楽器を見に行ったりでかなり頻繁に店を訪ねたものだった。どこに何が置いてあるかもよく分かっていたように思う。ギターを弾きたいと思ったのはたぶんにビートルズの影響だった。そしてマイク真木・加山雄三。
 話を戻して、Jの本店は三条新京極の入り口辺りにあってここも私たちのあこがれの店だった。ほしいものを買うお金もなかったらから見ているだけの客だったが、ドラムに興味のある友だちについていったり、エレキギターを見たりワクワクしたことを思い出す。映画館の帰りには必ず立ち寄る店だった。
 もう長い間、楽器店へ足を運ぶ必要もなく過ごしてきた。北大路ビブレのJは4階にあって入り口付近にアコギも並んでいた。モリス・ヤマハ懐かしいメーカーの名前だ。そういえばギブソンというのもあったなと思い出した。1万円切るものもあれば、数十万円するものもある。弾いたことがないので音の違いは分からない。一度どう違うのか確かめたいものだと思う。
 お目当てのギターケースを捜したら、ナント1000円で売っている!ビニル製のものだが、そんな安いのかとビックリした。ついでに6弦も3本買った。その後店の中を見て回った。ギタースタンドを465円で売っているではないか。よくコンサートなどで歌手の後ろに予備のギターを立てかけているあれだ。ほしいなと思ったが、私はギター1本しかないから買っても使う必要ないし、コンサートするわけでもない。そのあと電車で持ち帰るにはかさばりそうだったので買わなかったがほしかったな。
 調弦用の笛が売っていた。音叉を持っているのだが、使いにくい。それも買った。785円。楽譜も見ようとコーナーに立ち寄ったら、色々あって「さだまさし」と「サザン」の楽譜を買った。たびたびレジへ品物を持って行ったものだから、最後にレジの女性が話しかけてこられた。
「ギターを弾かれるのですか?」
「ええ、まあそういうはめになりまして」
「今、こんなイベント企画していますので、よかったらご参加下さい」
と1枚のパンフを下さった。
 「第2回OYAJI BAND LIVE PARTY出演バンド大募集!」と書いてあった。
 参加資格があって、ジャンルは何でもよくて、40歳以上のものが入っている必要があるのだそうだ。応募が多い場合はテープ選考も実施されるとか。ライブステージは1バンドセッティング込みで30分。チケットノルマ3万円(10枚分)を払い込まなければならないと書いてあった。
 なるほどなあ、誰が考えたのか知らないが、少し腕に覚えのあるOYAJIの人前で自分の音を聴かせたい願望を叶えさせる企画だ。それにしてもこのPARTYの入場料は当日券3500円だそうだ。落語会へ行けるし、映画も2回行けそうな金額だ。一般客は入らないだろうな。義理できてくれた自分の身内の招待客を前に歌っている中年男性を想像して、パチンと夢がはじけた。
1月6日(金)
困った
 HPの更新が出来なくなってしまいました。おそらく写真画像が多すぎて、サーバーの私のホルダーが限界になっているようです。いずれこういう事になるだろうと思っていました。私がホルダーを一つにしていたためです。私自身も整理がつきかねていますので、この際必要なものと不必要なものを分けて整理したいと思います。
 何時新しいものがUPできるかわからなの状態ですが、しばらく今の状態のまま更新をストップします。なお掲示板はそのまま使えそうですので、掲示板に必要なことは書き込むことにします。
1月1日(日)
飛翔の年に
 昨年末友人にカワセミのいる場所へ連れて行ってもらった。その色の美しさに感動した。
 その時に白サギや青サギ、鴨などの写真も撮ったのだが写ってなかった。このままでは情けないので、昨日もう一度挑戦してきた。カワセミは見えなかった。そして今回も他人様に見ていただくような写真は撮れなかった。
 私は土手の上を歩きながら川面や岸にいる鳥たちを撮ろうと追いかけた。そう、初めは気が付かなかったのだが、私は追いかけ回していたのだ。それに気が付くのに1時間ぐらいかかった。私は私のことなど鳥たちは気が付いているはずがないと思っていた。私と鳥たちの距離は20mぐらいはあった。どう見ても鳥たちが私を見ているようには見えないのだ。しかしある一定の距離になると逃げていく。
 橋の上でカメラを構えてシラサギが向こうから来るのを撮ろうと待っていたら何と迂回して行ったり、引き返したりした。彼らは何で私が近づいていることを察知するのであろうか。やはり見ているのかな。足音がしないように植え込みに隠れるようにしていても気づかれた。もう少し鳥とお付き合いしたらもっとその習性が分かるのかも知れない。
 新しい年が明けた。今までしてきたことの中で大切なことはさらに充実させたい。そして何か新しいことにも挑戦したいと思う。
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