カバのしっぽ日記2005

かばのしっぽはうんちをまき散らすための大切な働きをします。
まきふんは大切な威嚇の方法なのだそうです。
でもおかしなやつです。
『オレは強いんだ』と言ってうんこまきちらすなんて。
何かユーモラスです。
自分にとっては大切な行動でも他人様から見たら滑稽なことって私もしてそうで
「かばのしっぽ」みたいな存在かもしれないなあオレって
と、思う今日この頃であります。
2002年日記 2003年前半日記 2003年後半日記 2004年日記 2005年日記 HPへ戻る
12月31日(土)
今年も終わる
 今年も今日でお終い。一年間をふりかえってみることにする。
 色々なことで自分が年をとってきているなということと向き合う一年だった。
 ここ数年土日と休日時間があればテニスをしてきた。しかし7月末ミニバイクで転倒して膝を強打しそれから違和感があるため9月からテニスを自重している。だいぶ良くなったので来年から再開しようと思っているが、果たして以前のようにできるかどうか。
 「飛蚊症」などという聞いたことのない目の病気になったのも今年だった。眼科へは今までも数回しかお世話になったことがなかったのに加齢によるものとはいえ、失明の危険のある怖いことであった。まだ何か黒いものが見え隠れしているが、だいぶましになっている。
 お医者さんに行かなければならない病はまだ治癒したことが明らかになるが、ここ数年徐々に体重が増加してきていることが気になっている。私は身長169cmで現在体重が69kg〜70kgある。これは一日でそのぐらい増減する。年をとってきてからの肥満は万病の元らしい。「これ以上太らない方がいいですね」とお医者さんから言われている。たぶん父親もそうだったから年をとってから太りやすい体質なのだろう。運動と食生活の改善に気をつけようと思う。
 今年8月に日本作文の会の常任委員会副委員長になった。私は年に数回四役会議と常任委員会に出席することになる。毎月活動しておられる東京近郊の常任委員の方達に比べたら時間的には楽なのだが、京都から会議に出席にする値打ちがあるようにしたいと思っている。
 そして今年もHP作りを楽しませてもらった。私の好奇心にお付き合いいただいた方々にお礼を申し上げたいと思う。2006年は少し新しい試みも加えて『ぼちぼちいこか』で自己表現していきたいと考えている。よいお年をお迎え下さい。  
12月18日(日)
 昨日兵庫県の猪名川町へ行って来ました。猪名川町の木喰仏を見たかったのです。でも木喰仏を見に行くだけではせっかく遠いところまでいくのにもったいないので有馬温泉へ帰りに寄ることにしました。約1時間で有馬温泉に着きました。ところがどうも雲行きが怪しいのです。前に降った雪が残っているし、雲は明らかに雪雲です。着いた途端帰ろう、今のうちに!ということにしました。まだ車はスタッドレスに変えてないので不安だったのです。天気予報も日曜日は雪だったし。せっかく金湯銀湯へ入ろうと楽しみにしていたのですが雪の恐さに負けました。有馬温泉はかなり高い場所にありました。
 昨晩のうちに雪が降りました。私の家の前はかなりの坂道です。そして伏見から宇治への抜け道です。丑三つ時頃家の外で何台かの車が動けなくなったようでした。話し声がしていました。私は明日は雪が降ってどこへ写真撮りに行こうか…と楽しみにしていました。
 ところが私の予想に反して雪はそれほど積もりませんでした。午前中に降り続けると思っていたのですが9時頃には太陽が出てきて雪が消え始めました。急ぎ東福寺へ行くことにしました。通天橋の雪景色をイメージして行きました。東福寺は白と黒のバランスが大変美しい雪景色でした。
 その後石峰寺へ向かいました。石仏に降る雪を狙いました。石峰寺は「赤い実」が素敵でした。冬に赤い実は目立ちます。いざ石仏を撮ろうと思ったら何と電池切れ。冬は消耗が早いと改めて思い知らされました。石峰寺に私が好きな布袋さんがおられるのですが、その布袋さんのまわりは見事な紅葉でした。散り始めで布袋さんの周りが真っ赤になっていました。写真に撮りたいのに撮れず残念なことでした。一期一会です。惜しいことをしました。
 明日は通勤ですから雪は降らないでと願っています。勝手なものです。京都市内北部はどうだったのでしょうか。まだ雪が残っているのかな。バイクで行けるかな。
 今年はどのくらい雪が降るのでしょうか。そしてどのくらい寒くなるのでしょうか。暖冬続きだったので堪えますね。
 
12月14日(水)
飛蚊症2
 かれこれ3週間前に手術した飛蚊症。順調に回復していました。今週日曜日までは。先週にはもうほとんど治ったのかなと思うほど何も見えなくなっていました。
 ところが今週月曜日勤務先でワープロを打っていたら急にいっぱい毛のようなものが見えだしました。あれ!又出血した!えらいことや、また穴が開いたのだろうか…と思いました。ワープロを止めて家路を急ぎ医者の所へ向かいました。寒い日でした。
 まず眼圧を測りました。そして視力を測りました。次に目薬を2回入れて瞳孔を開きました。待つことおよそ1時間。診察を受けました。手術したところは順調にふさがっていること。しかし出血が見られることが告げられました。それが眼球の下部に見られるそうです。その眼球下部の出血は前回の穴から再度出血したものか、下部に新たな穴が開いたものかは断定できないと言うことでした。「もう少し様子を見てみましょう。下部の穴ならそれほど心配する必要はありません。再出血しているのなら、血管をもう一度レーザーで固める方法もあるが出来ればそれはしたくないのです」ということでした。「いや、もう又かと思ってビビって来たのです」と言いますと「それほど心配する必要はない」ということでした。2週間後ぐらい、年内にもう一度診せに来るように言われました。
 今日は前回11月30日に書いた状態と同じです
@炭の粉のようなものが飛んでいることA糸くずのようなものが浮いていることB明るい電灯などの周りにぼんやりした白いものが広がっていること
 さて、本当にこのまま回復するのか、再手術が必要なのかどうも心配です。
 「そんなに心配せずに普段通りの生活をされたらいいですよ」と言っていただいたのですが。
12月11日(日)
「自主」研究発表会
 京都だけではないだろうが、京都市内各小学校は競って研究発表会をするようになった。研究発表会をしない学校はないのではないだろうか。私の勤める学校のある行政区は2つの支部に分かれていて、10校ほどなのだが、各校の研究発表会を数回にわけ全員参加体制をとる。そして均等に各校の参観者を割り振る。何を学びたいということより各校の体面を立てる仲間意識を優先させる。
 なぜこのように熱心に研究発表会がなされるようになったかというと、背に腹は変えられない事情があるからである。研究指定校などにならないと予算がもらえないのである。研究指定を申請し認められた学校にはお金が配られるのである。それは大きいものになると百万単位になるらしい。財政事情が逼迫する中で教育委員会は各学校2割削減目標を立てさせて光熱費も含めて支出を減らせと言いながら、自分のお気に入りの研究をする学校にはお金を配分するのである。各学校の校長は競って学校作り・研究プラン作りをし、教育委員会好みの自校の独自性を打ち出さざるを得なくなっており、それがまた校長や教頭の評価に結びついている。人事権を握り予算編成権を握る教育委員会はその権限を最大限に利用して各学校を締め付ける。
 教育委員会にも言い分があることであろう。何もしなかったら誰も研究発表などしないではないかとか、研究熱心な学校であることを親や地域にアピールするのに「研究発表会」は欠かせないとか、教員の資質向上のためなどである。私たちが自身の資質を向上させるために研鑽を積まなければならないのは当然である。
 教育政策は、保護者地域の理解なしには進まないものである。「自主」研究発表会は保護者地域で反対する人はおそらくないだろう。教育委員会はそれも十分見込んだ上で一石二鳥三鳥四鳥をねらっていると私は思う。
 良いことに見える中に隠されている毒…それは校長中心にして教育委員会言いなりの上意下達の学校管理体制を作り上げることであり、研究で教師を洗脳し従順な教師作りをすすめることである。
 この巧妙なやり口のツケが子どもにかえらないことを私は願っている。
 その自主研究発表会が金曜日私の勤める学校でも行われた。私は研究主任であり自校の研究概要も報告し授業も公開した。
 私は「ぼくのうまれた日」の授業をした。ドラえもんのマンガを使っての授業であった。お父さんお母さんからうまれた日の様子、名前の由来、今願っていることを手紙に書いてもらい1人ひとりが読んだ。親が子を愛しく思う思いあふれる手紙の数々、そしてそれぞれの子どもの出生にドラマがあることを感じた。あらためて手紙にすることによって、親の思いもピュアになるのではないかと思った。そのピュアなところを子どもに届ける授業が出来てよかったと感じている。
 自主研究会という名の強制研究発表会であるが、その中でも子どものために何が出来るのかと考えていないとむなしい仕事になる。
12月4日(日)
岡本博文先生追悼
 昨日児童詩教育研究大会を開催しました。今年2月お亡くなりになった岡本博文先生を追悼する集会でもありました。参加者は少なかったのですが、十分目的を達成することのできた集会になりました。岡本先生にゆかりの方々も全国から(愛知・東京・奈良)参加してくださったしメッセージ(青森・大阪・東京・奈良・滋賀)も届けてくださいました。この場をお借りしてお礼申し上げます。ありがとうございました。
 大会では構成詩「ぼくの書いた詩だのに」をみんなで朗読しました。サークルの仲間で岡本博文先生指導作品を読みました。
 講演の伊藤隆司三重大学教授は「子どもが書いた詩、子どものための詩」と題して岡本先生指導作品を引用しながらその教育学的な意味を解明されました。その中で特に私が印象に残り心に残った一節を引用します。
 「児童詩とは「今を生きる者の語りの詩」だということです。…詩というものが、文字や音やリズムや比喩や象徴など、さまざまな要素に支えられていることは、いまさら言うまでもありません。けれども、それらにばかり頼って、言葉の根っこにあるはずのもの(生活・主体)から切り離したようなやり方で、言葉遊びや、ユーモア詩、「たいなあ詩」などにいくら取り組んでみたからといってたいした力になり得ません。
 近現代の日本の詩が、国民の間に定着せず、いまひとつ真価を発揮できなかった原因は、言葉の世界に迷い込んで、「自分」というものを見失ってきた(自己の喪失)せいなのかもしれませんね」
 今、お笑いブームだそうで児童詩の世界にも子どもの書く詩の中にある笑いを強調したものがあります。しかしそう言う詩が笑いの「ネタ帳」実践になっていないか、そしてその作者はだれでもよい自己を失ったものになっていないかと厳しく指摘しておられました。全く同感でした。
 分科会では「岡本先生の思い出を語る」分科会に参加しました。愛知から参加の大先輩が懐かしい写真を持ってきてくださいました。それは今から25年ほど前のもので岡山県津山市で開催された日本作文の会・中学年児童詩分科会の写真でした。その写真には岡本先生が写りその背後に詩が書かれていました。よく見るとそれは私のクラスの詩で私の字でした。作品研究をした時に私が書いたものでした。私が実践報告をし岡本先生が助言者として参加されていた時のものでした。この頃岡本先生から学び尽くそうとしていた私の姿を思い出しました。
 岡本先生はよく私に「実るほど頭を垂れる稲穂かな」の言葉を引用して諭されました。私の生意気で尊大な物言いや態度を批判されての苦言でした。今もその頃も実るほどのことは何一つない私ですが、そう言ってくださったことを忘れずにおこうと思いなおす集会になりました。
11月30日(水)
目も足も

 昨日お医者さんをはしごした。
 一つ目は手術一週間が過ぎたので眼科へ。幸い経過は良好だったようで、網膜へ水分が流れ込む危険は無いだろうと言うことであった。まずは一安心である。現在困ったことは3つである。それは、27日に書いたことと同じで、@炭の粉のようなものが飛んでいることA糸くずのようなものが浮いていることB明るい電灯などの周りにぼんやりした白いものが広がることです。
 これはすでに私の硝子体に血液が入り込んでいたので仕方のないことだが、時間の経過と共に少しはましになるようであるとのことであった。そして後2,3週間後にもう一度診察を受けにくるように言われた。私の行っている眼科は、診察券を出して待っている間に看護婦さんがカルテを持って問診に来られる。その方に「どうされましたか?」と尋ねられた。私は「?」と思った。手術してその経過を見せに来いと言われたから行っているのに「どうされましたか?」はないだろうと思ったのである。「その後どうですか?」と聞いてほしかったな。
 2軒目は整形外科へ。これは膝が痛いためである。膝を強打した後水が溜まり数回水を抜いた。今も違和感があり正座が出来ない。上り坂を登っていると痛みが走る。一時は走ることが出来ず力が抜けるようにガクンとした。少しましになっているようなのだが、最近3ヶ月はテニスを自粛している。飲み薬をもらって服用してきたが完全に治りきらない。昨日初めてリハビリをしてもらった。バイブレーションの効いた膝を暖める機械をしてもらった後理学療養士の方から説明を聞きながら膝のマッサージを受けた。あぐらをかくことは膝に悪いそうである。ひねるからだそうだ。なるほど。しかし正座も出来ない。今もホームごたつに入っているのだが、あぐらも正座も出来ないとなるとどんな姿勢になればよいのだろう。真すぐ足を伸ばしているのは腰に悪いそうだ。椅子に座るのが良いのかと聞いてみたら、これも長時間座り続けるのは膝には良くないそうで、要するに何をしても膝や腰には良くないことになる。リハビリのためにお風呂に入ってよく曲げ伸ばしをするように言われた。「膝が悪いわりによく曲がっていますよ」と言ってもらった。確かに一時期に比べたら良くなってきているようなのではやくテニスができるようになりたいものだと思う。
 加齢に伴うあちこちの体の不調が目立ってきた。今年の初め稲荷神社の奥の院で「おもかる石」を持ち上げたら大変重く感じた。この時「今年も健康でくらせますように」とお祈りしていたものだから、今年は健康に気をつけなければとこのページにも書いていたのだが、現実になった。そういう年回りになってきているのだろう。
11月27日(日)
飛蚊症
 飛蚊症…ひぶんしょうと読みます。
 先週急に右目の前に髪の毛がかかったように見えだしました。あれ?と思って目をこすったり洗ったりしてもとれません。鏡で見ても何も付いていません。ますます???です。眼科へ行きました。飛蚊症だと言われパンフレットを読むように言われました。
 それによりますと、「飛蚊症は、目の前にゴミがちらついて、あたかも蚊が飛んでいるように見える症状のことです。本来は無色透明である硝子体の中に加齢と共に繊維性の混濁が生じてきます。その混濁が眼球を動かしたときにフラフラと動いて自覚されます。これらは加齢と共に多くの人に起こりうる『生理的飛蚊症』といって、心配いりません。しかし初めて自覚したときには、病気によるものと区別できないので、検査が必要です」と書かれていました。
 それで、私は眼底検査をして詳しく診てもらうことになりました。その結果私の場合は、心配のいらない『生理的飛蚊症』ではなく心配な『網膜裂孔・剥離症状としての飛蚊症』であることが判明しました。これは、後部硝子体剥離などの硝子体収縮のために網膜に亀裂が生じたり、網膜の血管が切れて出血して硝子体に血液が広がった状態になることのようです。「見つかりました。穴が開いています」と言われました。
 即、手術することになりました。レーザーを当てて人為的な傷を作り瘢痕(はんこん)にして感覚網膜と色素上皮を癒着させ、裂孔から網膜下へ水分が流れ込む危険性を減らすという手術です。開いた瞳孔からレーザーが照射される手術です。強い痛みではないのですが、気持ちの悪い鈍い痛みがありました。私の頭を、後ろにおられた看護婦さんが動かないように押さえておられました。私は前の金属の面みたいなものに押さえつけられてそれが額に食い込んその方が痛かったです。「四重に裂孔の周りにレーザーを照射した」とおっしゃっていました。
 一応手術が終わり、1週間後にもう一度診せに来るように言われました。私はその日のうちに医者へ行ったのでよかったようです。医学の進歩に感謝しなければなりません。一昔前なら私は確実に失明していたことでしょう。
 約58000円の請求でした。私が入っている生命保険が一日入院でもお金の出るものなら請求できるという説明を受けましたが、残念ながらそんなものには入っていませんでした。3割負担ですから20万円近くかかる手術と治療だったことになります。一度にこんな高額の治療を受けたのは初めてだったのでびっくりしたのですが、それでも失明するよりよほどましです。
 今、右目は小さい炭の粉のようなものがいっぱいあるように見えていて、その中をフワフワ糸くずのようなものが浮いています。そして明るい電灯などを見ると周りがぼんやりピントがあっていないように見えます。視力も若干落ちたかなと思います。この後ずっとこの状態なのか少しは改善されるのか分かりませんが、少なくとも写真を撮る時ファインダーをのぞく目は右から左に変えた方が良さそうです。
11月19日(土)
おじさん?
 下に書いた「知らぬが仏」読み返して、気がついたことがある。
 「おじさん」と書いたのだが、これを読まれた方は何歳ぐらいの人を想像されたであろうか?実は私も相当立派なおじさんである。まあ、孫がいないので実質的には「おじいさん」ではないが、同年齢の人に中には「おじいちゃん」と呼ばれている方もおられるであろう年齢である。その私は私よりおそらく上であろうと思われる方を「おじさん」と書いた。無意識のうちに自分はそういう「おじさん」の仲間ではないという意識があるのであろう。私が見た方は60才を少し越えたかなという方であった。自分が20才頃には、30才の人は十分「おじさん」であった。60才を越える人はやはり「おじさん」ではなく「おじいさん」と感じていたように思う。
 世間一般には「おにいさん」「おじさん」「おじいさん」の境目はおおよそいくつなのだろう?
 私は寿命も延びたことだし、16〜30才までが「おにいさん」。31〜45才までが「若いおじさん」。46〜60才までが「正真正銘のおじさん」。60〜70才が「年季の入ったおじさん」ではないかと思う。それ以後はやはり「おじいさん」だろう。まあ、この名称は大人の男性を家族と見立てて呼ぶ言い方であろうから初めは価値的な意味はなかったのであろうが、人間誰しも若く見られたいから、境目あたりの時に「いやいやまだまだ」と思ってしまう。
 また、こういう呼び名は見かけの問題であるので、必ずしも年齢だけでは判断できないが、まあまあこういうところかなと思う。
 「オヤジ狩り」などといういやな言葉や犯罪があるが、これは何歳ぐらいの男性がターゲットなのだろうか。中高生の親世代=親父・親爺のことだろうから、やはり30代後半から50才前半の男性なのだろう。
 他人のことを「おじさん」と書いている自分はおじさんではないと思ってるのだなと気づき苦笑してしまった。
11月8日(火)
知らぬが仏
 京都市内の銭湯での話。初めて行った銭湯でした。なかなか設備の行き届いた銭湯で色々楽しんで入っていました。私は薬風呂にゆっくりつかっていました。その前に泡風呂がありました。
 そこへおじさんが入ってきました。おじさんは掛かり湯し始めたのですが、タオルを湯船につけたかと思うと思い切り男性のフロント部分を洗いそれをまた湯船につけこの行為を数回繰り返しました。「こら、おっさん!何してんねん!汚いやないか!」とエチケットにうるさい私は気が弱くてよう言いませんでした。そして、「絶対あの泡風呂には入るまい」と堅く心に誓いました。しばらくしておじさんは上がりました。
 その後すぐこれまた先ほどのおじさんと同じ年頃のおじさんがその泡風呂に入りました。そのおじさんしばらくすると、何を思ったのかその泡が出ているところに顔をつけたではありませんか。「おい!その湯あかんで!さっきおっさんが、チンチン洗ったタオルつけてたで!」いくら親切な私でも、それだけは言うまい、武士の情けや(どこが?)と思って何回も顔をつけているおじさんを見てました。そのおじさん、、しばらく前に流行った泡で肌が美しくなる美容法のつもりなんやろうけど、汚いことこの上ないことを楽しんでました。まあ公衆浴場で湯船に顔はつけんほうがいいと私は思うのですがどうでしょうか。
10月23日(日)
雨?
 昨夜日本シリーズを見ました。井川が打たれて阪神が5−1で負けているのを見ているうちに寝てしまいました。最後まで見ずに今朝新聞で10−1の濃霧コールドだったことを知りました。
 見ていて思ったのですが、ロッテの1,2番の若手はなかなかやりますね。きっと給料は少ないでしょうけどああいう若い人の活躍は楽しみです。1番の西岡のプッシュバントは見事でしたし、井川に球数投げさせて四球を選んだのも見事でした。2番の今江のHR・そして二塁打売った後の歓喜ぶりは初々しさを感じました。プロですから打って当然という顔する方がいいのかな。でもああいう姿見ると野球を楽しんでるなとか、一所懸命だなと感じます。ヤンキースの松井は、HR打ってもガッツポーズをしないそうです。相手のピッチャーに対する思いやりだそうです。それはそれで達人の域に達しているのかなと思います。その松井が本塁へ帰ってきて跳び上がって喜んでいる姿を見るとやはり感動します。高校野球のひたむきさに通じるものをプロ野球選手の中にも見られると感動するのかな。
 巨人の堀内監督は本当に気の毒だったなあと同情してます。走れない、守れない、プライドの高い、わがままで協調性に欠けそうな4番バッターをたくさん押しつけられました。しかも給料に見合うだけの活躍はしてくれないのですからどうしようもありません。それでシーズン最後の方では「若い人を使え」とは何事かと思います。使えないような状況を作ってたのは一体だれなのでしょう。収入や人気・現役後の生活を考えたら巨人ブランドに守られるということがあって巨人へ巨人へと風が起こるのでしょうが、巨人ファンだった私は江川事件以来白けていましたが最近ますますそうです。今年の巨人の低迷ぶりをそれ見たことかと思っています。巨人生え抜きの人気実力ともある選手を育てることこそと思うのですが。原監督はいい人だなという印象を持ちます。新鮮で溌剌とした生きのいい若手にチャンスをあげて新生ジャイアンツを作って欲しいものです。
 それにしてもバレンタイン監督はすごい!昨夜の解説で西武の松阪が「監督が変わるだけでチームがこんなに変わるのかと思った」という発言をしていましたが、相手チームの主力にそう思わせるのがすごいと思いました。でも、バレンタイン監督にカメラがターンするたびに「つばを吐く」姿が映るのは何とかならないでしょうか。気になって仕方がありません。ベンチの通路に吐いているようなのですが選手は気にならないのでしょうか?グランドにつばを吐く姿もどうも気になります。大リーグではひまわりの種を食べていてその皮を吐きだしているというのを聞いたことがありますし、ロッテの選手がガムをかんでいるのは宣伝かなと笑えるのですが、私だけかな気になるのは。
 急に気温が下がってきました。昨日は家の中にいると肌寒い感じがしました。降水確率も高そうだったので出かけるのはやめてコタツを出す準備をしたり、秋冬物を出して夏物を片づけました。本当はこの休み中にしなければいけないことが、いくつかあるのですが、どうもやる気が起こりません。昨日は家の中でグズグズ時間を過ごしてしまったので今日はどこへ行こうかなと朝風呂を楽しんで朝ご飯を食べ終わってしばらくしたら雨。それはないやろと思いながらPCに向かって書いてたらとりとめもないこんな日記になりました。おしまい。では雨もあがったようですので出かけることにします。どこへいこうかな。
10月21日(金)
コスモス摘み放題
 10月16日(日)滋賀県へ出かけました。永源寺・石塔寺・と石仏を見て、日野町にあるブレーメの丘へコスモスを見に行きました。ブレーメの丘は農業公園です。ドイツ風の建物とコスモスがよく似合っていました。
 その入り口付近にもやはりコスモス畑があって、「摘み放題200円」の看板が出ています。さて、摘んでも京都まで保つかどうか心配だったのですが摘んで帰ることにしました。色とりどりのコスモスを40〜50本摘みました。新聞紙にくるんで、水につけビニル袋に入れて下さいました。この後湖東三山の百済寺近くにある近江温泉の日帰り入浴を楽しんで帰ってきました。
 さて、コスモスはどうだったかと言いますと帰ってきた時はあかんかな状態だったのですが水切りしてバケツにつけておいたら見事に蘇りました。今私の家はコスモスがいっぱい咲いています。国語で「一つの花」を読んでいます。出征するお父さんが、プラットホームのごみ捨て場のようなところに咲いていた一輪のコスモスの花を「一つだけの花、大切にするんだよ」と託して戦争へ…という話です。コスモスは宇宙の意味があり、大変生命力の強い花だということ、改めて実感してその話をしながら昨日は授業しました。 
10月1日(土)
水彩画を描く
 9月の初めに丹波八木町にある『清源寺』というお寺へ行きました。ここに木食の最晩年の十六羅漢像があります。
 円空と木食は江戸時代に仏像を彫った人たちですがどちらかとういうと異端扱いで決して美しい仏を彫った人たちではありません。円空は修験の僧としての造仏だったようです。ですから苦行の一つという性格を持つ造仏です。木食の方は巡礼して廻国することに意味を見いだす遊行だったようです。木食戒と仏像彫刻がどういう関係になるのか分かりませんでしたが、お寺の古記録を読んで、木食が何をしながら全国を廻り、どのように仏像を彫っっていたのかイメージが湧きました。それにしても89歳で全国を歩き回り仏像を彫り続けるその体力と精神力に驚きました。
 「清源寺木食十六羅漢」のページをぜひ作りたいと思ったのですが、肝心の羅漢さんの写真は撮影禁止です。仕方がありません。自分で描くことにしました。水彩に挑戦してみました。もとより絵を習ったこともなく公開するのはあつかましいかぎりですが、自分のHPだということに甘えて他人様に見ていただくことにします。
 今回は苦肉の策という側面があったのですが、できたら絵もじっくり描いてみたいなと思います。
 
9月28日(水)
飛鳥資料館
 
 飛鳥資料館へ初めて行きました。飛鳥資料館に石人像や須弥山石が東京国立博物館から帰ってきていると知ったからです。もう相当前からあるようなのですが、私は知りませんでした。飛鳥資料館の庭にはその石人像や須弥山石のレプリカが置かれ実際水を出して噴水の役目をしていました。もちろん館内には本物も置かれていました。また「猿石」など飛鳥の石像もあり、裏側の顔もしっかり見られます。これも初めて見るものがあっておもしろいなと見惚れました。酒舟石には2種類あって、もともと飛鳥にあったものの1つは現在京都にあるとか。(どこ?)
 館内で思いがけず陳列されていてびっくりしたのが「古法華三尊石仏」のレプリカでした。加西市で本物の納められている収蔵庫までは行き着いたのですが、実物を見ることはできませんでした。画像でみる古法華三尊石仏は、大切な三尊が欠けているあまり魅力を感じないものだったのですが、レプリカは周りの塔やその他動物など生き生きと彫られており「へえ〜、こういうものだったのか」と息をのみました。
 この資料館、山田寺東回廊の展示があったり、キトラ古墳の展示があったり古代史ファン飛鳥ファンには必見だと思います。DVDの説明画像も充実していて全部見たくなるものでした。入館料260円は安いと私は思いました。 
9月13日(火)
親鸞のこと

 しばらく前から親鸞に興味があって、本を読んだり、京都の中に足跡のあるところを訪ねて写真を撮っています。「伏見と道元」というページを作ってから次は親鸞だと決めていました。だから1年半前から親鸞だと思っていたことになります。なぜそう思っていたかといいますと、親鸞が伏見区日野の出身だと言うことと同時に私の先祖がいつからか浄土真宗本願寺派の門徒だからだと思います。私の先祖は親鸞の教えの何に惹かれて門徒になったのか知りたいと思ったのです。私は「ナムアミダブツ」と拝まなければならない時には言います。でもお葬式でもお寺で数珠を持って手を合わせる時でも「南無阿弥陀仏」とは言いません。何も言いませんし願いませんし、あえて言うと意識を集中するために手を合わせているのだろう思います。いわんや阿弥陀仏に南無しているわけではありません。
 私の興味から言いますと真宗のお寺へ行くことはまずないのです。真宗のお寺はおもしろくないのです。仏像がない、建物も江戸時代以前のものはない(西本願寺は違いますが、非公開でおもしろくない)。庭が美しく花が美しく咲いていることもない(東本願寺渉成園は美しいと思います)。真宗のお寺に魅力的な何かを感じることことがないのです。
 肉食妻帯を最初に公言した親鸞、自分は「煩悩具足の凡夫」だと言い切る親鸞。興味津々です。
 もうしばらくしたら「親鸞の足跡in京都を歩く」公開します。又読んで感想を聞かせてください。
 東西本願寺の出版物を買うために訪問しました。結論を言うと東本願寺の方が読みたい本が多いです。清沢満之、暁烏敏などの哲学者、宗教家を輩出した東本願寺の方が教学・出版に熱心なのかと門外漢の私は考えました。 
9月11日(日)
ビッグスクーター
 昨夕、ビッグスクーターが来ました。名前通り確かに大きいです。狭い家のどこに置くかで頭悩ましています。200kgの重量だそうでかなりの重さです。夜に乗ってみました。快適です。慎重に運転したいと思います。もうええ年なんやからと言われ自身も自覚しているつもりです。
 さて、1000kmまでは慣らし運転をしてタコメーター5000を越えないようにと書いてありました。これも守りながら大事にと考えています。
 どういう使い方するかゆっくり考えて楽しもうと思います。
 スクーターの名前は「Gマジェスティ250」。白にしました。
8月14日(日)
HP開設3年目
 HPを開設して今日で3年目を迎えました。1年で約10000件のアクセス、2年目で約30000件に。そして3年目の今年は53000件のアクセス数になりました。
 初めた時は「京都落語地図」に2つのページ、「かばのお話」に1ページ、「子どもの詩」に1ページ「京都の赤レンガ」に1ページでスタートしました。その後自分の興味が広がるにまかせて次々部屋を増やしてきました。「何がしたいの?」と聞かれたことがあるのですが、要するに自分が興味のあることを自分なりに表現する手段としてHPを利用してきたということだろうと思います。
 もっと上手に写真で表現したいと思います。
 夏休みに入って3件、写真を本に使いたいという依頼がありました。こういう以来は以前にも4件ありました。たぶん写真家を雇って取材させたら費用がかさむのでHPで手頃な写真がないかと検索した結果の依頼なのでしょう。もう1件おもしろい依頼がありました。ラジオ局からで、お地蔵さんを研究しておられるようなので地蔵盆のことを話してくれないかというのです。返事迷ってます。ラジオに出るのはおもしろそうですが、地蔵盆について思い出は語れても、地蔵盆そのもののことについて詳しいわけではないので返事に窮しています。
 それから、2005年以前に作成したページは、自分のPCからCDに移したため変更しにくくなっています。間違いを見つけることがあるのですが、もういいわとそのままにしてます。例えば最近も伊賀上野へ行って「伊賀越え」をした家康は「柳生街道」は通らなかったのではないかと?になりました。弥勒菩薩が如来になるのは5億年後と書いたりもしています。
 また、タイトルが重なるために、2005年度に作った大分の石仏巡りのタイトルがとんでもないところに出ています。これも邪魔くさいのでそのままになっています。 
 そんなことですので、くれぐれも私のPCに書いてあることが正しいと鵜呑みにされませんようによろしくお願いします。
 HPという発表の場があることでずいぶん楽しませてもらいました。これからも楽しもうと思っています。開設当初からお付き合いいただいている方、初めてのぞかれた方ありがとうございます。これからも時々のぞいて感想など聞かせてください。
8月9日(火)
二輪免許卒業検定

珍戦記
 8月8日(月)晴天。教習所へ8時40分到着。コース発表。今まで1回しか走ったことのない2コースという表示(1,2コースの2種類)。一応覚えてきてはいるが不安。9時10分から卒業検定の説明。ビデオを見ながら説明を受ける。あかん、このビデオでも酔いそう。何をすれば減点になったり検定中止になるかの説明見ている間に、私が練習中に失敗した数々ばかりで、不安が増大し自信が無くなる。いっしょに受ける人は十数名。他の人は落ち着いて見える。
 そして、いよいよ検定開始。私は3番目。最初の人がスタートした。スムーズに行っていたのに、クランクで転倒し、検定中止。実は私もクランクが苦手。益々不安。
 いよいよ私の番。手のひらに汗をかいている。「6番小宮山さん、スタートしてください」。の合図で、検定が始まった。さあ、バイクに乗ろうと思って自分のゼッケンを見たら、何か変。ヒラヒラしている。よくみたら、右側のヒモが垂れている。確か結んだはずなのにと手でさぐるが見つからない。いっしょに待ってた若い子に、「私のヒモあります?」と尋ねたら、なんと、自分の来ているジャンパーのヒモとゼッケンを結んでいた。その子が、「ボクほどきます」と言ってくれた。「あがってるのかな」いや立派にあがってる。ゼッケンを結びなおして、いざ乗車。乗車の手順はなんとか○。
 でも次がとんでもないことに。…スタートしたのにギアチェンジが出来ない。???…?が10個ぐらい頭をよぎった。そこで「小宮山さん、検定中止です」と言われると思った。後から分かったのだが、クラッチを握り続けていたために車輪が回転しなかったのだ。やっと走り出した。しかし、坂道発進でエンスト。もう泣きたくなった。坂道発進だけは自信あったのに。
 コース間違いを2回した。これも珍しいと思う。少なくとも私が受けている時に誰もいなかった。そのたびに「6番小宮山さん、コース間違ってます」とアナウンスがあり、指示が出て余分に走った。ようこれだけスカタンするなと、自分でも呆れた。その後はもう無茶苦茶。何度もウインカーを遅く出したり、消すのを忘れたり。もう数え切れないほど失敗の連続。でも不思議に「クランク」「八の字」「スラローム」「一本橋」は失敗なく通過。特に「クランク」は今までうまくいった方が少ないくらい。そして、いよいよ最後の難関、急制動。これを何回も失敗してきている。結果…ここで、検定は終わった。赤ランプがついて「6番小宮山さん、検定中止です。発着点へ戻ってください」のアナウンス。10時45分検定終了した。ここをこえてたら、もう後は発着点へ戻るだけだったのだが。
 しかし、正直な感想言うと、検定の係りの方はよく我慢してくださったと思った。
 でも、悔しいのには変わりない。検定された方が、その後指導してくださった。直接的には「急制動がダメ」だったのだが、「右折でフラフラしてた」「ギアチェンジが無茶苦茶で、4速になってたりしていた」など言って下さった。「課題はこなせていたから、がんばるように」励ましてもらった。
 次受けるための準備にかかった。1時間の補習後に再受験になる。幸い8日(月)3時からキャンセルがあって、補習を受けられることになった。そしてうまくいけば火曜日に検定が受けられる。その手続きをして、3時まで植物園へ行くことにした。写真を撮りながら、時間を過ごした。3時からの補習はうまくいった。教官は「今の感じだったら、受かりますよ」と言って下さった。補習料と再受験料で7350円。
 翌9日(火)もう1回経験しているので、昨日よりは落ち着いている。しかし、今日不合格になったらどうしようかな?という昨日と違うプレッシャーがある。昨晩家族のものに、珍戦記を話したら、特にゼッケンのところが大受けであった。話の途中で「そらあかんわ」と言われた。自分でもそう思う。
 いよいよ本番。今日は走り慣れている1コース。ラッキーだった。「2番小宮山さん、コース間違いです」のアナウンスはなかった。「クランク」は一度足を着いたがあとは順調だった。最後の急制動。1回目スピードが不足していて、やり直し。ヤバイ!昨日はもう減点ぎりぎりだったので急制動1回でアウトになったのだ。今日は他のところで減点が少なかったのでもう一度チャンスがきた。周回して、もう一度チャレンジしたら、青ランプがついた。後は、発着点へ戻るだけだ。何とか最後まで行けた。昨日励ましてもらった場所で、「合格です」と言ってもらえた。「急制動」は途中でスピードが落ちたのでやり直しになったことと、上半身に力が入りすぎているから時々「ふらつく」という指摘があった。 「よかったですね」教官の方に言ってもらって、帰ってきた。
 ああ、入所から2ヶ月半。これで教習所通いから解放される。今日6時半から「卒業証明書」をいただきに行く。そして、免許の書き換えをしたら普通二輪に乗れることになる。
 うれしいというより、ほっとしたほうが大きいかな。私の二輪免許取得の珍戦記オシマイです。
 
8月7日(日)
生活綴方夏期講座へ
 研究会案内でも紹介しているのですが、8月20日(土)に第30回生活綴方夏期講座が開催されます。
 30回になるのだなと感慨深いものがあります。日本作文の会の大会を共催した年が3回あり、その年は夏期講座を中止しました。ですから私たち京都市つづり方の会・京都綴方の会は33年目を迎えています。実はこれは私の教師生活の年数と一致します。私が教師になった年に2つのサークルが発足して、京都における生活綴方教育運動の歴史が始まったのです。
 ところで、今年の夏期講座では、私が講演をすることになりました。自分のサークルの大会や研究会で実践報告をすることはあっても講演することはありませんでした。よほど人がないのだろうということになるのですが、私としては名誉なことだと考え引き受けることにしました。
 しかし問題は私が講演をして人が集まるのかという問題です。
 講演準備のために、自分が担任してきた子どもたちの作文や詩を読み直しています。ああ、こんなことがあったなあとかこんな作品を書いていたのだなあと楽しく読み返しています。来ていただいた方に子どもの作文や詩は楽しいとかおもしろいとか、私もやってみようとか思っていただくのが私の役割になるのですから気の重いことですが、自分の仕事をふりかえるよい機会になっています。
 私が出会った子どもたちの作品をPCに取り込んでいます。私は子どもの詩や作文を読むのは好きですが、とりわけ自分の担任したクラスの子らのものが好きです。自画自賛してしまいます。謙虚さがなく傲慢なのでしょう。今作品集が作れないかと考えてます。
 それにつけてもひとりでも多くの方に足を運んでほしいと思っています。これを読まれた方、ぜひぜひ人助けだと思って来て下さい。お待ちしています。 
8月5日(金)
所変われば前橋の巻
 日本作文の会・群馬大会が前橋の県民会館(全体会)と群馬大学で開催されました。
 全体会では滅多に講演されない星野富弘さんのお話を聞くことが出来ました。そのことは又ゆっくり書くことにして。
 前橋は人口32万の県庁所在地です。私が宿泊したビジネスホテルはケヤキ通りという駅前のメインストリートに面した場所にあり駅から5分の立地条件としては最高のところでした。ところがこの周辺はどうも人の集まらない場所のようで、お店にシャッターが降りていて営業されてないところが多いようでした。高崎に新幹線が通っていて、この駅前のにぎわいは都会を感じさせましたが、前橋はすっかり黄昏れている印象でした。
 2つ目に思ったことです。この町はマイカーがないとくらしにくい町だと言うことでした。群馬大学にも大きな駐車場があって、学生も通学に車を利用しているようです。何しろ夕方6時まわると、大学前からのバスはないのです。動いている時間帯でも本数は少ないようです。私はタクシーに乗るしかなかったのですが、このタクシーが流していない。タクシーは流しているのをひろうものだと思っている私のような人間は、大きな通りに出れば何とかなるだろうと思います。しかし、全然流していなくて、結局タクシー会社の名刺を持っている方に電話番号を聞いて携帯で電話をかけ来てもらいました。20分かかりました。「そりゃ京都は観光都市だからタクシーもいっぱいある」と言う説明にあらためて自分のタクシー感覚は案外少数派なのかもしれないと思いました。
 3つ目。働いている人は病気になったらいつ病院に行くのかなと思いました。実は1週間ほど前に京都で擦り傷をしてガーゼの交換をしてほしくて前橋で病院を探しました。ホテルのフロントで伺ったら、「まだやってるかな?」とおっしゃるので?になりました。金曜日の6時前のことです。結局、食事の場所近くで捜すことにして、お店で伺うと親切に自転車まで貸してくださいました。病院に着いたら、何と6時で終わっていました。20分オーバーでした。平日は午前中の診療と午後は3時から6時までとのことでした。前橋のすべての病院がそうなのかは分かりませんが、夜診療されてないのなら、働いているものは、休みをとって午前中なり午後に医者に行くと言うことになるのでしょうか。これは全国的にはどうなのでしょう?京都のような診療形態(午前中と夕方5時頃から8時頃まで)の方が少ないのでしょうか。
 
7月26日(火)
右も左も
 普通二輪の教習もいよいよ最終段階に近づいてきました。補習がなければあと2回で予定の教習が終わるというところまできました。
 昨日、もう終わったと思っていたシミュレーター教習がまだありました。それも丁寧に2時間続きであったものですから、もうダウン寸前でした。私は人が乗っていて画面が動くのを見ても酔います。自分が乗るまでに人のやっているのを見ていた方が予測がついて都合がいいのですが、そう言う余裕はありません。始まって5分と経たないうちに冷や汗とあくびがはじまりました。体調も悪かったのかもしれません。自分が乗る頃には嘔吐寸前の状態で、それでも2時間で4回乗りました。ギアチェンジとブレーキ操作の練習、交通規制に沿った練習、夜間走行の練習、最後に高速道路の走行練習です。大体5分ぐらい走るのですが、最後の高速道路の走行ではもうやけくそでした。このシミュレーションは現実にはそんなことないやろという設定がしてあって、事故を起こすように起こすようになっています。余裕のある時はそれを楽しむことも出来るのでしょうが、私は体調が悪いもので何もかもが腹立たしい。こんな高速道路あるか!とか、そこで、人や車が飛び出すか!とかツッコミを入れながら教習が終わりました。
 これで酔うと、次の日までひきずります。実は今もまだ少し酔った状態です。よほど三半規管が弱いのでしょう。子どもの頃よくバスに乗ったら酔いましたから。
 もう一つ、自分の弱点を再確認しました。これは前から気づいていたのですが、私は右と左をよく間違えます。このHPのページの中にも左右逆に書いているものがあります。私は3年生頃まではっきり左右が分からない子でした。いくら「お茶碗もつほうが左、お箸持つ方が右」と言われてもそれを覚えることが出来ませんでした。シミュレーション教習の中で、「次の交差点を右へ曲がってください」というアナウンスに「右?右?右ってどっち?」と迷ってしまいました。車に乗っていても「次の信号左やったな」と違う方を言うことがあります。「右も左も分からん困ったヤツ」なのです。
 年齢を重ねると、後年獲得したものからはがれ落ちるように失っていくもののようで、「高いところへいくと足がすくむ」高所恐怖症も徐々に顕れてきたようです。運動面でも「鉄棒」「マット」などの器械運動系は全くダメになってきました。これも4年生ぐらいからできるようになったことでした。
7月3日(日)
普通二輪免許奮戦記

 私のように自動車の免許を持っているものは、普通二輪の免許を取るには、最低第1段階9時間、第2段階8時間の教習を受けなければなりません。入所から1ヶ月経過しました。9時間教習を受けることが出来ました。そしておかげさまで補習することなく第1段階を通過しました。年寄りががんばってるので、まあおまけで通してやろうということもあるのかと劣等生の私は考えています。若い人が乗っているのを見ていると実にスムーズです。私はというと、肩に力が入って頭でギアチェンジやブレーキ操作を考えてから実行しているのでぎこちないかぎりです。
 困ったことその@は、シュミレーターというTV画面を見て教習する時間でした。酔うのです。気分が悪くなって吐きそうになりました。もう1時間やらなければならないのですが、かなわんなと思ってます。ゲームセンターでああいうゲームになれている人は、大丈夫なのかなと思いましたが…。
 そのAは、バランス走行でした。クランクも1本橋も難儀しましたし、今も100%成功する自信はありません。ニーグリップ(膝でバイクを抱え込む)をすぐ忘れるのです。そして近くを見ているのでバランスを崩してしまいます。スラロームといういわゆるジグザグ走行では、8秒がなかなか切れません。バンクと言って車体ごと体を倒すというのが怖いので、スピードアップできないのです。時々バイクの人が普通の道でスラローム走るようなジグザク走行しているのをみて、「アホチャウカ」と思って見てましたが、あれは、練習乃至復習してるのですね。初めて分かりました。
 でもやっぱり一番困るのは予約です。前にも書いたのですが、私は毎日でも通って一日でも早く取りたいと思っているのですが、1ヶ月で9日しか予約できなかったのです。先週水曜日に第1段階合格して次の予約が来週火曜日にしかできないのです。そしてその後の予定は入れられないのです。 実は先々週の土曜日に電話をかけた時に、「こんなことではいつになったら免許が取れるのか不安だ」と申しましたら、「そういうことでしたら…」と言って先週は月・火・水と3日続けて教習が受けられました。それで、先週のうちに第1段階を通過したのです。これって?でしょう。そういう枠を作っているとしか思えないのです。「今混んでいますので」と必ず「申し訳ありません」と言うことばがついてくるのですが。私の通っている教習所の教官の教え方は上手だと思いますし親切ですので、何の不満もありませんが、予約システムには不満です。こんな時代ですからPCを使った予約もして、予約をオープンにしたほうがよいと思いますし、入所者が多すぎて捌ききれないのなら入所制限して、すでに入所しているものの教習時間を確保することを優先すべきだと思うのですがどうでしょうか。せめて1週間に3回は通えるようにすべきだと思います。今のままでは週間に1回か2回しか乗れないのです。
 私、あと最低8回は通わないといけません。7月中に免許とれるでしょうか?多分何回か補習が必要でしょうから、目標を8月いっぱいに変えた方がいいかもしれません。いつになったら乗れるかな。
  
6月25日(土)
子どもと銭湯
 クラスの子どもたちといっしょに銭湯へ行った。私が浴室へ入っていったらすでに7人の子らが水風呂中心に遊んでいた。「先生、Hくんな、鼻血2回もださはった!」という報告から始まった。聞いたら約束の5時よりも20分も前から入っているのだそうだ。そう言えば、場所の分からない子は学校集合だったのだが、4時半から私を誘いに職員室へきていた。
 私がサウナに入っていったら、鼻血の世話をしてくださった方が、詳細を話してくださった。「ありがとうございました」とお礼を申し上げた。その方は、いっしょにサウナに入っていたやせ気味の子に「わしもこの子と同じで鉛筆みたいにやせてた。お前、あんまりご飯食べへんやろ」等と話しておられた。この方は子どもといっしょに風呂に入るのを嫌がっておられない方だと分かる。
 電気風呂で「うわー、ビリビリや」と歓声あげる、水風呂やサウナで名前言い合いながら我慢比べする、ジェットで2人入って「入らんといて」などと騒ぐ、水風呂へ入ろうかどうしようか躊躇している子を後ろから押して「●●くん、止めて」…それはそれは騒がしい。そして私たちが行った銭湯には水風呂に「氷」が入り込むようになっていて、これに子どもは釘付けになる。銭湯は子どもが騒げる要素満載の場所なのだ。子どもたちは、お風呂に入りながらその子どもらしさを十分発揮する。
 掛かり湯はしなくてはいけない、タオルは浴槽につけない、銭湯内で走ってはいけない、騒いで他のお客さんの迷惑にならないようになどの一応の注意はして連れて行くのだが、何が迷惑なのかは応用問題で、例えば水風呂に潜って上がってきて思い切り頭を振ってる子は、その水しぶきが他のお客さんにかかっていることに気がつかない。この子は、水をかけられたおじさんに「だれや、わしに水をかけたヤツは」と言って水をかけらていた。
 私と子どもたちが水風呂の所にいたら、「M小学校(私の勤務校の名前)の子どもは、静かにお風呂に入る」とわざわざ言いに来て下さった方もおられた。「その通りです」としか言いようがなかったが、この方も好意的に子どもたちを見て下さっているのが分かった。そして、子どもの行き過ぎを諫める力がこの銭湯にはあった。たぶん教師が連れてきているということが分かっているということもあってのことだと思う。
 その銭湯に刺青を入れた方が入ってこられた。「先生、刺青や!」(ヤメテチョウダイ、オネガイヤカラ)という気持ちになった。まあ、正直と言えば正直である。しかし小学校4年生ぐらいになれば、こういう発言が「ヤバイ」ことぐらい直感的に分かっていると思う。それをあえて言うのだから、心配になる。「先生、あの人何したはんの?」ではないのである。「君なあ、人に指さされて、『何とかや!』と言われた人、いい気持ちするか?よう考え」と言ったのだが。
 銭湯上がれば、飲み物が待っている。定番のコーヒー牛乳が待っていて、私が上がっていったら、宴たけなわであった。「先生、もう1本のんでもいいか?」と聞く子がいた。「それは、自分のお腹と相談し」と言った。「夕ご飯前やからやめとき」と言うべきだったなと後から思った。「やめといた方がいいで」と他の子が言っていた。
 入湯料150円、飲み物代120円ぐらい。300円弱で子どもたちは堪能して銭湯から帰った。
 翌日の日記に何人もの子が銭湯のことを書いていた。また紹介したいと思う。 
6月13日(月)
教習所の予約
 普通二輪免許を取りに教習所に通っている。できれば毎日でも教習を受けたいのだが、なかなか予約できない。仕事帰りに行くつもりでいるのだが、3コマしか枠がないのでいつもいっぱいになっている。こまめに電話予約すれば空きがあったりするのかもしれないが、それもしにくい。土日はできれば行かずに取得できたらいいなと思ったのだが、そういうわけにもいかないようだ。1週間経過したが、まだ2時間しかのれていない。今週も1日しか予約できてなくて、不安になってきた。
 先週木曜日に行ったら、教習生4名で教官2人だった。バイクは10台ぐらいある。全部稼働してないから予約が出来ないのかと思った。その前は、教官4名で全バイク稼働していた。ひょっとすると教官の確保が出来ない時はもともとの定員が少ないので、予約できないのかもしれない。入所式には30名ほどの人がいた。毎週これだけ増える。
 果たして、いつになったら免許が取れるのかと、不安になってくる。
6月5日(日)
和菓子
 掲示板で和菓子のことが話題になることがあって、私もこのところよくいただくようになった。今まで食べたことのなかった京菓子を口にするようになって美味しくうれしいことである。
 昨日下鴨本通北大路を通ったので、「美玉屋」さんを捜してみた。美玉屋さんは「くろみつだんご」で有名なお店だ。お店は交差点から東100mほどのところ南側にあった。私がお店に着いたら私の前に2人並んでおられた。そして私が帰る時には私の後ろに5人並んでおられた。適度な行列の出来る和菓子屋さんだ。
 くろみつだんごは黒蜜をかけただんごに黄粉をかけたもので10本入って924円。ばら売りはなしで、この売り方しかない。お店は初めてなのだが、今まで2回食べたことがある。1回目はいただいた。「うまい!」と思った。2回目は大丸の地下で「6本入り」を買ってきた。そして今回であるからわずか1ヶ月のほどの間に3回食べたことになる。何回も食べたくなる庶民的なお菓子だ。
 もう一つこの1ヶ月ほどの間に食べたお菓子に「松風」がある。堀川七条に「亀屋陸奥」という西本願寺と関係のあるお店のものは、信長の石山本願寺攻めの時に兵糧として作られたという歴史をもっている。むっちりしていて独特の歯触りと食感だ。北大路紫野大徳寺前の「松屋藤兵衛」の「松風」は大徳寺納豆が入っていて、これは形がカステラ風だ。納豆の味がアクセントになっている。同じく北大路千本東の「紫竹庵」の松風はパリッと乾いていた。松風にも色々あって食べ比べるとおもしろい。ついでに「紫竹庵」は大徳寺納豆を使ったお菓子が有名だ。お店の中で見本のお菓子(3種)をお茶付きで出して下さる。私は、「雲水」というお菓子を買いに行ったのだが、ついでに松風もいただいた。松風は京都を代表するようなお菓子らしいが、全然知らなかったので私には新鮮なことである。
 もうしばらく和菓子めぐりを楽しんでみようと思う。
5月20日(金)
大長今
 「大長今」って何?の方が多いだろうと思います。私もほんの2週間前はそうでした。これは韓国の歴史ドラマで何と1時間ものが54話(?)あるすごい大河ドラマです。
 私が「冬のソナタ」を見たと言ったら、きっと「大長今」にもはまるだろうというのでこの「大長今」のDVDを貸して下さった親切な方がおられます。私、すっかり虜になってしまって毎日平均6時間ずつ見ましたがな。すっかり寝不足状態で体はしんどいし、頭の中は主題歌が流れてるし、続きはどうなるのやろと気になるしで、楽しい日々を過ごさせていただきました。感謝感激あめあられ状態です。
 しかしすごいドラマでした。「大長今」というのは「偉大な長今」というぐらいの意味で「長今」(チャングム)というのはヒロインの名前です。この女優さんが例によって魅力的でした。時代は16世紀、場所は李王朝内宮。料理を司る水刺官と医術を司る医務院が舞台です。
 あらすじなど書いたら野暮なことですから書きません。
 このドラマで朝鮮の身分制度のこと、李王朝の朝鮮料理のことなどが知らす知らずのうちに分かります。
 倭寇が登場するのですが、これが何とも怪しい輩で、ちょんまげは変な格好してるし、甲冑はちょっと違うし、刀の使い方が全然違うし、すぐ刀抜いて「殺すぞ!」と脅すしで、どうみても日本人に見えません。が、しかし韓国の方達の倭寇観はよく分かりました。現代日本の倭寇研究がどのぐらい進んでいるのかに無知なのですが、私は倭寇は海賊だと思っていました。しかし描かれている倭寇は大名クラスの密貿易を目的にしたかなり組織的な集団だと思えました。
 日本の戦国時代に朝鮮で「長今」のような女性がいて、自分を生かす仕事をしていたというのは何ともロマンのある話でした。日本より男性社会であろうと思っていた韓国でこのようなドラマが制作されていることに驚くと同時に日本にこれに匹敵するドラマがあるだろうかと思いました。
 韓国ドラマのラブシーンは美しい、これは冬のソナタでも感じました。
 そして韓国の子役の達者なことにもびっくりしました。
 「大長今」を見終わって、これで寝不足から解放されるという安堵感と、すごいものを見たという充実感と、そして何とも言いようのない虚脱感と寂寥感が私と妻を襲っております。
5月5日(木)
冬のソナタ
 この連休に「冬のソナタ」を見た。何で今頃なのだが結構はまって見た。20回分で1回1時間以上かかるからまるまる1日24時間以上見たことになる。すっかり「冬のソナタ」症候群だ。見終わってもうお話が終わったのかと思うと寂しい。韓国へロケ地を見に行こうとか会いたいとかは思わないけど。
 いくつかのキーワードを思った。@運命A純愛B旅立ち
 まあ、それだけ次々とよくワクワクするよな、心配させるようなお話の展開が出来ますねと言いたくなるドラマであった。私は続きを見ようと思ったら見られる状態であったが、次週を待つて見ておられた方が楽しまれたであろう事よく分かった。
 私はヨン様は確かに魅力的だと思ったがまあ同性だからそんなに興味はない。チェ・ジウが美しくチャーミングであった。この女優さんは「美しき日々」でもヒロインをしていて、そっちを先に見ていたのだが素敵だった。この女優さんの笑顔がいい。歩き方も走り方もちょっと癖があってかわいい。ドラマの中で一体何回泣いただろう。こんな素敵な人を泣かせるなよと言う気にさせる女優さんだ。
 スーパーへ買い物に行ったらお菓子売り場にチェ・ジウとヨン様の写真があった。ヨン様は写真でも男前だったが、チェ・ジウの写真は意地悪そうで、あれは失敗だと思う。
 ドラマの中だけの情報しかないというのは想像をかき立てられて、余計に魅力的に感じさせる。韓国ではチェ・ジウの色々な情報も流されているのだろうし、日本でも流れているのだろうが、私は全く知らないので、久しぶりにワクワクする女優さんだなと思った。あまり知りすぎるのも夢が無くなるのかもしれない。
 韓国のドラマが流行るのはいいことだなと思った。
4月10日(日)
まるごと国語
 「まるごと国語」という本が喜楽研という出版社から今月出版された。この本は1年生から6年生までのプリント集である。著者は乙訓国語サークルのみなさんで、代表は浅尾紘也さん。
 浅尾さんたちはかれこれ30年近く国語教育のサークルを続け研究されてきているのではないかと思う。国語全般の研究を進めておられるのだが、このサークルの特徴は説明文を含む言語教育について系統的に研究を進めておられることである。文学教育や作文教育に力の入ったサークルが多い中で言語教育についてもきちんとした見識と実践を積み上げてきておられる。
 その研究成果を出版という形で世に問うたのだ。2500円というかなり高額なプリント集である。今なら著者割引で2000円で浅尾さんに連絡すると購入できるそうだ。私は学校で全巻揃えてもらえないかと交渉したら買ってもらえることになった。
 言語教育の大切さはだれでも言うがなかなか実践が進まない中でこの出版は貴重だと思う。
 浅尾さんがHPでその紹介をしている。詳しくはhttp://www.eonet.ne.jp/~asao/osirase.htm。私のリンク集からも訪問できる。ぜひ。
 なお京都はぐるま研究会の春季学習会で浅尾さんが報告されるのでそれも紹介しておく。
 日時:2005年4月23日(土)1時半から  場所:宇治久世教育会館
 内容 ・報告「ことばの力をつけよう!」浅尾紘也 ファクス資料「まるごと国語」の執筆から考えたこと  ・シンポジウム「授業で大切にしたいこと」 参加費500円 連絡先 075−464−5949審良
4月8日(木)
法話
 昨日、法然院へ椿見に行ったら2時から「法話」があるという案内がありました。あんまり椿が美しくて長い時間法然院で過ごしているうちに2時近くになったので法話を聞いてみることにしました。法話は「日本人の宗教心〜仏教と先祖教〜」という題でした。
 このHPの掲示板で「般若心経」のことが話題になっていたのですが、梶田真章住職は釈迦の悟りを般若心経を使って説明されました。「縁起」や「空」について語られました。また日本の仏教の各宗派を自力で悟りに達するのか、他力(仏の力)で達するのか、極楽を死後に観るのか現世で観るのかなどの観点で分析して解説されました。
 日本の仏教は柳田国男の言う先祖教との融合の結果先祖供養をする場所になっている現実を語られました。そしてこれからの仏教のあり方と日本人の信仰についても語っておられました。
 いくつも初めて知ることがあったが「日本で一番お寺の多い都道府県は愛知県」という話にはびっくりしました。私はてっきり京都だと思っていました。お寺は戦国から江戸時代初めに建てられたものが圧倒的に多いようです。信長・秀吉・家康と続く尾張三河出身の天下人の家臣たちが合戦で手柄を立てて俸禄が上がると先祖供養のために寺を建てたそうです。当時一番景気がよいのが尾張三河だったために愛知県が一番というのは納得のいく話です。
 エッセイ「粋花伝」Cが受付に置かれていました。その中に法話の中で繰り返し強調しておられたことが書かれていました。「お釈迦さまが語られたダルマ(真理)をあえて言葉で表すと、『縁起』といえるでしょう。『すべての存在は因縁(直接的原因と間接的条件)が整うことによって存在している。万物は現象として存在しており、不変の実体としては存在していない』という意味です」と書いておられます。
 私という存在も本来の私とかいうものは存在せずそのときそのときの私が、縁によって現象として存在しているのだそうです。私とか私のモノに執着するところから嫉妬や猜疑心が生まれることはだれでも気が付くところです。お釈迦さんの悟りは、人間が楽に生きるための知恵なのかなと思いました。
 1時間半あまり住職の法話を聞きながら梶田ワールドにいました。
 浄土真宗が般若心経を尊ばないのは他力(阿弥陀仏の力)に頼ることを徹底するあまり、悟りを開くことを強調する般若心経の世界が相容れないからだそうです。浄土宗では釈迦の悟りを説明するのに般若心経を利用されているようです。
 仏教もなかなかおもしろいと思いながら聞きました。
2月19日(土)
学校の安全

 「学校は安全ですから、学校で遊びましょう」長期休業中(春・夏・冬)子どもたちに呼びかけたものでした。しかし、こういう呼びかけも、これからはしなくなるのではないでしょうか。比較の問題で、家の前の道や、近くの公園、大型店舗などで子どもが遊ぶより学校の方が安全だとだれもが信じていたと思うのです。
 授業が行われている最中の学校の中ですら、事件が起こり安全が脅かされるという事態に、また学校は守りをかためなければならないことになったなと思いました。大阪教育大付属の事件や京都の日野小事件以後、外からの侵入に対してどう対処するかのマニュアルが真剣に検討されてきています。@名札をつけるA校門を閉ざすB校門と運動場にモニター設置C「さすまた」などの防具準備D不審者に対する対応を教職員に徹底(声をかけるなど)E校内パトロールの実施などです。
 しかし、これらで本当に今回の事件のようなことが防げるのか、児童の安全は守れるのかと言えば、?だと言わざるを得ません。私は出入口に門衛所を設けて専門家の方がチェックする体制をつくることがまず急務だと思います。大阪府知事がいち早くそういう人員配置を指示したことは英断だと思います。
1月9日(日)
谷山清先生のこと
 1月5日(水)に奈良教育大学山田ホールで「学びの園」944号(通刊)到達!!『感謝の集い』が行われました。私は「『ぼちぼちいこか』をモットーにという題で10分のスピーチを」と言っていただき話させていただきました。
 「学びの園」は奈良県下の児童生徒の作文や詩はもちろん全国各地の子どもたちの作文や詩が毎月紹介されている350円という作文教育雑誌です。私のクラスの子どもの作品も何点も載せていただいたことがあります。編集発行人は谷山清先生です。谷山先生は『学びの園』2代目編集長として1986年からこの雑誌の編集を奥様と二人でしてこられました。発行所は学びの園社ですが、実質谷山夫妻しかこの会社にはおられないです。その谷山先生がこの3月で、『学びの園』編集のお仕事を次の方々に引継をされ勇退されることになり、自ら『感謝の集い』を催されたのです。
 送られてきた作文や詩を原稿用紙に書き写すこと19700枚。それを印刷所である奈良少年刑務所へもっていって印刷の段取りをしたり校正したり(月3回)。さらに発送配達の仕事。私のクラスの子どもの作品が載ったら必ず私の分と作者の分(謹呈として)が入っていました。奈良市内など配布できるところには奥様が車を出されていたようです。さらに読者拡大獲得のために奈良県下の小中学校364校のうち354校を訪問されました。19年間これを続けることは並大抵のことではありません。
 しかし谷山先生は、こういうお仕事を「(しんどいなー)とか(いやだなー)とか思ったことはありませんでした。結構気持ちをはずませて、いそいそと取りくんできました」とその記念誌で書いておられます。
 決してもうかる仕事ではありません。むしろ毎号赤字が出ていたのではないでしょうか。
 78歳まで作文教育にかかわるお仕事を続けてこられたことは、幸せなことかもしれません。それもこれも教師生活の頃の理論と実践の力が卓越しておられたからです。先生には「これだけは離すまい」という著作があります。その「これだけ」は生活綴方教育のことです。
 しかし、現役時代によい仕事をしておられたから続けられるものでもないのです。作文教育はその時代に生きる子どもたちのこと親の生活のことなどにいつもアンテナはって敏感でなければ、その良さや価値が見えなかったり、その意味するところが理解できないものだと私は思っています。悠々自適の隠居仕事ではないのです。この点でも谷山先生は見事でした。私は近畿各地で行われてきた作文研究大会に一番熱心に足を運ばれて学び続けておられたのが谷山先生だったと思います。私は近畿作文の会事務局に関わり続けていますので立場上参加することもあります。しかし谷山先生は一参加者として近畿各地の作文サークルの大会や集会に参加し続けられました。これもなかなか出来ることではありません。全国でも高名な実践家と呼ばれる人は講演や助言で他の研究会の大会などに参加されることがあっても、自ら学びに出かけることは希有なのではないでしょうか。谷山先生は自ら出かけて編集者としての感性を磨き続けてこられました。
 私は谷山先生の足元にも及ばないことだらけですが、こういう大先輩とお知り合いになれたことを誇りに思います。誠実さ・まじめさ・愚直さ・一途さ・頑固さ・そして持続する志…どれをとっても一流の人それが谷山清先生です。
 「感謝して招待しなければならない私たちが招待されている」という思いは集いの間みなの心にあったのではないでしょうか。
  谷山先生と私はテニス友達でもあります。なかなか攻撃的なテニスをされます。前衛に谷山先生がおられる時は甘いボールは禁物です。アプローチが好きなのです。ここ1年半ほど腰を痛められてテニスは自重されているようですが、5月から再開されるようです。暖かくなったらぜひ一勝負と思っています。
1月9日(日)
大分の石仏
 昨年末に大分へ行って来ました。
 国東半島の重要文化財熊野磨崖仏元宮磨崖仏、大分市内の元町磨崖仏・岩屋磨崖仏・彩色豊かな高瀬磨崖仏、そして大野川沿いの犬飼磨崖仏・菅尾磨崖仏などは初めてでした。国東半島には多くの仁王石仏がありました。もちろん臼杵の石仏群は抜群でした。
 ゆっくり手の着くところからページを作っていきます。何でも大分にはなんと日本の磨崖仏の8割があるのだそうです。なぜ大分なのだろうと思います。しかも平安時代のものがたくさんあるのです。平安時代のものなら京都にありそうなのに、京都にはほとんどなくて大分に平安時代の優れた石仏があるというのも不思議です。大分=豊後という土地の不思議が分かればおもしろいなと思いながら行ってきました。
 まだよくわからないのですが、石仏に関しては阿蘇山の影響で石材に恵まれたことと、宇佐八幡宮と天台宗・真言宗の影響が大きいのではないかと思いました。
2002年日記 2003年前半日記 2003年後半日記 2004年日記 2005年日記 HPへ戻る