あらすじ京都の町では用事を済ませて帰ろうとすると「あのォ、なんにもおまへんのどすけど、ちょっとお茶漬でも」と言うたらしい。だれもそれで「ほならよばれます」とも言わないし、言う方もまたあくまでお愛想で言うのだから、食べさそうとは思っていない。ある大阪の男、この茶漬をいっぺん食べてやろうと電車賃払って出かけてくる。昼食前をねらって顔見知りの家に入る。あいにく主人は留守で、その嫁さんが応対に出る。色々昼食を出すようになぞかけをするが、嫁さんは動じない。それもそのはず元々一膳分のごはんしかおひつにはないのだ。 男はしばらく亭主が帰ってくるのを待つが待ちきれず、帰るつもりを告げると、そこまで我慢してた嫁さん、「何にもおへんのどすけど、ちょっとお茶漬でも」と言ってしまう。男はこの言葉を待っていたのであるから「さよか、えらいすんまへん」とすわり直す。女房はさんざん苦心してようようあつめたご飯一膳分にたっぷりお茶をかけ、漬け物をそえて出す。男はもう一杯ほしいと思いながら茶碗を褒める。そして、「ああー、こんなん大阪へみやげに五つほど買うて帰りたい。このお茶碗は、どこでお求めになりました」と問うと、嫁はんも負けずに空のおひつを突きだして、「これと一緒にそこの荒物屋で買うたん」 |
新京極四条側入り口 | 午前中の新京極。夜は修学旅行生などで賑わう |
男「この辺にあの、なんかちょっと食べるもんとってもらえるような家おまへんやろかなあ、う、うどんやでもええんですけどなあ」
嫁「鈍な所どしてなあ、この辺は、なんにもあらしまへんのどっせ。あの京極のほうへでもお行きやしたら、結構なお店がぎょうさんいおすねんけど」
男「へえへえ、京極たら、新京極たら、良えとこやそうですなあ、近いんですかいな・・・ああ、だいぶ離れてる・・・アァさよか・・・あかんな、これは」
*新京極はかつては誓願寺や金蓮寺などが並び、境内に芝居小屋や茶屋などのある門前町だった。1872年(明治5年)当時の知事槇村正直が各寺地の一部を収公し、三条から四条間を京極大路(寺町通りの古名)の近くなので新京極と名付けた。1908年の南電気館をはじめ映画館が建ち並び、繁華街となり、現在は土産物店街になっている。この落語では、新京極から大分離れていると言っているから、さて、京都のどのあたりでの咄になるのだろうか。わたしは西陣を想像するのだが・・・。
米朝さんはまくらでよく「この咄は京都ではやりにくいのですけど」とおっしゃってから咄に入られる。「京のお茶漬、高松のあつかん」ということばがあったらしい。高松のあつかんは、客が帰ろうとすると「まあよろしいがな、あつかんで」と言う。「熱燗で飲ましてくれるのか」と思て腰を下ろすと、何も出てこない。これは「まあよろしいがな、扱わんで(もてなさないが)」のことらしい。「京の茶漬」は京都という土地が大阪から見ると見栄や体裁を表に出して実のない連中が暮らしてるしぶちんのぎょうさんおる土地やということを言外ににおわしている咄である。
京都の人間は言葉で言うてることと、腹の中が違うとか、ことばや表情はやわらかいけど、ようく聞いてるとえげつないこと言うてるとか言われる。まあ、この咄は大阪から見た京都の風土を表現した落語だと言えよう。
実際京都に「まあ、お茶漬けでも・・・」という風習があったのかどうかは知らない・・・いや、あった。確かこのサイトの表紙にも・・・。