本能寺
(上方落語の芝居噺)

あらすじ

幕が開きますと言うと、本能寺の塀外です。土塀が並んでいる前で坊さんが二人、ごじゃごじゃしゃべって入ってしまいます。・・・チョンと柝(たく)が入って、土塀が二つに割れまして、左右に引かれますと、後ろが本能寺の奥書院の間。高二重、そこの諸士が八人ほど並んでおりまして、平伏しているところに小田春永が、森蘭丸、力丸という兄弟を従えて出てくる。そこへ光秀が登場してまいりまして、眉間割りがあって、舞台が回りますと、森蘭丸が手負いになって、藪畳を切り破って出てくる。後、大立ち回りという、古風なお芝居でございます。(米朝落語全集6巻・マクラの部分での米朝師の説明)

■落語の登場人物と歴史上の人物

「本能寺の変」を扱ったこの噺、歌舞伎で歴史上の人物名を使うことが許されなかったため名前が変えてある。
・織田信長・・・・・小田春永
・明智光秀・・・・・武智光秀
・羽柴秀吉・・・・・間柴久吉
・加藤清正・・・・・佐藤正清
しかし、今川義元、柴田勝家、森蘭丸、力丸、毛利の三家らは落語ではそのまま実名である。

■上方の芝居噺二種

@「芝居を一幕ご覧にいれます」というようなことを言って、本当に芝居のある場面、ある いは一場を、そっくりそのままおしゃべりによって、鳴物囃子を入れながらいろいろに動いて見せて一つの芝居をご覧にただく、あるいは聞いていただくという形の物。「本能寺」はこれに入る。「加賀見山」「自来也」「曽我の夜討」など
A普通の落語の中で芝居がかりになって「芝居の物まねをしてみよう」になるもの。「質  屋芝居」「蔵丁稚」「七段目」「足上がり」「昆布巻芝居」「蛸芝居」など。
(「米朝落語全集 第五巻」より)

■この噺の出典は

近松半二の「三日太平記」というのだそうだ。これ相当苦労して探求されたようで、米朝師も「米朝落語全集第6巻」では「明示できない」書いておられた。しかし、「続・上方落語ノート」の「『本能寺』の出典」(p142)で小佐田定雄氏や中川彰氏の努力で明らかになったと書いておられる。

■本当に「本能寺の変」があったのは・・・本能小学校のあったところ

現在本能寺は御池の寺町下ルにある。
しかし『本能寺の変』(1582・6・2)当時は四条西洞院(旧本能小学校付近)にあり、四町四面(約0.19平方キロ・東西150米南北300米)の大伽藍であった。
現在発掘中の場所は旧本能小学校のあったところである。本能小学校は統廃合されて現在使われいない。
旧本能小学校東北隅の石碑 発掘調査の様子 2002・8・31撮影

■なぜ信長は日蓮宗の本能寺を京都での宿泊場所にしたのか?

これは渡辺守順氏の説である。
(「今日の町衆と本能寺」白川書院新社月刊「京都」bS31・19876月号より)
@信長は御所につながりがなかった。当時本能寺には伏見宮法親王日承上人がおり御 所との連絡役を本能寺に頼んでいた。
A本能寺が種子島で布教活動をしており新兵器購入を考え本能寺に接近した。
B本能寺の隣に南蛮寺があり情報が手に取るように入った。

■信長公廟と信長の墓・・・現在の本能寺内

信長公廟・太刀が納められている 信長の墓・三男信孝が作る
日衍(にちえん)上人は「本能寺の変」後再建を発願し、大和大納言(秀長)や種子島久時の寄付を受けて、秀吉の京都都市計画に従って1587年(天正15年)寺町通りの現在地を賜り天正二十年(1592年)に再建した。洛中洛外図屏風によると七堂伽藍の大寺院である。江戸初期には92の塔頭があった。、江戸後期に2度の火災に会い明治初期に寺地を縮小された。現在の本堂は1928(昭和3年)の建造である。

■森蘭丸らの墓

本能寺の変戦没者合祀墓
織田信忠・森蘭丸・力丸・坊丸らの名前が見える。

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