紺田屋
(四条新町しん粉屋新兵衛)

あらすじ
 三条室町に紺田屋忠兵衛という旧家で裕福な縮緬問屋がありました。そこにお花さんという18の今小町と呼ばれる評判娘がおりました。このお花さんふとしたことから風邪の心地のブラブラ病になりました。医者も薬も効きません。お花は自分が死んだら一番好きな着物着せて綺麗に化粧もして300両財布に入れて葬ってほしいと頼みます。そして四条新町しん粉屋新兵衛のしん粉餅が食べたいと言います。おいしいおいしいと言って3個目を食べたときに顔色が変わって息を引き取ります。娘の遺言通り300両首から提げさせて棺桶に納め四条寺町大雲寺に葬りました。
 その夜中、手代の久七は300両がもったいないし、通用金を埋めると罪になると言うのでお金を掘り起こします。すると死んだはずのお花が生き返ります。餅をのどに詰めただけだった様子。そして元々久七に恋患いだったとうち明け二人してその300両を持って逃げます。
 娘に先立たれた忠兵衛さん夫婦商売も手に付かないと言うので店をたたんで四国西国の霊地を巡り最後に木賃宿に泊まって江戸は浅草の観音さんに詣でます。そこに「紺田屋」という名の商家を見つけのぞき込んでおりますとその主人(久七)が二人を座敷に上げ再会を果たします。 
四条新町上ル放下鉾保存所
四条新町北から南を望む

「上方落語」(笑福亭松鶴・講談社スーパー文庫)「米朝ばなし」(講談社文庫)より

*しん粉餅のこと

 しん粉というのは米の粉のことだそうです。しばらく前までこの粉で野菜や小動物を作って縁日などで売っていたようです。シンコ細工とかダンゴ細工と言ったとのことです。

◇しん粉屋新兵衛のしん粉餅・・・四条新町界隈のこと

 この「しん粉屋新兵衛」というのは「し」で始まる言葉尽くしになっています。「四条新町しん粉屋新兵衛のしん粉餅」なかなかおもしろくて覚えやすいものです。
 残念ながら、現在四条新町近辺にそのお店はないようです。四条新町におられた地元の方に「『しん粉屋新兵衛』という団子屋のこと聞いたことありませんか」と伺いますと「『おたべ』やったらそこに(四条新町上ル)あるけどな」ということでした。死にそうになってる重病人が食べたいと思うぐらいにその餅おいしいと評判のものだったのでしょうね。
 「米朝ばなし」(講談社文庫)に掲載されている写真には四条新町西角に薬屋さんがあります。そして「京都の下町情趣を残す四条新町」という説明が付いています。今京都の町はマンション建設か、町並保存かの剣が峰に立ってます。この新町界隈は街並みを保存していこうという意識が高い町だと言うことが歩いていると感じられます。私のこのページの写真でガレージになっているところが薬屋さんだっだと地元の方がおっしゃってました。
 この新町通は平安時代の町尻小路にあたる通りで平安時代中ごろからから商業の中心地として発展してきたらしい。新町通と言われるようになるのは秀吉の京都改造後で酒屋、油屋、土倉の集団のほかあらゆる商売の家が軒を連ねていたと言います。京都の三長者の一つ茶屋家もこの新町通に居宅を構えていたようです。「はてなの茶碗」参照

◇この落語のオチについて

 この落語は次のようなオチになってます。再会を果たした紺田屋忠兵衛さん夫妻の会話です。

「なあ、お爺さん、昨日は木賃宿で、ゴツゴツした蒲団の中で何やら痒うて寝られなんだが、今夜は絹布の夜着蒲団でええ気持やが、昨夜までは何であないに寝苦しかったのじゃろうかしらん」
「お婆さん、それもやっぱり観音さん(虱)のおかげじゃわいな」
 虱(シラミ)のことを昔から観音さんと言ったそうです。手足がいっぱいグジャグジャあって、それが千手観音みたいだということのようです。

◇紺田屋さんは三条室町

室町三条北から南を望む 室町三条東から西を望む
 室町通りは繊維の町です。この不況で糸偏も(繊維業界)大変だとよく聞きます。京都は西陣織や京友禅など繊維工業の盛んな土地柄で、室町通りはその問屋街として有名です。通りを歩いていますと楽しいお店がたくさんあります。例えば日本手ぬぐいを扱っておられる「永楽屋」さん、風呂敷の「宮井株式会社」など。ギャラリーを持っておられるところもあって一軒一軒まわっても楽しい通りです。またその持っておられるものが重文級の有名な日本画家のものだったりしますから驚きです。
 祇園祭の時四条室町上ルには菊水鉾が出ます。そして山車も町内毎に出ます。その時にズラリと夜店が出るのですがその中に室町通りのお店が出される店があって安く楽しい品物が買えます。昨年は「のれん」「扇子」「傘」などが安く買えました。祇園祭は室町通りが面白い!と私は思うのですが・・・。

◇誉田屋さん?・・・関係あるのかな

 米朝さんの本にこんなことが書いてあります。
「古い速記本に『誉田屋』と書いて「こんだや」と読ませているものがあります。誉田(こんだ)は大阪・中河内の羽曳野市に今もある地名で、おそらく元来は『誉田屋』と書くのが正しいのでしょうが、読みにくいので紺田屋にしたのかと思います。誉田出身の人かしらんと、店をのぞき込むのも、『誉田屋』の字の方が不自然でない」
 そういえば応神天皇は「ホンダワケノミコト」でしたね。
 そんなこと思って歩いてたら「誉田屋」さんが三条室町にあったものですからすごい発見したような気になったのですが、関係あるのかな?
三条室町下ルにあった誉田屋さん発見!!!偶然か?
帯を商っておられるらしい。三条室町東にも店舗がある。

◇お花さんが葬られたのは大雲院(四条寺町下ル)

大雲寺は間違い・・・だと思うのです。
四条寺町にあったのは大雲院です。
現在の寺町四条は京都でも一二を争う繁華街。
高島屋や藤井大丸などの百貨店が建ち並び商店街が広がってます。

・左上
大雲院跡に建つ石碑
・右上
大雲院にあった火除天満宮
・左下
寺町四条南から北を望む
左はフジイ大丸百貨店
現在四条から南の寺町通り
は電気街になっている

大雲院(貞安寺・浄土宗系単立)について

 大雲院は安土で日蓮宗徒との宗論に勝って織田信長の信任を得た貞安(じょうあん)上人が信長・信忠父子の死後烏丸二条に庵室を建てたのが始まり。後、信忠自殺の地二条城に寺地を得、信忠の法号大雲院を寺号とした。秀吉の命で寺町四条下ルに移り日向国佐土原城主島津以久(ゆきひさ)の帰依を得て栄えたが、天明・元治の大火で焼失し明治初期に復興した。1889年の第一回京都市会はここで開かれた。
 1972年(昭和47年)現在地(京都市東山区四条通大和大路東入ル祇園町南側)に移った。墓地に前田玄以・富岡鉄斎・石川五右衛門の墓がある。

「京都落語地図」へ  HPへもどる