愛宕山
京都市で一番高い山

伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕さんへは月参り(古歌)

□あらすじ 大阪ミナミをしくじったたいこもちの一八と繁八は京都の祇園で働いている。室町辺の旦那が野駆けをしようということになり愛宕山を登ることになる。鴨川二条城もしりめにいざ愛宕山へ。
 えらそうに言ったもののさすがに愛宕山は険しくねをあげそうになりながらも二十五丁上った「試みの坂」で一服する。そこで旦那が『かわらけなげ』を試みる。「かわらけなげ」がうまくいかない一八は大阪では「かわらけなげ」みたいなしみったれたことはしない、金を投げて遊ぶとまけおしみ。
 そこまで言われた旦那は20枚の小判をそこからまく。拾うたものにやると言われた一八、傘をさして谷に向かってダイビング。小判を拾って目的を達するかに思われた。
「どうやってのぼる?」と言われた一八、一世一代の知恵を出す。嵯峨竹の反動を利用して、谷底から帰還する。「えらいヤツや。上がってきよった。ところで、金は?」
「ああ、忘れてきた!」

丸太町通り広沢南野町から愛宕山を望む

この話嘘ばっかりやさかい

米朝師の「米朝ばなし」(講談社)の中におもしろい話がある。
「傘をさして飛ぶというのも、竹の反動で上がって来るのも嘘ですし、それまでの登って来る愛宕山の描写なども、私はこれをかくし師匠に習ったのですが「愛宕山へいっぺん行って来なあきまへんな」と言うと「行ったらやれんようになるで、この話嘘ばっかりやさかい。十分、口慣れてから行きなさい」と言われて「さよか」と、じつは私は、愛宕山へはまだ行ったことがありません。しかしおもしろい話で、ずいぶん演じさせてもらいました。」

出発は祇園から

祇園甲部の町並み。
石畳。そして電線は埋め込まれている
祇園一力の入り口
大石蔵の助が遊んだという

夜ここを歩いていると、舞妓さんや芸姑さんに出会える。

二条城をしりめにころして

江戸時代将軍上洛の時の居館として家康の命で1606年完成。
豊臣秀頼との会見、大阪冬の陣、夏の陣の幕府側の作戦本部。
1750年寛永の改築の時伏見城から移築した天守が落雷で焼け、
天明の大火で本丸のすべてと櫓や門の一部が焼失。
幕末慶喜はここで大政奉還した。
現在国宝「二の丸御殿」をはじめ、狩野派の障壁画など多数の国宝重文がある。
二条城をしりめにころすということは、祇園(四条通)いったん北へ丸太町通りへ出て、
そして西へ向かうことになる。
いやはや、祇園から二条城まで私ならもうそれだけで、歩くのは十分である。
そして、そこからさらに西へ歩いて、愛宕山のふもと清滝まで行ったらもうだめでしょうね。
その上愛宕山登るとなったら、もうこれは尋常な足ではない。
よほどの健脚でもこんなことはしないであろう。
嘘ばっかりというのはこの点でもまあ、正しい。
まして、舞子はんや芸姑はんはいかんやろと思う。

愛宕街道・鳥居本

愛宕山は924メートル。京都市内の最高峰。
登り口は何カ所かあるが、清滝からの道が表参道。
他に月輪寺からの道、首なし地蔵からの道、水尾からの道などがある。
清滝の登り口から十合目が愛宕神社で約4キロ。
所要時間は2時間から2時間半。
それは、それはきつい道である。
ふつうここまでバスできて登る。
駐車場もあって車でここまで来ることもできる。

一の鳥居のあるところが鳥居本である。
鳥居本から50丁で山頂にある愛宕神社につく。
これは約5.5キロ。だから、鳥居本から清滝まで1.5キロということになる。
嵯峨からこの鳥居本を通って愛宕山まで行く道を「愛宕街道」と言ったらしい。
鳥居本は現在『嵯峨鳥居本伝統的建造物群保存地区』に指定され茅葺き民家などが並んでいる。
石仏で有名な化野念仏寺もこの中にある。
鳥居本・一の鳥居ここから5.5キロ 清滝二の鳥居ここから4キロ

愛宕さんの山道

階段がほとんど。そして、なだらかな尾根道がない。しかも景色のよいところがない。

勾配きつく見えないがかなりのものである。 お助け水。その名の通り。
こういう掲示物がはげましてくれる。 杉の老木を祀っている。

かわらけ投げのこと

残念ながら、愛宕山には「かわらけなげ」するような見晴らしの利く場所は見あたらない。
あるとしたら、7合目か。ここに休憩の小屋が現在ある。
頂上愛宕神社のところも考えられるが、落語では5合目「こころみの坂」だという。
しかし五合目は考えられない。

「かわらけなげ」は神護寺ではないか?

高尾神護寺山門 地蔵院前にあるかわらけなげ
私の知る限り京都で「かわらけなげ」ができるのは、ここ神護寺と比叡山の遊技施設だけである。比叡山が今もしているかどうか。「かわらけ」は泉涌寺あたりで焼くらしい。左の写真の谷に向かって投げる。下に見えている道を行くと、清滝へ抜ける。ここの「かわらけなげ」はかなり昔からあとのことである。

神護寺と愛宕山

光仁帝の勅により天応元年(781)、和気清麻呂公が慶俊僧都と力を合せ王城鎮護の神として鎮座された。
中国の五台山に模した
1,朝日岳(峰)の白雲寺(愛宕大権現)
2,大鷲峰の月輪寺
3,高尾山の神願寺(神護寺)
4,竜上山の日輪寺
5,賀魔蔵山の伝法寺
と云う五寺が山中の五山にあった(扶桑京華史)と記されている。
(愛宕神社発行パンフ「愛宕詣り」より)
要するに、神護寺は愛宕さんだったのである。だから、愛宕山を作った落語家は、神護寺にある「かわらけなげ」を愛宕山の表参道であることのようにして、この話を作ったのではないかというのが私の結論である。
なお神護寺には和気清麻呂の廟がある。神護寺には「伝源頼朝」の肖像絵画や本堂薬師如来など多くの国宝重文がある。

愛宕神社

表参道総門(黒門) 全国に御分社800余社 祭神雅産日命・埴山姫命
いざなみの神・天熊人命
豊受姫命

■訂正します

 つい最近(2012・3・22)再び愛宕山を登りました。そしたらここに書いていたこと(2002年9月作成)が全く私の見当違いであることが分かりましたので,訂正いたします。登山道の色々なポイントに「京都愛宕研究会」名の案内板が設置されていました。
 そこに書いてあったことで初めて知ったことがたくさんありました。
 その一つめです。愛宕山はかっては見晴らしのよい山で、何と和歌山や淡路島まで見えたそうです。要するに今木が伸び放題になっていて、景色の悪い山になっているということです。今回登って、少なくとも2002年当時よりは明らかに景色が見える山になっていました。
 二つめです。かって愛宕山には見晴らしのきく場所毎に茶屋があったそうです。昭和初期には19軒あったそうです。
 そして、愛宕山の「かわらけなげ」は有名だったようです。昭和初期には七合目の茶屋跡の尾根側から谷に向かって「かわらけなげ」が行われていた書いてありました。落語だけでなく大念仏狂言にも「愛宕山のかわらけなげ」が扱われているらしいです。
 三つ目です。落語「愛宕山」で謡われる「愛宕山坂 二十五丁目の茶屋の嬶 云々」という歌は実際に歌われていて「しんこもち」は愛宕山名物だったそうです。
 それで、思ったのですが、米朝さんの書いておられる「うそばっかりやさかい」というのは、確かに傘をさして飛び降りたり、竹の反動で戻ってきたり、祇園から愛宕山まで野がけするというのは、嘘で作り事だと思いますが、登山道での出来事に関しては、江戸時代から明治初期頃の愛宕山登山道の様子をかなり正確に描写しているようです。
   
   

愛宕山については9,「いらちのの愛宕まいり」に続く。
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