2004・8・11作成
京都市左京区北白川から大津市山中町を越えて志賀里町へ抜ける道は、京都と近江をつなぐ道です。山中越え(志賀越え道)をつなぐ三体の阿弥陀仏。鎌倉時代の優れた阿弥陀石仏三体でこの道はつながっています。
(1)北白川の阿弥陀二尊
左京区北白川西町(吉田神社北入口西すぐ)市バス京大農学部前下車
まず、一体目。北白川阿弥陀二尊とも花崗岩製。鎌倉中期をくだらない石仏です。私はバランスは右の方が良いように思いますが何と言っても顔がありません。右の円満なお顔が人を惹きつけます。二重光背にキリークのつく光背などからもこの阿弥陀さんは比叡山の浄土信仰と関係のあるもののようです。京都を代表する石仏の一つです。
北白川の石仏については「東山石仏巡り1」で紹介していました。今回もう一度訪ねて写真を撮ってきました。よだれかけをとって写真撮らせていただきました。私がゆっくりこの阿弥陀さんや後で言及したいと思っている道標を眺めていたせいでしょうか、この覆堂前の家の方が出てこられました。そして興味あるお話を聞かせてくださいました。その方から聞かせていただいた話で私が理解できたことをそのまま書かせてもらいます。
もともと、この場所には左側の阿弥陀さんだけおられたそうです。昭和3年に東今出川通りを広げて市電を通すことになり(これは昭和6年)、その工事中に京都大学理学部の東側にある後二条天皇の御陵の前あたりから右の阿弥陀さんは掘り出されたというのです。それ以後この場所で御守りするようになったと言うことです。たぶん白川が洪水を起こしたときにここへ流れ着いたのではないかおっしゃってました。この阿弥陀さんの右前にある花台(?)にひょうたんのマークが入っています。これはこの近くに住んでいた侠客会津小鉄(吉田神社側に小鉄屋敷があったそうです)が寄進したそうです。一対のもう一方の方には大正の年号が入っていました。この覆屋は、「うちの親父が作った」とその方はおっしゃってました。その方は「76才」だそうです。
その方がまだ若い頃に京大の文学部の先生が学生連れてこの右側の石仏の研究にきゃはったそうで、拓本をとって帰られたそうです。(これ川勝博士のことかな)光背のキリークも一つ一つ丁寧に拓本を採っておられたそうで(この辺りの話は実際見てないと言えないことだと思いました)「今でも京大の文学部にあるはずや」とのことです。
この話の真偽を確かめることができませんが、私は初めて知る話でした。
嘉永2年道標について
北…右 北野天満宮 三十五丁 平野社 上下加茂 今宮 金閣寺 すく…比ゑいさん 唐崎 坂本 嘉永二 己酉仲夏吉辰 願主某 石工権左衛門 南…左 三條大橋 二十五丁 祇園 清水 知恩院 東西本願寺 一里半 東…吉田社三丁 真如堂 五丁 銀閣寺 黒谷六丁 |
道標のことを調べたいときは「京のしるべ石」(著者 出雲路敬直 泰流社 9500円 昭和50年)を見ます。
この道標のおもしろいところは願主は匿名なのに石工が堂々と名前を彫っているところです。
京都市内の白川街道(志賀越え道・山中越えの京都側の呼び名)は、2ルートありました。大原口ルート(京都七口の一つ・今出川寺町辺り・ここに立派な道標がある)と荒神口ルート(御土居七口の一つ・荒神橋や清荒神護淨寺のある辺り)です。大原口ルートは叡山電鉄出町柳駅前を通って百万遍で今出川通りといっしょになっています。そして荒神口ルートにこの道標があるのです。現在の地図を眺めていると荒神橋から北東に道が続いているのが分かります。京大会館の前を通って東一条に出る道です。そして京都大学正門前バス停に着きます。ここで京都大学本部で切れるのですが、京大からさらに道が延びて、この道標や石仏前を通って、志賀越え道へ続いています。
私は京都大学が建ったときにこの道が途中で消えたと思ったのですがどうも違うようです。出雲路先生の本によりますと文久2年(1862)尾州屋敷が作られたのだそうです。幕末京都各地に屋敷を急造する大名がいたのですね。明治になってその尾州屋敷跡を京都帝国大学にしたというのが正しいようです。
これでだいぶ白川街道とこの道標のことが分かりました。
今はこの道標のある場所から北へ向かう道はありません。しかしこの道標のある場所が、大原口ルートと荒神口ルートの分岐点だったと考えると納得がいきます。東今出川通りができるまではここから大原口へ向かったのだと考えると書かれていることと合致します。正確には西北西へ向かっている道なのですが、北と書かれているのでしょう。そして南に向かう道(荒神口ルート・正確には南西へ向かう道)は荒神口につながります。東というのはおそらく吉田山を迂回して東側を通っている神楽岡道のことや銀閣寺へむかう道ではないかと想像しました。嘉永年間の地図を見ずに予想したのですが当たっているでしょうか。
ここで旅人たちが一服しながら道をどっちへとるか思案したのでしょう。
(2)北白川太閤さんの石仏
左京区北白川西町(市バス北白川下車)
この石仏は気の毒に火事に遭われたようです。顔も後補されていますがその後補があんまりやなと言う代物です。信仰の対象(子安観音)としては現役です。いつも花がたむけられています。秀吉が聚楽第に持って行かれたけれど「帰りたい帰りたい」と訴えたとかでもとのこの場所に戻ったという石仏です。江戸時代発行の京都案内にも登場する石仏です。
現在の山中越えは白川通り北白川別当町から入ります。旧白川街道は一方通行になっています。今から山中越えに入るぞという曲がり角坂道にかかるところにこの寺があり、役行者のお堂が開けられています。たぶんこの辺りで都から大津へ向かう人たちはさあこれから坂道と思ったことでしょうし反対の人はいよいよ都だと思ったのではないでしょうか。
(4)白川石と石工
北白川から山中町へ向かう道には天然ラジウム温泉があります。またいくつも新興宗教の本部のような建物が続きます。この辺りはそういう神がかり的なものが生まれやすい場所なのでしょうか。もう一つこの辺りは白川砂や白川石の産地です。砂を採取している場所もありますし灯篭などを作っておられる工房もいくつかこの道にあります。その一つで阿弥陀さんが道の前に置かれていました。「これは最近作られたのですか」と尋ねますと、「いえ最近ではありません」とのことひょっとしたら新しい発見かなと思って「いつごろの?」とい尋ねますと「6年ぐらい前」とのこと。ちょっとがっかりしましたが、今もお寺や神社の仕事をしておられるとのことでした。
真宗のお寺で親鸞蓮如の旧跡ゆかりの寺だそうです。蓮如ゆかりというお寺を近江ではよく見かけます。
そして山中越えをつなぐ阿弥陀仏二体目。
地元では「薬師さん」と呼ばれているそうです。昔の旅人には「一里塚」と言われたとか。舟形光背を背負い花崗岩一石に掘り出した一石独尊像で、全体で2.5m、像高は1.4mです。京都白川派の作風を伝えているのだそうです。鼻先から右唇にかけて欠けています。鎌倉末期の阿弥陀如来仏として大津市の指定文化財になっています。
現在の山中越えは山中町を通っていません。たぶん大きな道が集落の中を通ることを避けられたのでしょう。ひっそりした山間の集落という趣を今にも伝えている山中町です。そして白川がこの集落の中を流れています。大津側の入り口辺りは美しい流れなのですがゴミの投棄が多くマナーの悪さを感じました。
これが、3体目の阿弥陀石仏です。坂本の石仏を見た帰りに志賀の大仏も見に行きました。地図も持たずに案内にしたがって進んだのでよく分からないのですが、京阪滋賀里駅から山中越えの道に入りました。何度か迷ったのですが百穴古墳群からしばらく行くと志賀の大仏(しがのおおぼとけ)に着きました。
大津側の入り口に位置し旅人が道中安全を祈願したと言われている阿弥陀さんです。高さ3.5m幅約2.7m花崗岩に厚肉彫りしてあります。像高は3.1m、鎌倉時代(13世紀)中期頃に作られたと考えられている大仏です。穏やかな表情をしておられます。欠損もなく大切にまもられてきた仏さんであることが察せられます。覆堂の一部を開けて自然光が入るようにしてあるのも石仏らしいと思いました。
像高42cm鎌倉時代の阿弥陀磨崖仏。舟形光背を彫り窪めた中に蓮華座に座っておられました。
(10)百穴古墳群
今から1400年前古墳時代後期渡来系氏族の墓だそうです。私はこういう横穴式石室古墳群は初めて見たので新鮮でした。石室内には多くの土器が一緒に葬られていたそうで、炊飯具セットもあるそうです。国指定史跡になっています。
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