2015全国作文教育研究大会in京都
研究論文及び実践報告
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実行委員会 だより |
生活・思い・感動を表現する 言葉と自由を |
生活・思い・感動を表現することばと自由を ― 管理された「技術」としての言葉から子どもたちを取り戻すために ― 京都綴方の会 得丸 浩一 @ 自分の本音がわからない「小中学生の頃、作文に、自分の本音を書くという発想はなかった」 ある大学の学生たちの少なくない声を紹介すると、「そもそも自分の本音がなんなのかわからないという声も多い」と。これも大学関係者の発言である。「レポートは自分の考えなら何を書いてもいいよ」と言うと「本当にいいんですか」と何人もが尋ねるというのは教員養成大学のこと。 学習指導要領から「作文」が消え、「書くこと」として設定されているのは小学校低学年「絵に言葉を入れること・伝えたい事を簡単な手紙などに書くこと・先生や身近な人などに尋ねた事をまとめること・観察した事を文などに表すことなど」、中学年「手紙を書くこと・自分の疑問に思った事などについて調べてまとめること・経験した事を記録文や学級新聞などに表すことなど」、高学年「礼状や依頼状などの手紙を書くこと・自分の課題について調べてまとまった文章に表すこと・経験した事をまとまった記録や報告にすることなど」である。自己表現としての文章表現の意味は無視されている。 「関心・意欲・態度」が評価される影響も小さくない。インターネット上で公開されているある教育情報サイトは「内申点に影響する「関心・意欲・態度」の評価の上げ方」を取り上げ、「どのようにして評価をあげるか。そのためには「一生懸命やっています」「やる気があります」ということをアピールするにつきます。「受験に有利な内申点のあげ方」でもご紹介していますが、提出物の期限内での提出は当たり前、忘れ物も0、授業も積極的に参加して授業に関する質問、発言を増やす。これらさえ、しっかりやっていれば、自信のない教科でも必ずいい評価に変わります。」と解説している。本音はどうでもいい。建て前を積極的にアピールせよとの教えだ。「自分の考えなんて書いてもいいのか」という学生の反応が出てくるのはむしろ必然と言うべきであろう。自分を出せない苦しさは、SNS上で爆発する。「本当の自分」をキーワードとする書物は限りなく出版され、「自分の本音がわからない」人は来たれとのカウンセラーの宣伝もネット上に飛び交っている。オウム真理教などはそんな中で信者を増やした。 教室は「うれしかった」「楽しかった」だけではなく、マイナスの感情も出せる空間になっているだろうか。 必要のない人だと思われている 五年 ゆたか ぼくは、必要じゃない人だと思われている。海の家のはんでも、き馬戦でも。 ゆたかはこの日記を泣きながら書いたという。「みんなで考えなければならない問題」だと言って、読み合い、考えを書いた。 すぐる ぼくはゆっくんのいやな気もちがわかります。 ゆたかは宿泊学習の班リーダーをやりきり、目立って積極的になった。すぐるは、じっと座っていることはできないものの、休み時間も放課後も友達と遊び回っている。四年生当時のすぐるの経験を私は知らない。しかし当時のすぐるはその経験を書かなかったのではないだろうか。 A 不安の中の子育て 「最近、保健所や療育相談の場、小児科医や神経科などに、子育てに関する漠然とした不安をかかえたお母さんたちが相談にこられることがふえています。保健婦さんたちは、かつて検診の場でいわば『御墨付』のひとことだった『お母さん大丈夫よ、お子さんはちゃんと育っていますよ』という言葉が、力をなくしつつあると訴えています。」(『子育て不安の心理相談』田中千穂子) B どんなことばも受け止められる安心感 中学校受験のために進学塾通いを続ける五年生のつよしは、「先生とクラスが変わった今日のことを書いてきて」と言って渡した最初の日記にこう書いた。 子どもたちの日記を一枚文集にして読み合う。つよしは塾の忙しさもあるのだが、なかなか日記が書けない。五月の家庭訪問の時、「つよしは、普段のことなんか書いて何になるの?と言っています」と母親から聞かされた。 塾の大変さと、家庭事情もあり、四年生のつよしはキレて、教室を飛び出すことが何度もあった。五年生になってからは回数は急減したが、それでも二度、机を倒して叫ぶことがあった。落ち着いてから、学校に持って来ていた塾の重たい鞄をみんなに見せ、「つよし君は、これを持って塾に通っている。たまに爆発してしまうともあるけれど、そんなしんどいことに耐えてがんばっていることをわかってあげてほしい」と話した。 その後、つよしは落ち着いてきたか。逆である。教師反抗ともとれる言動が目立つようになった。授業中、「なんでこんなことせんならんの」「おもんない」と何度も繰り返す。社会見学に出かけた時も「自由時間はないのか」「オレ、こんなとこきらい」と私のそばで言う。そんな中、めったに書かないつよしの文は変わってきた。 八月十六日、お母さんといっしょに和歌山に行きました。京都駅から大阪駅までは新快速で三十分ほどで、大阪駅から和歌山駅までは紀州路快速で行きました。途中の日根野駅で関空行きと和歌山行きが分離されました。僕は電車が大好きなので、好きな駅(新家駅・和泉砂川駅・和泉鳥取駅・山中渓駅など)を通ると写真を撮っていました。和歌山駅まで二時間近くかかったのでさすがに腰が痛かったです。着いたら早速ラーメンを食べに行きました。もちろん食べた店は「井出商店」です。行った時は二時過ぎだったのに、二十五人位の人が並んでいました。やっと入れると思ったら座るところがなくて、十分位したら一つ空きました。相席当たり前です。僕はラーメン大盛りを頼みました。メチャクチャおいしかったです。満腹になりました。 夏休み一番の出来事としてはさびしいとも読めるが、母親はなんとかつよしに息抜きをと考えたのだろう。有名店のラーメンを食べ終わるところまで、段落を分けることもなく一気に書いている。つよしの文の変化は、「おもんない」と言える、「文句ばっかり言うなよ」程度のことは担任から言われるが厳しく注意されることはない、話の合う友達もいる、そんな教室があったからだろう。 「人を信じ、自分を信じられる」子どもに育ってほしいと願う。その時大切にしなければならないのは、「正しさ」を強調し、はみ出すことを許さない力の指導ではなく、「ゆっくりでいいよ」「大丈夫だよ」「あなたらしくていいよ」と、一人一人の子どもに伝えることだろう。「正しいことば」であるかどうかではなく、未熟でも、間違っていてもいい、自己表現としての自分のことばであるかどうかこそが大切なのだ。そしてこのことは、生活綴方の実践、保育実践、医療現場、社会福祉の現場などでは自明のこととされてきたのではなかったか。 「コミュニケーション能力」の育成が必要だと言われて久しい。文部科学省は二〇一〇年に「コミュニケーション教育推進会議」を設定している。このような状況を岩川直樹氏(埼玉大学)は、「魚を水から上げて、泳ぎ方を教えるようなもの」と批判している。 京都市内の統合校で行われた国語の研究発表。児童数が増えプレハブ校舎が建った運動場。学年ごとに遊べる休み時間を決めなければ危険な状態について話し合う授業が行われた。ボール遊びをする場所を限定してはどうかという意見。低学年は午前中、高学年は午後の休み時間に遊べる方がいいという意見…。いろいろ出て来て、反論も出される。最後に「〇〇さんの意見に賛成の人」と尋ねられて、反対していた数人も挙手した。「相手の意見を聞いて自分の考えが変わるということがありますね」とまとめられて終わり。話し合いのルールや、話し合いの良さを教えることよりも、子どもたちの「もっと遊びたい」という思いをこそ大切にするべきではないのか。 すぐるはこんな日記を書いている。 今日、きしださんと、なかいさんと遊びました。妹のようちえんにむかえにいってからいきました。 すぐるは給食当番のエプロンの番号が覚えられない。この日も学校で「よびにきた子」と遊ぶ約束をしたことを忘れて遊びに出かけている(その一人が中井なのだが)。「ひこくん」は支援学級在籍。校区外になる運動公園に一緒に行けないことをすぐるは残念がっている。次々にいろんな遊びをしている。自由である。それが無駄のない文で綴られている。 泳ぎ回る自由こそ大切にされなければならない。 D 教育の自由、表現の自由 「集団的自衛権の行使容認」が閣議決定された。道徳の教科化、教科書検定制度や教育委員会制度の改悪…と、教え子を再び戦場へ送る道が開かれようとしている。 「忘れてはならないのは、国家にとって教育とは一つの統治行為だということである。…国家は…国民に対して一定限度の共通の知識、あるいは認識能力を持つことを要求する権利を持つ。そうした点から考えると、教育は一面において警察や司法機関などに許された機能に近いものを備え、それを補完する機能を持つと考えられる。…納税や遵法の義務と並んで、国民が一定の認識能力を身につけることが国家への義務である…」(「日本のフロンティアは日本の中にある 自立と統治で築く新世紀」二十一世紀日本の構想懇談会 河合隼雄座長 一九九九年) という思想は、今も文部科学行政の根底にある。しかし教育は「権利」である(憲法二六条)。学テ最高裁判決が「子どもの教育は、教育を施す者の支配的権能ではなく」と明言し「党派的な政治的観念や利害によって支配されるべきでない教育にそのような政治的影響が深く入り込む危険があることを考えるときは、教育内容に対する右のごとき国家的介入についてはできるだけ抑制的であることが要請される」としていることを改めて思い起こす必要がある。 戦前、戦中に各地で弾圧が行われた生活綴方運動は、子どもたちが自分たちの生活や思いを自分の言葉で書き綴る教育実践であった。その自由な表現は、国家が国民に持たせようとする知識・認識能力とは異なるものであった。 今、学習指導要領と学力テストがセットになって「技術」としての言葉の力を強調する状況は、新たな生活綴方運動への弾圧でもある。 しかし打開の道筋はそれほど難しくはないだろう。困難な中だからこそ、子どもたちに生活の事実を自由に語り、書き綴らせることだ。「ゼロトレランス」の子ども観から抜け出して、喜怒哀楽、どのような思いも受け止めることだ。子どもたちの自由な表現の重要性や魅力は見失われていない。子どもたちの自由な表現が、混迷の時代を拓くエネルギーとなることもある。 「全国作文教育研究大会in京都」は、教育の自由、表現の自由、そして生き方の多様性まで語り合うつどいになるだろう。一人でも多くの参加が力になる。ぜひ誘い合って夏の京都へ! |